智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
ここにはほんとの空がある。空と大地と人と生き物のほんとの音がする。ほんとの音がするところに、作り物の音楽は似合わない。鳥の囀り、川のせせらぎ、風のそよぎ、吹雪の唸り、山羊の嘶き、ここにはどんな音楽もかなわない、ほんとの音がある。
チェルノブイリ原発事故で、もっとも多くの放射能を浴びたのが現在のベラルーシ共和国ゴメリ州の辺りだそうです。「アレクセイと泉」の舞台ブジシチェ村はそのゴメリ州にあり、地図から抹消された村の1つです。本橋監督の前作「ナージャの村」も、同じくゴメリ州ドゥヂチ村が舞台でしたが、こちらも地図上から消された、現在は立入禁止となった村です。
住人が退去させられたはずのブジシチェ村には、今も自給自足の生活を営む55人の老人と、一人の若者アレクセイが残っています。そして村中が放射能に侵されたはずなのに、そこだけ放射能の全く検出されない泉がありました。これは奇跡の泉を中心に営まれる、ブジシチェ村の老人とアレクセイの生活を叙情豊かな映像とあふれるような自然の音ともに紡いだ映画なのです。
前作「ナージャの村」の冒頭でこんな監督の独白があります。「どうして村を離れないんだい?」「人間が汚した大地だもの。逃げるわけにはいかないのさ」と村の古老は答えた。けれど、再度監督がその村を訪れた時、老人は亡くなっていたと。
この2本の映画について語るには、これ以上の言葉は要らないのかもしれません。それほど、この短いやりとりには、大地への敬虔な態度、人間が我が物顔で住んでいる、この惑星が、借りの宿に過ぎないことを教えてくれていると思うのです。「ナージャの村」はビデオで観ました。今年、その続編が公開されることを知って、見に行きました。
この映像の前に言葉は陳腐な物だと思います。1つ1つのシーンを思い起こして、書いておこうと思っても、言葉が足りないような気がしてしまいます。だから、冒頭に私の好きな「智恵子抄」から、「あどけない話」を引用させてもらいました。
音楽を担当された坂本龍一さんは、「この音の前には音楽なんてかなわない」という言い方をされています。だから、音楽はほとんど流れず、私たち観客はブジシチェ村の音を聞くのです。そしてエンドクレジットでせつせつと流れるテーマ曲に、静かな感動の波が押し寄せてきたのでした。
(了)
実は「奇跡の泉」には怖い理由があります。ネタばれになるかもしれないので、知りたい方は「奇跡の泉」のそのわけはを読んでね。