Stage Two「火喰い鳥の羽根」
野営地に戻ったランスロットは、真っ先に起きてきたウォーレンに事情を手短に説明し、アラディを紹介した。
ウォーレンはカリナを起こすと、すぐにラワンピンジに発ち、後にはランスロットとアラディ、それにばらばらに起きてきた者たちが残された。
最初に起きてきたのはマチルダだ。職業柄か彼女はいつも早起きなのである。
ランスロットは彼女にごく簡単に事情を説明すると、グランディーナとウォーレンたちの帰還を待つように言ってから仮眠をとった。
彼は昨晩から一睡もしていなかったのだ。
解放軍の面々が次々と起きてくるなか、白々と夜は明けつつあった。
「兄に会うのは本当に久しぶりです。兄は変わっていないでしょうか?」
「私が知っているのは一昨日会ったカノープスだけだ。変わったかどうかは知らない」
「そうですね。おかしなことを言いました。でもあなたがまるで古くからの友だちのように思えたものですから。あなたは、本当に兄にギルバルドさまが説得できると思いますか? ギルバルドさまは誇り高いお方、皆のためとはいえ帝国に降伏した自分をお赦しにはならないでしょう。兄にギルバルドさまのお気持ちがわかるでしょうか?」
「なぜできないと思う? ギルバルドもカノープスも持っている誇りに違いなどあるまい」
「兄のことはわかりません」
ユーリアは不安そうな眼差しで眼下に見えるバハーワルプルの町を眺めた。その手のなかで火喰い鳥の羽根が激しく動く。
エレボスはバハーワルプルの上空で一度旋回し、降下した。夜明けとともに町は目覚めようとしていた。
「兄さん、お久しぶりね」
一昨日同様、グランディーナにたたき起こされたカノープスは、外に立つユーリアに怒りが急速に萎(な)えるのを感じた。
「ユーリア! 何をしに来た? ここには二度と来ないんじゃなかったのか?」
「何年ぶりかで会ったというのにずいぶんなご挨拶ね。ええ、確かに二度と来ないと言ったわ。でも事情が変わったの、兄さんにどうしても会わなければならなくなったのよ」
「またおまえが原因か? おまえには二度とここに来るなと言ったはずだな」
「喧嘩なら受けてたつ。そんな暇があるかどうかは別にしてな」
「何だと?!」
「2人ともやめて! そんな暇はないのよ。私はこれを兄さんに渡しに来たの。ギルバルドさまから24年前に預かったわ、遅くなったけれど、兄さんに渡すべきだと思って」
差し出された火喰い鳥の羽根を見ても、カノープスの顔は輝かなかったし、受け取ろうともしない。
ユーリアは、いまごろになって酒のまわってきたような兄の手のなかに羽根を押しつけた。それは落ちることはなかったが、いまのカノープスのように頼りなく揺れている。
「彼女は言ったわ、兄さんはまだ戦いをやめていないと。ねぇ、だったら私と一緒に来て。このままではギルバルドさまが死んでしまう。ギルバルドさまを助けて、兄さんにしかできないの、私ではギルバルドさまを助けられないの!」
「おまえ、今度はユーリアにまで何を吹き込んだんだ?」
「馬鹿言わないで。私は自分の意志でここに来たの。それとも兄さんはギルバルドさまが死ぬのを黙って見ているつもり?」
「ギルバルドがそう簡単に死ぬようなたまかよ。冗談も休み休み言ったらどうなんだ」
「ギルバルドは今日死ぬ。それが事実だ」
「胡散臭い奴だと思っていたが、おまえは予言者だったのか?」
「事実だと言っている。あなたがペシャワールに行こうと行くまいと私はギルバルドと決着をつける。だが彼が望んでいるのは死だ。それでシャローム地方は帝国から解放される」
「ふざけるな!」
カノープスはグランディーナにつかみかかったが簡単に避けられた。それが彼の怒りの炎に油を注いだ。
荒々しく小屋に戻ると、カノープスはほかの何にも目をくれず、壁にずっとかけてあった鎚をひっつかんだ。カリナの武器と似ているが、鉄を巻いて補強してあるあたり、数倍強力な代物だ。もちろん重さも半端なものではない。
彼は力任せに鎚を振り回し、グランディーナに襲いかかった。
「兄さん! やめて、兄さん!」
「黙ってろ、ユーリア!!」
しかしグランディーナは腰の曲刀を抜かない。それに加えて腹立たしいのは紙一重で避けていくところだ。一度などは勢い余った鎚が小屋の壁にめり込んだ。
カノープスはとうとう飛び上がった。戦士として彼は、自分が飛べることの有利さをよく理解していた。
「いい加減にして、兄さん!」
ところがその時に限ってカノープスはユーリアの存在をすっかり忘れていたのだ。
保守的な有翼人社会の中でもいちばん保守的なバルタンの女性の常で、ユーリアは行動的ではない印象を与える物静かな娘だ。
しかし、彼女もだてに「風使い」と呼ばれるカノープスの妹ではなかった。飛行競争をやれば並のホークマンが勝てる相手ではないし、身の軽さもよく助けになっていたものだ。
いまもユーリアは、鎚を振りかざしたカノープスの一瞬の隙をついて、その両頬をひっぱたいたのである。
「もう兄さんには頼まないわ! 行きましょう、グランディーナ! こんな人を買いかぶる必要なんてないのよ! 兄さんがそのつもりならいいわ、ギルバルドさまは私たちだけで助けてみせます。見損なったわ、兄さん!!」
彼女は素早く地上に降りると、グランディーナを引きずるようにして連れていってしまった。
解放軍のリーダーも呆気にとられていたが、カノープスの驚きはそれ以上だ。
彼は完全に怒気を抜かれた形で地上に降り、鎚を両手で抱えて座り込んだ。火喰い鳥の羽根は彼の手のなかから落ちていない。
だがそれだけだった。
カノープス=ウォルフ、風使いと呼ばれたバルタンの戦士は、うつむいたきり動かなかった。
エレボスに乗り、再び解放軍の野営地を目指した途端、ユーリアは声をあげて泣き出した。その激しさは来た時とはまるで別人のようだ。
グランディーナは黙ってグリフォンを駆った。
その行為はユーリアを落ち着かせるのに役立ったようで、海の上を飛び始めたころ、彼女はようやく泣きやんだ。
「すみません、役に立てなかったばかりか恥ずかしいところまで見せてしまって」
「気にすることはない。私もカノープスを挑発しすぎた」
「兄はやはり変わってしまいました。誇りも友情も何もかも失ってしまったように思います。あんなに簡単に私に隙をつかせる人ではなかったのに」
「あなたの言うとおりなら、カノープスに望みは託せるまい。だが彼は必ずペシャワールに来る。それが遅れないことを願うだけだ」
「なぜそんなに兄のことを信頼できるのです?」
「来なければ彼は何もかも失う。それほど自暴自棄になってはいないだろう」
ユーリアは無言だった。
それでグランディーナは淡々と言葉を継いだ。
「ウォーレンとカリナが戻っていたら、私たちはペシャワールに向かう。ギルバルドは私と決着をつけることで全てを終わらせたがっている。それにラワンピンジのラウム町長も同行する。彼は息子の死のことでギルバルドを恨んでいて、自分の手でとどめを刺したいのだそうだ」
「サイクスさまがそんなことを言ったんですか?」
「そうだ」
「ガルシアンさまが処刑されたのはギルバルドさまのせいではありません! ギルバルドさまはガルシアンさまととても仲が良かったのですもの、絶対に止めようとしたはずです」
「そう言って思いとどまる相手ならば言うがいい。だが現実にギルバルドは生き残りガルシアンは処刑されたし、ギルバルドも言い訳などしないだろう」
ユーリアはまた黙り込んだ。
やがてグリフォンは野営地に戻り、2人の帰還はウォーレンとカリナより早いことがすぐに知らされた。
「ロギンス、エレボスを休ませてやってくれ。
ランスロット、ウォーレンとカリナが戻ったら皆に説明する。すぐに出発だ。
マチルダ、ユーリア=ウォルフだ。昨日から休んでいない。少し休ませてやってくれ」
「グランディーナ、私は一緒に行きます」
「わかっている」
「君も少し休んだ方がいいのじゃないか」
「その前に何か報告があれば聞こう」
矢継ぎ早に出された指示にロギンスとマチルダはすぐに反応したが、相変わらずランスロットが食い下がった。
「報告すべきことはない。人びとは我々に好意的だし、昨晩も何もなかった」
「わかった。それと、あなたはペシャワールに同行するのだろうな?」
「当たり前だ。わたしが行かない時はウォーレンに同行してもらう。ペシャワールに行くのはまたグリフォンを使うのか?」
「歩いていくには遠い。ポリュボスとシューメーを働かせどおしだ。もう何頭かグリフォンが欲しいところだな」
「君は自分もそうだということを忘れている。ウォーレンたちが帰ってきても休んでくれないか」
「大丈夫だ」
ランスロットはまだ何か言おうとしたが、そこへウォーレンとカリナの帰還の知らせが届いた。ラウム町長も同行しているとのことだ。
ランスロットは報告を届けたヴィリー=セキを少なからず恨めしそうに睨んだが、グランディーナは意にも介さないのだからどうしようもない。
彼女らがウォーレンや町長らを迎えに行くと、もう1人、見知らぬ男が一緒だった。
「元ゼノビア王国魔獣軍団の猛獣使い、ニコラス殿です。ラウム殿の部下だったそうで、コカトリスを貸していただきました」
ウォーレンが彼を紹介した。
ニコラスは頭を下げ、話を引き取った。
「わたしはニコラス=ウェールズといいます。わたしもぜひ解放軍に参加させていただきたいのです。よろしいですかな?」
「歓迎する、ニコラス。早速で悪いが、あなたのコカトリスを1頭貸してくれ。ペシャワールに行きたいがグリフォンたちを休ませてやりたい」
「コカトリスはグリフォンと違います。その牙には注意が必要ですがお心得はありますか?」
「知っている。後のことはウォーレンに従え。配属はシャローム地方が終わってから決める」
何事かと皆が集まってきていた。その中には休んでいたはずのユーリアも見える。いくら休めと言われても恋人の一大事とあっては休んでなどいられなかったのだろう。彼女の真紅の翼は兄同様、とても目立つものだ。ユーリアを見つけた時、カリナはかなり驚き、喜んだようだった。
「帝国軍の司令官ギルバルドは私との一騎打ちを望んでいる。私はこれからランスロット、ユーリア、ラウム町長とともにペシャワールに行く。皆もペシャワールへ向かえ。それだけだ」
間もなく、グランディーナ、ランスロット、ユーリアとラウム町長はエレボスとコカトリスのアイギスに騎乗してペシャワールに向かった。
コカトリスはグリフォンと似た姿の魔獣だが、その毒は噛んだ相手を石のように麻痺させてしまう。毒蛇の毒牙のように、ニコラスが牙に注意が必要だと言ったのはそうしたわけがあった。気性の荒さもグリフォン並で、ゼテギネア大陸ではまとまって使役されることは珍しい方だ。
エレボスを操るユーリアの表情は複雑なものだった。同乗するラウム町長とは旧知の間柄なのだろうが、ギルバルドを助けたいユーリアとギルバルドを恨むラウム町長とでは互いに話の接点も見出せないらしく、簡単な挨拶をしたきりだ。
「どうしても君がギルバルドと戦わなければならないのか?」
「私が負けるとでも思っているのか。あなたはずいぶんと心配性だな」
「君の腕を疑うわけじゃない。ただ、君はギルバルドが負けたがっていると言うが、仮にもシャローム地方の支配者がそんな弱腰の態度を見せるのかと疑わしいのでね」
「シャロームが落ちようが帝国はまだ動かない。我々はゼノビアまでは労せずに行ける。東の辺境など失っても帝国には痛くも痒くもない。この地の帝国兵は始めから捨て石のようなものだ。だがゼノビアは別だ。ゼノビアは大都市というだけじゃなく、旧ゼノビア王国の首都であり、何よりグランの本拠地だ。ここが落とされれば帝国の威信に関わる。戦いはゼノビアを落としてからだ」
「我々の中にはゼノビアまでだと言う者もいる。王都を取り戻すことは我々の悲願だ。版図の復興もゼノビアとシャローム地方を取り戻せれば難しいことではない。だが我々には旗印がない。ゼノビア王国再建はできない相談だ。君はとうに気づいていただろうが」
「ゼノビア王国の再建を願うのはかまわないが、たとえ旗印があろうがなかろうがゼノビアだけで帝国に対抗できるとでも思っているのか? 帝国はゼノビアが落とされれば我々を黙認できなくなる。帝国の版図は旧ゼノビア王国の数倍だ。赤子の手をひねるより速くつぶされるぞ」
「わかっているさ。だがそれならば、解放軍ではなくゼノビア王国の旗を掲げたいのだそうだ。たとえ国は滅んでも我々はゼノビア人であり、ゼノビアの旗の下に戦いたいのだそうだ」
「国はなくても人は残る。人が残れば希望がある。解放軍の旗など必要だとも思えないが愛国心に囚われた連中とは厄介なものだな」
話しているうちにペシャワールが見えてきていた。
規模はバハーワルプルと同じくらいだが、ずっとシャローム地方の中心都市であるだけにその守りは堅く、どこか物々しい構えだ。
グランディーナはペシャワールの郊外に魔獣を着陸させず、かなり強引にいちばん大きな屋敷の中庭に降ろした。そこがギルバルドの屋敷と当たりをつけてのことだったが、果たしてそのとおりであった。
初老にさしかかった男が屋敷から出てきた。豊かな顎髭をたくわえて、革鎧を身につけ、腰には鞭を提げている。堂々とした体格にいかめしい顔つき、ギルバルド=オブライエンその人だ。
「私が解放軍のリーダー、グランディーナだ。アラディから伝言を聞いて来た」
「その騎士はそちらの立会人か?」
「そんなところだ」
「せっかく来てもらったが場所はここではない。ついて来るがいい。わたしの立会人もそこにいる」
「ギルバルドさま!」
「ギルバルド=オブライエン!」
ユーリアとラウム町長が同時に叫んだ。町長は怯んだが、ユーリアはそのままギルバルドに駆け寄った。
「会いたかった! 話は彼女から聞きました、民のことを思う気持ちはあなたも解放軍も同じはず、なぜあなたたちが戦わなければならないのですか? どうか剣を収めてください、こんな戦いはやめにして」
しかしユーリアはギルバルドに触れることはできなかった。元ゼノビア王国魔獣軍団長は、昔の恋人をはっきりと拒絶していたのだ。
「あなたは変わらない、ユーリア。わたしの記憶にあるままに若く美しい。だがわたしは老いた。わたしはもうあなたの知っていたギルバルドではないのだ」
「いいえ、歳は取ってもあなたは私のよく知っているギルバルドさまです。なぜ剣を収めてはいただけないのですか? なぜ和解することがおできにならないのですか? 戦う以外の道を探してください、私は戦いは嫌いです、戦うことでしか解決できないものがあることなど信じたくありません」
一瞬、2人のあいだに温かい思いやりが交わされた。ユーリアはともかく、ギルバルドもいまだ彼女を憎からず思っているのだ。だからこそ彼女を遠ざけたのでもあろう。
だが、気を取り直した町長が冷たい口調で遮った。
「そんなことはさせぬぞ、ギルバルド=オブライエン! わたしを見ろ! わたしを忘れたとは言わせん、わたしはおまえが見殺しにした魔獣軍団副団長ガルシアン=ラウムの父親だ。今日はおまえにとどめを刺してやるために来た。命乞いなど聞く耳持たぬわ!」
「わたしは逃げも隠れもしません。命乞いなどする気もない。だがここで決着をつけないのだから、場所を変えていただきましょう」
「卑怯者め! そんなことを言って我々を罠にはめるのであろう。ここで立ち会わぬか! 立会人など口実であろう!」
「町長、私があなたの同行を許したのは罵声を吐かせるためじゃない。これ以上くだらぬ茶々を入れるのなら、あなたにはラワンピンジに帰ってもらうぞ」
町長はびっくりしたが、ギルバルドは苦笑いを浮かべた。
「わたしはかまわぬ。何をどう言われたところで言い訳などする気もないしガルシアンを見殺しにしたのも事実だ。だがわたしの部下たちには血の気の多い者も少なくない。立ち会いをさせなければ、わたしの敗北を受け入れず、また要らぬ争いを繰り返すことになろう。わたしが案じるのはそれだけだ。
同意していただけましょうな?」
最後の言葉はラウム町長に向けられたものだ。彼は不承不承ながらも頷いたが、自分を無理に奮い立たせているようにも見えた。
「なに、場所を変えると言ってもそう歩くわけではない。乗ってきた魔獣もそのままにしておくがいい。終わるまで、そう時間はかかるまい」
「良かろう」
先頭に立ったギルバルドをグランディーナが追い、ユーリアもその後を追いかけた。
しょうがないのでランスロットは、ラウム町長を気遣いながら最後尾からついていった。
屋敷を出ると大勢の人びとが入り口を囲んでいた。いきなりグリフォンとコカトリスが2頭も乗り込んだのだ。先頭にギルバルドが立つのを見て、安堵のため息さえ聞かれた。だがその後にグランディーナらが続いて出ると、敵意むき出しの視線が感じられた。
「スタインはいるか?」
「はい、ここに」
「反乱軍のリーダーが来た。おまえに立ち会いと後のことを頼みたい」
「わかりました」
出てきた男もやはり魔獣使いのようだ。彼はユーリアには簡単な挨拶しかしなかったが、ラウム町長のことはずいぶん凝視していた。
「なぜあなたがこんなところにいるんです?」
「それはこちらの台詞だ。ガルシアンが殺されて、おまえがギルバルドの副官になったというわけか」
「残念ですが、そうではありません。あなたはギルバルドさまを誤解しています」
「ふん」
ギルバルドが歩き出すと群衆は道を開けた。なかには明らかに猛獣使いや魔獣使いとわかる者も混じっている。軍をもって攻め込めば、激しい戦いは避けられなかっただろう。
グランディーナは一度立ち止まって、ゆっくりと群衆を眺め回した。威嚇するようでなく、臆したところも見せず、明らかな敵地にあって、その態度は人びとの罵声や手の中の卵や石を投げさせないだけの落ち着きを見せている。
大した混乱も起きずに一行は移動し、群衆もそれに合わせてついてきた。
ギルバルドが案内したのは、ペシャワールの中央広場であった。
「ここでなら誰に迷惑をかけることもあるまいし全ては白日のもとに明らかだ。さあ始めようか」
ギルバルドは鞭を持ち、幾度か鳴らした。魔獣使いの操る鞭は武器としても強力なものだ。熟練者が扱えば鞭の射程の長さは剣などに比べれば驚異でもある。
グランディーナも曲刀を抜き放った。
「いざ!」
ギルバルドの鞭がしなる。
グランディーナは強引に懐に入ろうとしたが、鞭は彼女の得物にからみついた。
ギルバルドは鞭を引いたが、グランディーナも容易には取らせない。
引っ張り合ったまま、2人はしばしにらみ合った。
「迷いのない良い目をしているな。だがわたしは、正直おまえがこの申し出を受けるとは思っていなかった。断るだろうとさえ思ってアラディを送り出したのだ。なぜ受けた? ほかの5都市を落とした勢いで軍を率いてくるだろうと思っていたが」
「どの町も落とすまでもなく門戸を開いた。それにあなたという人間に興味を持ったからだ」
ギルバルドが鞭を引き、2人は分かれた。
「これは異なことを聞くものだ。わたしはグラン王の死とともにゼテギネア帝国に降った身、裏切り者の何に興味を抱くのだ?」
グランディーナがすぐに打ち込んだ。その動きは以前カリナと打ち合った時よりも、さらに速いようにランスロットには思われる。
「私はゼノビア人ではない。帝国に降った身であろうと帝国と戦ってきたことに違いはあるまい!」
ギルバルドはそれらを鞭の柄で受けようとしたが、とうてい受けきれるものではなかった。
「戦っただと? わたしが帝国の犬であったことは皆が知ることだ。あらぬ同情は無用、我が首を取って先へ進むがいい!」
その言葉を受けるようにグランディーナはギルバルドの鞭を切り捨てた。
ギルバルドは諦めとは取れぬ表情で両手を広げ、片膝をついた。
降伏の意をくんでグランディーナも曲刀を降ろした。
「それでいい、グランディーナとやら。後はサイクス殿にとどめを刺させるがいい」
「待ってください!」
町長より先にユーリアが飛び出した。彼女は翼を広げ、ギルバルドを万人から庇うように立ちふさがった。
ラウム町長もすぐに進み出ていた。彼は短剣さえ持参しており、グランディーナと並ぶと立ち止まった。
「どいてくれんか、ユーリア。そなたがギルバルドを慕う気持ちもわからんではないが、ガルシアンが処刑されてからこの方、わたしはこの時だけを夢見てきたのだ。この男を討たねばわたしの気は晴れぬ。討たせてくれ」
「嫌です! ギルバルドさまを討たれてもガルシアンさまは生き返りません。それでもギルバルドさまを討つと仰るのなら私を先に殺してください!」
「待ってくれ!!」
そこへ飛び込んできたのはカノープスだった。彼は息を切らしていたが、ラウム町長に土下座した。
「ギルバルドを殺さないでくれ! ガルシアンが処刑されたのはこいつのせいじゃない。その逆だ。ギルバルドは最後までガルシアンを助けようとしたんだ、俺たちを助けたように! あんたにだってわかっているはずだ、魔獣軍団の奴らがこれだけ生き残っているのはギルバルドのおかげじゃないか。シャローム地方がそっくり無事なのはなぜだ? みんなだってわかっているはずだ!」
「だがガルシアンは殺された。おまえたちは生き延びたがガルシアンは殺されたのだ!
そうか、わかったぞ。調子のいいことを言って、最初からわたしをはめる気だったのだな。解放軍など最初からギルバルドと戦う気などなかったのだろう? しょせんおまえたちもゼノビアの人間だ、わたしの気持ちなどわかるはずもなかったのだ」
「解放軍は関係ない! 町長、ギルバルドを殺せばガルシアンが生き返るのか? ガルシアンは生き返らない、ギルバルドを殺して何になるっていうんだ?!」
「長年の恨みを晴らすことができる。それだけが願いだったのだ、それだけのために生き長らえてきた。おまえらになど邪魔をされてたまるか!」
「やめてくれ!」
「待て」
カノープスの手を引き留め、ユーリアを押しのけるようにしてギルバルドが現れた。彼はラウム町長の手を取り、その短剣を自分の胸元に合わせた。
「心臓はここだ。力を入れて刺されよ。骨に引っかかった時はもう一度刺しなおされるが良かろう」
「何のつもりだ、ギルバルド?」
「あなたが刺しやすいようにしたつもりだが?」
「馬鹿を言うな! これから殺されようという人間が刺しやすいようにするだと? そんな話、信じられるものか!」
町長が腕を振るうとギルバルドは簡単に手を放した。
「首を狙え。あなたの力では心臓など刺せない。首ならば力のない者でも容易に刺せる」
グランディーナが淡々とした口調で言った。
カノープスやユーリアばかりか町長までも驚いたように振り返ったが、ギルバルドも同意するように頷く。
ラウム町長は両手で短剣を握りなおした。だがその手は細かく震えている。
「やめてください、サイクスさま!」
ユーリアが悲鳴のように叫んだ。
しかし町長は、ギルバルドの喉元めがけて短剣を突きだした。
「動くな!」
グランディーナの一声がギルバルド、カノープスの動きを止める。
短剣の先端はかろうじてギルバルドの喉に届いていたが、刺すには至っていなかった。それでギルバルドは1歩進んで、自ら刺されようとしたのだ。
カノープスはそんなギルバルドとラウム町長のあいだに割って入ろうとしていた。
だが町長の手はそれ以上前に動かなかった。
どうなることかと見守るうちに手ばかりか身体まで震えだして、とうとう彼は短剣を落としてしまった。
「わかっている、わかっているのだ。おまえを殺したところでガルシアンは生き返ってこない。わたしの願ってきたことなど何の意味もないのだ」
サイクス=ラウムは力なく跪いた。涙が1つ、2つと落ち、やがて滂沱と流れ出した。
グランディーナがいつになく穏やかな表情で彼に近づき、黙って左手で抱きしめる。
「ガルシアン、ガルシアン、おまえの仇を討つことだけがわたしの願いだった。だがわたしにはできないのだ、ギルバルドを殺せないのだ。恨みを晴らせぬことが苦しい、だが奴を恨み続けてきたことの方がもっと苦しいのだ、どうすればいい? わたしはおまえのために何をすれば良かったのだ? 教えてくれ、ガルシアン」
「あなたは間違ってなどいない。あなたはとうにギルバルドを許している。誰もが剣を持てるわけじゃない、人を殺せるわけじゃない。あなたの選択は間違っていないのだ」
「わたしにギルバルドを許せと言うのか?」
「そうしていることを認めればいい。甘美な復讐など幻影だ。そんなものは存在しない。復讐を遂げたところで、あなたの心は決して安まりはすまい」
町長は顔をあげ、グランディーナに微笑みかけた。その涙は止まっており、彼を包んでいた悲痛な気配もいまは失せている。
「わたしは疲れたよ。町長職などとっくに誰かに譲っているべきだったのだろうな?」
「あなたが自ら気づいたのだ、遅すぎることはあるまい。後でニコラスにラワンピンジまで送らせよう」
老人はゆっくりと頷いた。そう、彼は老人だった。矍鑠とした印象もどこにもない。
グランディーナはサイクスから離れ、ギルバルドの方を向いて立ち上がった。
「馬鹿な! ラウム殿はこのわたしを許すと仰るのか? わたしはわたしの罪をよく承知しています。わたしのことを恨む者も帝国の犬と誹る者も少なくない。その者たちのためにもわたしを刺されよ。わたしの罪は死によってしか償えない」
「ギルバルド! 馬鹿なことを言うな、どうしておまえが死ななきゃならない理由がある? おまえの罪とは何だ? 戦わずに帝国に降伏したことか? グラン王の仇を討たなかったことか? そのためにシャローム地方は戦火に巻き込まれなかったんだろう、おまえは玉砕覚悟の戦いを回避して俺たちを守ったんだ、どうしてそんなことが罪になる? 誰がおまえを責められるっていうんだ? 俺が責めさせやしない、おまえに謝らなければならないのは俺の方だ!」
ずっと厳しい表情をしていたギルバルドのおもてに初めて笑みが浮かんだ。
だが、その笑顔を見たカノープスの手はギルバルドの腕を握ろうとして思いとどまった。
ユーリアもまた、ギルバルドに声をかけることができないでいる。
ギルバルドだけが笑みを浮かべたまま立ち上がり、グランディーナに近づいた。
「わたしを討つために来たのだろう。わたしは逃げも隠れもしない。もう思い残すこともない。わたしを討って過去の遺恨を絶たれよ。シャローム地方はそれでまとまろう」
グランディーナはまだ曲刀を抜いたままだった。
彼女がそれを振りかざすのをカノープスもユーリアも止めることができない。彼女はラウム町長のようにためらったりはしないだろう。
ギルバルドはただ両手を広げて立っている。
曲刀が一閃し、ギルバルドの顎髭が顎すれすれまで切り落とされた。
グランディーナが曲刀を吹くと、白い髭が落ちる。彼には傷ひとつついていなかった。
「罪があるのならば生きて償え。だがそれも全てはゼテギネア帝国に端を発すること、ともに戦ってはもらえないか、ギルバルド」
「馬鹿な! なぜわたしを許す? なぜここでわたしを裁かないのだ?」
「私にあなたを裁く権利はないようにあなたにも裁きを強制する権利はない。私があなたを討っても、そのために苦しむ者が生まれるだけだ。それに償う気があるのなら、生きてこそ罪は償えるものではないのか? 死など、あなたの自己満足に過ぎない。そんなことのために剣を振るう気はない」
グランディーナは曲刀を収め、ギルバルドらに背を向けた。
「いまはその気がなくても気が向いたら解放軍に来るがいい。私はいつでも歓迎する。
カノープス、ユーリア、あなたたちの席もあることを忘れるな」
グランディーナは真っ直ぐにランスロットの方に近づいていった。
そこへスタインが近づき、手を差し出した。その厳つい顔は満面の笑みに覆われている。
グランディーナは黙って、その手を握り返した。
彼女が笑みを浮かべるのをランスロットは初めて見た。スタインにつられたのか、ごく自然にこぼれたものと思われる。
「待ちなよ、グランディーナ」
グランディーナとランスロットも含めて、人びとの視線が一斉にカノープス、ギルバルド、ユーリアらに集まった。
「いつでもなんて気の長いことは言わねぇよ。いますぐだ、俺もギルバルドもユーリアも一緒に行ってやる。帝国と戦ってやるよ」
グランディーナは笑って親指を立ててみせた。その髪が突然の風を受けて大きくあおられた。
人びとが口々に良い兆候であることをつぶやく。この季節の東からの風は珍しいのだ。
「解放軍を代表して君たちを歓迎する。わたしはランスロット=ハミルトンだ」
「ああ、忘れてねぇよ」
ランスロットとカノープスは堅い握手を交わした。
ギルバルドはまだ夢から覚めていないような顔だ。だがそこに解放軍の一行がようやく到着するに及んで、自分のなすべきことを悟ったようでもあった。
シャローム地方から西へ、街道は2つの方向に分かれる。南東に向かえばジャンセニア湖へ、南西に向かい、北西に折れていく道はイグアスの森、通称ポグロムの森へ続き、その先はゼノビアだ。
解放軍が勢揃いし、ラウム町長もラワンピンジへ送られた後で、請願者が現れたのは夜のことだった。
新しく解放軍に加わった、ギルバルド、カノープス、ユーリアと、ギルバルドの2頭のワイバーン、プルートーンとクロヌスも皆に紹介された後だ。
「娘がジャンセニア湖のアンタルヤに使いに行ったまま帰りません。どうか探して連れて帰ってはいただけないでしょうか」
その言葉に反対できる者はいなかった。
たとえ先にゼノビアを解放したい気持ちが強くても、仮にも解放軍と名乗る以上、民衆の頼みを聞かないわけにはいかない。
かくして解放軍はシャローム地方の南東、ジャンセニア湖を目指す。
そこで待ち受ける人狼伝説も知らずに。