Stage Eight「遥かなる日々」
ユリマグアスの側から見ると、カリャオの方が影のようだ。彼女らに気づくことなく、町の人びとがすれ違ってゆく。
「どうなってんだ、これ?」
「あたしたちはいま時間と空間の狭間にいるの。まだ町の中に入ったわけじゃないんだから、うろついていると、そこら辺から落っこちるわよ。狭間に落っこちたら、あたしだって助けてあげられないから」
そんなことを言われると、足下までおぼつかないような気持ちになる。
「どうしてカリャオの人たちには気づかれていないんだ? こんなにはっきり重なってるのに?」
「みんなが見えるものだったらカリャオもユリマグアスももっと有名になるだろうけど、魔導に造詣が深くないと見えるものじゃないの。さっき飲んだお茶のおかげであなたたちには見えるわけ。ただし、それだけじゃユリマグアスには来られないんだけど」
「あれがその門番、スコルハティか?」
ポリュボスから降りながらグランディーナが言う。
その視線の先に巨大な狼がいる。それは闖入者(ちんにゅうしゃ)を察したのか立ち上がったところで、こちらを見て短くうなり声を発した。
見える限り高い塀に囲まれたユリマグアスの町は、スコルハティの守る門のほかに入り口はなさそうだ。しかもその塀が高く、中の様子もうかがえない。
「まさかと思うけど、グリフォンであの塀を飛び越えられたりしないよな?」
「だったら、あの門番の意味がないじゃない。気になるなら、あなたが試してみなさいよ」
「別にグリフォンじゃなくて俺が飛んでいってもいいんだけど、いきなり打ち落とされるのも愉快じゃないからな」
ランスロットとアイーシャは軽口をたたくような気分ではない。
そんななか、グランディーナだけがいつもと変わらぬ口調だ。
「カノープス、手綱を預かっていてくれ。私が近づいてみる」
しかし、ふと触れあった手は驚くほど冷たかった。カノープスは彼女の腕をつかんだが、乱暴に振りほどかれてしまった。
「勘違いするな。私が恐れているのはスコルハティじゃない、私自身だ」
「グランディーナ!」
彼女は足を止めて振り返った。その顔が笑おうとしてできずに歪み、また感情を押し隠してしまう。
たったそれだけのことなのに、辺りの空気が冷え冷えと感じられる。
アイーシャが震えてデネブにしがみついた。魔女もさっきまでの軽口はどこへやら、厳しい表情でグランディーナを見ている。
ランスロットもカノープスも、つい最近、似たような感覚を味わったことに気づいた。
それはアプローズ男爵と戦った時だ。そしてもう1人、初めてガレス皇子に対峙した時も同じような悪寒を覚えた。
しかしそれは、いったい何の前兆だというのか。
グランディーナは彼らに背を向けて、いつもと変わらぬ足取りで門番に近づいていった。
なぜかグリフォンたちもおとなしい。
煌々とした月灯りも、今夜はどこか冷たい。
スコルハティは近づいてくるグランディーナを注視しているようだ。
両者のあいだは確実に縮まっている。
その時、小山のような姿が一声吼えて彼女に襲いかかり、火花が散った。
狼は右手に飛び退り、グランディーナも曲刀を構えている。
獣が振り向くより速く彼女は斬りかかった。
両者が交錯し、また離れる。
山が動く。
グランディーナが応戦する。
火花が飛び、激しく打ち合う音がする。
彼女が頭を振ると雫が飛んで、月の灯りに光った。
その隙にスコルハティが襲いかかるも、グランディーナは時に避け、かわし、受け流し、返す刀で逆に斬りかかった。
それらの動きがランスロットやカノープスには追いきれない。
グランディーナとスコルハティが止まる時、減速する時にかろうじて前の動きが推測できるだけだ。だが彼らにできるのはただそれだけなのだ。
2人とも己が目を疑った。と同時にデネブの言葉が実感される。
2人がかりでもかなわない? それだってだいぶ控えめな言い方だと言っていいだろう。
しかし、そのデネブも固唾を呑んで見つめている。
だいたいスコルハティの大きさが桁外れだ。魔獣のなかでは最重量級のドラゴンさえ、この怪物の前では子犬にしか見えなかろう。
そんな巨大な狼と対等に剣を合わせることがどれほどの技量を要求されるのか、グランディーナの腕も桁外れと言っていい。
その時、突然、大きな音を立てて金属片が飛び、彼女は地面に打ち倒された。
その手から転がった曲刀は柄に近いところから刃がなくなっている。
狼の四肢が彼女の腕と足を押さえつけていた。
「グランディーナ!」
アイーシャの悲鳴がひどく遠くから聞こえたが、誰も近づいてくる気配はない。
「離せ!」
息が弾んだ。
心臓が激しく打つあまり、いまにも口から飛び出しそうだ。
激しく撥ねる身体は往生際も悪く、逃れようともがいている。
内から募る破壊衝動はこんな形での決着など望んではいない。
殺せ。
壊せ。
たとえ得物がなくても、この手が、足が、身体が動く限り、破壊し尽くせ。
目の前の怪物も、その後ろに佇む町も、何もかもこの手に。
その欲望に抗うことの何という苦痛か。
その欲望は何と甘美なことか。
剣を使っていれば、いつかこういう事態に陥ることは承知していた。
その落とし穴はいつも彼女の足下に口を開けて待ちかまえていた。
そこにはまってしまった者たちを彼女は知っている。
彼らの末路を彼女は覚えている。
自分もいつかそうなるのだという恐れと。
自分だけはそうなるまいとする決意と。
剣を振るうたびに恐ろしかった。
見抜かれてはならない。
知られてはならない。
自分の力を隠さなければならない。
その恐れも。
その迷いも。
その葛藤も、全てこの力に委ねれば終わること。
しかし身体が動かせない。
スコルハティの束縛から逃れることができない。
狼も相当な力で押さえ込んでいるらしく、腕も足も皮がずるむけ、肉が抉(えぐ)られる。
その痛みが乖離しかけた彼女の意識を取り戻させた。
「私の負けか? 得物で負けるとは思わなかった」
「人間の身でありながら我と対等に戦えるとはぬしは何者だ? それにこの力、もう少し我と戦っていれば、ぬしは堕ちたろう。かといって暗黒道に傾倒しているわけでもない。オウガとも異なる。しかもぬしからは人間にあるべき魔力が感じられぬ。ぬしは人間ではないのか?」
「私も知らないから、あなたの質問には何一つ答えようがない。だが、もしも答えられたらユリマグアスに入れてくれたのか?」
「ユリマグアスに何の用だ? ますます興味深い話だ。我も長いことユリマグアスの門番をさせられているが、あれほど殺気をまき散らしてきた者も初めてならば、ぬしのような者も初めて見る」
「私は光のベルという神聖呪具を探している。長居するつもりはない」
「光のベルを何に使うつもりだ?」
「サラディン=カームの石化を解く」
「何だと?!」
スコルハティは鼻をひくつかせて周囲のにおいを嗅いだ。大きな鼻が迫ってきた時にはさすがの彼女もいい気はしなかった。
「なるほど。あそこにいるのがぬしの連れというわけか。なるほどなるほど。あの魔女を動かすとはやはりぬしはただの人間ではあるまい。おもしろい、それならばぬしたちを通してやろう。立つがいい」
グランディーナは立ち上がった。弾んだ息は平常に戻り、破壊衝動も失せていた。
「だがこの門をただでくぐらせるわけにはいかない。フィラーハは融通が利かないのでな、ぬしは我に負けたのだから門をくぐる贖(あがな)いを差し出してもらわねばなるまい。さて、ぬしは我に何を差し出せると言うのだ?」
「それは、私自身だけだ。私の命、私の身体、それ以外には何もない」
スコルハティの顔がまた迫る。神をも殺せるという獣、だがその名がオウガバトルにおいて神なり悪魔なりの側について戦ったという記録はまったくない。
「命を取るのはつまらぬ。それではぬしを通してやる意味がない。ぬしの身体に興味もない。我が人間の雄であれば話はまた別だろうが」
言いながら、狼は彼女の周囲を二度三度と巡ったが、不意に立ち止まって、刃のない刀の柄を興味深そうに眺めた。
それを見たグランディーナは、〈何でも屋〉のジャックのことを思い出した。彼にもらった刀を折ってしまった。何と言って謝ったものだろう。
「これは無銘の刀よな。ずいぶん使い込んだようだが、ふふ、この刀が健在であれば、首を狙われたは我の方だが、先に力尽きたは刀の方か。おもしろい。こんな刀で我とあれだけ戦えるのか。門をくぐる贖いにぬしの命に等しいものをしばし頂いていくぞ!」
スコルハティの姿が跳び上がり、消え失せた。
と同時に右腕の感触が失せ、平衡感覚を崩して彼女は膝をついた。
「グランディーナ!」
真っ先に走ってきたアイーシャが抱きついて、弾かれたように離れる。
「グランディーナ?」
「どうしたんだ、アイーシャ?」
「え? いいえ」
口ごもる彼女をランスロットもカノープスも不思議そうな顔で見た。
「大丈夫だ。もうじき収まる」
グランディーナはそう言ってかすかに笑ってみせる。
「いったい何があったんだ? おまえの動きは追えねぇし、剣は折れちまうし、狼はどこへ行った? 何だ、その腕は?」
カノープスが指摘したとおり、グランディーナの両方の籠手の下から血が滴っている。
少し離れていたアイーシャもそれに気づいたらしく急いで近づいてきた。
「ユリマグアスに行く前に傷の手当てをさせて。グランディーナ、座ってて。
どなたか、松明をつけてください」
彼女は言われたとおりにした。
ランスロットが松明をつけ、カノープスが籠手を外すと、両手首の甲側が皮も肉も抉られて、骨さえのぞいていた。
「ひでぇな、これは」
「手当てしてもらうついでだ。カノープス、私の靴を脱がしてくれないか」
「足もやられたのか?」
足首も似たような状態だったので彼は顔をしかめるどころではなかった。靴の中も血まみれで、肉片さえ転がり落ちてきた。
「この靴、もう使い物にならねぇぞ。どうする?」
「私は裸足でも大丈夫だ。捨ててしまっていい」
「了解っと」
しかし靴を投げようとしてカノープスは、カリャオにいる者から、こちらを見られていることに気がついた。その視線の先をたどると、ランスロットの持ってる松明に行き着く。
「どうした?」
「いや、俺たち、目立ってるみたいだからよ」
不思議そうな顔をしていたグランディーナも、彼がカリャオと松明とを指すと納得したようだ。
「鬼火なんて、案外、種を明かせばこういうものなのかもしれないな」
「ガキのころに怖がってたものが、だんだん胡散臭く思えるのは気のせいか?」
「反対はしないけれど、あなたが鬼火を怖がっていたとは知らなかった」
「たとえばの話だ。誰も怖いなんて言ってねぇ」
言ってからカノープスは笑い出す。グランディーナも声はあげなかったが、スコルハティと戦う前とは別人のような笑顔を浮かべた。
働いているアイーシャ1人が沈んだ顔だ。
「ごめんなさい、グランディーナ。包帯も薬草も足りないわ」
それでアイーシャをのぞく3人の視線がデネブに向けられたが、彼女は手を振った。
「あたしが持ってるわけないでしょ」
「すみません。私が気がつかなくて」
「こんな怪我、誰だって予想外だろう。おまえさんが責任を感じることはないさ」
「でも、私にできることなんてそれだけなのに」
「それならばわたしのマントを使うといい。カリャオに戻れば、包帯も薬草も買えるさ」
「すみません、ランスロットさま」
「あなたのマントを借りるのは3回目だな」
「必要ならば、何回でも使うといい」
ランスロットはマントを脱いだついでに剣で細く裂き、そのあいだはカノープスが松明を持つ。
「さっきから右腕を使ってないようだが、どうかしたのか?」
「急に動かせなくなった。あなたたちにはスコルハティとの会話は聞こえなかったのか?」
「話? 俺の目にはおまえたちはしばらく睨み合っていたようにしか見えなかったぞ。話なんてしていたのか?」
「私の刀が折られてからずっとだ。私がサラディンの名を出したらユリマグアスに入れると言い出した。だがその贖いに私の命に等しいものをもらうと言って消えたんだ」
「まったく動かないのか?」
「触られているのもわからない。肩に余計な棒切れをくっつけて下げているような感じだ。これでは動くのに邪魔だな」
「腕を吊っておいたらどうかしら?」
そう言ってアイーシャが、マントを切って三角にし、腕を吊った。
「ぶら下げたままでいるよりは良さそうだ」
「カリャオに戻ったら足の包帯を巻き直すから、それまで無理しないでね」
「わかってる」
グランディーナは自分の右腕を押さえながら立ち上がる。吊っていてもやはり動かせない腕は邪魔になっているようだ。
「この籠手と靴って、ここに置いたままでもいいのか?」
「別に害はないんじゃないの?」
「行こう。光のベルを手に入れなければ」
「1人で歩けるのか?」
「大丈夫だ」
先に立ったグランディーナの右上腕にアイーシャが無言でしがみつく。
カノープスの持っていた松明をデネブが預かり、彼とランスロットはグリフォンの手綱を引いた。
門番のいなくなった門は分厚い扉だったにも拘わらず音も立てずに開き、全員が通るとまた閉まった。
彼女らはそうしてユリマグアスに入っていった。
夜中のためか町の中は閑散としていて人影もない。真っ直ぐな道路は碁盤の目のようで、そのあいだに無数の尖塔が立ち並ぶ。
見渡す限り、尖塔以外の建物は見かけない。やはりふつうの町ではないようだ。
「この様子だと光のベルはどこだって、誰かに訊いて解決しそうにねぇな」
「朝まで待った方が良くないか?」
「訊ける奴がいるのならな」
「この時間では何とも言えないな。でも、明るい方が探しやすいだろう?」
「ふつうに探せるなら訊ける奴もいそうなものだ」
「あら、ベルを鳴らしてみましょうか?」
「そんなこと言うってことは、光のベルが何でできているのか、わかったのか?」
「手元にないから、ちょっと誤魔化してるけど、これで見つかってくれないかしらね?」
そう言ってデネブは手にした硝子のコップと水晶玉を無造作に打ち鳴らした。そもそも、そんな物をどこから取り出したのかも不明だ。
鳴り響いたのは高く澄んだ透明な音だった。
雪が降った後の晴れた日、まだ何も起きていない早朝に聞こえたような、そんな幽(かそ)けき音だ。
月明かりに照らされた町にその音が響き渡っていく。反射することもなく、吸収されてしまうこともなく、音は水がどんな隙間をも満たすように、町中の隅々まで満たしたかのようだった。
そして音を呑み込んだユリマグアスの町は、しばしの沈黙の後で不意に音を返した。
四方八方から無数の鐘とベルの音が返ってきたのだ。
その音に驚いた一行はグランディーナ以外は思わず耳を覆ったが、やがて無数の音が止んで最後まで残っていた音は、デネブが最初に鳴らした音よりもずっと細くて頼りない、小さな小さな音であった。
「どこから鳴ってるんだ?」
「しっ!」
足音にさえ気を遣ってグランディーナが動き出す。4人もその後からついて、一緒に音の発信源を探した。
「言っておくけど、この探し方だと1回しか効果はないわよ。音が消えちゃったら、それでおしまいですからね」
「何でそういうことを先に言わねぇんだよ?」
「緊張感があっていいじゃない?」
「こんなわけのわからねぇところで緊張感なんか求めるかよ」
ユリマグアスの町はカリャオと同じくらいの広さがあったが、グランディーナはやがて町のほぼ中央にある尖塔の前に立ち止まった。
「ここだ」
しかし高さ何十バスもありそうなその塔には入り口もないし窓も扉も見当たらない。耳を澄ませば確かにあの細い音が鳴り続けており、それはその塔の中から聞こえてくるようなのだが、肝心の入り口がどこにもない。
「アイーシャ、手を離してくれ」
「え、ええ」
グランディーナは塔に近づいた。その表面に手を伸ばすと、身体が溶け込むように入っていった。
塔は石のようで石ではない物体でできている。だが身体の細胞が1つひとつ得体の知れない物体と混ざり合うような感覚は気持ちのいいものではなかった。
グランディーナはその中に光のベルを見つけた。白い台座の上でかすかな音が歌うように響いている。
塔の壁は自らが光を発していた。一辺は10バス(約3メートル)ほどの広さで、台座とベルしかない。
その光景に彼女は生まれて初めてと言っていいほど敬虔(けいけん)な気持ちに駆られて、思わず片膝をついた。
彼女がベルを手に取ると、ようやく音が止んだ。
「サラディン、もうじきあなたに会える」
幾度も祈りに近い気持ちで、心の中だけで繰り返してきた名前だ。
白髪混じりの黒髪、灰色を帯びた青い眼差し、指先が薬品灼けした少し長い手、静かに語りかける低い声、10年を経たサラディンの姿は、彼女のなかでこんなにも鮮やかであった。
熱いものがグランディーナの頬を濡らす。滴り落ちたそれは吸い込まれることなく、塔の床に小さな水たまりを作り出した。
「サラディン、あなたに聞いてもらいたいことがあるんだ」
わずかな望みを未来につないで廃墟と化したバルモアを離れた。
「サラディン、あなたに話したいことがあるんだ」
南へ、南へ、アヴァロン島に渡る、最も近いルテキアの港を目指して歩き続け、食いつなぐためにはどんなことでもした。
「サラディン、あなたは私だとわかってくれるだろうか?」
アヴァロン島に渡り、大神官フォーリスの庇護を受けながら知恵と力を探し求めた。
「サラディン、あなたは私のしてきたことを許してくれるだろうか?」
さらなる知恵と力を求めてゼテギネアを離れ、世界中の戦場を戦い歩いた。
「サラディン、ずっとあなたに会いたかった」
ウォーレン=ムーンと出逢い、ゼテギネアに戻り、帝国を倒すべく解放軍の将となり、その道はいまだ半ばである。
「サラディン」
感触さえない右腕を彼女はかき抱く。
「サラディン、サラディン!」
10年間、口にすることさえはばかられた、かの人の名が、ようやく現実のものとなろうとしていた。
グランディーナが塔に溶け込んでから、残された4人は後に続くことができないでいた。じきにかすかな音も消えてしまい、塔の中からは何も聞こえてこない。
彼らのほかには誰もいないであろうユリマグアスの街角で、ただ待つだけの時間は、思いのほか長かった。
やがて入っていった時と同じようにグランディーナが現れた時には、東の空の色が変わり始めてさえいた。
「グランディーナ!」
アイーシャが飛びついたので彼女は後方によろめいたが、今度は塔に溶け込むことはない。尖塔に寄りかかっただけだ。
「グランディーナ、どうしたんだ? 塔の中で何があった?」
「遅くなってすまない。光のベルを手に入れるだけなのに、待たせてしまった」
「謝ることはねぇさ。おまえが塔の中で何をしていたかぐらい想像はついてる」
「そうか」
彼女はほんの少しだけ笑って、手にしていたベルをかざした。
「これが光のベルだ。デネブ、これをサラディンの前で鳴らせばいいのだな?」
「そうね。こんなところで鳴らしてもサラディンには聞こえないでしょ?」
「わかった」
彼女は心得顔に頷くと、アイーシャにベルを差し出した。
「光のベルはあなたが持っていてくれないか」
「私が?」
「私は自分のことで手一杯だ。ランスロットやカノープスも戦闘に巻き込まれれば光のベルどころではなくなるだろう。あなたに預けておくのがいちばん安全だと思う」
アイーシャは目の下をこすり、手巾(はんかち)を取り出す。手の平の上に広げたそれに小さなベルが載せられたので、彼女は大事に包み込んだ。
「わかったわ。あなたの代わりに大事に持ってる。でもサラディンさまを復活させる時はグランディーナに返すわね」
自分では努めて明るく言ったつもりだったが、言葉が切れるとアイーシャの表情は沈んだ。彼女は再びこみ上げた涙を隠すように、グランディーナの右腕にしがみついた。
「デネブ、君はこのことを予想していて我々を連れてきたのか?」
「まさか。あたしだってこんな事態は予想外だわ。ねぇ、夜も明けちゃったわよ。どこかで休まない?」
「ユリマグアスを離れてからの方がいいだろう。休んでいるあいだに移動されたのでは意味がない」
「そうだな。どうもこういうところは好かねぇ。グリフォンたちも門のところに置き去りにしてきちまったしな」
「そうね。カリャオの次にどこへ行くのか、わからないもの」
「知らねぇのか?」
「そんなこと、興味ないもの」
それで一行がユリマグアスの入り口に戻ると、グリフォンたちはエレボスを中心にして待っている。
「今度もあたしに着いてくるのよ。着いてこられなかったらあなたたち、ユリマグアスに置き去りですからね」
ランスロットが気遣うまでもなくグランディーナは片腕だけで器用にポリュボスに騎乗した。だが彼女も言ったとおり、光のベルをアイーシャに預けて正解だったようだ。
来た時と同じように彼女らはメムピスを先頭にユリマグアスを離れ、再びカリャオの郊外に戻った。
じきに山間の町も夜が明けるだろうが、デネブは野宿の支度をするとすぐに寝てしまった。
一方、アイーシャはグランディーナの腕を診たが、動くどころか感覚も戻せないままだ。
「たぶん原因はスコルハティにある。彼はしばしと言った。動かせるとしたら彼の意志によるのだろう」
「やっぱり私にできることは何もないのね」
「命を取られたかもしれないことを思えば、このまま動かせなくてもかまわないくらいだ」
「そんなこと言わないで。サラディンさまだってあなたが自分を犠牲にしたことを知られたら、きっと悲しまれるわ」
「私は犠牲だなんて思っていないから、あなたが泣くことはない。自分の身体のことはよくわかっている。あなたももう休むといい」
「駄目よ。カリャオで薬草とか買ってこなくちゃ」
「必要な物を書いておいてくれれば誰でも行ける。あなたは疲れているようだ。休んだ方がいい」
「グランディーナだって怪我をしているわ」
「これぐらい私は大丈夫だ」
グランディーナは笑ってみせたが、その顔色はいつもより血の気が引いていて白い。だがいまよりもっと重傷だった時にも、彼女は決して弱音を吐かなかった。
アイーシャは適当な紙に必要と思われる薬草の名前などを書いた。その時に気づいたのは、自分がすごく疲れていて、眠りたくてしょうがないということだ。
「私も休むわ。必要な物はここに書いたから、もしも買ってきてくれたら、私を起こしてね」
「わかった」
「おやすみなさい」
アイーシャを見送ってからグランディーナは立ち上がる。もちろんランスロットとカノープスも、この機会は逃さない。
3人は微妙な距離を置いて、そこから離れた。
「おい、さっきのあれは、どういうことだ?」
「あれとは何のことだ?」
「とぼけるな。あの狼と戦った時だ。あれだけの力を持っているくせに、どうしてふだんは手を抜いてやがる? シリウス、ガレス、エイゼンシュタイン、アプローズ、こいつらがあの門番より強いはずがあるまい? おまえの腕なら、このなかの誰1人として自分は傷つかずに倒せたはずじゃないのか?」
「それは駄目だ」
「なぜだ?」
「ずっとそうしてきた。そのために傷ついても全力は出せない」
「それもサラディンに言われたからか?」
「違う。自分で決めたことだ。力を抑える。そう決めた。いつ決めたのかは忘れた」
「わからねぇな。そんなことをして、おまえにどんな得があるっていうんだ?」
「得などない。力を抑えるのは自分のためじゃない。周りのためだ」
「どういうことだ?」
「あなたたちも気づいただろう? 私は、ガレスやアプローズと同類だ。力を出しすぎれば、いつでも奴らのようになる。スコルハティにも言われた、もう少し彼と戦っていれば堕ちただろうと」
「堕ちる?」
「スコルハティを倒し、ユリマグアスを破壊し、あなたたちを殺す。彼が押さえていてくれなければ私はそうした。そうするまいとする理性よりも、そうしたいと欲する衝動の方がずっと強かった。あれを何と呼ぶのかはわからない。だけど私は、そういう人間だ。もっとも、私も自覚したのはついさっきのことだ。以前から力を抑えてはいたが、実際にどうなるのか、はっきりとは知らなかった。ウォーレンから解放軍のリーダーを引き受けた時は気づいていなかった」
「じゃあ、何だ。おまえは解放軍のリーダーを止めるとでも言うつもりか? 自分は人間離れした奴だから俺たちに警戒しろとでも言うのか?」
「いまさらリーダーを降りる気はない。たとえサラディンを取り戻せなくても帝国との戦いを止めるつもりもない。私が始めた戦いだ。どんなことがあってもラシュディを倒すまでは終わらせない。でも2つめの質問の答えはおおむねそんなところだ。この腕では私もしばらくは人並みだが」
その言葉も終わらぬうちにカノープスは彼女の襟首をつかみ上げていた。
「てめぇの腕がどれだけのものか知らねぇが、俺をなめるなよ、ガキが」
グランディーナは目を丸くする。
「言葉は悪いがわたしもカノープスに賛成だ。君をリーダーと仰ぎ、ここまでともに戦ってきた。半端な気持ちでそこから降りる気はない。それにわたしは騎士だ。君が何者でも一度捧げた剣を引っ込めるつもりはないね」
「馬鹿な! これから先、スコルハティ並みの相手が出てくれば私はいつでもあなたたちを襲うかもしれないんだぞ? あなたたちだけじゃない、トリスタン、アッシュ、ユーリア、ギルバルド、私が彼らを襲うかもしれなくても、あなたたちは同じことが言えるのか? 彼らだけじゃない、解放軍の全員を危険にさらすかもしれないんだぞ?」
「だがおまえはそうしなかった」
「さっきはスコルハティが押さえていてくれたからだ。いつも都合良くいくものか」
「だがおまえには、そうしないだけの理性が残ってるはずだ」
「そんなもの当てにできると思ってるのか?」
「その時は俺が身体を張ってでも止めてやる。言っただろう、味方を信じろと、俺を信じると」
「カノープス1人で止められなければ、わたしがいる。君は何より自分を信じるべきだ」
「あなたたちにはわからない。あれはあなたたちを殺したところで止められるようなものじゃない。目の前の全てを倒さなければ、壊さなければ、止まるものじゃない。私がなぜこんな傷を負ったと思う? それだけスコルハティに抗ったからだ、それだけの力で押さえられたからだ。自分のことなど、いちばん信じられるものか」
「じゃあ、俺たちを信じろ。おまえを信じている俺たちを信じろ。それもできないと言うのか?」
グランディーナはカノープスを、次いでランスロットを見た。
「私は、あなたたちを殺したくないんだ」
「わたしだって死にたくはないさ。だけど、戦場に出る限り、その覚悟はしている。いや、武器を取った時にと言うべきだろう。わたしは殺されることより殺すことを選んだ。いまでも戦う時には恐れがあるし、震えが止まらないことがある。それでもわたしは戦うことを止めようとは思わないだろう」
カノープスはやっと彼女から手を離した。
「あなたたちは馬鹿だ」
彼女がうつむくとほつれた髪がその顔を覆い隠す。
「おまえほどじゃねぇし、おまえには言われたくねぇな」
「何度でも言うさ。あなたたちは大馬鹿だ」
「ここまで来ておいて何をいまさら、という気もするがね」
「まったくだ。ゼテギネア帝国に喧嘩売ってる奴ほどの大馬鹿はそうそういねぇだろうさ」
最初に笑い出したのはランスロットだった。次いでカノープス、とうとう最後にはグランディーナまで声を上げて笑った。けれど彼女の目に光るものがあったことを2人とも気づいていたが、最後まで何も言わなかった。
「確認しておきたいんだが、おまえは左手で武器は使えるのか?」
「使えるが右腕が邪魔だ。平衡感覚も狂ってるし、いつものようなわけにはいかない」
「じゃあ、得物もないし、しばらくおまえは戦力外と考えていいな」
「すまない。あなたたちには迷惑をかける」
その額をカノープスはこづいた。
「馬鹿言え。デネブもあんなことを言っていたが、せっかく俺たちが来てるんだ。あんなものを見せられた後じゃ役不足かもしれねぇが、おまえの剣ぐらいになってやるよ」
「そうだな。君はあまり深刻に考えない方がいい。解放軍に戻れば帝国との戦いはこれからだ。君がそんな顔をしていたら皆の士気に影響する」
「わかっている」
「最悪の場合はって言おうと思ってたことは先に言われちまったし」
「君も意地悪いんだな」
「勘違いするな。俺だって何もサラディンが復活しないことを望んでるわけじゃないさ。おまえの言ってたラシュディに匹敵するほどの強力な魔法使いが必要という意味もわかってきたし、デネブの言ってたこともようやく実感できた。グランディーナの知識から考えても俺たちにはもっと広範な知識を持ってるような奴がいたらいいなと思ってもいる」
「わかってる」
「そういやあ、今日はどこに行くのか、デネブに確認しなかったな」
「一昨日、話していたバルモア南の教会跡だろう。私がサラディンと別れたのがそこだ」
「サラディンと一緒にいたのは3年間だと言っていたな?」
「そうだ。ずっとそこにいた。教会跡と言っても廃墟というわけじゃない。私には快適な住居だった」
「サラディンがいたからだろう?」
「それもあるけど、その前がもっと酷かったから、どんな住処でもましだったんだ」
「7歳以前の記憶は封印されてるんじゃなかったのか?」
「それでもレクサールという名前のように突然、記憶か幻が降って湧くことがある。たいていはろくなことじゃなくて、夢に見て、泣き出して、何度も彼を困らせたけれど」
「いまのおまえからは想像もつかねぇな」
「私も子どもだったんだ」
グランディーナは照れくさそうに微笑んだ。
「サラディンてのはそれほどの奴か?」
「私がここにある全てだ。何者にも代えられない。この10年間、彼のことは思わない日は1日もない」
「サラディン殿に早く再会できるといいな」
彼女は頷いた。幸せそうな顔は、ついほころんでしまうものと見える。
「彼に話したいことがたくさんあるのに、何から言えばいいのか、わからないんだ」
「君の素直な気持ちを打ち明ければいいさ。サラディン殿はきっとわかってくれるだろう」
「ありがとう」
話しているうちに夜は明けきっていた。
「あなたたちも少し休んだらどうだ」
「一晩くらい徹夜したって堪えやしねぇよ」
「それならば、アイーシャから預かった書きつけだ。店が開きそうな時間になったら買い物に行ってくれないか」
「ずいぶんあるけど、金は足りるのか?」
グランディーナは硬貨の半片を書きつけに載せる。
「万が一の時はそれで〈何でも屋〉のジャックを呼び出せ。金ぐらい貸してくれるだろう」
「承知した」
結局、〈何でも屋〉のジャックは呼び出さないで済んだが、デネブとアイーシャが起きてきたのは買い物が済んだ後だった。
アイーシャはグランディーナの足の傷に包帯を巻き直し、それが済んでから、残り少ない携行食糧で朝食を取った。
やがて5頭のグリフォンが、カリャオの郊外を発っていった。