Stage Eight「遥かなる日々」
複雑に海と陸とが入り組んだバルモア半島を眼下に見下ろしながら、グランディーナを先頭に一行はアレルタから西北西にあるカリャオの町を目指した。
カリャオ一帯は険しい山岳地帯で、半島の南半分を覆っている。半島が海の浸食で切り離される前は大陸の山脈と繋がっていたのだろうと推測できる地形だ。
アレルタとカリャオを結ぶ、ほぼ中間にワラスという町があるのだが、グランディーナはそこにも寄らずにカリャオに急いだ。途中での休憩も山の中に降りただけだ。
しかし、結局、カリャオに着いたのは夕方になってからで、陽は山の背にほとんど隠れていた。
「山の中の町にしちゃあ物々しい構えだな。こんなところに要塞なんかなかっただろう?」
「要塞などはないが、カリャオはドヌーブ王国であってドヌーブ王国でない自治都市だからだろう」
「ああ、シャローム地方のアナトリアみたいなものか。あそこもゼノビアであってゼノビアでなかったのは有名だからな」
「アナトリアとは懐かしいな」
入るのに手こずらされるかと思っていたら、帝国兵の鎧兜が効いたのか、5人はすんなりカリャオの門をくぐることができた。
5頭のグリフォンはカノープスの提案で山に放すことにした。生き餌が中心のグリフォンには無理をして生肉を調達するより、山中で獲物を捕らせた方が早いだろうということだった。
町の規模はアレルタと同じくらいで、中央に広場があり、そこから四方に主要な道路が延びているという構造も似ている。そのおかげか、宿を探すのも手間取らないで済んだ。
「何てことはない平凡な町に見えるけど、こんなところに何があるんだ?」
カリャオの宿では6人部屋が取れたのでカノープスは宿に入るなり待ちかまえたように訊く。3人ともまだ兜を脱いでもいない性急(せっかち)さだ。
「まぁ、正確にはカリャオであってカリャオでないんだけれど、明日が満月なのは知ってるかしら?」
グランディーナが頷き、ランスロットとカノープスはそれぞれ、2ヶ月以上前のジャンセニア湖での顛末(てんまつ)を思い出した。
しかしゼテギネアの暦は太陽暦なので、月の満ち欠けにこだわるのは占星術師や魔法使いばかりだ。
「あなたの求めているサラディンの石化を解除できるただ1つの物は、光のベルという神聖呪具なの。それはユリマグアスという狭間の町にあって、明日の深夜にこのカリャオと重なるわ。ただし、ユリマグアスには神をも殺す獣、スコルハティって名前の強力な門番がいて、それをどうにかしないと入ることもできないの。それにユリマグアスがカリャオと重なっているのは明後日1日限り、日が変われば別のところに移動しちゃってバルモアから離れるから気をつけてね」
「わかった」
「おまえ、本当にデネブの言うこと、わかってんのか?」
「明日の真夜中にカリャオと重なるユリマグアスに行き、門番をどうにかして、その日のうちに光のベルを手に入れてくればいいのだろう」
「お利口さんね、グランディーナ、そのとおりよ。
どうしてカノープスにはわからないのかしら?」
「いきなり光のベルだのユリマグアスだの狭間の町だの強力な門番だのなんて言われて頷けるかよ。詳しく説明しろ」
「デネブがそうしろと言うのに知らない言葉にいちいちこだわってどうする。私が案じているのはユリマグアスと重なった時にどうやってそこに行けるのか、それが自分にわかるのかということだけだ」
「神をも殺す門番はどうするんだよ?」
「何とかなるだろう」
カノープスは開いた口がふさがらず、助けを求めるようにランスロットを振り返ったが、話がまったく見えていないことは彼も、実はアイーシャも似たようなものだ。
「まさかと思うがデネブ、我々にそのスコルハティと戦えと言うのか?」
しかし2人にとって腹立たしいことに、魔女は極上の微笑みを浮かべながら、こう答えた。
「あら、スコルハティはあなたたち2人がかかったって勝てる相手ではないわ。ここは出しゃばらないでおとなしくグランディーナに任せるのね」
「デネブさん、でも、それはとても危険な相手なのではないですか? いくらグランディーナが強くても何とかなるような相手なのでしょうか?」
そう言ったアイーシャの顔色は血の気が引いて真っ白だ。そのことに気づいたようでグランディーナがわずかに微笑む。
「大丈夫だ、アイーシャ。
だがデネブ、私も後の保証はできないぞ」
「ご心配なく。まぁ、こっちも何とかなるでしょ。それにユリマグアスと重なる時には、あたしが教えてあげるし、もちろん連れてってあげるわよ。あなたが心配することはないんじゃないの?」
グランディーナは頷いて、いまだ全然、納得していないランスロットとカノープスに向き直った。
「後のことはデネブに任せる。あなたたちは彼女の指示に従ってくれ」
「待てよ。おまえとデネブだけわかっていられても納得できるか。
デネブ、どういうことなのか説明しろ。だいたいそれだけの話で、はい、そうですかなんて言えると思ってるのか?」
「わたしもカノープスに同感だ。だが、それよりも気になるのはその門番だ。まさか、後のことというのはグランディーナが殺されるのを前提にしているわけではないだろうな?」
「あなたの勝算はどうなのよ?」
デネブはグランディーナを見たが、彼女は「任せる」と繰り返す。その表情がいつにも増して感情を押し殺しているように見えるのは、いったいどういうわけなのか、彼らには見当もつかない。
「どうせ明日いっぱいは時間があるのだろう。アイーシャも含めて3人が納得できないと言うのなら、あなたから説明してやってくれ。どちらにしても私のすることは決まっているし、これ以上、あなたに説明してもらう必要があるとも思わない」
デネブは少しだけ頬をふくらませる。
「じゃあ、あなたは明日はどうするつもり?」
「休む。余計な力は使いたくない」
そう言うと、彼女は腰の刀を外し、抱きかかえるようにして窓際の床に座り込んだ。なぜそれが寝台の上でないのか、ランスロットもカノープスも追求することも忘れていた。
「しょうがないわね。グランディーナがそう言うから説明してあげるわ。それで、あなたたち、何を聞きたいの?」
「最初から全部、話せ。その上でどうやってその門番を倒せるのか聞かせてもらおうか」
デネブは丸く開けた口を手で隠した。その拍子にとんがり帽子が後ろにずり落ちたのでかぶり直す。何てことはない帽子なのだが、彼女はその形とかぶり方にひとかどならぬ情熱を傾けているのだ。
「あなた、本気で言ってるの?」
「申し訳ないが我々は魔法にまつわることには疎い。グランディーナのようなわけにはいかないよ」
「私も魔法のことはまったくわからない。私はその器ではない」
「アナトリアでも魔女ババロアを相手にそのようなことを言っていたな。だがアラディもわたしも、君とババロアとの話がまるで理解できなかった。それもサラディン殿に教わったことなのか?」
「たぶん、そうだ。サラディンは、私が、魔法を使えないと言った。私には、その、器がないと。知識としては知っていても、所詮それだけのことだ」
「ますますわからねぇな。おまえの言ってる器というのは俺にだってあるとは思えねぇ。俺だけじゃない。有翼人はみんな魔法を使えないぞ」
「私も、理屈がわかってるわけじゃない。それに、器は器だ。私にはうまく説明できないし、それ以上のことは聞いていない」
「まるで雲でもつかむような話だな。
おまえにはわかるのか、デネブ?」
「わかるけど、あなたたちの聞こうとしてることとは全然、関係ないわよ。何だったらサラディンを助けて、彼に訊いてみたらいいんじゃないの? それとも先にそっちのお話?」
「いいや。そんな話はいつでも聞ける。先に明日の真夜中、カリャオで何をするのか話せ」
「あなたって意外と理屈屋さんなのね」
「ほっとけ」
デネブは笑いながら手近の寝台に腰掛ける。アイーシャはすでにその向かいに座っていたが、ランスロットもその隣の寝台に腰を下ろし、カノープスだけ腕組みをして立ったままだ。
「じゃあ、最初から話すわよ。サラディンがアルビレオにかけられた石化を解くには、光のベルという神聖呪具が必要なの。石化というとコカトリスが有名だけど、アルビレオの魔法はちょっと特別で光のベルじゃないと解除できないのよ。何でも身体の細胞が石にされてしまって、石そのものになっちゃうらしいわね。かける方もそう頻繁に使えないらしいんだけど。光のベルはこういう状態を何でも解除できる凄い物なんだけど、それだけに大事に隠されてるってわけ。これがあるのがユリマグアスって町なんだけど、この町は時間と空間の狭間を漂っている町で、毎年、いまの時期になるとカリャオ辺りにやってくるのよ」
「何でそんなことがわかるんだ?」
口を挟んだカノープスに案の定、デネブはいい顔をしなかった。
「ユリマグアスについての記述を集めるとそういう結論になるの。1晩だけ町と重なる幻の町には空想をかき立てられた人も多いでしょうからね。続きを話してもいいかしら?」
「いや、光のベルについてはいいだろう。だけど、そんな時間と空間の狭間なんて目にも見えねぇものが本当にあるのか? そんなところを漂ってる町なんて、それこそ眉唾物にしか聞こえねぇ」
「んまぁーっ。あなたって理屈屋さんなだけじゃなくて石頭だったのね。これだから嫌なのよ、魔法のことを知らない人と話すのは。自分の目に見えるものだけ、目に見える世界だけがあると思ってるの? オウガバトルはお伽話だとでも? あなたたち、ポグロムの森で悪魔に会ったんでしょ? 彼らがどこから来たと思ってるのよ、魔界に決まってるじゃない」
思わぬデネブの剣幕にカノープスの方がたじろぐ。
「わかったよ。話の腰を折って俺が悪かった。続けてくれ」
「いやよ」
「えっ?」
デネブがそっぽを向いたので、さすがにカノープスも焦った。
「ねぇ、グランディーナ、あなたも聞いてたんでしょ? 何にも知らないくせにカノープスったらいちいちーーー」
「どうした?」
「寝ちゃってるわ」
舌の先まで出かかった「嘘だろう」という言葉を呑み込んでカノープスが窓際をのぞき、ランスロットとアイーシャも続く。
しかし、デネブの言うとおり、グランディーナは曲刀を抱きかかえて床に座り込んだままで眠っていた。
「こいつ、こんなに寝つきが良かったっけ?」
カノープスはつい声を潜め、アイーシャも倣う。
「昨日はいつまでも眠れなかったようなので、眠たかったんじゃないでしょうか?」
「いつまでもって、まさかと思うけど、あなたまで起きてたの?」
「いいえ、私はすぐに寝ました。そんな気がしただけなんですけど」
「デネブ、ユリマグアスについての続きはまた明日にしてもらってもいいかな? 彼女の眠りを妨げるのも気の毒だ」
「あたしはかまわないけど、カノープスは?」
「うーん。まぁ、寝てるところを邪魔するのも悪いからなぁ」
すると、グランディーナが突然、目を開けた。
「私のことならかまわない。話を続けてくれ」
「あら、起きてたの? それなら黙って聞いてないでよ、意地悪いわね」
「何と言って切り出そうか考えてた。途中で目が覚めたのは本当だ」
「だが、君が寝ていたのを邪魔したのだろう?」
「目が覚めたのはあなたたちの気配を感じたからだ。一度眠ってしまえば、あれぐらいの話し声では目は覚めない」
「そうなの? じゃあ、カノープスが言ってたことも聞いてなかったのね?」
「何かあったのか?」
「俺が悪かったって言ってるだろう。話を続けてくれよ、デネブ」
「本当にそう思ってる? あたしの話にけちつけないって約束できる?」
「わかった。約束する」
カノープスは大真面目な顔で宣誓したが、内心では馬鹿馬鹿しさでいっぱいだ。しかしそんなことがばれたらデネブにまたへそを曲げられるし、そうなったら最後、彼女はもう話したがらないだろう。こういう時には聞き役に徹し、上手く立ち回っているランスロットが恨めしい。
「ここであたしがあなたの言うことなんて信じられないわ、って言ってもいいんだけれど、それじゃおとなしく聞いてくれてるアイーシャがかわいそうだから、話してあげるわ」
「ありがとうございます、デネブさん」
ランスロットはいいのか、と言いたい気持ちをカノープスは堪える。
「でも顔色が良くないようよ。グランディーナのことがそんなに心配?」
「はい、とても」
「あたしの言うことが信じられないの?」
「そんなことありません。でも、何て言ったらいいのか、とても不安なんです。私にできることが何もないから、どうしていいのかわからないんです」
「あら、それはあたしが説得できる領分じゃないわね。グランディーナ、どうせまだ起きてるんでしょ? アイーシャを説得してあげてくれない?」
そう言われて、彼女は曲刀を脇にのけて寝台に寄りかかった。
「私もいまは大丈夫だとしか言えない。この10年間、私はサラディンを助けるために生きてきたから、そう簡単には死ねない。私が言えるのはそれだけだ」
「本当に?」
「どんな形でも生きてサラディンにもう一度会うこと、それだけが私の願いだったから。いつも、いまも、それだけが私の望みだから」
グランディーナが立ち上がり、そっとアイーシャを抱きしめた。そんな時の彼女は限りなく優しい顔をしている。彼女にとって、アイーシャの存在は解放軍のなかでも特別なのだ。
「死なない?」
同じ言葉を木偶のように繰り返すアイーシャに彼女は静かに頷いた。
アイーシャが目の下をこする。
彼女の司祭としての腕前はすでに解放軍のなかでも群を抜いている。大神官の一人娘であり、ロシュフォル教の聖地アヴァロン島の出身で、しかも大陸で修行したとあっては同い年のミネアはおろか、たいがいの司祭たちよりも頼りにされ、リーダーのマチルダでさえたまに意見を求めるほどだ。けれど、アイーシャは決して奢らず、鼻にかけず、その控えめで何にでも一生懸命なところが「さすが大神官の娘御は違う」とまで言われている。
だが本当の彼女はまだ19歳の、ほとんど教会の中しか知らない箱入り娘なのであり、周りの期待と人望と羨望も、重圧のようにしか感じていないのかもしれなかった。
その様子を見ていると、さすがのカノープスもグランディーナに再度、確かめる気にはなれなかった。
だが彼には彼女の弁もデネブの言うことも容易に信じられない。確かにグランディーナは強い。その剣は解放軍最強と言ってもいいだろう。だからといってランスロットと2人がかりでもかなわないほどだとは思えないのだ。
「ユリマグアスのこと、まだ聞きたいの?」
「そのスコルハティって門番て、どんな奴なんだ? 単に獣と言ったっていろいろな奴がいるだろう? 魔獣とかに近いものなのか?」
「そうねぇ。あんまり記述はないんだけど、スコルハティは小山のような大きさの狼で、心正しき者には道を譲るとも言われているようね」
「それは戦わないでも済むってことか?」
「そういう場合もあるかもしれないってだけよ」
「そいつを先に言えよ。俺はてっきり、必ず倒さなきゃいけねぇものだと思ったぜ」
「わたしもだ」
「実際はどうだかわからないわよ。あたしだって会ったことなんてないんだから。無事に通してくれたら万々歳って感じかしら。まだ何かあるの?」
「あまり今度の件とは関係がないかもしれないが、ユリマグアスという町は、なぜそのように隠されているのか教えてくれないか?」
「さぁ、あたしも知らないわ。ただ、そこにあるのはとても貴重な物ばかりだから、神が悪用されるのを恐れたという説はあるわね。あのファイアクレストだって一時はユリマグアスにあるんじゃないかって疑われてたほどだもの。こっちは結局、眉唾だったんだけど」
「何だ、そのファイア何とかって?」
「ファイアクレスト、伝説の炎の騎士レクサールの紋章よ。世界を丸ごと変えてしまうほどの力を持つって言われてるんだから。知らないの?」
「レクサールの名前ぐらい俺だって知ってるよ。ガキのころに聞いただけだから忘れてたんだ。まさか、レクサールも実在の人物だなんて言い出すんじゃないだろうな?」
「それはどうかしらねぇ」
デネブが思わせぶりな顔つきで笑ったのでカノープスはまたしても突っかかりかけたが、グランディーナが一音一音区切るように伝説の騎士の名をつぶやいたので、その方が気になって振り返った。
「何だ、おまえもレクサールに興味があるのか?」
しかし彼女はこめかみに指先を当てて驚くほど真剣な表情で考え込んでいる。もちろんカノープスだって彼女が好奇心からその名をつぶやいたなどとは思ってもいない。
グランディーナはその腕に、アイーシャが心配そうな顔で手を置いたのも気づいていない様子だ。
ランスロットもデネブもいつの間にか話を止めて様子をうかがっている。
「れ、く、さ、あ、る?」
その声音も表情も、見慣れた彼女のものではなかった。まるで知らない少女がそこにいるようだ。その存在もあまりに頼りない。
カノープスはとうとうグランディーナの左腕を取った。彼のなかでポグロムの森で突然、現れた霊とともに皆の前から姿を消した彼女が、あの時、どんな表情をしていたのか、どうしても思い出せない苛立ちとともにだぶったのだ。
「カノープス? どうした?」
その口調が思っていた以上にいつものグランディーナで、彼は安心すると同時に腹が立った。
「どうしたじゃねぇ。どうしたのか訊きたいのはこっちの方だ。レクサールって名前がどうかしたのか?」
彼女は首を振った。その時だけ、さっきの面影が横切る。
「私にも、わからない。思い出せたかと思ったが逃げられた。昔、そんな名前の知り合いがいたような気がしただけだ」
「その割にはずいぶん真剣に考え込んでいたぞ」
「記憶が曖昧なせいだろう。そのくせ、いまみたいに突然、湧き上がって消えてしまう。まるで蜃気楼でも追いかけているみたいだ」
「たまに英雄にあやかった名をつけることはあるそうだ。レクサールという名はさすがに時代がかっているが、君はそういう人物に会ったことがあるのじゃないか?」
グランディーナはその前よりも弱々しく首を振る。その時だけ見知らぬ少女の面影がよぎる。
「たぶん、そうじゃない。でも、わからない」
「わからないなら無理に答えなくてもいいさ。ただ、ポグロムの森の時みたいにおまえに突然消えられたんじゃかなわねぇからな」
その時に解放軍にいたのはランスロットだけだ。突然、消えた彼女のことで互いに一触即発の雰囲気になったことを思い出したのか、彼は苦笑いを浮かべた。
「あれはポルトラノによるものだったろう。ここで誰が私を連れ出すと思うんだ?」
グランディーナはそのことを知らないせいか、憎たらしいほど冷静な口調である。
そしてカノープスは彼女の表情など見られなかったことをも思いだした。
「たとえばアルビレオとかな。その師匠なんか出てきたらどうするんだよ?」
「彼らが私を召喚するのなら却って好都合だ。アルビレオだろうとラシュディだろうとそのまま首をかききってやる。だが間違ってもそんなことはするまい」
答えたグランディーナの表情にもう弱々しさはない。カノープスは手を離し、彼女をしばらく睨んでいたが、その話題を自分から打ち切ることにした。
それを見て、アイーシャがこっそり安堵のため息を漏らすのが彼にはまた癪の種だ。
「なぁ、デネブ、ユリマグアスに住んでる奴はいるのか?」
「さぁ、住人がいるという記述は読んだことがないわね。たとえいたとしても月が変わればどこかへ行ってしまう人たちだわ。気にしてもしょうがないんじゃないの?」
「そうだな、わたしも住人のことは気になっていた。人がいたら光のベルも探しやすかろうと思うんだが、それは大丈夫なのかと心配になったのでね。それに君の話を聞いていたら、子どものころに聞いたお伽話を思い出したんだ。天空の島も天空の三騎士も実在すると言うのだろう?」
「悪いけど、そういう話はサラディンに訊いてくれない? あたしは呪具には興味があるけれど天空の島なんてものには興味はないのよ。でもあなたたちの言うとおり、住人がいれば光のベルは探しやすそうね」
「なるほど。
カノープス、今日はわたしはそろそろ、いいと思うんだが、君はどうだ?」
「俺もかまわねぇ。アイーシャはどうなんだ?」
「私は、大丈夫です」
その表情を見る限り、アイーシャはちっとも大丈夫そうではないのだが、ランスロットもカノープスもそんなことを追求するほど野暮ではない。それにいくらユリマグアスや光のベルのことについて訊いても、最終的にはスコルハティなる門番をどうすべきか、というところに行き着いてしまうのだから、彼女の案じていることと2人の案じることは結局、同じものなのだ。
「ありがとう、デネブ。君にばかり長いこと話させて悪かった。今日はもう休んでくれ」
「あら。あなたの口からそんな台詞が聞けるなんて思わなかったわ。やっぱり奥さんがいたって人は気のつくところが違うものね」
「そんな話を誰に聞いたんだ?」
思ってもいなかった話題を振られて、ランスロットは内心かなりたじろいだ。
しかし知ってか知らずか、デネブの口調はいつもと変わらない。
「みんな、知ってることでしょ?」
「それもそうだがね、最近は知らない者の方が多いと思っていたからな。それに亡くなった人のことなど話しても楽しいことじゃないだろう。ところがわたしときたら、彼女は2年も前に亡くなったのに、いまでもどこかへ出かけているのだと錯覚することがあるんだよ。彼女を看取り、葬ったのはわたし自身なのにそこら辺で彼女に会えるような気がしてしまうんだ。おかしな話じゃないか」
「奥さんをまだ愛しているのね」
「いいや。悔いのない人生を送ってきたとは思わないが、彼女を幸せにしてやれなかったことがわたしの一生の心残りだ。その罪悪感からだろう」
「あら、そんなはずないわ。死んだ人間にとっていちばん怖いのは忘れられてしまうことよ。忘れられてしまえば、その人は本当に死んでしまうのよ。あなたの奥さんは幸せな人だわ。いまもこうして、あなたに思い出してもらえるじゃない?」
「わたしは彼女が生きているうちに幸せにしたかったんだよ。彼女は丈夫な方ではなかったのに、ゼルテニアに落ち着くまで、ずっと旅ばかりで無理をさせてしまったんだ」
「たとえあなたにはそう見えても、女は好きな人と一緒なら苦労だとは思わないのよ。そのことで彼女があなたに文句を言ったりしたかしら?」
「言われなかったから余計に罪悪感を感じてしまうのさ。ふふ、まさかこんなところで彼女の話ができるとは思わなかったよ」
「あたしも、あなたに奥さんがいたとは知らなかったから、おあいこかしらね。それにあなたはそんなに素敵な人を見つけられたことを誇るべきだわ。罪悪感だなんて彼女に対する侮辱もいいところよ」
「それはありがとう、デネブ」
「どういたしまして」
思わぬ優しい声音に、話しているランスロットはもとより聞き耳を立てているカノープスさえ、デネブに溺れた男たちの心情が理解できたような気がした。
だが彼女は次の瞬間には手の平を返したように男たちを突き放す。高嶺の花と言われるのも伊達ではない。そしてデネブが優しい声を出すことも滅多になかった。
「グランディーナ、君も寝台で寝ないか? 我々ももう休むことにするよ」
「私はここでいい」
「それならば毛布ぐらい使ってくれ」
「あなたもずいぶん物わかりが良くなったのだな」
「君がそう言い出したらてこでも動かないことは学んだのでね。だが物わかりがいいなどと言われるほどのことではないと思うよ。君が一晩中、起きているなどと言うのでなければ、床で寝ることぐらい認めるべきだろう」
グランディーナは無言で毛布をかぶり、それで窓際の寝台が2つ空いた。ランスロットとカノープスが入り口側の寝台を占めたからだ。
カノープスが角灯の火を消すと室内は真っ暗になった。閉め切った窓の隙間から月明かりが漏れてくる。その白い筋が寝台と寝台のあいだを照らす。
規則正しい皆の寝息を聞いているうちに、彼もいつしか眠り込んでいた。