べたべたなラブストーリー「ラブ・レター」を韓国に舞台を置き換えた映画。「鉄道員(ぽっぽや)」で一躍有名になった浅田氏ですが、同じ短編集のなかに「ラブ・レター」が入ってまして、こっちのが泣けると評判高かったんだそうです。しかし、たきがは、その知られているべたべたなあらすじ敬遠もとい毛嫌いしておりまして、いまだに未読。主演が「シュリ」のチェ=ミンシク氏だというので見に行ったわけですが、べたべたな話はやはりべたべたであるというのが結論。逆に泣かせてやろう、という魂胆が見え見えで、かなり白けました。「ホロコーストのテーマパーク(リンク先のことではないので誤解なきよう)」ならぬ「涙のテーマパーク」って感じ。この手の話で泣く感性はたきがは持ち合わせておりませぬ。
気の弱いちんぴら、イ=カンジェは、友人で組長でもあるヨンシムの身代わりに殺人罪で刑務所に入る決心をした翌日、妻パイランの死を知らされ、面倒見のいい弟分ギョンスとともにパイランのもとに向かう。パイランは中国から親戚を頼って韓国に来たのだが、その親戚がカナダに行ってしまっており、韓国で働くためにカンジェと偽装結婚したのだった。しかし当のカンジェは、パイランと結婚したことなどすっかり忘れており、ギョンスがいなければ、どこで働いていたのかもわからぬ有様だった。パイランはカンジェに宛てて、その不在を寂しがる言葉はつづるものの、恨み言一つ書かず、ただ「結婚してくれてありがとうございます。カンジェさんの妻のままとして死なせてください」と訴えていた。パイランの死に涙したカンジェは、故郷に帰ることを決意する...。
たとえば、もしもパイランがアメリカとかに不法滞在している日本人だったら、それでも泣けるのだろうか? その前に怒るべきじゃないのか? パイランは、偽装結婚などで女を喰い物にしている男に怒りを抱くべきじゃないのか? 弱い立場であるパイランの足下見るようなつけ込み方に怒るんじゃないのか? でもパイランは怒らなかった。怒るどころか、偽装結婚したきり、一度も会いに来なかった男に感謝さえしたのだ。
この物語で感動するポイントは、パイランのそういうけなげさと、主人公が変わっていく過程ではないかと思うのだが、パイランのけなげさに涙する裏には、「君は本当は薄情な男に文句の一つも言ってやってもよかったんだ。でも君は愚痴もこぼさず、一生懸命働いて死んでしまった。日本(映画は韓国)にやってくる出稼ぎ労働者たちは、みな、パイランのような感謝の気持ちを忘れるべきではないし、文句を言うなんてお門違いも甚だしいのだ。日本で働かせてやっているのはだれだと思ってるんだ」という気持ちがあるんじゃないでしょうか。その差別意識がいやだなぁと思ったわけです。
少なくともたきがは、パイランの立場だったら口が裂けても「ありがとう」なんて言えないし言わない。でもパイランはそう言った。それは本当に感動するようなことでしょうか? もっと根深い問題が「ラブ・レター」に感動する人びとの心のなかにあるんじゃないでしょうか?
(了)