Stage Nine「いつか海に還る日まで」1

Stage Nine「いつか海に還る日まで」

「やばいぞ、ランスロット」
「どうしたんだ、いきなり?」
「金がねぇ」
「冗談だろう?」
「いつも金のことなんか気にしちゃいないからな。バルモアであいつらと別れた時にもその話をするのを忘れてた」
「1ゴートもないのか?」
「そうさ。財布を握ってたのはグランディーナだ。カリャオで使った釣りも返しちまったし、その後は使ってない」
「急いで戻れば、エレボスならバルモアを離れる前に彼女たちを捉まえられるんじゃないか?」
「どうせ金はろくに残ってねぇだろう。カリャオで買い物させる時にも、足りなかったら〈何でも屋〉を呼び出せと言ってたぐらいなんだから」
「それだよ、カノープス」
「何だ?」
「あの時、ジャックを呼び出せと言って貸してくれた硬貨を彼女に返しそびれたままなんだ。彼に頼んでみよう」
「背に腹は代えられねぇな」
とは言ったものの、ランスロットも〈何でも屋〉のジャックと話したことがあったわけではない。トリスタン皇子に初めて会った時に馬車に乗せてもらっただけだし、カノープスにいたっては初対面だ。彼が本当に現れるかどうかは2人とも半信半疑であった。
しかし、〈何でも屋〉のジャックは現れた。もっとも呼び出したのがグランディーナではないと知った時の彼の落胆ぶりは非常事態だとはいえ、気の毒だった。
「ジャック殿、厚かましいお願いをしてしまいまして申し訳ありません。ですが、我々はこれから行かなければならないところがあるのです。金は本隊と合流した時に、いえ、先に本隊から取り立てていただいてもかまいませんから、どうか金を貸してください」
〈何でも屋〉は気を取り直した様子で3人を順に眺めたが、その視線はサラディンのところでずいぶん長いこと、止まっていたようだった。
「その話をする前に、あちらのお二人をご紹介していただけませんか、ランスロット殿?」
「これは失礼しました」
彼は即座にサラディンを指す。
「あちらがサラディン=カーム殿です。彼はカノープス=ウォルフ」
「彼女が自分の指示の届かぬところへ人を出すのは珍しいことですね。しかもたったの3人とは、よほどその方のことを信頼しているのでしょう。あなた方はどなたの指揮で動いているのですか?」
「サラディン殿です。これからカストラート海に行くそうですが、我々も目的は知らされていません」
「なるほど。それではランスロット殿、サラディン殿と話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
ジャックが近づいていき、事情を察したカノープスと入れ違いになる。
サラディンも彼の視線には気づいていたものと見え、来るのを待ちかまえているようだ。2人の身長はほとんど同じくらいで、同様に細身であった。
先に頭を下げたのはジャックの方だ。
「初めてお目にかかります、サラディン殿。ドヌーブの英雄と名高いあなたとお近づきになれて光栄に存じます。わたしはジャック=グルーシー=ジョミニ、通称〈何でも屋〉のジャックと申します。これから、どうぞご贔屓(ひいき)に願います」
「ドヌーブの英雄など、わたしには過ぎた呼び名だ。兄弟子からバルモアを守ることもかなわず、同志は殺されたというのに独りだけこうして生き延びている」
「それは、あなたにはまだするべきことがあるからではありませんか?」
「ラシュディ殿をご存じか?」
「もちろんです。わたしなど、こうして微力ながらあなた方のお手伝いをさせていただいておりますが、光栄なことだと思っておりますよ」
「聞けば、グランディーナがずいぶんそなたの世話になっているそうだ。礼を申し上げよう」
「わたしは人として当然のことをしているまでです。もっとも彼女に対しては、私情が交じっていることは否めません。ところであなた方はカストラート海へ向かわれるそうですね。あちらでは人魚たちに帝国が荷担して、以前よりずっと危険な状況になっています。お金のほかにお役に立てることはありませんか?」
サラディンはしばし天を仰いで考え込んだが、再びジャックの方に向き直った。
「なるべく足の速い船を用意してくれまいか。カストラート諸島は広い海域ではないが、海を渡るのにグリフォンだけでは不安が残る。それと、影のように使える者を1人と、戦い慣れたものを2人、貸してもらいたい」
「船については承知いたしました。タシャウズの港はいまはほとんど使われておりませんが、そちらに待機させておきましょう。ほかの者たちもタシャウズにて合流できればよろしいでしょうか?」
「いいや、その者たちにはファニングからジャービス、トケラウを廻ってマーケサズにて待機してもらいたい。人魚との争いについて、情報を集めさせたい」
「それではあなた方はファニングには寄らないつもりなのですね?」
「頼めようか? 我らは天候が良ければ、風竜の月19日ごろにマーケサズに着けるだろう」
「承知いたしました。船と人、ご希望のとおりに手配いたします。まずはタシャウズにて、またお会いいたしましょう」
ジャックが一礼し、馬車に乗り込む。
同時にサラディンもランスロットたちの方に近づいてきた。
「我々もタシャウズまで急ぐとしよう。そこからはジャックの船でカストラート海に渡る。それとランスロット、そなたに訊きたいことがある。ともにグリフォンに乗ってくれ」
「わかりました」
いままで、グランディーナとカノープス、ギルバルド、ユーリア以外には手綱を取らせたことのないエレボスだったが、どういうわけかサラディンにもおとなしく従った。それで彼とランスロットがエレボスに乗り、カノープスはシューメーに乗り直して、一行は旅を再開した。
「そなたは解放軍結成のころからいるそうだな。その時からの話を詳しく聞かせてもらいたい」
「承知しました」
3ヶ月前、ウォーレン=ムーンに持ちかけられた話をランスロットはいまでも細部まで思い出せる。その話を改めてするのは懐かしく、楽しいことであったが、時折、相槌を打つだけのサラディンの表情はあまり動くことがない。それにランスロットは、実はウォーレンがグランディーナといつ、どのように出逢い、なぜ彼女をリーダーに選んだのか、詳しい話をろくに聞いていないことを思い出して、少しだけ赤面した。
「〈啓示の彗星〉?」
その名称にサラディンの表情が初めて変わる。
「はい。ウォーレンが彼女をリーダーに選んだのはその彗星のためだったのだそうですが、詳しい話はお恥ずかしいことですが、それ以上、聞いておりません。ウォーレンならば、お話しできると思います」
しかし、彼はそれでいいとも悪いとも言わずに黙り込む。その横顔はなぜか厳しい。
「何か気にかかることでもおありですか、サラディン殿?」
「いや、そのことは戻ってからウォーレンに訊くとしよう。それよりもいまは、そなたが解放軍にいて見聞きしてきたことを教えてほしい」
「承知しました。ですが、そろそろフェルガナに差しかかります。今日の宿はそこで取らないのですか?」
「わたしは野宿で構わぬ。それにフェルガナで1泊すれば、タシャウズに着くのは明後日になってしまう。カストラート海はまだ先だ。いまは少しでも先に進んでおきたい」
「わかりました」
それでランスロットはカノープスに合図を送り、辺りがかなり暗くなるまで下りることがなかった。
やがて野宿を始めた時もサラディンは夜番の分担を申し出たが、その負担もランスロットやカノープスより長かったほどだ。
「サラディン殿、昨日の今日です。石化から解かれたばかりのお身体で、あまり無理をなさらぬ方が良いのではありませんか?」
「案ずることはない。わたしはもともと、あまり眠らぬたちだ。それに10年前の知識では役に立たない。情勢もいろいろと修正せねばならぬようだからな」
「わかりました」
彼の言う修正がどれだけのものであったのかはわからないが、翌朝、サラディンの陣取っていた辺りは地図やら書きつけやらがたくさん書き散らされており、その知識の広大さをわずかなりとも見せつけていた。
そして3人は昨日と同じ組み合わせでグリフォンに乗り、ランスロットは今度はサラディンに質問攻めにあって、かなりの冷や汗をかかされたのであった。
その日の日没後に一行はタシャウズの港に着いた。昨晩、フェルガナで1泊していれば、サラディンの言ったとおり、今日中にタシャウズに着くことはかなわなかっただろう。
約束どおりジャックは船を待たせており、もちろんと言うべきか、船長、航海士、船員2人もついている。
「彼はアレイスです。彼らにはあなたの命令を聞くよう言いつけてありますが戦闘には参加できません」
「かたじけない」
「カストラート海でもお要りの時はわたしを呼んでください。その硬貨があなた方のもとにある限り、グランディーナがわたしを呼び出すことはかないませんのでね」
そんなわけで、船がタシャウズの港を発ったのは風竜の月12日のことだった。カストラート諸島まではまだ5日もかかる道程である。
船の中でもサラディンの話は止まなかった。むしろ、ランスロットとカノープスに同時に話が聞けることを歓迎してさえいる。そして彼の広範な知識と深い洞察力は、しばしば2人を圧倒したし、彼らの話さないこと、気づいていないようなことさえ言外から読み取ったようだった。
しかし、何と言っても彼を驚かせたことと言えば、ユリマグアスでの一件にほかならなかったし、2人ともそのことは予想してもいた。厳しい表情でサラディンが黙り込んだのは、養い子の身を案じてのことだけではなさそうだ。
「あんたは、あいつの正体を知っているんだろう? どこの誰で、なぜ助けたんだ?」
だが、これもカノープスの予想どおりだったが、彼は首を振った。
「もどかしい話だが、わたしも事実を知っているわけではない。それに、トリスタン皇子という旗印を得たそなたたちが、あれの素性を知りたがるのはただの好奇心ではないのか?」
これにはランスロットは返答に詰まったが、カノープスはなお諦めない。
「俺はあいつの生い立ちにはラシュディが絡んでいると思っている。解放軍のリーダーがラシュディに縁のあるような奴じゃ、へたすれば解放軍が割れちまう。そんなことのねぇように知っておきたいんだ」
「それぐらいで分裂するような軍がラシュディ殿はおろか、ゼテギネア帝国にさえ勝てるとは思わない」
「あんたはそう言うが、良くも悪くもあいつが解放軍の顔だ。影響力は小さくないんだぜ」
「どちらにしても確信のつかめぬうちはわたしの話せることはない」
「それじゃあ訊くが、あいつの7歳までの記憶を封印したのは何のためだ?」
サラディンは目を細める。
「それ以前にひどく辛いことがあったのだろう、心身ともに衰弱しきっていた。全ての記憶を封印しなければ、あれは生き延びることもできなかったろう」
「それはいったいどのようなことですか? 7歳の少女がどんな目に遭わされたと仰るのです?」
「何があったのかはわたしも知らぬ。いまならば思い出しても子どもの時のような害はあるまいが、決めるのはわたしではない。だが思い出さぬ方が良いこともあるのではないかね?」
「俺はそうは思わねぇが、あんたの言うとおり、決めるのはグランディーナだ、俺たちじゃねぇ。それはそうと、レクサールって奴に心当たりはないか?」
「レクサール? そのような名は伝説の炎の騎士以外には聞いたことがないな」
「あいつはレクサールって名前の奴を知ってるんだ、それも伝説の騎士なんかじゃなく、もっと身近な存在としてな。あいつの記憶の封印には、レクサールが絡んでいるんじゃないかと俺は考えてる」
しかし彼は頑固に首を振った。たとえ知っていたとしてもそんな素振りも見せはしないだろう。ちょっとした口調や仕草から容易に心中を察しさせないところなど、嫌になるほどグランディーナにそっくりだ。
カノープスがそんなことを考えながら見ていたら、サラディンはおもむろに立ち上がった。2人は話の打ち切り方もよく似ている。
「そろそろカストラート諸島に近づく。危険に備えて、今晩から見張りは我々だけで行うとしよう」
「承知した。順番は昨日と同じでいいんだな?」
彼は黙って頷いた。
南をゼテギネア大陸、北をガリシア大陸に挟まれた広大な内海カストラート海、そこは古来より人魚の住まう豊かな海域だ。気候も良く、ゼテギネアでは数少ない亜熱帯地方でもある。
この地への人間の進出は古く、オウガバトル以後とも言われるが、人間が住んでいるのはその西寄り、カストラート諸島の大小40の島々の一部だけだ。それらの島はアヴァロン島と違って火山はないが、地味が肥えていないことにそれほど違いはなく、オウガバトル伝説の残る地という派手さとは裏腹にカストラート海が権力の注目を集めたことはほとんどなかった。
しかし、ゼノビア王グランの並はずれた長寿が、もともとカストラート海周辺でだけこっそりと囁かれていた噂に拍車をかける。曰く「人魚の肉を食べると不老不死になれる」という根も葉もない与太話である。
旧ゼノビア王国と人魚との仲は悪化していった。そして旧ゼノビア王国が滅亡したいまも、人魚たちを狩ろうとする賞金稼ぎ崩れや海賊上がりは後を絶たない。
ゼテギネア帝国の介入はその後のこととなる。人間と人魚の力関係を引っ繰り返すには十分すぎたろう。
風竜の月18日、サラディンの命により帆船〈漆黒の涙〉号はカストラート諸島のピトケアン島に着いた。
「6日ぶりの陸地だな」
そう言いながら、カノープスは足下を幾度も踏みしめた。ジャックの所有する帆船だけあって快適な船室だったが、彼にはそれでも陸の方が良かったのだ。それは2頭のグリフォンも同様の気持ちだったろう。
「しかし、なぜ、こんなところに来たんだろう? カストラート諸島の中心はマーケサズ島だと聞いた。帝国が人魚に荷担している不穏な時期とはいえ、サラディン殿の目的はいったい何なのだろうな?」
「そいつはこれから訊いてみるとしようぜ。あれだけ毎日、俺たちを質問攻めにしてくれたんだ。いまじゃ、解放軍の誰にも負けない事情通だろう」
「それもそうだ」
先にランスロットとカノープスを下ろしたサラディンは船長のアレイスと話しているが、辺りにはすでに夕闇が迫っていた。
やがてサラディンも降り、2人と2頭に近づいた。
「これからすぐに出かけたいところがある。グリフォンは飛べるか?」
「狭い船室で飽き飽きしてたんだ。どこにだって飛んでいくさ」
サラディンが頷いたので、カノープスはシューメーの手綱をランスロットに渡す。
「ここから西に3つめの島の南岸に建物がある。そなたの目ならば暗くなる前に捉えることができよう」
「承知」
じきに2頭のグリフォンがピトケアン島を発った。島の西には大小3つの無人島がある。ピトケアン島はカストラート諸島の中でも北西の辺境だ。複雑な海流が豊かな漁場を作り出したが、地味が痩せているため、人口は少ないし、住人も良質な漁港であるピトケアン港周辺に固まっている。
「あんたの言ってた建物は庵でもいいのか?」
「ほかになければ、そこでよい」
「ピトケアン島の西にあるのは無人島ばかりだと思っていたが、最近はこんなところにまで手を広げてるんだな」
「そうではない。そこは、人里離れて修行したいと願う隠者の住まいだ。そなたの知っているとおり、人が住むのに適したところではないよ」
「隠者? この前のあんたの話だと大層、大事な物があると思っていたんだが、そいつに預けたのか?」
「その話ならばランスロットも興味があろう。降りてから話そう」
「じゃあ、別の話をしようぜ。グランディーナの利き腕は、あんたの見立てじゃ、どうなんだい?」
サラディンは首を振ったが、そのまま黙り込んだりはせずにつけ加える。
「スコルハティは気まぐれな性質だ。いつ動くようになるのかは誰にもわかるまい」
「まるで知り合いのような口ぶりだな」
「スコルハティがその気まぐれさのためにオウガバトルの時に人にもオウガにも味方しなかったのは有名な話だ。あれほどの力を持ちながら、ユリマグアスの門番などに甘んじているのもフィラーハにその性質を疎まれたためとさえ言われている。グランディーナにもその時の話を聞いたがスコルハティはしばしとしか言わなかったそうだ。それならば、1ヶ月か1年か、わたしに答えられることではない」
「ずいぶん冷静なんだな。あいつのことが心配じゃないのか?」
「わたしが案じたところであれの腕が動くようになるわけではあるまい。わたしが解放軍に参戦したのはラシュディ殿を止めるためだ。無駄なことに思い煩うような暇はない」
「ラシュディってのはそれほどの奴なのか?」
「大陸一の賢者と言われる方にそれは愚問というものだな。わたしの知識も力もラシュディ殿の足元にも及ぶまい」
思わず言葉を失ったカノープスにサラディンは穏やかな笑みを浮かべた。
「案ずるな。たとえわたしの命と差し違えてでもラシュディ殿は止めてみせる。そのためにカストラート海まで来たのだ」
やがて3人は庵の近くに降りたが、先に行こうとするサラディンをカノープスが制した。
「ちょっと待ってくれ。いくら独りで修行したいからって灯りもついてないのはおかしい。何かあったんじゃないのか?」
「そうだな。我々が来たことがわかれば灯りぐらいつけるだろう」
ランスロットもわからないなりに庵を見て、松明に火をつけた。
「それとも、人間嫌いで来客は歓迎していないか。どっちにしても俺たちには望ましい状況ではないな」
「わたしが先に立ちます。サラディン殿は後からお越しください」
「承知した」
「それで、あそこに何が隠されてるんだ?」
ランスロットが振り返り、サラディンとカノープスを不思議そうな顔で見た。
「聖剣ブリュンヒルド、地上と異界を結ぶ、ただ1つの神器だ」
「そんな物を隠者が守っていたのか?」
「しっ!」
ランスロットが剣を抜く。ジャックに金を借りた時に剣がなまくらになってしまった話をしたら、「どうせ倉庫に眠っているだけだ」と言って、スムマーヌスという魔法の剣を譲ってくれたのだ。その刃は常に微少な雷を伴っており、持ち主以外が刀身に触ると痺れ、暗がりでもまとった雷のために刃が見分けられるほどだった。
彼が庵の扉を開けると、後ろのサラディンとカノープスにも立ちこめた死臭と血の臭いが襲いかかった。
ランスロットはそのまま庵に入り、サラディンも続く。カノープスは戸口で立ち止まったが、彼らの警戒に反して、庵の中には倒れた修道僧の死体以外には誰もいなかった。
拍子抜けしたランスロットの脇をすり抜けて、サラディンが死体の側に膝をつく。その動きに無数の蠅が一斉に飛び立ち、3人の顔や手に群がってまた離れた。
「死体を動かしてくれ。彼の下にブリュンヒルドの隠し場所があるようだ」
それで松明をサラディンが持ち、ランスロットとカノープスが死体を表に出した。腐って手足がもげるほどではないが、その拍子に蛆虫(うじむし)が何匹も転がり落ち、2人にディアスポラ大監獄を思い出させる。
「ないな」
床の隠し扉を開けたサラディンが冷静な声でつぶやいた。彼は松明をかざして再度、死体に近づくと、粗末な衣服の前面に空いた穴と傷痕を調べ始めた。
その脇でランスロットとカノープスは埋葬のために穴を掘る。修道僧はサラディンとランスロットの中間ぐらいの身長で、サラディンよりも痩せている。生前は枯れ木のような印象を与える人物だったのだろう。まだ蛆虫に食われていない顔は、いかにもこのような場所で修行をしたがりそうな禁欲的な性格にも見えたが、さすがに死を意識した恐怖に歪んでいる。
「この傷は人魚たちが好んで使う三つ叉槍によるものだ」
群がる蠅を追い払いながらサラディンは海岸に降りていく。ランスロットもカノープスも暗くなったこともあって、つい手を止めて彼のすることを眺めていたが、すぐに戻ってきた。
「風と波が痕跡を消してしまったようだ。確かに人魚が上陸したという証拠は見られなかった」
「人魚がこの方を襲ったというのですか?」
サラディンは頷く。
「それは、ブリュンヒルドを奪うためですか?」
「そうと考えていいだろう」
「このおっさんがそんな大事な物を守っていたのか? あんたのような妖術師だって1人じゃ守り切れないんじゃないのか?」
「そうではない。この庵はあくまで目くらましに過ぎぬ。彼もその前にいた者も、ブリュンヒルドのことは知らなかったはずだ。そうでなければオウガバトルの後、ブリュンヒルドはとうに誰かの手か、いずれかの国に渡っていただろう。だが聖剣はこの地上と異界を結ぶただ1つの神器、権力のため、ましてや私利私欲のために利用されるようなことがあってはならぬ」
「じゃあ、どうしてあんたがブリュンヒルドのありかを知っているんだ?」
その問いにサラディンはわずかに微笑む。
「それはラシュディ殿の知識に感謝せねばなるまい。ブリュンヒルドがここにあるという答えを見たわけではないがな」
砂混じりの土は掘りにくく、ろくな道具がないせいもあって、穴は浅くしか掘らなかった。
素肌をさらしているためにいちばん蠅にたかられたカノープスは、何度もうるさそうに手を振りながら、ようやく遺体を埋め終えた。
「これからどうなさるおつもりですか? 人魚たちに奪われたとあれば、このカストラート海から見つけ出すのは至難のことでしょう」
「人魚との争いが激しくなったのはつい最近のこと、ゼテギネア帝国が介入してからだと〈何でも屋〉のジャックが言っていた。その目的の1つが聖剣にあることは間違いなかろう。だが、彼の傷はどれも三つ叉槍のものだ。ブリュンヒルドの情報を得た人魚たちが独断でここを襲った可能性は高い」
サラディンが先に立ってグリフォンの方へ向かう。
「だけどカストラート諸島にだって40も島があるんだぜ。1つ1つ探していたら、話にならねぇし、海は人魚たちの独壇場だ。こうなったら手も足も出ねぇんじゃないのか?」
「人魚たちが独断で行動したのであれば、そこまで絶望的な状況ではあるまい。アレイスたちに人魚との抗争について、情報を集めるよう頼んでおいた。影ほどの働きは期待できまいが、船員同士、我々よりも話を聞きやすいだろう」
「そんなことまで考えていたっていうのか?」
「物事が己の思いどおりに進むことはほとんどあるまい。わたしはいつも最悪の結果を考えて行動する。これでも10年前、兄弟子に石化されただけで済んだのは上出来だと思っているのだがね」
「それで明日はどこへ向かうのですか?」
「マーケサズに向かう。ピトケアンで得られる情報など限られている。だが、いまはひとまずピトケアンまで戻るとしよう」
「わかりました」
「ひとつだけ教えてくれ」
カノープスの言葉にサラディンは足を止め、シューメーにまたがりかけていたランスロットも彼を見た。
「聖剣が帝国の手に渡っていないとなぜ言える?」
「カストラート海を手に入れることも人魚たちを味方につけることも帝国にはさしたる益はない。ブリュンヒルドを手に入れられれば、すぐにでも撤退する可能性もあるとわたしは考えている。当然、人魚たちもそのことには気づいていよう。だから独断でブリュンヒルドを奪い、少しでも帝国から有利な支援を引き出せるよう、取引の材料に使おうとしているのではあるまいか。だが、これは楽観的すぎる考えかもしれない。人魚たちがブリュンヒルドを奪ったことを帝国が知るのは時間の問題だろうし、もう知られている可能性も高い。帝国の司令官が誰かは知らぬが、人魚たちがどこまでブリュンヒルドを守りきれるかはわからない」
「だからって、人魚たちが俺たちにブリュンヒルドをほいと渡してくれるとも思えねぇな」
「だが我らには聖剣が必要だ。いまの解放軍の戦力ではこの先も帝国に勝ち続けることは難しかろう」
「カオスゲートを開いた先には何があるんだ? 魔界も天空の島も本当にあるものなのか?」
「その話はブリュンヒルドを手に入れてからにしよう。だがこれだけは確実に言える。天空の三騎士殿は実在するのだ。我らはその助力を仰がねばならぬ」
そんなわけで、ピトケアン港に戻った時には夜もだいぶ更けていた。〈漆黒の涙〉号で出される食事は決して貧しいものではないのだが、人の見えなくなった暗い港は、侘びしい気持ちに拍車をかけるようだ。
「わたしはまだアレイスたちと話したいことがある。そなたたちは先に休んでいるといい。見張りは後で交代してもらうとしよう」
「承知しました」
「俺は今日はエレボスたちと甲板で寝る。船室はもう飽きた」
「それならばわたしもつき合おう。万が一のことを考えたら、ばらばらになっていない方がよさそうだ」
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