Stage Five「聖なる島」
「それで、どうしてわたしが君とエレボスに乗っているのか訊きたいんだが?」
「大聖堂まで一人旅ってのもつまらねぇだろうが。グランディーナはユーリアとクロヌスに乗っちまいやがったし、アッシュとウォーレンとマチルダじゃ話すこともないしな」
「それならばギルバルドと一緒になれば良かったじゃないか」
「ふられたんだからしょうがないだろう。いつまでも愚痴愚痴言ってんなよ」
「それで何の話だ?」
「おまえはガレス皇子は見たのか?」
「いや。わたしたちはいちばん低いところにいた。グランディーナの声にアルベルトを引っ張るのが精一杯だ。それにたとえ見ていたとしてもガレス皇子のことは知らない。直接見たことがないのにガレス皇子だとは言えないよ、噂どおりの姿をしていてもな」
「優等生の答えだな」
「気に入らないのか。それにそもそも君はわたしとそんな話をしたいためにエレボスに乗せたわけじゃないのだろう?」
「まぁな。図星だ」
「それならばさっさと本題に入ってくれないか。あいにくと、いまのわたしは君の軽口の相手をしたい気分じゃないんだ」
「おいおい、まさかおまえまでヴィリーの死に責任感じてるなんて言い出すんじゃねぇだろうな?」
「しかし、彼を助けられなかったのは事実だ」
「馬鹿言うな。俺は見えていたから言うが、おまえがいたのは魔法陣の外だ。そこからど真ん中にいたヴィリーにどうやって手が伸びるって言うんだよ?」
「だがせめて彼をあんな乱戦の真ん中に押し出さなければと思うんだ。そうじゃないのか?」
「違うな。おまえがヴィリーをあそこに連れていったと言うのならともかく、おまえが奴の死に責任を感じる必要なんてないんだ。だがあいつはそうじゃない。戦士たちに最後に下りるように言った。奴らは戦い慣れていないからな、せめてと思ったんだろう。バインゴインまでじきだ、船を止めれば帝国軍に陣営を固め直す余裕を与えることになる。それを避けて敵将を討ち、とっとと片づけたかったんだろう。だけどガレス皇子から不意打ちを喰らわされた。予想以上に速く戦士たちが戦場に来ちまった。何を狙っていたのかわからねぇが、ガレス皇子の攻撃はいちばん多く人間がいたところにぶち込まれた。あいつの狙った敵将もいなかった。あいつはもう、百万も後悔の念にかられているぜ。これは戦争だ。いままで戦死者の出なかった方が不思議だなんて言っても通じねぇだろうなぁ」
「では君ならば達観できるのか? ヴィリーと特別、親しかったというわけではないだろうが、彼の死に心痛めないわけではあるまい?」
「そうじゃねぇよ。俺はヴィリーと話したことがある。初めてあいつがヴォルザーク島に来た時、自分は何も知らない帝国兵だったと言ってた。自分たちの頭が殺されて、それでものこのこ戻る気にもなれなくて、奴は無謀にもあいつに斬りかかったんだそうだ。俺が馬鹿かと言ったら、奴もそうだと認めた。実際、剣はかすりもせず逆に鎧を壊されただけだと言ってた。でもそれですっきりして、何年ぶりかで母親の顔を正面から見ることができて『解放軍に行ってきます』って言えたって言ってた。あいつは来るなと言ったそうだが、故郷に帰るのも後ろめたくて、せめて解放軍にいれば胸張って帰れると思ったんだろうな。それはアルベルトたちもおんなじさ」
「カノープス、泣いているのか?」
「振り返んな!」
だがすぐに鼻をすすり上げる音が聞こえてきて、ランスロットは苦笑いをした。
「すまない。君は彼らに慕われていたな。達観などできるはずがなかった」
「こんな形であいつらを除隊させたくなかった。それだけさ。振り返るなって言ってんだろ!」
「ああ、今日は風が強いな」
「あいつは連中には憧れなんだ。無敵の戦女神(イシュタル)なんだとヴォルザーク組と娘っ子とで意気投合してたっけな。自分もあんなに強くなりたいって、あいつに言ったら、いなされたがな。だがそれとこれとは話が違う。ヴィリーの死に心を痛めるのと責任を感じるのは全然、次元の違う話だ。あいつは奴らをもっと速く帰すことができた。あいつがゼノビアを落としたら帝国の反撃が厳しくなると言ったんだ。奴らをアヴァロン島に連れてこず、ゼノビアで除隊させれば良かった。あいつはリーダーだ、それができた。逆にあいつ以外の誰にもできなかった。それがリーダーとしての責任てものさ。俺たちが多少、心痛めたところで肩代わりできることじゃねぇよ」
「だが君はそんな彼女を支えるのが、わたしたちのすることだと言った。いまの彼女には、それさえ拒絶されそうだがね。そんな思い詰めた顔だ。ところでなぜ、わたしにそんな話をするんだ? わたしはそんなに物わかりが悪そうに見えるのか?」
「逆だ。ギルバルドはそんなことは言うまでもない。だがじじぃどもに話しても意味がないからさ」
「トリスタン皇子がご存命だ。騎士ならば、そうするのが当然だろう?」
「俺はあいにくと騎士道ってやつはよくわからねぇが、アッシュが剣を捧げたのはトリスタン皇子じゃなくてグラン王だ。そしておまえはあいつに剣を捧げた。そうだろうが?」
「その気持ちに偽りはないし迷いもない。君にわざわざ言われるまでもない。この戦いが終わるまでわたしの気持ちは決まっている」
「おお、清々しいほどに潔いな。俺の出る幕じゃなかったってことか」
「いや、そうでもない。君と話して気持ちが固まった、感謝しているよ。だがいまの彼女にはそんな気持ちも余計なお世話なのかもしれないがね。実際に彼女は我々の手助けなど不要なほどに強い。ゼノビア城ではあのデボネア将軍に自分の剣をさせなかったほどだ。帝国四天王と言えば剣の達人であることはよく知られている。なにしろ元のハイランド王国が剣技に優れた国だったのだからな。ヒカシュー大将軍を除けば、四天王はその頂点と言ってもいい。確かにデボネアが四天王になったのはつい最近だ。それも同じ四天王とは言っても末席だという話はわたしも聞いた。それでも帝国では5番目に強い剣士のはずだ。そのデボネアをまるで赤子の手をひねるように一方的に倒したんだ、彼女の腕前はわたしの想像を遙かに超えている」
カノープスが口笛を鳴らす。彼にも初対面で地面にねじ伏せられた経歴がある。グランディーナの腕は認めるところだがそれほどとは思っていなかったようだ。
「だからユーリアの奴、来たがったのかもな。俺はあいつが来させねぇだろうと思ってたけど、あっさり許可しちまったからな。それにしてもユーリアのお節介なところは誰に似たのかなぁ」
「君とギルバルドだろう」
ランスロットが即答したのでカノープスは笑い声を上げた。振り返ったギルバルドはやはり、そんな親友の気持ちを察しているように見えた。
いつもならこういう編制を組んだ時にはエレボスが先頭を飛ぶ。だがグランディーナが騎乗したのがクロヌスだったので、ランスロットとカノープスを乗せたエレボスは渋々といった様子で最後尾を飛んでいた。
眼下に2つの町を認めた後は山中に入った。アヴァロン島は10ほどの島からなる群島だ。本島がいちばん大きく、ほかは小島である。本島はその8割が山岳地帯で占められる火山島で、アヴァロン島と言えば、ロシュフォル教会に温泉が名物だった。
グランディーナとユーリアはクロヌスに乗り、ギルバルドと不慣れなマチルダがプルートーンに乗った。グリフォンは2人乗ると速度が落ちるが、もともとそれほど速くないワイバーンは2人乗せてもあまり変わらないからだ。
「あなたがここに来るのは何年ぶりなの?」
「5年ぶりだ。なぜそう思う?」
「フォーリス大神官さまのお墓に詣でるのにわがままだと言ったわ、個人的にご存じなのかと思って」
グランディーナが軽く舌打ちをした。
「カノープスの言ったとおり、かなり頭に血が上っていたらしいな。確かにフォーリスさまは知っている。せめて一言、お礼が言いたかった」
「フォーリスさまにはお気の毒なことをしたと思うわ。だけど、あなた、責任を感じてるなんて言いやしないでしょうね?」
「まさか。たとえガレスの目的が私であっても、そんなことは思わない」
「その言い方も意味深ね。でも訊かないことにする。私が話したいのは別のことだもの。ヴィリーたちのことよ、自覚しているんでしょう?」
「彼の死は私のへまだ。だから戦士たちを帰した。ほかに何かあるのか?」
「私はあなたが解放軍のリーダーになる前、何をしていたのか知らないわ」
「傭兵だ。アヴァロン島を離れて5年間ずっと戦場を求めて明け暮れた。死は日常だ、敵も味方も。いまさら狼狽(うろた)えたりなどしない」
「ふふ、でもね、あなたがそういう逆説的な言い方をする時は逆よ。フォーリスさまの死もガレス皇子の出現も、どれもあなたの心を動かしているわ。あなたが私たちに狼狽えたところを見せないのはリーダーだから。あなたの動揺が私たちにはもっと大きく伝わってしまうから。違うかしら?」
「だったらどうした?」
「あなたが戸惑っている理由はもう1つ。ヴィリーの死があなたを動かした。でもあなたにはそれがなぜか、わからないのよ」
グランディーナが沈黙したのでユーリアは話を続ける。静かな声音だが、彼女の声はワイバーンの羽ばたきにも上空の風にも、不思議と負けないのだった。
「あなたはずっと1人だったのね。いいえ、1人でいようとしたのね。戦場で頼れるのは自分だけ、背中を預けられる戦友がいても最後は自分の腕次第、それが戦場だって言うのは兄さんの口癖。だから私にも少しだけわかるの、あなたが1人でいた理由も。死が隣り合わせならばなおのこと、あなたは5年間、ずっとそんな危険なところにいた。でもそんなあなたが解放軍のリーダーになったわ。ヴォルザーク島、シャローム地方、イグアスの森、ゼノビア、そしてアヴァロン島、解放軍に加わる人は増えているし、これからも増えるでしょうね、あなたの言うとおり。だけどヴィリーが死んでしまった。あなたはなぜ戦士たちを帰したの? 腕前が未熟だったから? この先の戦いは厳しくなる、彼らでは戦い抜けないから? 違うわ、そんなことは後からつけた理由よ、あなたは本当はこう思っているの。もう誰にも死んでほしくないって」
グランディーナが戸惑い顔に振り返った。ユーリアはたおやかに微笑んでみせる。
「どう違う? 腕が未熟だから死ぬかもしれない。そんな者を解放軍に置いておく理由はない」
「いいえ、死んでほしくない理由はそんなことじゃないの。あなたにとって彼らが仲間だから。あなたはもう1人ではないから。だからあなたは1人でシリウスと戦ったわ。デボネア将軍と戦ったわ。あなたはもう誰にも死んでほしくないと思ってる。誰かが傷つくぐらいなら自分が傷ついた方がましだと思ってる。それが今回の人選の理由でもあるのでしょう?」
「ば、馬鹿なことを!」
正面に向き直ったグランディーナをユーリアは背後から抱きしめた。
「いいのよ、それで。みんなが知らなくても私たちが知ってるわ。私たちがいつもあなたの後ろにいるわ。あなたはもう1人ではないのよ」
ユーリアの腕にグランディーナは片手を乗せた。だが彼女は何も言わなかった。その手は微かに震えているようでもあった。
やがて一同の視界に大聖堂と付随する灰色の建物群が入ってきた。ロシュフォル教会の総本山はこぢんまりした敷地である。大神官以外の位を置かず、世俗のいかなる国家からも中立を保ち続けた教会に、あるいは最も相応しい形であったのかもしれない。
そこを目指してクロヌスが徐々に高度を下げ、ほかのワイバーンとグリフォンも続く。一行が大聖堂の正門前に到着した時、そこは堅く閉め切られていた。
陽が山陰に隠れている。日没はもうじきだ。
「今晩はここで泊まりますか?」
「そのつもりだ。巡礼用の宿泊施設がある」
「魔獣はどうするんだ?」
「中に入れて繋いでおけば大丈夫だと思う。異論はないな?」
「俺は来るのは初めてだ。知ってるなら任せる」
カノープスの言葉に残りの者も頷いたので、グランディーナが扉に近づいた。
「ここを開けてくれ。フォーリスさまの墓前に弔いたくて来た」
端の通用門が開けられて、年輩の司祭らしい女性が顔を出した。頭に黒い面紗(べーる)を被っている。
「こちらからお通りを。正門はしばらく開けられません」
彼女はあまり見る機会もないだろうに魔獣や有翼人にもそれほど驚いたようではなかった。8人と5頭が門を潜ると通用門はすぐに閉じられ、彼女は粗末な椅子に座り直した。門番、というわけらしい。
「私は墓地に向かう。巡礼用の施設は右手だ。言えば空き部屋を教えてくれる。先に行っていてくれ」
「ここまで来たのだ。わしもフォーリス殿の墓前に詣でたい」
アッシュがそう言うと、ウォーレンやランスロットも同意した。
「ならば、わたしが魔獣の面倒をみていましょう」
「俺も残る。辛気くさいのは苦手だ」
ギルバルドとカノープスに手綱を預けて6人は揃って移動した。
彼女ら異邦人に大聖堂は特に気になるような反応はしなかった。行き交う司祭たちは皆、黒い面紗を被り、静かに素早く動いている。面紗がなかったなら、いつもの大聖堂と変わらぬところだ。
墓地は大聖堂の裏手にあり、人気はほとんどない。だが訊かなくともフォーリスの墓は、捧げられた花の真新しさと多さで、すぐにそれと知れた。
地面はむき出しで墓石だけが規則正しく並んでいる。大陸のロシュフォル教会よりもずっと地味で、それでいて荘厳さを感じさせる光景だ。
グランディーナは墓前まで進むと黙って膝をついた。マチルダ、ユーリアがすかさず倣ったので男性陣もそうせざるを得ない。
マチルダは涙をこぼしていたが、グランディーナは手を組むでなく頭を垂れて微動だにしない。アッシュも同様でウォーレンは手を合わせている。
ロシュフォル教会の大神官フォーリスにはランスロットも面識がない。ただ、彼女が8年前、若くして大神官位に就いた時にその名を知っただけだ。フォーリスは大神官になると、ロシュフォル教会の伝統に従ってゼテギネア帝国への不服従を宣言した。潰すのならばその時であったろうに、女帝エンドラはこれを黙殺し、アヴァロン島には平和が保たれていた。
「あなた方はどちらからいらしたのですか?」
しばらく経ってから1人の僧侶が遠慮がちに声をかけてきた。亜麻色の髪を2本の三つ編みに垂らした若い娘で、やはり黒い面紗を被っている。背はグランディーナより頭1つ分低い。
グランディーナは慌てて立ち上がったが、2人の口から同時に漏れたのは互いの名であった。
「その声はアイーシャか?」
「あなた、サーラ?」
アイーシャと呼ばれた僧侶は面紗を上げた。まだ年若いがミネアよりは年上だろうか。青ざめた顔色が痛々しい。
「久しぶりね。
それに初めまして、アイーシャ=クヌーデルです」
「初めてお目にかかります。私はマチルダ=エクスライン、司祭を務めさせていただいております。クヌーデルというのはまさか、フォーリスさまの?」
「はい。フォーリス=クヌーデルは私の母です。けれど私たちは皆、聖なる父の子です。あなた方がへりくだられる必要はありません。どうぞ、お気遣いは無用に願います」
「でもフォーリスさまにはお気の毒なことをいたしました。
お知り合いですか? サーラというのはあなたのことですね?」
「ああ。アヴァロン島にいた時に使っていた偽名だ。
アイーシャ、私の名はグランディーナ、解放軍のリーダーだ」
「あなたが解放軍の?」
「そうだ。ここにはフォーリスさまの墓参りに来た。明日に発つ」
「ガレス皇子を討つの?」
「そうだ」
アイーシャは周りを見回した。墓地にいるのは彼女らだけだが、彼女はグランディーナに耳打ちした。
「陽が落ちたら鐘楼で待っているわ」
彼女は面紗を下ろし、立ち去った。入れ違いに別の司祭が墓地を訪れ、フォーリスの墓に詣でていく。
「部屋を借りに行こう。簡素だが食事付きだ」
「カノープスたちも待ちくたびれておりましょう」
「なぜ偽名を使っていたのか訊いてもいいかな?」
グランディーナは振り返ってランスロットを見た。灰色の眼差しは冷静だ。
「本当の名を出しては都合が悪い。それに知らなければフォーリスさまに害は及ぶまい、そう考えた」
すっかり陽が沈んで建物の中と陰は暗かった。だが時折すれ違う司祭たちは灯りなしで歩いていく。
「フォーリスさまとはそんなに親しかったのか?」
「恩人だ。だがフォーリスさまはもういない。話しても詮ないことだ。先に行っていてくれ。私はここの責任者に会ってくる。つき合う必要はないぞ」
グランディーナは1人で大聖堂に入っていき、ランスロットたちはギルバルドらと合流した。
次の大神官も決まらず大聖堂はまだまだ混乱のなかにあった。しかしグランディーナが解放軍を名乗るとフォーリスの補佐を務めていたという女性が応対してくれることになった。
「あなた方の噂はアヴァロン島にも届いております。勝利とご無事をお祈りしておりますわ。ところでご用向きは何でしょう?」
「この先、各地のロシュフォル教会の手助けをお願いすることになると思う。できるだけ、あなたたちの手は煩わせたくはないが、助けを求めた時に必ず得られるよう言質(げんち)が欲しい」
「ご安心を。フォーリスさまからすでにそのような通知は各教会に届いているはずです。遠慮なくお申し出ください。その代わりというわけではありませんが、どうかアヴァロン島からガレス皇子を追い出してください。私たちの願いは以前のような祈りの島に戻ることだけです。帝国への服従を求め、僧侶を殺すと脅されても従うことはできません。ですが、皆がそのような覚悟を抱いているわけでもありません。恐ろしさに心が挫け、信仰を捨ててしまう者も出始めています。嘆かわしいことですが帝国に忠誠を誓うべきだと主張する者もあります。私たちはガレス皇子をお恨みはいたしません。ただそっとしておいてほしいのです」
「ガレスは必ず倒す。じきに帝国軍も追い払う。それを約束しに来た」
「たとえフォーリスさまの命を奪った方とはいえ、無益な殺生は望みませんが、よろしくお願いします」
グランディーナは頷き、その場を去った。
「さっきアイーシャは何て言っていたの?」
「陽が落ちたら鐘楼で待ってる」
簡素な食事は食堂でだった。ギルバルドとカノープスがまた魔獣の番に残り、後でユーリアと交替することになっていた。
「アイーシャさんとお知り合いなんですか?」
グランディーナは頷き、空にしたお椀を押し出した。
「そなたはゼノビアを陥落させたら帝国の反撃が厳しくなると言ったな。ガレス皇子がアヴァロン島に現れたのはその兆候か?」
「違うだろう。ロシュフォル教会が帝国に従わないのはいまに始まったことじゃない。ガレスの地位を考えれば、いまさらアヴァロン島に来るはずがない」
「ならば、そなたはなぜガレス皇子が来たと考えているのだ?」
グランディーナは黙し、そのあいだにウォーレンたちもつい耳をそばだてる。ユーリア1人が立ち上がり、食堂を出ていった。
「わからない。心当たりはなくもないが私の推測など話しても意味はないだろう」
「よもや殿下が理由ではあるまいな? アヴァロン島に向かわれたのであれば、大神官殿にお目通りを願うのは当然のことだ。その動きが帝国に漏れているのではないのか?」
「否定はしない。だが、いまさらグランの血筋などに帝国はこだわりはすまい。トリスタンの動きは抑えていようがガレスを送り込むほどとは思えない」
今度はアッシュが黙した。このなかでトリスタン皇子を直接知っているのは彼だけだが、それも24年も前の話になる。2歳の幼児だったトリスタン皇子がどのような若者に成長したか誰も知らない。神帝グランのこともよく知るだけに、会ったこともない皇子のことを思って元騎士団長は複雑そうな顔だ。
「あなたたちにあらかじめ言っておく。ガレスの目的がトリスタンで彼が帝国に捕らえられたとしても私は止まる気はない。あなたたちがトリスタンを助けたいと思うのならば別れることもやぶさかではない。私の目的はゼテギネア帝国を倒すことだ」
「そうであろうな。だがそなたたちもこだわるな。殿下のために命を落とすことになるのはわし1人で十分、そなたたちはゼノビア王国の復興を目指せ」
「わたしもお供いたします」
ランスロットが速攻で答えたが、アッシュは頑固に首を振った。
「24年前、陛下のために死に損なったわしだ。万が一の時は今度こそ騎士道を貫かせてくれ。わしの言うことがわからぬか、ランスロット? それならばそなたは騎士ではない。そなたは騎士道というものがわかっていないのだ」
陽が沈み、大聖堂はほとんどが闇に包まれた。日没時、聖課を告げる鐘が鳴り響いたが、ほとんどが女性の占める大聖堂では騒ぎもなく、司祭たちはまるで影のように忍びやかに動き、不思議なことに灯りもほとんど必要としないようだった。その動きもいつか収まり、さらに深い沈黙に包まれる。
その時を待ってグランディーナは鐘楼に向かった。
鐘楼は敷地内でもいちばん高い建物で、アヴァロン島でも山を除けば最高峰に位置する。壁に取りつけられた板状の階段と鐘、四方に開けられた窓しかない単純な形だ。
アイーシャはその最上段にいた。面紗を上げて窓縁に燭台が置いてある。
「ごめんなさい、こんな時間に呼び出したりして。でも日中はお勤めが多くて抜けられなかったし、あなたたちは明日には発つって聞いたから」
「私は大丈夫だ。あなたの方が危ない」
「大丈夫。鐘楼の鐘突を代わってもらったの。蝋燭があれば下りられるわ」
光のなかでアイーシャは微笑んだ。フォーリスに似ているが、まだまだ幼さの残る顔立ちだ。何より疲労の色が濃いし、目の下にくままでできかけている。
「アヴァロン島にはいつ来た?」
「一昨日よ。みんなびっくりしてたけれど、お母さまの葬儀には間に合ったわ。でもまだ夢を見ているような気がする。手紙を貰った時はまさかって思ったのに本当だったなんて」
「手紙?」
「私、ディアスポラのアングレームという町にいたの。お母さまのお友達のボーグナインさまにお会いしていたのよ。誰がくれたのかわからないの。わざと汚い字でロシュフォル教会大神官フォーリスの命が危ないって、それだけ書いてあったわ」
「だから戻ってきたのか」
「そうよ。まさかって思ったけど、もしかしたらって心配になって。だけど、大聖堂はいま、それどころじゃないんですって。ガレス皇子がお母さまのようになりたくなかったら帝国への忠誠を誓えって。次の大神官も決まっていないのに、どうなるのかしら?」
「返事をしなければならなくなる前にガレスを倒す。私にできることはそれぐらいだからな」
アイーシャは話を止めてグランディーナの顔を凝視した。眼が赤い。
「あなたが解放軍のリーダーだというのは本当?」
「嘘をついてもしょうがない。フォーリスさまの死を責められても応えられないけれど」
「そうじゃないわ。ねぇ、私も一緒に連れていってくれない? 足手まといにはならないわ。司祭なんだもの、きっと役に立てると思うわ、どう?」
「そのために、私を鐘楼まで呼び出したのか?」
「そうよ。いけなかったかしら?」
「いけなくはない。戦う意志と力のある者はいつでも誰でも歓迎する。でもその前にずっと借りっぱなしだった。返す」
「ええ?」
赤銅色の髪が羽根のように広がってまた落ち着いた。髪を縛っていた手巾(はんかち)をほどき、4つに畳んでアイーシャの手に乗せる。
白い手巾はすっかり古びていた。何回も洗ったのだろう。生地も傷んでいて、もう手巾としては使えそうにない。だがいつ「貸した」のかアイーシャは忘れていなかった。否、手巾を広げた時、その思い出が鮮明に蘇ったのだ。あれもこの鐘楼での出来事だった。グランディーナ、サーラはあの日を境にアヴァロン島を離れた。5年も前の話だ。
「ずっと、持っていてくれたの?」
「借りた物は返せと言われていたし、それに大事な物だったのだろう? だが返してももう使えないな」
アイーシャは微笑もうとしたが唇はいびつに歪んだ。
「そうね。だけど大事な物だったのは本当。お母さまから戴いたの。お裁縫なんて得意じゃないのに誕生日に何もあげられなかったからって、私の頭文字を縫い取ってくれたんだわ」
その時の光景がいまでも見えるようだ。
母と娘というよりも大神官と僧侶という形での接し方が圧倒的に多かったフォーリスは、娘だからとアイーシャを特別扱いしたこともなかった。
「私の誕生日だって忘れがちで、でも、あの時はいつも忘れているからって、みんなには内緒で手巾をくれたの。指を傷だらけにして」
大粒の涙がこぼれた。息を詰まらせながら、それでもアイーシャは話し続けた。
「母さま、お裁縫が得意じゃないのに、こんなことしかしてあげられなくてご免なさいねって。いいのに、母さまが私の誕生日を覚えていてくれただけで私は嬉しかったのに。いつも忙しいのに、いつも忙しかったのに、いつもいつも! 母さま! 母さま!!」
グランディーナに抱きしめられて、アイーシャはとうとう我慢できずに泣き出した。涙は後から後から止まらなかった。
「ありがとう。少しだけ気持ちが落ち着いた。こんなに思い切り泣いたの、久しぶりなの」
「アイーシャは人前で泣かなくなった」
彼女は離れて頷いた。
少しだけ涙がこぼれてグランディーナが案じ顔に手を伸ばす。
「だって私、大神官の娘なんだもの。アヴァロン島から来たのだし、大陸へ修行にも行ったのだし、誰にでもできることをしたのじゃないのよ。だからそういう人は軽々しく泣いちゃいけないんだわ、ずっとそう思っていたんだもの」
けれど話しながら涙がこぼれて、アイーシャは自分から手を求め、頬に押しつけた。グランディーナの手は冷たかった。
「手紙をもらってすぐにディアスポラを離れたの。お母さまが危ないって言われたけれど、間に合いますようにって、せめてお母さまに一目会えますようにって、ずっとずっと祈ってきたのに」
アイーシャはここで一度すすり上げた。
「でも私は間に合わなかったわ。それどころかお母さまの葬儀にやっと間に合ったぐらい。お母さまはガレス皇子から首だけ送り返されたって聞かされて。私、あの時に泣けば良かった。大きな声で泣きわめいてしまえば良かった。お母さまお母さまって小さい子のように泣いてしまえば良かった」
「でも泣けなかった?」
「みんなが私を慰めてくれて、お気の毒にって言ってくれて。でもロシュフォル教会も大変なことになっているんですって言われて。私がどうしろって言われたわけではないの。でも私一人だけ部屋に閉じこもってることもできなくて、毎日、何か手伝いをしていたわ。忙しい方が気も紛れるだろうと思って。でも1人になるとお母さまのことを思い出して、最初の晩に泣いてしまって、どうしても眠れなかったから、無理を言って大部屋に変えてもらったの。でも眠れなくて、こっそりと泣いてしまって。どんなに疲れていても眠れない。どうすればいいのかわからない。私、修行を途中で放り出してきたのよ。だからあなたたちが来なくてもまたアヴァロン島を離れようと思っていたの。だけどあなたたちが来たわ。一緒に行かせて」
「アイーシャ、私の手を見て」
グランディーナは右手のひらを上にして差し出した。籠手は外しているのでいまは素手だ。いくつもの傷痕と両手首に目立つのは盛り上がった輪のような瘢痕(けろいど)だ。日焼けもし、荒れてもいる。傷1つないアイーシャの手とはまるで違っていた。
「あなたの手がどうかしたの?」
「何人も殺した手だ」
ここで間を置いたのはアイーシャが息を呑むことを予測してだろう。
「アヴァロン島に来る前も、アヴァロン島を出てからも、武器を取り、自分が傷つけられることよりも、他人を傷つけることを選んだ手だ。あなたが来たがっているのはそういうところだ。この先、戦いはもっと激しくなる。あなたが治さなければならなくなるのは私の傷つける敵兵かもしれない。あなた自身かもしれない。それでも一緒に来たいと思う? ロシュフォル教会の大神官は武器を取らぬ代わりに心で戦い続けると聞いた。正義のために内なる戦いを続けると聞いた。だからアヴァロン島はロシュフォルやラビアンのずっと前の時代からいかなる権力にも与したことはないし、大神官以外の階級も作らなかったそうだ。あなたはここに残り、フォーリスさまの遺志を継ぐこともできる。人殺しにわざわざつき合うことはない」
アイーシャは笑おうとしたがすぐに唇の端が歪んだ。グランディーナも笑ってなどいなかった。差し出された彼女の手を取り、背を屈めると軽く唇が触れる。視線を合わせぬ姿勢のまま、どちらかというと自分に言い聞かせるような口調でアイーシャはつぶやいた。
「神様のことを信じることができないのに大神官になれるのかしら? お母さまは殺される瞬間まで神様のことを信じていたのかしら? それならばお母さまはなぜ殺されたのかしら? 大神官は誰のために戦うの? 私たちは誰のために祈るの? 誰に祈るの? 私たちはなぜ神様を信じているの? 私たちが皆、聖なる父の子ならば、なぜお父さまはお母さまを助けてくれなかったの?」
「私には神のことはわからない。私は誰にも祈ったことはない。神の存在以上のことは信じない。たとえあなたが神を信じなくても神は困りはしないし、あなたの問いにも答えはしない」
「意地悪ね、グランディーナ。私はこれでも司祭なのよ。神様を信じない司祭なんていやしないわ。でも私、わかるの。自分が神様を信じてないって。母さまが殺されたのに神様に祈ることなんて馬鹿馬鹿しいって。私、司祭失格だわ。一緒に行かせてもらっても何の役にも立たないかもしれないわね」
「神は神の理屈と摂理で動いている。人が信じようと信じまいと神は神だ。それ以上でも以下でもない。あなたたち僧侶の力は神の恩恵ではない。あなたたち自身の力だ」
アイーシャは顔を上げ、グランディーナの灰色の双眸をのぞき込んだ。
「さっき、お母さまの墓の前で会った時、あなたが泣いているような気がしたのは私の気のせい?」
「気のせいだ。あそこでは泣いていない」
アイーシャの頬を涙がつたったが、彼女は微笑んだ。
「じゃあ、ほかのところでは泣いたのね? それならば、私、あなたと一緒に行く。あなたの助けになりたいの。お母さまだって絶対に許してくれる。いいでしょう?」
そう言いながらアイーシャはグランディーナの首根っこにしがみついた。彼女が幼子のように震えて、少し間をおいてからそっと囁いた。
「あなたは私の身体が汚れていても同じように言ってくれる?」
その声まで震えているようで、アイーシャはしがみつく腕に力を入れる。
「馬鹿言わないで。グランディーナはグランディーナよ。あなたがどんな人でも一緒に行くわ」
「汚れる」という言葉の意味をその時のアイーシャはあまり深く考えなかった。傷つけ、傷つけられ、自らを「人殺し」だと言うグランディーナ自身のこととしか思えなかった。自分の世間知らずさを彼女は後々まで思い出して赤面したものだ。
「これはあなたにあげる。ずっと大切に使っていてくれたんだもの、使い道は違ったけれど、お母さまも喜んでくれると思うわ」
グランディーナは一瞬、戸惑ったような表情をしたが、すぐに頷いた。
5年前、フォーリスただ一人に向けられていた笑顔は、あるかないか、わからないようなものであった。
「ありがとう、アイーシャ」
長い髪が無造作に束ねられる。赤銅色の輝きだけがあの時と変わらない。
「見て。もうじき日の出よ」
「すっかり遅くなったな」
「一晩くらい大丈夫。体力ついたんだから、せっかくだから日の出を見ていきましょうよ。しばらくここからの光景も見られないんだもの」
「アヴァロン島に戻ってきたばかりなのに、また出ていくなんて後悔しない?」
「試すようなことを言わないで。行くと言ったら行くわ。私、案外、頑固なんだから。来るなって言ったってもう無駄よ」
「まるでフォーリスさまと話してるみたいだ」
アイーシャは笑い声をあげてグランディーナを振り返る。彼女も少しだけ微笑んでいた。それが嬉しくてその手を握り締めた。
やがて鐘楼の音が大聖堂全体に鳴り響いた。少し早いが夜明けの聖課を告げる鐘であった。