Stage Five「聖なる島」4

Stage Five「聖なる島」

ガレスの姿を見た瞬間、抑えようのない憤怒がグランディーナを突き動かした。
フォーリスにされた仕打ちへの怒り、ガレスに対する私怨、彼女はわかりきった罠に飛び込んだのだ。
イービルデッドが発動した時、骨が砕け、激痛のために倒れた。一発喰らわすのがせいぜいだ。逃げることなどできなかった。
イービルデッドは罠にかかった者を足止めにしてから嬲(なぶ)り殺す。魔法陣から噴き出す闇の力は術を受けた者の身体を内側から破壊する。その破壊力は被害者の命を奪うに足りるほどだ。
だがその痛みの何と甘美なことだろう。立ち上がれぬほどに傷つけられた身体が、いまにも消え入りそうな意識が、闇の力に委ねられることを望んでいる。もっと闇の力に晒(さら)されることを求めている。このまま身体も意識も委ねてしまえば、楽になれると誰かが囁(ささや)いている。
賢者ポルトラノの言ったとおりだ。ガレスとの接触は危険すぎた。だが身体が動いた。止めることもできず、止める気もなかった。
「欲しいのだろう?」
ガレスがそう言ったような気がする。
いいや、そんなはずはない。ガレスは彼女に気づいていない。そんなことを言うはずがない。
このまま闇に身を委ねてしまいたい。誘惑されそうになる心に鞭打つような思いで彼女は闇の中の一筋の光を見ようとした。
何のために生きてきたのか。
戦ってきたのは何のためか。
突き刺すように白い光を彼女は見た。
自分はまだ何の目的も達成していない。
こんなところでガレスに破れるためにゼテギネアに帰ってきたのではない。
激しい痛みが全身を貫く。それは闇の痛みと違って甘美ではない。ただ痛い。意識を保とうと努力していなければ目を覚ましていることもできないほどに。
だが彼女はそうした。何かにすがろうとして手を伸ばす。差しのべた手が空をつかんだ。その手を取る者があってグランディーナは意識をはっきり取り戻した。
アイーシャだった。涙が頬をつたい、頬に当てられた指から滴る。
「ごめん」
「いいの、あなたが無事だったから」
「あんな状態からご自分でお戻りになるなんて。なんてお強いんでしょう」
マチルダが感嘆のため息をもらした。
「こんなところでおしまいになっていたら何もかも無駄になる」
「でも、当分、安静ですよ。しばらくアヴァロン島は離れられないでしょうね」
「馬鹿な。ここで立ち止まっていられるか! これからディアスポラに行かなければ」
だが言葉に反してグランディーナは激痛のために言葉を途中で切らし、マチルダに念を押された。
「動けないでしょう。本当は動かしたくありませんがアムドに宿を求めなければなりませんね」
「馬鹿を言え!」
ところが彼女は強引に跳ね起きた。アイーシャの手が弾き飛ばされたが、そのことにも気づいていない。鼻から緩慢に血が垂れる。痛みにすぐ呼吸が荒くなったが、グランディーナはそれさえも押し切った。
「動けないならワイバーンでもグリフォンでも使えばいい。
カノープス、ユーリアを呼んでこい。
アヴァロン島でぐずぐずしていてみろ、帝国に反撃されて終わりだ。帝国軍に比べれば私たちの戦力など蟻のようなものだ。移動しているから奴らに捕らえられないでいるのがわからないのか。怪我なんて移動しながらでも治せる」
「ユーリアも魔獣たちも来てるぞ」
「正気ですか、グランディーナ?!
カノープス、あなたもそんなことを言わないでください」
「冗談でこんなことが言えるか」
「動かせばあなたの命が危ないんですよ!」
「私の命だ、放っておけと言っているだろう。触るな、マチルダ!」
「何を言ってるんですか?! いまだってそうして出血してるというのに」
「だから何だ。自分の身体のことは私がいちばんよく知っている。こんな傷で倒れるような柔な身体だと思うか。
ランスロット、手を貸せ!」
「グランディーナ! ランスロットさま!」
マチルダも頑固だがグランディーナはそれ以上だ。さっきまで死にそうな顔だったのに勢いよくマチルダの手をはねのけたところなど瀕死の怪我人にはとうてい見えない。だがその顔色は白さを通り越して青い。そうして意識を繋いでいなければ、すぐに気絶してしまうのかもしれない。
「あ、あの! 私が診ていますから、ずっとついているようにしますから、無理をさせませんから! もうやめてください!」
「アイーシャ、自分の言っていることがわかっているの? 絶対安静の怪我人を動かしたらどうなるか、安易にそのようなことを言うものではないわ」
「でも、私たちが反対してもグランディーナは言うことを聞かないでしょうから、だったら一緒にいた方がよほどいいです」
「わたしもアイーシャに賛成だ、マチルダ。君の言い分もわかるがこのまま話していても不毛だよ。それにグランディーナは自分の希望は翻すまい」
「そんな、ランスロットさま」
「プルートーンの騎乗鞍を外して板を乗せたらどうだろう。このなかではいちばん安定していると思う」
「ギルバルドさま、あなたまでそんなことを仰るんですか?」
「グランディーナの言い分にも一理ある。諦めなよ。その上で最善の策を出し合っているんじゃないか。俺は板よりも誰かが抱いていってやった方がいいと思うけどな」
「でも、いま動かすと本当に危険なんですよ」
「くどいぞ。
ウォーレン、彼女を連れて先に帰れ。バインゴインの方も心配だ。私の怪我のことは言っておけ。後から騒がれるのも厄介だ」
「わしもともに帰ろう」
「大聖堂を経由せずに街道に沿って南下するといい。グリフォンに2人乗りでも多少はきつくないはずだ」
「承知しました」
マチルダはまだ不満そうだったがアッシュがなだめるように連れていった。
その姿を見送った後で、ランスロットは思わずため息をもらす。
「ため息つくぐらいなら、おまえも帰りゃ良かったのに」
「わたしは彼女の騎士だ。そんなことができるか」
「別に気にしねぇと思うけどなぁ。だいたい何で残った人数の方が多いんだよ?」
「君とギルバルドが帰っても良かったんじゃないのか?」
「おまえ、俺に逆らおうっての? 生意気だぞ、ひよっこ騎士のくせに」
「そういう君は鳥野郎と呼ばれてなかったか? 仮にも一国の皇子があんな汚い言葉遣いをするとは、ゼテギネア帝国も先はないな」
「同感だな」
「だがあの鎧兜が空っぽだった理由の説明はつかない。誰が動かしていたんだ? そもそも、どうして鎧兜だけで動くんだ?」
「魔法のことを俺に訊くな。帰る前にウォーレンに訊いておけば良かったなぁ」
「イービルデッドはともかく、鎧兜だけで動ける理由は彼にもわかったとは思えないな。当人に訊いてみるのがいちばんいいのだろう」
「げぇーっ、また会うのか?」
「そう予告されたからな。ああいう輩は敵にまわすとしつこいぞ」
「何だ、おまえ、心当たりでもあるのか?」
ランスロットが応えなかったので2人の会話はそこで切れた。彼がきつい表情をしたのでカノープスが追求するのを控えたせいもある。
「兄さん、ランスロット、何を油、売っているのよ。残ったのなら手伝ってちょうだい」
「手伝いって言ったってギルバルドとアイーシャとおまえがいれば十分じゃないのか?」
「遊んでいるのならクロヌスで帰ったらどう? いまならまだウォーレンさんたちに追いつけるわよ」
「すまない、ユーリア。何を手伝えばいいんだ?」
彼女は素直なランスロットの答えに微笑んだ。
「買い物を頼まれてちょうだい。食事と水、怪我人のために毛布もね」
「毛布?」
「今日はここで野宿よ。明日、私たちも街道に沿ってバインゴインに向かうわ。ふつうならばエレボスとワイバーンだから1日の距離だけれど、アイーシャは容態を見ながら進みたいって言うの」
「野宿っていうのもアイーシャの意見だろ? よくあいつが聞き入れたな」
「1日おけば少しは良くなるだろうって、兄さんたちが遊んでいるあいだに説得したのよ」
「へいへい、俺が悪うございました。ところでギルバルドは何やってるんだ?」
「アイーシャの手伝いよ。男が2人も残ったのに、すぐにいなくなっちゃうんだから」
「おーお、こいつはさっさとアムドに行った方が良さそうだな。
行くぞ、ランスロット」
「承知した」
「兄さん!」
それ以上ユーリアのお説教を聞いているわけにもいかず、ランスロットとカノープスは小柄なクロヌスに乗り、アムドに向かった。
「まったく兄さんも残ったら残ったで役に立たないんだから」
「グランディーナ殿のことが心配なのだろう。ああ見えて人一倍、情に厚い奴だ」
「でもギルバルドさまがお手伝いなさってるのに、元気の余ってる若人が働かないなんておかしいです」
ギルバルドが呵々と笑った。
「だからその分、わたしが働いている。わたしでは役不足か?」
「とんでもない!」
言いながらユーリアが頬を染めたので、アイーシャはやっと有翼人が人間の3倍ほどの寿命を持つことを思い出した。何しろ有翼人とまともに話すのはこれが初めてだ。そうでなくても彼らはロシュフォル教会に滅多に来ないし、がたいの良さも人一倍、口を開けば言葉遣いは荒っぽいし、とかく女性が少ない。彼女にはお近づきになりたくない人種だったのだが、それだけにギルバルドとカノープス、ユーリア兄妹の仲の良さが理解不能だったのだ。
それでつい、ため息が漏れた。めまぐるしい一日だった。昨日、トマヤングに着いた時はこんなことは予想してもみなかった。母の仇、ガレス皇子を討ったという高揚感も湧いてはこない。
「疲れた?」
「少しね。何もかも初めての体験だからよ。慣れれば、そんなことなくなるわ」
「無理しなくていい」
アイーシャは笑ってグランディーナの手を取った。
「あなたこそ無理しないで休んで。マチルダさまの言ったとおり本当に絶対安静の重傷なのよ。おしゃべりだって厳禁なんだから」
グランディーナは素直に目をつぶったが、その寝息は穏やかなものではなかった。アイーシャは思わずその手を握り締めたが、その途端、猛烈な吐き気に襲われ、口元を押さえた。目の前が一瞬真っ白になり、目眩さえする。
「どうしたの、アイーシャ?」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ。顔が真っ青よ。あなたも少し横になっていたらどう?」
「いいえ、本当に大丈夫ですから」
原因はほかでもないグランディーナだ。彼女が何度も首を振った。
その苦しそうな様子にギルバルドも案じ顔に近づいてきた。
グランディーナが自分の意志を貫くだろうことはわかっていた。だがイービルデッドを喰らっていた時間はバインゴインでの比ではない。あの攻撃で若いヴィリーは殺され、リスゴーとシモンズは重傷を負わされた。彼女も無事だとどうして言えるだろう。
その時、アイーシャがさっきとは違った呪文の詠唱を始めた。だが頭はふらついて言葉も途切れがちだ。
「無理よ、アイーシャ。あなたも休まなくては駄目。その体調で呪文なんて唱えたら、あなたまで倒れてしまうわ」
「触らないでください!」
「ええ?」
「私たちに、触らないで。大丈夫、です、私は、倒れ、ませんから」
「アイーシャ!」
「手を出しては駄目だ、ユーリア。彼女の言葉を信じなさい」
「でもギルバルドさま」
「続けなさい、アイーシャ。あなたに任せる」
力づけるような笑みにアイーシャは頷く。おかげで少しだけ勇気が湧いてきた。彼女は離れそうになっていたグランディーナの手を握りなおし、改めて浄化の呪文を唱え始めた。
「小娘風情が俺の邪魔をしようというのか」
「もはやあなたにその力はありません。去ってください、ガレス皇子。あなたに彼女は渡しません。私の命に代えても守ってみせます」
「貴様のような未熟者にこの俺が止められるものか。命に代えてもだと?! おもしろい、そいつの代わりに貴様の命をちょうだいするぞ!!」
アイーシャが対峙したガレス皇子は真っ黒な影だった。鎧を身にまとっていないというのに人の姿でなく、ただの影にしか見えない。その影が数倍に膨れ上がり、彼女もろとも呑み込もうとした。悲鳴は喉の奥で凍りつく。本当に恐ろしい時、人は声さえ失うのだと彼女は知った。けれどアイーシャは両手を広げてグランディーナを庇った。
その時、2人のあいだに真っ白な光が広がり、ガレス皇子の巨大な影はあっという間に元の大きさの数分の一に縮んでしまった。
「うおおおおっ?! 何だ、これは? この俺が消えるだと? 誰だ、貴様は?!」
「お母さま?!」
アイーシャの記憶と寸分違わぬフォーリスが、振り返って微笑んだ。涙があふれ、その身にすがろうとしたが、ガレス皇子の影と同様にその姿もまた、光でしかない。
「私を直接その手にかけしゆえとお知りなさい。ガレス皇子、あなたに娘たちを手にかけさせはしません。お戻りなさい、人の身から切り離された哀れなお方よ。ここにいるあなたは所詮残骸でしかない。所在の処(あるべきところ)へお戻りなさい!」
「俺を哀れむな! どうせ貴様は死者にすぎん! この俺の邪魔をするな。どけ、フォーリス!!」
「いいえ、私はあなたを哀れみます。もはやあなたは哀れむしかできないお方です。去りなさい!」
「おおおおお!」
ガレス皇子の影が消え、声も聞こえなくなった。だが同時に、あんなにはっきり見えていた母の姿もすぐに霞んできた。
「お母さま! 母さま、待って! 私、まだ言いたいことが−−−」
「さようなら、アイーシャ。サーラと仲良くね」
「母さま!!」
「アイーシャ!」
視界に入ってきたのはギルバルドとユーリア、その後ろのランスロットとカノープスの顔だった。
涙顔のユーリアがアイーシャを抱きしめる。温かい。だが母の光に温もりはなかった。母の死が再び実感されて涙があふれた。けれど彼女の手には、もう1人の温もりが感じられていた。
「グランディーナは?」
「生きているよ」
自嘲気味の口調だが、その声ははっきりしていた。
「グランディーナ、お母さまが!」
「知ってる。また、助けてもらった」
そう言った彼女の声は嬉しそうでもあり、寂しそうでもあった。
「母さまの声が聞こえたの?」
彼女は頷いた。だから嬉しい。だけど寂しい。もう会えない。もう一度会えた。間に合わなかった。また助けられた。グランディーナは空いている方の手で目の辺りを覆った。
けれど、その手の下から涙はこぼれなかった。
「泣いてもいいのよ。泣けるのはあなたの心が健康な証拠よ。泣くことを、泣いたことを、恥じてはいけないのよ」
「フォーリスさまのようなことを言わないでくれ」
しかし、その場の全員が思っていたとおり、彼女はやはり泣かなかった。
翌日、一行はアムドの郊外を発った。結局、カノープスの案が受け入れられた形となり、グランディーナと彼がエレボスに乗り、ランスロットとギルバルドがプルートーン、ユーリアとアイーシャがクロヌスに乗ることになった。
「苦しくなったら我慢しないで、すぐにカノープスさんに言ってね」
「わかってる」
「甘いな、おまえは。こいつがそんなにおとなしく苦しいなんて言うもんか。いいか、俺の一存で止めるからな。素振りを見せたらすぐにだぞ。それと、俺を呼ぶのにいちいち『さん』なんてつけるな、堅苦しい。呼び捨てでいいんだよ、呼び捨てで」
「わかりました」
アイーシャの返事にカノープスが歯を見せて笑う。
「良くできました。さあ、ぼちぼち行こうぜ」
エレボスの首にもたれていたグランディーナは、頭以外は全身がほぼ包帯ずくめの上に血の気の引いた顔色が、いつもの彼女とあまりにかけ離れていて別人のようでさえあった。だが無言でカノープスを睨みつけた視線には殺気さえこもっていたようで、彼は気づかなかったふりをする。
それからしばらくのあいだ、カノープスは無言でエレボスを飛ばした。
トマヤングを過ぎると街道はじきに山裾を縫うように続く。アヴァロン島は平地がとても少ない。バインゴインとガントーク、アムドとトマヤングの周囲だけの猫の額のような土地が、人が利用するに足る平地である。タルジンは山間を開拓してできた町だし、マンゴも元を質せば山の斜面に開かれた村が発展した町だ。
だが、さすがのカノープスにもタルジンの町は見えてこなかった。すると、眠っているとばかり思っていたグランディーナが突然、顔半分振り返った。
「馬鹿正直に街道をたどるな。この高度ならもっと山に近づける。タルジンもマンゴも用はない。バインゴインに行くんだ」
「起きてたのか」
「当たり前だ。今日中にバインゴインに着きたいのに呑気に寝ていられるか」
「それならそうと最初に言えよ。こちとらアヴァロン島なんか来るのは初めてなんだ。おまえのようなわけにいくか」
「ならばいまからでも間に合う。進路を修正しろ」
「やってるところだ。がたがた言うな」
それでグランディーナが沈黙したのでカノープスも言われたとおりにする。飛行して編隊を組んでいる時はいちいち進路変更の連絡などしないものだ。先頭の魔獣の進む方向にほかの魔獣が従う。そういう点でエレボスは先陣を切るのに適任である。
「起きてるなら聞かせろ。どうしてあんな無茶をしたんだ?」
「無茶? あなたにはそう見えたのか?」
「おまえよりアッシュが先んじてたはずだ。それにおまえなら1人でガレス皇子を仕留められただろう。自分がイービルデッドを喰らって、ガレス皇子を俺たちに任せる理由はなかったはずだぞ。まったく、あれが無茶以外の何だって言うんだ」
「さあ、どうしてかな」
彼女は相変わらず自嘲するような笑みを浮かべた。しかし予想していなかった反応にカノープスの方が目をそらした。
「おまえ、まさかイービルデッドを一度喰らったことがあるんじゃないだろうな?」
「あるものか。もしもあったら奴だって手加減などしなかったはずだ。そうなればさすがの私もやばい」
その言外の意味をカノープスは反芻する。
それで話が切れたと思ったのか、グランディーナはまた目をつぶった。
邪気のない寝顔だ、と言いたいところだが、先ほど自分が察した殺気は冗談ではないだろう。もしも強行的にエレボスを着地させるとしたら、こちらも命がけの覚悟をしなければなるまい。そんなことを考えて、カノープスは首を振った。
いまのグランディーナは丸腰だが彼女のことだ、たとえ素手でも的確に急所を突いてくるに違いなかった。
だが、穏やかな寝息が聞こえてきて、さすがの彼も思わず胸をなで下ろす。彼女が言うように今日中にバインゴインに着くのが、結局のところ誰のためにもいちばんいいのだ。
けれど彼女が髪をまとめている白い手巾がどす黒い血に染まったままであることに気づいて、カノープスは胸をつかれた。髪にこびりついた血糊もほとんどそのままのようだ。傷のことはわからないが、あれは尋常な出血ではなかった。
しかし親指を立てた手を差し出して、彼は後方に見えるように動かした。これでほかの4人も少しは安心できるだろう。手巾は下りた時に洗ってやればいい、彼はそう考えたのだった。
「アイーシャ、グランディーナのことを心配するのもいいけれど、あなたも気をつけなさい。鞍ずれは慣れれば無くなるわ。でもあなたは魔獣に乗り出してまだ2日目なんですからね」
「大丈夫です、ユーリアさん。グランディーナが頑張っているのに、私が弱音なんて吐けません」
ユーリアが案じたような顔で振り返って微笑む。その姿にアイーシャは大聖堂の着色硝子にあった天使長の絵を思い出した。天なる父、フィラーハ神の使い、純白の翼は6枚を数える汚れなき至高の天使長、その名をミザールと伝えられる。
「それは逆よ、アイーシャ」
ユーリアの澄んだ声音にアイーシャは現実に引き戻された。ミザールの名を聞いたのは母が生きていたころの話だ。それもオウガバトルの伝説同様、伝説の話である。
「あなたが弱音を吐いてくれた方が彼女のためにもいいの。休みは必要なのに、彼女はなかなか言い出さないわ。表にも出さない人だから、きっと兄さんも気づかない。だけどあなたが休みたいと言えば話は別、彼女は望まずして自分も休めるのよ」
「でも、カノープス、さんが自分の一存で止めてしまうぞって言ってましたよ」
「ならば彼女は気づかれまいとするでしょうね。たとえ気づかれたとしても、本気で兄さんを止めようとするかもしれないわよ」
「だけど今日中にバインゴインに着けなかったら明日の船に間に合いません。ディアスポラ行きの船はまた7日待たなければならないんです。きっとグランディーナは知ってます。だから、どうしても今日中にバインゴインに着きたいんです」
「それは本当なの?」
「はい。私がディアスポラからバインゴインに着いたのが白竜の月15日ですから」
「どうしてそんな大事なことを言わないのよ!」
「ご、ごめんなさい!」
ユーリアが手綱を駆り、クロヌスはエレボスに接近した。
「ユーリア?! 何、無茶やってんだ、危ないぞ!」
「アイーシャ、船は明日のいつごろバインゴインを発つの?!」
「お昼ぐらいです!」
「何の話だ?」
「兄さん、明日の昼ごろ、バインゴインからディアスポラ行きの船が出るわ。それを逃したら次の船は7日後、私たちはアヴァロン島に足止めされるのよ!」
「馬鹿野郎! 何でそういうことを先に言わねぇんだ! 知ってればウォーレンたちに足止めさせるとか手の打ちようもあるだろうに」
「もうしてるはずだ」
「何だと?」
「そのために先にウォーレンを帰した。気づかないようなら無能者だ、首にしてやる」
「ほんとかよー」
グランディーナの言葉にカノープスとユーリアは大きなため息を吐き出し、カノープスなどは騎乗鞍にもたれかかった。もちろんアイーシャも安堵のため息をそっとつく。
蚊帳の外に置かれたランスロットとギルバルドが突然の騒動にどうしたのか訊いている。
「ユーリア、おまえが説明してくれ。エレボスをあちこち動かすと都合が悪いからな。
だけどおまえもおまえだ、俺たちに話さないなんて意地が悪いぞ」
「だから急がせた。船がなければアヴァロン島から出られない。急いでも意味はあるまい。そのあいだに帝国はディアスポラから来られる。このアヴァロン島で守りきれると思うか」
カノープスはじと目で睨んだが、グランディーナは相変わらず意に介さない。だが彼女にしては珍しく、こんな言葉を付け加えた。せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのだろうか。
「もう少し私を信用しろ。意味もなくあなたたちを急かしたりはしていないつもりだ。話す必要などないから話さなくていいと思った。それでは駄目なのか?」
「いや、悪くねぇ」
カノープスの顔に笑みが戻る。その紅の翼が大きく広げられ、両手が振り上げられるのは少し離れたランスロットたちにもはっきりと見えた。
「何をやっているんだ、カノープスは? あんなことをしたらエレボスが平衡を崩す」
「大丈夫だろう」
「何を根拠にそんなことを?」
「エレボスはカノープスの気性を知っている。ユーリアとともに卵から育てたのだ。あれぐらいのことで平衡を崩すはずがない」
「ではなぜ彼はあんなことをするのだ?」
「よほどいいことがあったのだろう。あんな彼を見るのは25年ぶりだ」
「ギルバルドさま! 見てください、兄さんが」
彼は微笑みながら頷いた。
ユーリアが涙をこぼすのをランスロットはまぶしく感じる。この3人の絆は彼にはとうてい理解しがたいところだ。幸か不幸か、ランスロットは傭兵生活の長かったこともあって心許す友がいない。ウォーレンは歳が離れているし、友と言うより同志だ。アッシュは尊敬する元騎士団長であり現在の彼の目標でもあるが友にはなり得ない。アレックやロギンス、年若い友とそのようなつき合いをしたことはない。心を開いただろうか。閉ざしただろうか。だが彼らにとってランスロットがそのような存在でないのは間違いない。リスゴー、ガーディナー、バーンズ、歳は近いが友と呼べるほどではない。唯一、心許せる人であった妻は2年も前に死んだ。不思議なものだ。いままで友のことなど意識したこともなかったというのに。
「わたしはあなたたちがうらやましい」
「うらやむ必要などない。あなたもともに喜んでくれればいい。カノープスもユーリアもわたしもあなたを待っている。共有してきた時間に違いはあっても、解放軍でともに過ごす時間はその隙間を埋めてくれるだろう。この戦いのなかで、我々はそれほど濃い時間をともに過ごせるだろう」
「ありがとう、ギルバルド」
ランスロットは礼を言うのがやっとだった。
夕刻、一行はバインゴインに到着し、ウォーレンやアッシュら、リーダーたちの出迎えを受けた。
ところが、ウォーレンが何か言うより早く、デネブが飛び出してきて、グランディーナの首根っこにしがみついた。
「どうしたのよ、グランディーナ?! ガレス皇子相手にこんな傷を受けちゃったの? そうとわかれば、あたしがついていってあげれば良かったわ。でもねぇ、ところでこんな話があるんだけど、どう? いまなら出血大サービスよ」
皆をそっちのけでいきなり自分だけの世界に突入したデネブをカノープスが腹立たしそうな顔で引き離そうとした。彼女のささやきに耳を傾けるグランディーナもグランディーナだ。皆の苦労をいたわるでなし、デネブといちゃつくのなら2人きりの時にしてほしいものだ。
だが思いがけず、それを止めたのはグランディーナだった。彼女は怒ったような視線さえ向けて彼の手を押しとどめると、勝ち誇った笑顔を見せるデネブの頭を自分の方に向かせて、人目もはばからず濃厚な口づけを交わした。当然デネブがこれを拒絶するはずもなく、互いの唇を吸い合う音さえ聞こえて、その場にいた全員がしばし凍りついた。
どれくらいの時間が経ったろう。
不意にデネブの腰が砕け、2人は自然と離れた。グランディーナが手を伸ばさなければ、彼女はそのまま地面に倒れていただろう。
グランディーナはエレボスを飛び降りた。力を失ったデネブを抱き上げたところは、とうてい瀕死の怪我人の姿ではない。
「無茶をするな、デネブ」
「あなただからあげたのよ。元気になって良かったじゃない」
「デネブ!」
その声にただならぬ事情を察してウォーレンとマチルダ、それにアイーシャが近づく。
魔女のとんがり帽子が転がり落ちた。
「いったいどういうわけです? 彼女は何をしたのです?」
「話は後だ。マチルダ、アイーシャ、デネブを診てやってくれ!」
魔女の白い顔は白蝋(はくろう)のように血の気がない。呼吸の間隔も長い。手も身体も冷たく、委ねられたマチルダは、これで彼女が生きているのかとぞっとするような気持ちだった。
だが、てっきり気絶しているかと思ったら、デネブは目を開け、しっかりした口調で言った。
「呪文は効かないから要らないわ。休ませて、ゆっくり寝かせてちょうだい」
マチルダがグランディーナの顔を伺うと彼女は同意するように頷いて付け加えた。
「身体が冷え切ってる。暖めることを忘れるな。本当は人肌がいいんだ。添い寝してやってくれ」
「えっ?!」
マチルダは引いたがアイーシャが頷いた。
「私がします。グランディーナを助けてくれたんでしょう? どんな恩も返しつくせるはずがないもの」
「ありがとう、アイーシャ。頼む」
「行きましょう、マチルダさん」
「わたしが手伝おう。その方が速い」
「ありがとうございます」
ギルバルドがデネブを抱き上げ、マチルダとアイーシャに誘導されていった。
それを見送ってからウォーレンが咳払いをする。
「ランスロット、マントを買っておきました」
「ああ、ありがとう、ウォーレン」
だが、グランディーナを振り返ったランスロットは、またしてもマントを自分のために使えなかった。彼女の包帯がほころびはじめて、半裸になりかけていたからだ。彼がマントを差し出すと彼女は意外と素直に受け取った。
「何があったのか説明してくれ、グランディーナ。まさか君もそれは拒むまい?」
「私の知っていることで良ければ話そう」
あるかないかもわからないような微笑を浮かべてマントを自分の身体に巻きつけなおすと、グランディーナはまず座った。
「どういうことだ? 俺にはちっともわからん」
「怪我は治ったんですか?」
「ほとんど治った。支障はない」
「まさか、デネブが? さっきはいったい何があったんですか?」
「デネブが私に言ったんだ。傷を治したかったら自分の生気を使えと。ただし生気は口移しじゃないと伝わらない。口づけ限定だそうだ」
「口づけはともかく、生気で傷が治るのか?」
「そういうことになるな」
「そのような魔法は聞いたこともありません。相手の生気を吸うならともかく、自分の生気を分け与えることができるなど」
ウォーレンがいささか興奮気味に断言した。もっともこういう事実を見せつけられた場合、特に魔法に詳しくない者は敢えて否定する気にもならない。
しかも得体の知れない存在とは言え、デネブは高嶺の花だ。傷や生気は右に置いておいても口づけできる者ならしてみたいと願う男性陣も少なくない。しかし、誰も実際に交際を申し込む度胸がないのもデネブならではだ。
「私が知ってるのはそれだけだ。ところでウォーレン、乗船の準備はできているのだろうな?」
「何人かはまだアヴァロン島に残らねばなりませんが明日の船には間に合います」
「ありがとう。明日はディアスポラ行きの船に乗る。解散して休め。ウォーレン、残る者の名を教えてくれ。それとリスゴーとシモンズには会えるか?」
「お待ちしておりました。ですが、その前に着替えてください。その格好ではロシュフォル教会には入れません」
「そうだな」
解放軍がバインゴインの港からディアスポラの港、ルテキア行きの船に乗ったのは翌日、白竜の月22日のことである。
アヴァロン島に残ったのは除隊の決まったリスゴーとシモンズのほか、騎士ユーゴス=タンセと騎士スティングだった。それに8人もの戦士が除隊になったので3日間の船旅でグランディーナは部隊の再編制にしばし頭を悩ませる羽目になった。
4頭のグリフォンはギルバルドに預けられ、魔獣部隊所属となり、マチルダを助けた司祭のモームはそのままマチルダの下についたが、部隊の方はそう簡単に済まなかったのである。
一方、倒れたデネブは、アイーシャの手厚い看護もあってディアスポラに着くころに起き上がれるようになった。何を話したのか、デネブはアイーシャがすっかり気に入ったようで、彼女も魔女とうち解けていた。
白竜の月25日、船は予定どおりルテキアの港に入り、皆は順調な航海だったことを喜んだ。
ディアスポラは、ホーライ王国時代にはゼノビアとマラノを結ぶ交易路として、またアヴァロン島を挟んでカストラート海、カストロ峡谷を挟んでその先のパラティヌス王国にも繋がる中間地点として栄えた地方である。
だがそこには大監獄があり、ゼテギネア帝国の代になってからは政治犯ばかり収容されている。
その監獄長を務めるのはノルン=デアマート、一時は帝国教会の法皇にまで上り詰めた女性にはここに左遷されたという噂さえあったが、解放軍の名を聞いて即座に討伐を命じた。その真意はどこにあるのか。帝国との戦いはいよいよ本格化しようとしていた。
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