Stage Eight「遥かなる日々」1

Stage Eight「遥かなる日々」

「あなたは臆病者だ、アルビレオ殿」
「この期に及んで何を言い出すかと思えば。命乞いをしたいのならばもっと気の利いたことを言ったらどうだ、サラディン?」
「あなたに命乞いなどしても無駄だろう。それにわたしはそんなことのために残ったのではない。あなたがラシュディ殿に命じられた本当の目的、それを足止めするためだ」
「まったく、本当におまえは腹立たしい人間だな。自分1人に正義があるような顔をして正論を吐く。自分だけがすべてを知っているような言い方をする。知っていたか、俺がおまえという人間を嫌っていることを?」
「わたしだけではないだろう。あなたは自分以外の全ての人間を嫌っている。エンドラ殿やガレス皇子、ラシュディ殿さえもだ。それにあなたに嫌われたところでわたしは痛くもかゆくもない。ただあなたがわたしへの腹いせにバルモアの町を焼き払うのではないかとそれだけを案じている」
「心配しなくてもおまえを石にしたらそうするつもりだったよ。14年間も神聖なるゼテギネア帝国に逆らい続けたのだ。それくらいの報復は覚悟の上だろう? だが俺が臆病者ならばおまえは何だ? 道理もわからず正義漢ぶっているだけの愚か者ではないか」
「暗黒道に傾倒した師を諫めることもせずに盲目的に追従することがあなたの言う道理とやらかーーーうっ?!」
手足の冷たい感触が失せ、サラディン=カームはすでに身体中のほとんどがまったく動かせなくなっているというのによろめいた、ような気がした。実際にはそうと錯覚しただけで、彼の身体は微動だにしていない。じきに口もきけなくなるだろう。兄弟子にかけられた石化の魔法は彼の1つひとつの細胞を石に変えてしまうのだ。彼の意識ばかりか生命活動が止まろうとしていた。
「どうだ、生きたまま石にされる感触というのは? 俺も他人にかけたことはあるが自分がかけられたことはないのでね。もしもおまえの石化が解除されることがあったら感想を聞かせてくれないか? それと誤解があるようだからはっきりさせておこう。暗黒道はおまえの考えているような単純なものではないし、俺はラシュディさまに盲目的に追従しているのでもない。俺には俺の考えがあって、ラシュディさまに従っているだけだ。ふふっ、そんなことを言っても、もうおまえには聞こえなかったかな?」
応えようにも、もはや自由になるのは意識だけのようだ。その意識さえかすむ。彼の時間が止まる。
その後、ゼテギネア帝国は旧ドヌーブ王国の反帝国運動の指導者であったサラディンの死を喧伝し、大陸に最後まで残っていた抵抗はここに潰(つい)えた。
恐怖政治はさらに加速し、組織立てての抵抗が生まれるには、それから10年の歳月を要する。
旧ゼノビア王国騎士団を主体とする解放軍である。
東の辺境、ヴォルザーク島から始まったその動きは、3ヶ月足らずのうちにゼテギネア最大の交易都市マラノを落とし、勢いはいまだ止まらない。
旧ドヌーブ王国の首都バルモアは西からライの海が深く入り込んだ半島に位置する。カストラート海よりも波の荒いライの海に浸食されたことで海岸線は複雑に入り組み、バルモア一帯を半島のように切り離してしまったのだ。海抜0バームの土地は塩気が混じって、農業には向かない。加えて10年前の帝国の侵攻によりバルモア半島全土はバルモア遺跡と揶揄されるほど破壊されていた。
しかし旧ドヌーブ領の復興は旧ホーライ領よりも進んでいる。最後まで反帝国の先頭に立ったサラディンの意志と教えが人びとの心を挫(くじ)けさせず、いまもなお励まし続けているからだと言われる。大陸一の賢者と言われたラシュディの弟子のなかで最も優れた妖術師だとされるサラディンは、同時に20年以上前に師より離反した硬骨漢でもあった。
風竜の月5日、グランディーナたちはバルモア半島の入り口アレルタの町に入った。カストロ峡谷からの街道はここから左右に海を見ながら北のワスカランに続き、さらに半島の各地に散っていく。
旧ドヌーブ王国の反帝運動が止んだ現在、帝国にとってバルモアの戦略的重要性はなくなっているはずだというグランディーナの推測どおり、アレルタに駐留している帝国軍も、質量ともにマラノやディアスポラに劣るものだった。
アレルタの町の中央広場には台座だけ残されている。その無惨な破壊の跡から、これがディアスポラで助けた彫刻家、バルカスが作ったサラディンの像なのだろうと推理するのは容易なことだ。
「そう言えば、バルカス殿はバルモアの出身だったはずだが、どこに帰られたか聞いていないか?」
「確かカニャーテって町じゃなかったか。弟子がいるんで身を寄せるつもりだと聞いたな。かなり弱ってたし、あの歳だ、まだそこから動いてないだろう」
「カニャーテの町に行ってバルカス殿にお会いしたら遠回りになるのかな?」
「さあ、どうかな。俺はバルモアは初めてだからカニャーテがどこにあるのかわからん。
おまえ、知ってるか?」
しかしカノープスに話を振られたのに気づかなかったようでグランディーナは周囲に目を配ったままだ。
彼女とランスロットはマラノにいた帝国兵から取り上げた鎧兜を身につけている。カノープスは鎧を着ない主義なので兜だけだ。加えてグランディーナはマラノを離れる前に髪を茶色く染め直してもいた。
「おい、聞いてるのか?」
カノープスが脇をこづくと彼女は振り返った。
「何の話だ?」
「カニャーテって町まで、どれくらいあるんだ?」
「カニャーテはバルモアの南にある町だ。ここからだとグリフォンを使っても1日以上かかると思う。
そこに行くのか?」
グランディーナの最後の台詞はデネブに振られたものだが魔女は一同を振り返って答えた。
「そのことなんだけど、こんなところで立ち話も何だから宿に戻らない?」
「そうだな」
あいにくとアレルタの宿は大きくなく、二人部屋しかない。ランスロットとカノープスで1部屋を借り、グランディーナが床に寝ると言ってもう1部屋を女性陣が借りた。それなので二人部屋に5人も入ると狭苦しいのは否めないところだ。
「グランディーナ、あなた、バルモアの地理はわかるのかしら?」
「地図を描いておいた」
「あら、気が利いてるじゃない。見せて」
カノープスもつい案じ顔になってデネブの脇からのぞき込む。グランディーナなりに気を遣ったのだろうが相変わらず彼には難解な字だ。しかしランスロットはもとよりデネブもアイーシャも意に介していないことが彼には悔しいところだ。
「いま、いるのがアレルタでしょ。バルモアは半島の先っぽでカニャーテはその手前にあるからだいぶ遠回りになっちゃうわね。それにカニャーテなんかに用はないわ。あたしたちの目的地はこっちの山の中よ」
「カリャオか?」
「とりあえずそこね。行ってからが問題なんだけど、それはカリャオに着いてから話すわ。サラディンとはどこで別れたの?」
グランディーナの指がバルモアの南にある小島を指した。
「そこに捨てられた教会がある。10年前は南側の対岸まで泳いで渡れた」
「そんなに近いのか?」
「渡るのに1晩かからなかったからそう遠くないだろうが、ダスカニアとゼルテニアのあいだより遠いかもしれない」
「どこだ、それ?」
「どちらもヴォルザーク島にある町の名前だ。わたしがここ数年住んでいたのがゼルテニアで、その対岸にあるのがダスカニアだ。小舟で1時間以上かな」
「10年前にそんな距離を泳いだっていうのか?」
「港と船は帝国兵に抑えられていた。見つからずに逃げ出すには泳ぐしかない。それに泳ぎは得意だ」
カノープスはうなり声を上げたが言葉が出なかったのでデネブが後を引き取った。ランスロットが「君は飛べるだろうけれど」と取りなしている。風呂にも入らない有翼人は総じてかなづちである。
「じゃあ、まずはそこから調べてみるべきね。でもサラディンがいない可能性は高いと思っておいた方がいいだろうけど」
グランディーナは無言で頷いた。
「なぁ、肝心なところを聞いてねぇと思うんだけど、そもそもおまえとサラディンてどういう関係にあるんだ? 単におまえが10年前にバルモアにいたってだけのことじゃないんだろう?」
彼女はとっくに床に腰を下ろしていたが、顔を上げ、また伏せた。そのまま黙りこくるかと思ったがそうはせず、言葉を選ぶように話し始める。
「サラディンは、私の命の恩人で、7歳ぐらいから、育ててくれた人でもある」
グランディーナはそこでいったん言葉を切ったが、皆が黙っているので同じ調子で話を続けた。
「けれど7歳以前の記憶は、私には曖昧だ。だから、話せないし、親のこともわからない」
「俺だって自慢じゃねぇが、そんなガキのころのことなんて覚えてねぇぜ」
「そういう話じゃない。私は、その時に最初からやり直さなければならなかった。歩くことも話すこともできなくて、真っ先に知恵がついて、じきにいまの自分の状態がおかしいことを理解したが、結局、身体が追いつくのに1年かかった」
「それは要するに、赤ん坊のころからやり直したってことか?」
「そうだ」
ランスロットとカノープスは思わず顔を見合わせた。2人はアイーシャを見たが、彼女も知らなかったようで首を振る。
「何だってそんなことを?」
「それまでの記憶が封印されてしまったから、だと思うが、私も詳しいことは知らない」
「それならば、なぜサラディン殿は君を連れてバルモアから逃げなかったんだ?」
彼女は首を振り、言い訳めいた口調で言葉を継いだ。
「理由は、私にもわからない。ただ、彼は、私に1人で逃げろと言った。滅多なことでは前言を撤回しない人だ。それに、そんな日がいつか来ることは、前から言われていた」
「ラシュディに逆らって、反帝国活動までやってたんじゃ無理もねぇな。だけど、どうしておまえなんだ? ドヌーブに縁でもあったのか?」
「私は、ドヌーブ王家の人間ではないはずだ。だがサラディンにも、特に理由は訊いていない。それに自分の素性を知ることよりも、私には知らなければならないことがたくさんあった」
「たとえば?」
「星で方角を知る方法、野宿の仕方、文字の読み方、地図の読み方、動物や植物、魔獣について、いま、私が持っているほとんどの知識の基礎的なことをすべてだ。彼から教わらなかったのは武器の使い方ぐらいだろう」
「ずいぶん物知りなんだな、サラディンて」
「そりゃあ、一時は兄弟子を差し置いてラシュディの後継者なんてまで言われた人だもの」
「なるほど。で、明日はどこ行くんだ? バルカスには結局、会わねぇってことでいいのか?」
「彼に会うのはサラディンを助けてからでもいいんじゃないの? このあいだの話だと大したことは知ってなさそうだし、単にもう一度会いたいってだけなんでしょ?」
「まぁ、そういうところだろうな」
「じゃあ、続きはまた明日、カリャオに行ってからにしましょ。さぁ、ここは女の子の部屋よ、男性陣は出ていってちょうだい」
「おい、待てよ」
カノープスの抗議も空しく、ランスロットと部屋から追い出された。細腕なのになぜかデネブの力には時々、逆らえない時があるのだ。
「続きは明日と言ったんだ。へたに波風立てない方がいいんじゃないか?」
カノープスは舌打ちしたが、その場で騒ぎ立てるようなへまはしなかった。
2人は部屋に戻って話し続けたが、隣室から声は漏れてこない。
「だからって、ああ、もったいつけられるのは俺は嫌いなんだよ。こっちが何も知らねぇと思って、奥歯に物が挟まったような言い方しやがる」
ランスロットは苦笑いを浮かべた。知らないのは事実だし、魔法の話題をこと敬遠するのはカノープスの方だ。デネブの言い方に難癖をつけるのは筋違いというものだろう。
「彼女がウォーレンより魔法について詳しいのは本当らしい。グランディーナもこの件に関してはデネブに任せているようだし、我々も黙って従うしかないんじゃないか?」
「それなんだよなぁ、気になるの。グランディーナがいつもよりおとなしいとこっちまで調子が狂っちまう。そう思わねぇ?」
「おとなしいと言うのかな? わたしにはそうは見えなかったが」
「じゃあ、何だ?」
「自分を抑えつけているように見えた。本当は誰よりも飛び出していきたいのだろうに、それを我慢しているようにわたしには思えた。1人でいたら、あのままバルモアまで行ってしまいそうにね」
「うーん、まぁ、それも否定しねぇけど。アルビレオもけっこうな曲者みたいだしな。だけどあいつもいろいろ話してないことがあるぞ。小娘1人にラシュディの弟子が2人も関わってるのはどう考えてもおかしいと思わねぇか? それに7歳以前の記憶の封印なんて、あいつ、ガキのころに何をやらかしたんだ?」
「彼女自身も知らないのなら話しようがないだろう。赤ん坊からやり直したなんてよほどのことなんだろうが、サラディン殿を助ければ、もっとわかってくるんじゃないか?」
「いいや、デネブもウォーレンもそうだが、魔法使いっていうのは自分の持ってる情報を一度に出すなんてことは絶対にしねぇ。サラディンだって、そういう奴かもしれねぇぜ?」
「会ったこともない人については話せないね。さぁ、明日に備えて寝るとしよう」
「本当に床で寝るの? 少しくらい狭くても平気だから、一緒に寝ない?」
アイーシャがそう言うのも無理はない。床に座り込んだままで寝ようというグランディーナは鎧兜を脱いだきり、あとは着の身着のままでいいと言う。毛布は手持ちのをかけるだけだ。
「この方が慣れてる。私のことは気にしなくていい。アイーシャこそ3日も野宿で疲れただろう」
「私は大丈夫よ。いつも毛布を多めに使わせてもらったし、みんなに気を遣ってもらっていたからそんなに疲れてないわ。ねぇ、だから、もう少し話していてもいい? サラディンさまってどんな方だったの? あなたが前に言っていた、いちばん大事な人ってサラディンさまのことなんでしょう?」
「よくそんな前の話を覚えているな」
「あなたと再会した時に思い出したの。ねぇ、どんな方なの?」
グランディーナはわずかにうつむき、微笑んだ。
「カノープスもランスロットもこういうところに気がつかないのよねぇ」
デネブがしみじみとつぶやく。
「どういうことですか?」
「どんなに強くたって、うちのリーダーも女の子だってことよ。サラディンとどんな関係かなんて当人に訊けばわかることじゃない? そんなことよりどんな人だって訊かれる方がずっと嬉しいんだってことがあの2人にはわからないのよ。だからカノープスっていまだに彼女の1人もいないんだわ。鈍いようだけどギルバルドはそういうところはそつがないわよ。彼女がいる人って違うわよ、やっぱり」
デネブの言い分にアイーシャは目を丸くしたが、グランディーナは笑い出した。
「笑い事じゃないわよ。あなたたち、そういう気の利いた男を見つけなくっちゃ」
「2人にそんなことを言ったら、どんな顔をされるかな? それにランスロットはやもめだ。あなたが言うほどわかってなくはないだろう」
「あら、それは初耳。あの人、奥さんいたの?」
「ヴォルザーク島を発つ時にそう言っていた。親族は帝国に処刑されたから、ほかに別れを惜しむような身内はいないそうだ」
「あらまぁ。人は見かけによらないものね。でも、人の好みはそれぞれだもの、ああいう男がいいって女はいるわよね。だけど、ランスロットのことは見直しちゃったわ」
「そこらへんにしておいたらどうだ。2人とも隣の部屋で耳を澄ましているかもしれない」
「そうね。人の悪口を言うとどんどん心がぶすになっちゃうのよ」
「それよりもサラディンの話だったろう?」
話題が変わったのでアイーシャが安堵したように頷いた。
デネブがその髪をさも嬉しそうに撫でる。彼女の亜麻色の髪は細くて柔らかい。仕事の邪魔にならないようにいつも2本の三つ編みにしているが、ほとんど癖が残らないほどだ。
「サラディンは、厳しくて優しい人だ。教え上手で、1つを教えておしまいということは決してなかった。1つ教えたら2つ、2つ教えたら4つ、そうしなければ私はいつまでも赤子みたいな知識しか持てなかったろう。そうなれば、1人でバルモアから脱出することもかなわなかったかもしれない」
「その日が来るのを知ってたからよ。知っていたから無駄な行動はできなかったのね」
「きっとそうだと思う。でも無駄なことを嫌ってたわけじゃない。私が話を寄り道させても怒られなかったもの。それに何でも知ってるんだ。私が訊いたことに答えられなかったことがない」
「グランディーナは、サラディンさまのこと、尊敬しているのね」
しかし彼女は首を振った。
「彼のことはそんな単純な言葉では割り切れない。私がいま、ここにあるすべてだから。何者にも代えられない、彼を助けるためにここまで来た。この10年間、彼のことを考えない日なんて1日もなかった」
「アヴァロン島に来たのはバルモアを脱出した後でだったの?」
「そうだ。あのころ、帝国の支配下に入っていなかったのはアヴァロン島だけだった。それにフォーリスさまとサラディンは旧知の仲だ。フォーリスさまには具体的にではなくても事前に私の話はしてあったと思う。それでもアヴァロン島までは1人で行った。せっかくサラディンに教わったことが全然わかっていなくて、回り道ばかりしていたから、半年以上もかかってしまったけれど」
「お母さまとサラディンさまがお知り合いだったの? そんなこと、初めて聞いたわ」
「たぶん、フォーリスさまはあまり人には話していない。サラディンがラシュディに逆らったのは20年以上前だ。フォーリスさまと知り合ったころにはそれを公言するのは危険なことだったと思う。私がアヴァロン島に行った後は、私がバルモアから来たこともサラディンのことも、誰にも言っていないはずだ」
「そう言えば、お母さま、あなたのことをずっとサーラと呼んでいた」
「私が教えなかったからだ。解放軍として、アヴァロン島に行った時に名前のことも含めてフォーリスさまには話すつもりだったが、かなわなかった」
フォーリスの死を思い出したのだろう、グランディーナの表情が沈む。
アヴァロン島にいたころ、彼女が母にだけは心を開いていたことはアイーシャもよく覚えている。母も、グランディーナがロシュフォル教会の人間でもないのによく庇ったり気を遣っていたが、その裏には皆に言えない事情があったのだ。
「ごめんなさい、グランディーナ」
「何の話だ?」
「私、あなたがそんなに大変な思いをしてアヴァロン島に来たなんて知らなくて、お母さまに贔屓(ひいき)されてるってずっと恨んでた」
「あなたに謝らせるために黙っていたわけじゃない。フォーリスさまに限らず本当のことは知らせない方が安全だと思った。それに私が選んできた生き方だから、あなたに同情なんてされたくない」
そう言ってグランディーナが顔を背けたのでアイーシャはほんの少し狼狽(うろた)えた。その肩をデネブが優しく抱く。
「同情ってね、優越感の裏返しなのよ。自分の方がましだと思ってるから同情するの。でもそれは、本当の優しさじゃないわ。だって、同情される方からしたら、これほど人を馬鹿にした話ってないと思うもの」
「ごめんなさい、私、そんなつもりじゃなくて」
「それだけ、あなたがお母さんに可愛がられたってことよ。そのことをあなたが引け目に思う必要なんてないのよ。だからってグランディーナに謝る必要もないの。いい?」
「はい、デネブさん」
「あなたもいつまでも子どもっぽいことしないのよ。アイーシャをいじめたら、あたしが許さないから」
「わかってる」
彼女は頷き、アイーシャにかすかに笑いかけた。けれど握り締められた拳はその笑顔とは裏腹の感情を伝える。あの時と同じようにグランディーナが自分の手を傷つけてしまいそうに思われて、アイーシャは思わずその手を取った。
グランディーナもそのことに気づいた様子で苦笑いを浮かべる。
「んもう、2人だけの世界に入ってお姉さんを除け者にしないでくれない? 女の友情に秘密はつきものだけれど、お姉さん、寂しいわ」
「ごめんなさい、デネブさん! 私、そんなつもりじゃなかったのに」
「いいのよ。あたし、あなたのことはよくわかってるもの、あなたはそんなことをする子じゃないわ。でもね、気をつけなさい、アイーシャ。女の世界は一歩間違うと情念と憎悪の入り交じる修羅の世界よ。司祭のあなたには関係ない話かもしれないけれど」
「いいえ、私も少しぐらい知ってます。ロシュフォル教会だってきれいごとばかりじゃないですから。お母さまが大神官になったことでずっと司祭でなければならなくなったっていう方もいました。私、その方に何も言えなくて、謝ることもできなくて。お母さまが大神官として若すぎることは聞いていたけれど、お母さまが誰よりも頑張ってることも知っていたのに、悪いのはお母さまじゃないって言えなくて」
「あなたも若いのに苦労してるのねぇ。まぁ、確かにあれは異例の人事だったものね。だけど、あなたのお母さんだから、あの非常事態を乗り越えられたのよ。凡百の司祭じゃお話にもならなかったでしょうよ」
「そんなに大変なことがあったんですか?」
「そりゃもう、ロシュフォル教会始まって以来の危機だったわね。でも偉いわ、アイーシャって恨み言なんて口にしないんですもの。解放軍のなかでだっていろいろあるんでしょ? 溜まったらあたしに吐き出したっていいのよ。お姉さん、いつでも聞いてあげる」
「ありがとうございます。でも、私、そういうことを口にするのが怖いんです。口にすることができなくていっぱい溜め込んで、嫌なことばかり考えてて、私、デネブさんが言うようないい子でも何でもないんです。デネブさんの前でいい子を演じてるだけなんです」
そう言ってからアイーシャは恥ずかしさのあまり穴に入りたいような気持ちに駆られた。解放軍のなかでもいままででも、いちばん仲のいい2人にこんなことを口走ってしまうなんてどうかしている。
しかし魔女は艶然と微笑んでみせる。同性から見ても見とれてしまうような、世界中のどんな美もこの微笑みの前では色褪せてしまいそうな笑顔を浮かべた。
「きれいなだけの人間なんておもしろくも何ともないわ。見た目だろうと心根だろうと、清濁併せ持つから人間ておもしろいのよ。きれいなだけ、汚いだけの存在なんて神だけでたくさん、そんなの人間じゃないわ。そう思わない?」
「あなたにそう言われると逆らえないな」
グランディーナが苦笑いして答えたが、アイーシャは頷くことも首を振ることもできず、言ってみれば口を開けてぽかんとしていた。
デネブは時々、彼女には思いもつかないようなことを口にする。「神だけでたくさん」だなんて、誰のことを指しているのか見当もつかない。
彼女に相槌を打つグランディーナもそうだ。デネブはああ言ったけれど、この2人の方がよほど秘密を抱えているようにアイーシャには見える。それも彼女には決して届かないところにあるような秘密だ。
だが、次の瞬間にはデネブはもういつもの彼女、アイーシャと仲のいい魔女に戻っていた。
「さぁ、2人とも、話が尽きないのはわかるけど、そろそろ休んだらどう? そんなに話したいことがあるのなら、いっそ一緒のグリフォンに乗ってくれば良かったんだわ」
「私がグランディーナにお願いしたんです。アヴァロン島で皆さんに迷惑をかけてしまったからグリフォンに乗るのに慣れておきたいって」
「あなたって努力家よね。あたし、そういうところも好きだわ。もう、あなたの爪の垢を煎じて飲ませたい人が大勢いるのよ」
「そんなことありません。私なんて、皆さんの足手まといにならないようにするのが精一杯です」
「あなたは足手まといなんかじゃない。自分を卑下することはない」
「そうよぉ」
デネブが笑いながらアイーシャの頭を軽くたたく。
グランディーナが立ち上がり、角灯(らんたん)を消した。
けれど、彼女がいつまでも眠れないでいることにアイーシャは気づいていた。
自分もルテキアからアヴァロン島に渡る船の中でまんじりともせずに夜明けを迎えたので、彼女にはその気持ちがよくわかった。ましてやアイーシャは母に一目会いたいという願いもかなわなかったのだ。せめてグランディーナにはそんな思いを味わってほしくないと思う。
アイーシャは祈るような気持ちで寝床の中でそっと手を組んだ。
(サラディンさまを無事にお助けできますように。私たちがどうか間に合いますように)
そう彼女が祈る相手はいまも亡き母にであった。
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