Stage Nine「いつか海に還る日まで」4

Stage Nine「いつか海に還る日まで」

風竜の月20日、ランスロットは夜明け前に目を覚ました。ウァロが「日が出たら起きて、日が沈んだら休む」と言ったことを覚えていたからだ。
もちろんサラディンやローベックたちも起きていて、彼らは〈漆黒の涙〉号で朝食を取った。しかしマーケサズの中央広場に再び赴いたのはサラディンとランスロットだけであった。
ところが、昨日はあれだけ広場を埋めていた人びとが、今日は3分の1もいないではないか。
「これはどういうことだ、ウァロ?」
「みんな、それほど本気で人魚たちと戦いたいなんて思ってねぇってことさ、たぶんな」
「それではここに来た者たちは、そなたも含めてそうではないと考えてもよいということだな?」
「まぁ、そういうこった」
「だが、そなたたちの意見に賛同する者は残念ながら少ないようだな?」
「ちぇっ。悔しいけどあんたの言うとおりだ。どいつもこいつも臆病でいけねぇや。1人殺されたくらいでびびっちまいやがってよぉ」
「そなたは、殺されたのが自分の身内でも同じことが言えるのか?」
「それは、そういうわけじゃねぇけどよぉ」
「人魚たちと戦争になればもっと大勢の者が殺されよう。人魚たちの戦力はそなたたちが考えているよりずっと強力だ。もちろん人魚たちも大勢殺されるかもしれないが戦争になればどちらも無傷ではすまぬぞ」
「そんなこと、わかってるけどよぉ」
「どちらが勝っても損害は小さくない。戦争とは得てしてそのようなものだ」
「でも、あんたたちが味方してくれれば、人魚になんか楽に勝てるかもしれないじゃないか」
「だがわたしは、その戦は止めるつもりだと言ったはずだがな」
「何だってそんなことを言うんだ?」
「わたしは戦は好まぬ。そなたたちも人魚も、できるだけ死なないですむような道を探したいのだ」
「でも、俺たちやあんたたちがいくらそう思っていたって、人魚たちが同じように思うとは限らねぇだろう?」
「そのためにもそなたたちの意志を確認してから、人魚たちに会いたいと思っている。彼女らにはゼテギネア帝国がついているが、両者の意志は統一されていないようだ。まだ止めることはできるかもしれない」
「何でそんなに止めてぇんだい? あんたたち、大陸の人間にはカストラート海のことなんて関係ないんじゃねぇのかい?」
「どこの者であろうと人が死ぬことは好まぬ。ましてや、この戦は完全にそなたたちや人魚たちの意志によるのではない。そのやり方にはわたしは覚えがあるし、嫌っているのだ」
そう言ったサラディンの表情が厳しく引き締まる。バルモアで倒したはずの兄弟子アルビレオを思ってのことだろう。
「何だかよくわからねぇけど狩りを止めりゃあいいんだな?」
「ウァロ?! おまえまでそんなことを言い出すのか?」
「だって考えてもみろ。人魚たちにびくつかされてるおかげでここ何日かまともに漁にも行けやしねぇ。あの用心棒って奴らを雇ってりゃあ、確かに人魚を追っ払うのも殺すのも難しくなかったけんど、あいつらを雇うのにかかる金の方がでけぇ始末だ。こんなことをしていたら人魚たちと戦うより先に俺たちが干上がっちまうぞ」
「そんな大げさなことがあるかよぉ」
「そうだ、そうならねぇように人魚たちと戦うんじゃなかったのかよぉ?」
「そう言ってた奴らは逃げちまったじゃねぇか!」
ウァロが突然、怒鳴ったのでランスロットも驚いた。その場にいた者の中でサラディンだけが予期していたような顔だ。
「だって、それはこいつらが無茶言ったからじゃねぇか」
「それは違う。あいつらがいたら、俺たちは人魚たちと戦わされてたんだ」
「おめぇだってそうしようって言ってたじゃねぇか。人魚に馬鹿にされてなるかって言い出したのはおめぇだぞ、ウァロ」
「だがそなたはそうしても空しいことに気づいたのだろう?」
「そ、そうだ!」
「そなたたちの仕事は人魚と戦ったり殺すことではなかったはず、そなたたち漁師の相手はこのカストラート海と魚であろう? もしもそなたたちが戦うべき相手がいるのなら、それは海と魚であろう?」
「そうだ!」
サラディンの言によほど勇気を得たらしく、ウァロは力強く何度も同意する。
「ならば、そろそろ本業に戻るがよい。ゼテギネア帝国を倒すのがわたしたちの仕事だ。そなたたちは安心して漁を再開するがいい」
「本当にいいのか?」
「人にはそれぞれなすべきことがある。だが、カストラート海では二度と人魚は狩らぬと誓ってくれ」
「いいとも」
ウァロも含めて、あっさり同意したのがランスロットには不可解を通り越して不審でさえある。
けれど、サラディンは頷くと港の方に戻りだした。
「サラディン殿、あれだけの言質(げんち)を信用してしまってもよろしいのですか?」
「おそらくは。彼らは人魚たちを怒らせることの不利益さを学んだはずだ。それにいくら彼らが海に慣れているといっても海では人魚たちに決してかなわぬ。人魚たちと争っても彼らが得られるものなど何もありはしない」
「ですが、本当にそれで人魚たちを説得できるでしょうか? 彼らが学んだと言っても、しょせんはこの場での口約束に過ぎないではありませんか」
「人魚たちには、あるいはカノープスにさえそう言われるかもしれぬな。だがわたしが彼らを疑うわけにはいくまい。信じるも信じないも人の心次第、その境を決めるのはその者の心を決めること、疑い出せばきりがない」
「申し訳ありません。差し出がましいことを申しました」
「そなたの疑問はもっともだ。だが、たとえ彼らが約束を守らなかったとしても、もはや我らの関知するところではないし責を負わされることでもあるまい。わたしはそうならぬよう願うばかりだがな」
2人が港に戻ると、アレイス船長らが待っていた。
セダンダがサラディンに近づいてきたのを見た時にランスロットは今朝の食事時どころか、昨晩から彼がいなかったことを思い出した。
「サラディン殿、彼らは街道を北に進み、どうやらパルミラの方に向かったようです」
「わかった。
ここからパルミラまでは船で1日ほどの距離であったな?」
「仰るとおりです。このまま船でパルミラに向かわれますか?」
「その準備をしていてくれ」
「かしこまりました」
「セダンダ、そなたはグリフォンに乗ったことはあるか?」
「はい、何回かありますが」
「そなた、一足先にパルミラに向かって、帝国軍の様子を調べておいてはくれまいか。おおまかな彼らの戦力を知っておきたいのだ」
「わかりました」
「だが、無茶はするな。もしもわたしの予想が当たっていれば、そこにいるのはわたしに負けず劣らぬ力を持った魔法使いのはずだ」
「承知いたしました」
ランスロットはそのあいだにシューメーを降ろしてくる。
エレボスだって表に出たくないはずはないのだが、グリフォンは彼がカノープスではないと見ると知らんぷりを決め込んだのだ。
「悪いな、エレボス。カノープスとは別行動だから、今回はおまえの出番はなかなかないかもしれない」
だが、撫でてやろうとするとグリフォンはうなり声さえ上げて彼を威嚇する。
どうやら、サラディンと乗った時に少しでも慣れてきたと思ったのは自分の勘違いだったようだ。もっともよくよく考えてみれば、エレボスは決してサラディンに慣れているわけでもない。むしろいまだから気づくのだが、エレボスは従わざるを得なくてサラディンに従っていたのではないか。
しかし、彼はそれ以上ぐずぐずしているわけにはいかない。急いでシューメーを連れて船を下りたが、サラディンは特に咎めることはなかった。
「気をつけて行ってくれ。くれぐれも無茶はしないように」
「心得ております。それでは、パルミラでお待ちしております」
セダンダを乗せるのは初めてだが、シューメーはおとなしく従った。その翼は力強く羽ばたき、たちまちのうちに北東の彼方に消えていった。
「船を出せ! パルミラまで飛ばしてくれ」
サラディンの号令一下、〈漆黒の涙〉号はマーケサズ港を離れる。カストラート海は今日もよく晴れていた。
船がマルデンの沖を通りすぎていくころ、サラディンがランスロットたちを集めた。
「現在の状況とパルミラでの目的について話しておこう」
ローベックとクージュラージュはこうして並ぶと対照的な男たちだ。小柄なローベックは細身で、腰に二振りの剣を提げている。騎士や剣士というより、影のようにも見える。対するクージュラージュは大柄で多少のことでは動じなさそうな体格だ。大振りの槍を持ち、最初に挨拶をしたきり、ほとんど話さない。
「パルミラに帝国軍が駐在している。夜襲をかけて彼らを倒し指揮官の正体を確かめる。アルビレオ殿であれば、また倒すまで、そうでなくても人間と人魚をわざと戦争状態に持っていくようなやり方は気に入らぬ。あの様子では人間たちはもう戦をする気はあるまい。ならば、帝国という後ろ楯を失えば、人魚たちにも考えを改める余地もあるだろう」
「しかし、帝国はすでにマーケサズでの失敗を知っておりましょう。あの様子では我らが解放軍ということも承知のはず、むざむざ罠に飛び込むようなものではありませんか?」
「帝国に対し、我らの利点は2つある。彼らは我らの規模は知らぬであろう。それがまず1点、さらに彼らはマーケサズの失敗を明らかに予期していなかった。ゆえに立ち去るしかできなかったのだ。これが2点目だ。彼らの方が規模は大きかろう。だから体勢を立て直せぬうちにたたく」
「ですが、帝国も我らの襲撃ぐらい予想していましょう。策はどうするのですか?」
「それはセダンダの偵察を聞いてから決める。敵の状況もわからぬうちから策など立てても空しいだけだ。だがパルミラは、マーケサズよりも小さな町だ。そのことが我々にとって凶と出るか吉と出るかはわからぬがな」
「サラディン殿はパルミラを訪ねたことがあるのですか?」
「いいや。それも書物の上での知識に過ぎぬ。机上の空論と笑われるかな?」
「いえ、そのようなことは」
ランスロットは思わず赤面した。
船はとうにマーケサズ島とパペーテ島のあいだを抜けてマーケサズ島の北岸沖を東進している。
「カノープスはどこまで行ったでしょうか?」
「わからぬ。だがパルミラが帝国の本拠地であれば、人魚たちの住処がどこかという情報を得られるかもしれないし、見当違いの方に行ってしまったかもしれない。いまは彼を信ずるしかあるまい」
その言葉も淡々としたものであった。
〈漆黒の涙〉号がパルミラの沖合に着いたのは夕方になってからだ。
「船はこのまま港に入れてくれ。見張りはいないようだが、上陸するまで各人が気をつけるように」
「承知しました」
ランスロットは船の左側に立ったが、パルミラ港はサラディンの言うとおり見張りどころか人気もなく、港に繋がれた船が所在なさげに揺れている。
甲板にはいつの間にかエレボスまで引き出されていたが、グリフォンは人の動きには無関心だ。
やがて何事もなく〈漆黒の涙〉号が港に停泊した時、アレイス船長は心底安堵したような顔をして、大きなため息までついた。
4人と1頭が上陸すると、サラディンは船をパルミラの沖まで戻すように命じた。
「この人数では船まで守りきれぬ。船を襲ってくることはないかもしれないが、念のため、距離を取っておいてくれ」
「承知しました」
「まずはセダンダの話を聞くとしよう。ランスロットとわたしは一足先にグリフォンで町を出る。そなたたちも後から来てくれ」
「かしこまりました」
船がまた港を離れていくのを見る暇もなく、エレボスは飛び立った。マーケサズの町もそう大きなものではなかったが、城はなく、帝国軍がどこに駐留しているのかわかりにくい。
「なぜ、パルミラもマーケサズも港に人がいないのでしょう? カストラート諸島のような海に生活の大半を依存する地で、おかしいとは思われませんか?」
「ウァロが言っていたであろう、人魚たちが漁船を襲うようになってから漁ができなくなったと。どこも事情は似たようなものではないのか」
帝国の狙いがわからなくてランスロットは考え込む。人間と人魚を戦わせて帝国にどんな利点があるのか思いつかない。かといって、いちいちサラディンに訊くのも芸のない話だし、さすがの彼も言及しないところを見るとわかっていないのかもしれない。
パルミラの町をあっという間に飛び越したエレボスは郊外に着陸した。あまり街道らしくない街道が東西に延びて、街道の南側には林が広がっていた。
その林の中からセダンダが現れる。サラディンはグランディーナがよくするように影と2人きりで話し、ランスロットはその光景を遠くから見守った。
そこへローベックとクージュラージュが急ぎ足でやってきた。
「サラディン殿! 帝国兵がこちらに来ます!」
「規模はどれほどか?」
「20人ほどです。わたしたちのことは気づいていないようですが、先ほど、グリフォンで町を飛び越えたところを見られたのかもしれません」
「来たか。
ランスロット、そなたの剣を貸してくれ。わたしが彼らを迎え撃とう」
「いくら魔法とはいえ、一度に20人も相手にできるとは思えません。無茶です」
「だから、そなたの剣を借りたいと言ったのだ。だがそなたが一時的に丸腰になってしまうな。
ローベック、そなたの剣を一振り、ランスロットに貸すことはできるか?」
「わたしはかまいませんが、ランスロット殿はこのような剣でも大丈夫でしょうか?」
ランスロットにはサラディンが何をしようとしているのかさっぱりわからないままだったが、それ以上、問うている時間がないことだけはよくわかった。彼は鞘ごとスムマーヌスをサラディンに渡して、ローベックの差し出した鞘の真っ黒な剣を受け取った。
「そなたたちはいまは隠れているがいい。わたしが攻撃するまで出てはならぬぞ」
不審に思いつつ、ランスロットは言われたとおりに隠れる。〈何でも屋〉のジャックからサラディンに従うよう厳命されているのか、ローベックたちはランスロットよりも行動が早いくらいだ。
できるだけ近くの木陰に隠れて様子を窺っていると、サラディンが左手にスムマーヌスをかまえた。
夕闇の濃くなり始めたパルミラの町から帝国軍が現れる。騎士や狂戦士のほかに槍騎士やホークマン、それに魔法使いも見える。
サラディンが魔法を撃ったのはその時だ。帝国兵が彼を認め、魔法を撃つよりも速い。その雷はスムマーヌスに吸い込まれたかと思うより速く、剣から無数の雷となって帝国兵に降り注いだ。
同時に、嫌な音を立ててスムマーヌスは真っ二つに折れ、サラディンの左手も無事ではいられなかった。
ランスロットは彼を庇うべく飛び出し、あれほどの魔法を受けながら、なお斬りかかってきた帝国軍の騎士の剣を真っ向から受け止めた。
「セダンダ! サラディン殿を頼む!」
ローベックたちも遅れなかった。彼らは林を背に扇状に並んで、ランスロットを中心に応戦し、誰に指示されるでなく、エレボスとシューメーも空中からこれに加わった。
サラディンの放った魔法は解放軍の魔術師が打つよりも威力があったし広範囲に及んだが、一度に20人もの帝国兵を倒すほどではなかった。それに帝国兵には僧侶か司祭の姿も見える。
「エレボス、シューメー、戻れ!」
サラディンの命令にグリフォンたちがとって返す。
彼が今度唱えた呪文は、先ほどとは別のものだった。10バス(約3メートル)ほどの高さの紅蓮の壁が、帝国兵たちのあいだに立ち上ったのだ。クージュラージュが急いで槍を引っ込めたが、穂先に近い柄が焦げていたほどの威力であった。
その時に耳をつんざいた悲鳴が、しばらくランスロットの耳から離れなかった。
振り返るとサラディンは力なく、差し伸べた右手を落とした。
助けを断られたらしく、セダンダが申し訳なさそうな、立場のないような顔でこちらを見ている。
「少し、やりすぎたな。わたしのことはいい。彼らに戦意がないのなら助けてやるがいい」
そう言われて、彼はようやく戦場を振り返った。
真っ黒に焦げた草と、そこここに倒れた負傷者という光景は、戦場と言うよりも火事場のようでもあった。
ランスロットと切り結んでいた騎士は炎の壁に巻き込まれないで済んでいたが、味方の被害の大きさに腰を抜かしそうになっているようだ。
「立てるか? この状況で君たちもまだ戦い続けたいとは思うまい。休戦しないか?」
「反乱軍にこんなに強い魔術師がいるなんて聞いていないぞ」
「それは、君たちの情報が古いせいだろう。来たまえ、紹介しよう」
誰かに命令されるまでもなく、彼以外の帝国兵たちは怪我人の救出にあたり、ローベックたちもすでに手伝いに加わっている。
ランスロットは騎士を連れてサラディンの元に戻った。セダンダが傷の手当てをしているところであった。
「こちらはバルモアで解放軍に加わっていただいたサラディン=カーム殿だ」
「何だって?!」
サラディンが自嘲気味な笑みを浮かべる。
「わたしの名を知っているのならば話が早い。即刻、ゼテギネアに帰ってラシュディ殿に伝えるがいい。不肖の弟子サラディンが兄弟子にかけられた石化の魔法を解かれ、師を討つべく解放軍に加わりましたとな」
「そ、そんなことできるわけがない」
騎士は力なくうなだれる。その態度にランスロットはもとよりサラディンも興味を覚えた様子だ。
「なぜ、できぬのだ?」
「わたしはいまはゼテギネア帝国に仕えていますがもともとはバルモアの生まれで、セレスト=ナクソスといいます。ドヌーブの英雄と名高いあなたを裏切ることなどできません」
その答えをランスロットはある程度、予想していたが、サラディンは驚いたように目を見張った。しかし、彼はすぐに同郷の騎士の傍らに片膝をついた。
「裏切りなどと恥じることはない。それにわたしはドヌーブの英雄などでもない。そなたは思うところがあってゼテギネア帝国に仕えているのだろう。ドヌーブという国はすでにないのだ」
「で、ですが、サラディンさま」
「失われた国のことを語り合ったところで互いに益はなかろう。それよりもそなたたちの将について知りたい。話せぬのならば、そなたと話すことはない」
セレスト=ナクソスと名乗った騎士はまたしてもうなだれてしまった。
年のころはランスロットよりも若く、アレックらと同年代だ。だが、サラディンはゼテギネア帝国の建国後も14年間も抵抗し続けたので彼の功績を知っていてもおかしくはない。それは「神帝グラン」という名しか知らないゼノビアの若者とは雲泥の差がある。
そうしているあいだにサラディンの傷の手当ては終わっていた。
「すまなかったな、ランスロット。せっかくジャックから譲ってもらった剣を、ろくに使わぬうちに壊してしまった。そうなるだろうと予想してはいたが、先ほどは説明する時間もなかったのでな」
「剣のことはかまいませんが、お怪我の方は大丈夫ですか?」
「片手ぐらいならば大事はない。そなたの剣は折れたが、わたしの手は火傷で済んだ」
それは良かったとも言いがたくランスロットが逡巡していると、セレストが割り込むように近づいた。
「サラディンさま、わたしの知っていることをお話しします。我々の将だったのはあなたにとっても縁浅からぬ方です」
サラディンの表から血の気が引くのをランスロットは認めた。否、彼がそのまま気絶するかと思って手まで出したほどだ。
だが彼はそうしなかった。杖を握り締めた手が傍目にもはっきりと震え、小刻みに動いた杖の先端が土を抉(えぐ)るのを、止めようとした手も震えていた。
「パルミラにいた我らの将は、賢者ラシュディさまの4番弟子、アルコル殿です」
「何だと?!」
それは別の意味で驚きであった。ガレス皇子のようにラシュディに師事した者は少なくないが、公式に知られている弟子はあくまでも3人、アルビレオ、サラディン、カペラだけとされているからだ。
「ですが、いまはアルコル殿はいません」
「それぐらい知っている。我々の目的はパルミラを落とすことだ。だがアルコルはどこへ行った? 我が弟弟子だというのならばなおのこと、暗黒道にむざむざ堕ちようとするのは止めなければなるまい」
「アルコル殿は今朝方、部下を2人連れてファカラバへ向かいました。それから、このことはわたししか知りませんが、明日は人魚たちの長に会いにサライゴメス島の東隣の島に行くということです。我々がカストラート海に来たのは賢者ラシュディの指示とうかがっていますが目的はアルコル殿しか知りません。アルコル殿が人魚の長に会うのは2回目と聞きました」
彼らが話しているあいだにも傷ついた帝国兵の治療は進められており、セレストが話を中断して時々、指示を下す。
「我々にはありがたいことだが、将の行く先をそのように話して、そなたの立場は大丈夫なのか?」
「ゼテギネア帝国は敗者に容赦がありません。2ヶ月前、ゼノビアを失ったデボネア将軍も、四天王の地位を追われ、どこかの監獄に閉じ込められたと聞きます。ましてや、わたしのような一介の騎士がパルミラを失ってその罪を咎められないで済むとは思えません。わたしはできたら、バルモアに戻るつもりです」
「バルモアはおそらく、そなたが離れた時とそう変わっておるまい。復興はほとんど進んでいない」
その言葉にセレストは少しだけ嬉しそうな顔をする。
「そうですか。それならば、わたしにもできることはありますね。故郷を離れてみてよくわかりました。わたしはやっぱりバルモアがいちばん好きなんです」
明るく言い切る彼を、ランスロットは羨ましいと思った。自分はそれほどゼノビアという土地を愛していない。彼が忠誠を捧げるべき相手はゼノビアという国であり、そこを治める王だ。いまでこそ解放軍の一員としてゼテギネア中を旅することも厭わないが、それは自分が剣を捧げた者がそうするからこそ従うのだ、ということをはっきりと自覚したためだった。
「ならば、そなたはバルモアに戻るがいい。いろいろと助かった」
「あなた方もどうかご無事で。反乱軍、いえ、解放軍のご武運をお祈りします」
それから彼らがパルミラを出て船に戻ったころには夜はすっかり更けていた。
セダンダたちは夕食を取るとすぐに休んだが、ランスロットは気にかかることがあって、まだ起きていた。
「まだ起きていたのか。明日は真っ直ぐにサライゴメス島の先の島に向かうぞ」
「それは承知しているのですが、考え事をしていたら眠れなくなってしまいました」
「アルコルのことか」
「それだけでもありませんが」
船首に座っていたらサラディンが隣に腰を下ろす。
「サラディン殿、なぜエレボスを飛ばしたのです? 帝国軍に見つけられることを期待したのですか?」
「否定はしない。攻めるよりも迎え撃つ方が対処しやすいと判断した。気に入らなかったか?」
「いえ、正攻法で攻めても我々の数では勝てないでしょう。わたしという人間が甘いのです」
「では肝に銘じよ。わたしがグランディーナから聞いた優先事項は1に勝つことであり、2にそなたたちがいかに傷つかぬかだ。策は問わぬ」
「承知しております」
「先ほどは2人亡くなったそうだ。あと幾人殺せば、ゼテギネア帝国は倒れるのであろうな」
「わたしにはわかりかねます。ですがサラディン殿までグランディーナのように矢面に立たれることはないのではありませんか?」
「先ほどはわたしの方が効果的な攻撃ができると思ったからそうしたのだ。あれで戦意を挫ければと思ったが、そううまくはいかぬものだな」
「帝国にも容易に下がれぬわけがあるのでしょう」
「帝国兵が個人的にわたしを憎むのなら、その方がよい。だがかなわぬとわかっている敵に降ることを許されぬ兵は憐れとしか言いようがない」
「しかしこの先は、いつか旧ハイランド領に入ります。我々が侵略者になれば、彼らの抵抗もより激しいものになるでしょうし、降伏はいたしますまい」
「だから降伏したくなるよう仕向けるのだ。圧倒的な力の差を見せつけて、抵抗が無駄だと思わせねばならない。幸い、わたしには解放軍の誰よりも知名度があるし、ドヌーブ王国ありしころの抵抗を知る者も帝国には残っていよう。そのためには汚名を被るのもやむを得まい」
ランスロットは息を呑んだ。サラディンがそれほどの覚悟を持って戦っていようとは思いもしなかったからだ。あるいは彼もまた養い子同様に帝国打倒なりしあかつきにはゼテギネアを去るつもりでいるのかもしれない。
しかし、彼が何か言う前にサラディンは立った。
「もう休むがいい。明日はファカラバに寄らず、真っ直ぐに無人島へ行く。そこが本当に人魚たちの住処だというのなら、ブリュンヒルドを手に入れるのも、そう先の話ではないかもしれないからな」
「アルコルの目的を探らなくてもよいのですか?」
「それは本人に直接、確かめればいいだろう」
そこにカノープスがいることをランスロットは切に願った。でも本人にそう言ったら笑い飛ばされそうな気もするのだった。
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