ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還(字幕スーパー版)

ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還(字幕スーパー版)

アメリカ、2003年
監督:ピーター=ジャクソン
出演:フロド(イライジャ=ウッド)、サム(ショーン=アスティン)、ガンダルフ(イアン=マッケラン)、アラゴルン(ヴィゴ=モーテンセン)、レゴラス(オーランド=ブルーム)、ギムリ(ジョン・リス=デイヴィス)、メリー(ドミニク=モナハン)、ピピン(ビリー=ボイド)、ファラミア(デイビッド=ウェンハム)、エオウィン()、他
音楽:ハワード=ショア
見たところ:厚木シネマミロード

 2004年に劇場で見たたった2本の映画のうちの一本。たきがは、「旅の仲間」でも「二つの塔」でもさんざん書き散らしてますし、あちこちで言いまくってるのでいまさらですが、原作のファンとして、瀬田貞二訳のファンとして、「ロード・オブ・ザ・リング」の映画は大嫌いです。正直なところ、あの世界、あの世界観、あの物語をわからない人間が、自分のわかる範囲であの物語を解釈し、作った映画にしか見えません。以下、その講釈を垂れまくってみます。映画どころか原作のネタばれもしまくってますんで、ご注意。

物語の終盤、指輪戦争の最終章とも言うべき、ホビット庄での戦いで、フロドたちホビット四人組は堕落したサルーマンと蛇の舌を見事、ホビット庄から追い出すことに成功します。かつてはガンダルフたち魔法使いの筆頭にあったのに、一つの指輪に魅了され、忌まわしいサウロンの手下に成り下がり、その拠点であったオルサンクからも追い出されて堕落してしまったサルーマン。対して、指輪戦争の英雄として華々しく故郷に凱旋したホビットたち。名誉を得た者と名誉を失った者、己の蒔いた種とはいえ、あまりに残酷な対比、サルーマンの姿に憐れみを覚えたフロドは彼を傷つけずに立ち去らせるようホビットたちに言います。勝者からかけられた憐れみゆえにフロドを憎んで去ろうとするサルーマン、しかしその背に突き立てられたのは、長年主人に奴隷のようにこき使われ、いまさら、サルーマンと離れることもできなくなった蛇の舌の剣でした。

 「あんたは成長したな、小さい人よ」と、かれはいいました。「そうとも、あんたはたいそう成長した。あんたは賢明にして残酷だ。あんたはわしの復讐から甘美さを奪った。そしてこれからはわしはあんたの慈悲を恩に着て、苦い思いを抱きながら行かねばならん。あんたの慈悲を憎む、あんたを憎む!」(評論社文庫「指輪物語6 王の帰還(下)」より)

前作で「はしょるのか」と書きましたが、ほんとにはしょりましたね。それも無理はない。アラゴルンとアルウェンの結婚式長すぎ。それにあの若いフロドからはとうていそんな台詞は出てこない。入れられるものじゃない。

ローハンの貴賓となり、エオウィンから角笛を譲られたメリー。ゴンドールの貴賓となったピピン、ガラドリエルの奥方からの贈り物を使い、見事にホビット庄の復活に貢献した庭師サム。彼ら3人は故郷で名声を得、それぞれが後に庄長となったり、結婚し、家族を設けたりと満ち足りた人生を送ります。ホビット庄からの旅立ちからずっと、一つの指輪という誰にも肩替えできない重荷を背負い続け、そのために傷つけられ、決して癒されることのない傷を負ってしまい、その功績を故郷の誰に知られることもないフロドとはあまりに対照的です。いろいろなものを手に入れた3人に対し、フロドが得たものとは、ただひとつ、ホビット庄ばかりではない、この中つ国という世界、そこに生きる全ての者、敵となったサルーマンや蛇の舌にさえ向けられる憐れみ、慈悲の心だったのでした。

 「それでも」と、サムはいいました。その目には涙が溢れ出てきました。「おらはまた旦那もホビット庄の暮らしを楽しまれるもんと思ってましただ。これから先何年も何年も。あんなに尽くしなすったというのに」

 「わたしもそう思っていた、前にはね。だが、わたしの受けた傷は深すぎたんだよ、サム。私はホビット庄を安泰に保とうとした。そしてホビット庄の安泰は保たれた。しかしわたしのためにではないよ。愛するものが危険に瀕している場合、しばしばこうならざるを得ないものだよ、サム。つまりだれかがそのものを放棄し、失わなければならないのだ。ほかの者たちが持っておられるように。しかしお前はわたしの相続人だよ。わたしが持っていたもの、持っていたかもしれないものはことごとくお前に残すからね。それからお前にはローズがいる。エラノールもいる。フロド坊やもできようし、ロージィ嬢やも、メリー坊やも、ゴールディロック嬢やも、ピピン坊やも、それから多分もっとたくさん、わたしの見られない者たちも生まれよう。お前の手と智恵は方方で必要とされるだろう。もちろんお前は庄長になって、やりたいだけ勤めるだろう。それから歴史に残る稀代の名庭師になるだろう。そしてお前は赤表紙本の中からいろいろなことを読み、過ぎ去った時代の記憶を絶やさずに残すだろう」(評論社文庫「指輪物語6 王の帰還(下)」より

映画のフロドはこんなことは言いません。「指輪物語」のラストがそうであったように、ガンダルフやエルロンド、ガラドリエルといった指輪所持者たちとともに西へ去りはしますが、その理由は曖昧です。物語がそうなってるから去らせる、それだけの展開です。けれど、このフロドの台詞でわかるように、彼はひとつの指輪をなくすというこの旅の中で、実に様々なものを失ったのです。その彼が代わりに得た、たったひとつのもの、世界を失っても憐れむ心、その深い、癒すことのできない哀しみ。フロドの造形が完全に原作から乖離してしまってるのです。

ローハンのエオウィン姫は、本来ならば、アルウェンよりもずっと重要な役割を与えられ、実に女っ気の少ない物語を初登場時から終盤まで飾る、大事なキャラクターであります。かの指輪戦争勃発時には23歳の女盛り、何で彼女より一回りも老けた女優を配置しますか? サム、ガンダルフに次いでエオウィン姫の好きなたきがはは、「二つの塔」で彼女が登場した時、あんまりな配役に目の前が真っ暗、眩暈がし、もう「王の帰還」で彼女の白眉のシーンはまったく期待できなくなりました。ついでに書くとこのシーンはメリーの最大の見せ場でもありんす。ナズグルの首領に倒されたセオデン王を庇うエオウィンの勇姿をご覧あれ!

 「立ち去れ、けがらわしい化けものめ、腐肉漁りの頭よ! 死者に手をふれるな!」

 冷たい声が答えました。「ナズグルとその餌食の間に邪魔立てするな! さもなくば、きさまの番になってもきさまを殺さぬぞ。(中略)「おれの邪魔をするだと? 愚か者め。生き身の人間の男にはおれの邪魔立てはできぬわ!」

 その時メリーはおよそこれほど場違いなものはないと思われるものを耳にしました。デルンヘルムが声をたてて笑ったように思われたのです。その澄んだ声は鋼が鳴り響くようでした。「しかしわたしは生き身の男ではない! お前が向かい合っているのは女だ。わたしはエオウィン、エオムンドの娘だ。お前こそわたしの主君にして血縁である者とわたしの間に立って邪魔をしている。(中略)

 これはエオウィンでした。そしてデルンヘルムでもありました。なぜならメリーの心には馬鍬砦を出立する時に見た顔の記憶がはっと思い出されたからです。望みを持たず、死を求めに行く者の顔でした。同情の念がかれの心を満たしました。それと同時に強い驚嘆の思いも。そして不意にかれの種族特有の燃え立つのに時間のかかる勇気が目覚めました。かれは手を握りしめました。この女(ひと)は死んではいけない。こんなに美しく、こんなに身を捨てて! 少なくとも助けを知らずにただ一人で死んではいけない。(中略)

 突然巨大な怪鳥は見るも恐ろしい翼をばたつかせました。いやな匂いの風が起こりました。ふたたびそれは空に飛び立つと、今度はすみやかにエオウィンめがけて舞いおり、甲高い叫び声をあげながら、その嘴と鉤爪で打ってかかりました。

 それでも姫はたじろぎませんでした。ロヒリムの乙女、王家の子の、細づくりながら鋼の刃のように、美しいが、凄絶なことよ。すばやい一撃を姫は加えました。(評論社文庫「指輪物語5 王の帰還(上)」より)

この後、エオウィンは1000年前になされた予言のとおり、アングマールの魔王、ナズグルの首領を倒します。このシーン、すごく格好いいんですよ。もう、何でこのシーン、外すかな。しかし、たとえやってもエオウィン役があれじゃあねぇ。死の間際、メリーと別れの言葉を交わすセオデン王もいいです。後にメリーがセオデン王のことを思い出して、パイプは吸うまいという話をしんみりした時、アラゴルンが逆にたばこを吸って王のことを偲ぶといい、と言う台詞も素朴なセオデン王の人柄を偲ばせてぐっどざんす。

時系列、逆ですが、セオデン王といえば、ローハン。ローハンといったらこのシーン。ついにサウロン軍に包囲されたゴンドール、敵将、ナズグルの首領を愛馬、飛蔭と迎えるガンダルフ、しかし圧倒的な戦力差、事態は絶望的に思われましたが。

 ただ一人を除いてでした。城門の前の広場に黙したまま、身じろぎもせず、待っていたのは、飛蔭にまたがったガンダルフでした。地上の自由な馬たちの中でただ飛蔭だけが、この戦慄すべき恐怖に耐え、ラス・ディネンにある彫像のように静止して動きませんでした。

 「きさまはここにはいることはできぬ」と、ガンダルフはいいました。大きな影は立ち止まりました。「きさまに用意された奈落に戻るがよい! 戻れ! きさまとその主人を待ちかまえている虚無に落ちよ。行け!」(中略)

 「年老いた虚け者よ!」と、かれはいいました。「老いた虚けよ! わが時が来た。お前は死を目にして死を知らぬのか? さあくたばって、空しく呪うがいい!」そういうと同時にかれは剣を大上段に振りかざしました。焔が刀身を走りました。

 ガンダルフは動きませんでした。おりしも正にこの時、城市のどこかずっと奥の中庭で雄鶏が時を告げたのです。かん高く、はっきりと、時を告げました。魔法であれ戦いであれ、少しも頓着なしに。ただ死の暗闇のはるか上空にある空に曙光とともにやってきた朝を喜び迎えたにすぎなかったのです。

 そしてあたかもそれに答えるかのように、はるか遠くから別の音が聞こえてきました。角笛でした。角笛です。角笛なのです。暗いミンドルインの山腹に音はかすかにこだましました。北の国の大きな角笛が激しく吹き鳴らされていました。ローハン軍がとうとうやってきたのです。(評論社文庫「指輪物語5 王の帰還(上)」より)

瀬田さんの文章のすごいところは視覚的なところです。素晴らしく映像的。ゴンドールの大門が打ち破られ、国を預かる執政のデネソールはボロミアの死とファラミアの瀕死に打ちのめされ、為政者としての責任を放り出して、一足早い死を迎えようとしています。アラゴルンはローハン軍とは別ルートで現状ではどこにいるのか不明、ローハン軍は480kmも離れたところから遠征してくるため、いつ着くのかわからない。まさに絶体絶命、ここが打ち破られたら、西方のホビット庄も裂け谷もロリエンもサウロン軍に呑み込まれてしまうであろう、最後の砦、ゴンドールを守るはガンダルフのみ、という状況がありありと浮かんでくる文です。そこに押し寄せるサウロンの大軍、ガンダルフとは堅い絆で結ばれた飛蔭は忠実に従っていますし、ピピンもゴンドールにはいますが頼れる者はほかにいない。人も獣も従えさせられるファラミアは深傷を負い、父親の無理心中とともに死のうとしている、八方ふさがりの状況。そこに雄鶏が時を告げる。朝の喜び、もしかしたら皆の最後になってしまうかもしれない朝が来たことを告げる。その絶望を割って入るように高らかに鳴り響くのはローハンの角笛。その音色が聞こえてくるような文ではありませんか。何でこのシーン、ねーんだよ。

で、思ったのですが、製作者、「指輪物語」を理解しているとは思えないという最初の結論。「ロード・オブ・ザ・リング」というただのヒロイックファンタジーになっちゃってる。だから、ビジュアル的に格好いいアラゴルンが主役同然、やたらに見せ場が多いし、出番の少ない、追補でエピソードが補完され、カップル的には重要であってもキャラクター自身の登場はほとんどなかったアルウェンを引っ張り出したんじゃないんですか。アラゴルンは確かに格好いいですよ。何千年も前から続くヌメノール王家の末裔だし、人格者で完成されてるし、馳せ夫という世を忍ぶ仮の姿はみすぼらしく、美味しいところだらけのキャラクターです。でも、それは「指輪」じゃねーんだよ。主役はフロドなの、「わたしが行きます」とひとつの指輪の重荷を引き受けたフロドが主役であって、アラゴルンは脇なの。フロドの思索を理解できてないんじゃねーの。だってフロド役がいちばん若いんだもん。こんなに弱々しいフロドは要らんですよ。サムに台詞を肩代わりさせちゃいかんですよ。だからこそ、上の台詞が重みを持って生きてくるのであって、フロドが何で西に去ったか、わかっとらんでしょう。

映像はおおむね良かったです。何と言ってもあの中つ国の映像化ですし、ガンダルフ、サム、ビルボ、ファラミアを演じた役者さんは見事にはまっておられましたし、オークやトロル、ゴクリの描写もまずまずでした。風景も良かったです。でもこのシナリオは、この演出は、「指輪」ではない。自分に理解できるところだけ、映像的に格好いいところ(ぶっちゃけ、原作のフロドが格好いいと思う人はほとんどいないと思う。格好いいとは無縁のキャラクターなんである。サムはださ格好いいというぐらいがちょうどいい。「〜ですだ」だし)だけつまみ食いしてる。大筋は踏襲していてもその意図が違ってる。

「ロード・オブ・ザ・リング」と「指輪物語」は別物です。そうでも思わなきゃやってらんないすよ。

(了)

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