まるで当たり前のように女性であることの自由さと不自由さを感じさせられる日本において、同じ女性として、かなり見ていてしんどい映画。
舞台はとある病院から。生まれた赤ん坊は女の子だった。「男の子じゃないと役に立たない嫁だと離縁されてしまう」母親の母はそう言って嘆く。そこへ祝福に現れる姑、親戚、母は助けを求めて、使いを外に出した。そこですれ違うのは3人の女性。刑務所から仮釈放で出された彼女らは、そのまま脱走し、楽園に逃げていこうとしていた。けれど町中をうろつく警官にまず1人が捕まってしまう。残る2人はお金を貸してくれる知り合いを捜して町を歩き、ナルゲスだけがバスに乗るが、ターミナルで乗り換えの切符を買っただけで、バスに警官が現れたのを知って、またアズレーのもとに逃げ帰る。けれど彼女は行方が知れず、宛にしていたパリも死んだと言われてしまい、彼女は途方に暮れる。パリは病院に勤める友だち、エルハムを頼っていく。パリは身ごもっており、堕胎したいと考えていたが、それには夫か父親の許可が要る。しかし子どもの父親はなく、自分の父親の許可も得られない。頼っていったエルハムは、刑務所にいた過去を今の夫に知られたくないのでよそよそしい。病院を飛び出したパリは、娘を捨てる女、ナイエレに出逢う。警官の姿を見て逃げ出すパリ。一方、ナイエレは、それとは知らずに刑事の車に乗せてもらうが、娼婦と勘違いされてしまう。車の止まったところには、本物の娼婦、モジュガンを乗せたタクシーの運転手が検問に引っかかったところで、彼女を刑務所に連れて行く。全ての女性たちが、刑務所に収容されたところで雨、エンドクレジット。
長々とあらすじを書きましたが、ある女性からある女性へ視点が移っていくところは大変スムーズで、実際はとてもわかりやすい映画です。これは、「全員の女性を一人の女性の一生とも見ることができる。生まれ、育ち、身ごもり、母になり、娼婦になる」という監督の考えが反映されているためだと思います。イランの監督って、マフマルバフ監督とかもそうだけど、うまいなー。
イランでは女性の一人旅は許可証を持っているか、学生じゃないと駄目なんだそうです。彼女らは全員が頭を黒っぽい布で覆っており、服装も地味、しかも場所によっては規則だからとチャドルまで身につけて全身を隠さなければなりません。このようなお国柄ですから、この映画はイランでは上映許可がまだ下りていません。
見ていて救いがない映画ですが、それでも監督としては、ラストの雨に希望を込めたんだそうです。イランは乾燥していて雨も滅多に降らないから、雨が降るとうれしい。希望の象徴なんだそうです。
マフマルバフ監督ついでにもう1つ。この方、イランでいちばん人気の監督さんなのですが、プロの俳優を使わないでいつも素人をオーディションで起用してます。で、新作撮るんで俳優募集、とやったらすごい人数集まっちゃって、そのオーディション風景も映画にしてしまったという「転んでもただでは起きないぞ」みたいな映画、「サラーム・シネマ」も今秋、日本上陸です。
(了)