Stage Nine「いつか海に還る日まで」
風竜の月21日、カノープスとメリアーはファカラバから東にある無人島、人魚たちの言うエニウェトック島に着いた。人魚たちの住処は北東の入り江近辺で、島の北端から回り込んで間もなく、三つ叉槍で武装したマーメイドやニクシーが2人を出迎えた。
「メリアー! 無事だったの?」
「いつまでも帰ってこないから心配したのよ」
「ごめんなさい」
「エゲリアやサルナはどうして一緒じゃないの?」
「それがーーー」
メリアーの表情が暗くなり、周囲の人魚たちも事情は察したようだ。かん高い声が一斉に止んで、沈鬱な雰囲気になる。
カノープスも事実は知っているだけに不用意なことは言えない。しかしじきに彼は自分に注目が集まっていることに気がついた。
「この人がメリアーを助けてくれたの?」
「そうよ」
「翼が生えてるわ! あなた、人間じゃないの?」
「俺はバルタン、有翼人さ」
「素敵! ねぇ、どんな風にメリアーを助けたの? 話を聞かせてよ」
「あなた、また人魚を助けたの? よほどのお人好しか変わり者だわ」
「そっちこそ、元気そうじゃないか、リエッシー?」
「みんな、この人があたしを助けてくれたのよ。
おかげさまでね。そういえば、今日は1人なのね。お仲間はどうしたの?」
「ちょっとわけありでね」
「ふーん」
カノープスはリエッシーのことなどメリアーを助けた時から頭の片隅に追いやっていたが、彼女はそうでもなかったようだ。
さらに人魚たちがまた集まってきて、カノープスもその場で滞空飛行しているのが苦痛になり始めたころ、やっとメリアーが皆のあいだに割り込んできた。
「ちょっと待ってよ、リエッシー! 助けてもらったのはあなたも同じかもしれないけれど、カノープスはいまは私のお客様だわ。私たち、ポルキュスさまにお会いしたいの。報告しなくちゃいけないこともあるし、彼も紹介したいし。
みんなも彼と話すのはその後にしてくれない?」
「しょうがないわね」
「あなた、カノープスっていうのね? また後でね、カノープス!」
「ああ」
マーメイドの娘が無邪気に手を振り、彼も振り返す。それからメリアーを追いかけると、彼女は楽しそうに振り返った。
「みんな、あなたを歓迎しているわ。できれば、ずっといてほしいくらいよ」
「そりゃまた、大した歓迎のされようだな」
「でも、あなた、リエッシーとはどこで会ったの?」
「人間たちがパペーテって呼んでる島の北西辺りだ。俺たちの船を襲ってきたんで仲間が追っ払ったのさ。リエッシーと、ニクシーにオクトパスもいたな」
メリアーが急に止まったので、カノープスは彼女の顔をのぞき込む。いま言ったことは嘘ではないし、いままで彼女に話してきたこととも矛楯はしていないはずだがあまり自信はない。
「それはラアティラの部隊だわ。でも、どうしてあなたたちの船を襲ったりなんかしたのかしら?」
「俺たちの乗ってた船がカストラート海の連中と間違えられたかららしいぜ」
「なんてことなの」
メリアーがそれきり黙り込んだ理由がわからないので、彼も慎重にならざるを得ない。
しかし、よく考えてみると、そもそも人魚たちがなぜカストラート海の船を襲ったのか、具体的な理由は彼も知らない。自分たちが襲撃された時には当然のことのように撃退したが、彼女らはなぜ、そんな危険を冒したのだろう。
「いいわ、このことは私1人で考えてもしょうがないもの。それにラアティラからポルキュスさまに報告が行っているはずだわ」
メリアーはようやくカノープスの方に向き直った。
「ちょっとここで待っててくれる? ポルキュスさまと話したいことがあるの。それからあなたのことも話してみるわ。きっと会ってくれると思うけれど」
「わかった。だけど、俺もここで待機してるのはいい加減に疲れた。あの岩で待ってるから、お許しが出たら呼んでくれ」
「いいわ」
入り江は断崖になっており、いくつもの洞窟が穿(うが)たれている。メリアーはそのうちの1つに入っていったが、人魚たちの長がいるからといって、とりわけ立派な洞窟というわけではなさそうだ。
先ほどのマーメイド以外にも何人もの人魚たちが泳いでいるのを彼は見つけたが、彼女らは話しかけてこなかった。あるいはカノープスの存在に気づいていないのかもしれないし、たまたま積極的な性格じゃない人魚なのかもしれない。
ただ、彼がいまさらのように気づいたのは、男の人魚が、もしもいるのならばだが、1人も見当たらないということであった。
「あなたは男性だもの」
そう答えたメリアーの真意がカノープスにはようやく思い当たった。
「カノープス!」
そこへリエッシーが追いかけてきた。メリアーが近くにいないのを確認して、少しだけ勝ち誇ったような顔をする。
「お姉様はポルキュスさまのところでしょう? どうせしばらく出てこないわ。それまで、あたしとおしゃべりしていましょ、いいでしょ?」
「何の用だい?」
「一緒にいた人たちはどうしたのかと思って。あなたたちのこと、誰に言っても信じてくれなかったんだもの。ラアティラのお姉様だって嘘だろうって言い張るのよ、あたしがどれだけ悔しかったか、わかる?」
「わからないとは言わないが、そいつは俺のせいじゃないぜ」
「そうね。あなたが来てくれたから、あたしは嘘つきにならないですんだわ。何を笑っているの?」
「あんたが、俺の知り合いによく似てるからさ」
「本当に?」
「ああ」
「その人に会ってみたいわ」
もっとも、その似ているという知り合いが、リエッシーよりも年下だろうということをカノープスは言わないでいた。メリアーの例もある。あるいはリエッシーだって自分より年上かもしれないのだ。
「ねぇ、それで? メリアーのお姉様とはどうやって知り合ったの?」
「彼女がマーケサズで捕まってたところを助けてやったのさ。あんたたちこそ、何で人間たちの漁船を襲ったりなんかしたんだ?」
「ポルキュスさまの命令でだわ。でも、ポルキュスさまのところに嫌な人間が来たの。あたし、あんな奴、嫌いよ」
「嫌な人間って?」
リエッシーは唇をとがらせた。
「人間のことはよくわからないけど、すごく偉ぶってて嫌な奴、ポルキュスさまはカストラート海から人間を追い出すまでのあいだだって言うんだけど」
カノープスは鼓動が高くなるのをうるさいとさえ思っていた。彼女の言う「嫌な奴」がもしもアルビレオだったなら、彼の正体など一発で知られる。
バルモアではサラディンとランスロットの手を借りて倒したようなものだ。今度は2人ともいない。カノープス1人で何とかなるような相手には思えない。
「どうかしたの、カノープス?」
「いいや、何でもない」
「あら、何でもないなんて顔じゃなかったわよ」
「それよりもリエッシー、あんたたち、人魚に男はいないのかい?」
「そうよ。いまごろ気づいたの?」
「まぁな」
「あたし、とっくに知ってるものだと思ってたわ。お姉様があなたを連れてきたのも、種をもらうためだと思ってたのに」
「まじかよ」
「あら、あたしだってそのつもりだったわ。この前は子どもだったけど、もう立派な大人だもの、あたしも卵を持てるのよ」
「俺との?」
「勘違いしないで。卵はあたしたちのものだわ。あなたにもらいたいのは種だけなの」
「ぶっ!」
「心配しないでいいわ。卵からは人魚しか生まれないんだから、あなたには渡さない。娘はちゃんとみんなで育てるし、種が誰のものだろうとあたしたちは気にしないから。だいたい、あなたたちに人魚が育てられるとも思えないもの。どうしたの? さっきよりも顔色が悪いわよ」
聖剣ブリュンヒルドの行方などいますぐ放り出して、カノープスは大陸に飛んで帰りたくなった。
どうやら彼はとんだ後宮(はれむ)にやってきたらしい。いや、ここで期待されているのは種馬の役の方だ。彼はもう少しで頭をかきむしるところだった。
「あのなぁ、俺は人魚の生態なんて知ったのは、今日が初めてだったんだよ。事情もわからないのにそっちで勝手に話を進められて、これが驚かないでいられるか」
「あら、そう?」
「話になりゃしねぇ」
リエッシーは陽気に笑い出したが、いまのカノープスには悪魔的、とでも言いたいような声だ。
だから彼は、メリアーが近づいてきたことも声をかけられるまで気づかなかったほどだ。
「カノープス! 待たせてしまってごめんなさい。やっとポルキュスさまのお許しが出たわ。
リエッシー、あなた、こんなところで何をしているの? カノープスには用事があるって、さっき、あなたに言ったと思ったけれど?」
「だって、お姉様はポルキュスさまと話していて彼が1人になってしまっていたじゃない? せめて、お姉様が戻ってくるまで、あたしが話し相手になってあげようと思って。お客様を放っておくのは良くないことでしょう?」
メリアーは咳払いをひとつした。
「ともかく、もうそれはいいわ。ポルキュスさまがカノープスに会いたがっているんだもの。
行きましょう、カノープス」
「また後でね」
メリアーが振り返ったのは洞窟の手前まで行ってからだ。カノープスも振り返ると、リエッシーはもういなくなっていた。
「あの子に何を言われたのか知らないけれど、あまり気にしないでほしいわ」
「そんなわけにはいかないさ。ほかならぬ俺自身のことだってのにどうして黙っていられるかよ」
メリアーは驚いたようだが、彼女の答えを聞いたカノープスほどでもなかったろう。
「もしかしてあなた、知らなかったの?」
「あのなぁ。いくら俺が人魚のことを知っていたって、本物の人魚に会うのは初めてだし、人魚に女しかいなくて、人魚が卵生で、人間とでも有翼人とでも子供が作れて、生まれてくるのは人魚だけ、なんてことも今日、初めて知ったんだよ」
「ごめんなさい。私、てっきり知っているものだとばかり思っていたわ」
「まぁ、ちゃんと確認しなかった俺も悪かったけど、せめて一言、言ってほしかったな」
「私、何度も言ったじゃない、あなたが男の人だからって。それではわからなかったの?」
「あいにくと、俺たち有翼人も人間もあんたたちとは違っているんだ。さっき、リエッシーと話している時に気づいたよ。あんたたちには男がいないんだな」
「ええ、そうよ。それにあなたはここまで来た50年ぶりの男性だわ。私たち、10年おきに卵を産むの、でも、種がもらえないと卵は孵らないわ」
潤んだ瞳で見上げられて、カノープスはたじろぐ。そんなことを言われると協力しない彼が悪いみたいではないか。
しかし、彼もそれ以上、何かを言って、メリアーの気持ちをこじらせるのは気が進まなかった。それに彼がポルキュスの待つ洞窟に入っていったのは、またしてもデネブの台詞を思い出したからだ。
「あなたの負け。もっと男を磨いて、彼女の1人でもつくりなさいな」
デネブの弁はともかくとしても、ここで逃げ出したら、それこそ男がすたるというものだった。
洞窟の内部は入り口からは考えられないほど広く、上から陽光が差し込んでいた。その奥にはニクシーが岩に腰かけており、カノープスを認めると笑顔を向けた。金色の尾は黄金のように輝いている。ニクシーはもう1人いたが、水の中にいるのでそれほど目立たない。だが、岩に腰かけたニクシーがポルキュスであるのは間違いなかった。
彼は岸に降りた。洞窟は十分に広いが、飛んでいくよりも歩いていくことにカノープスは慣れていた。
メリアーがそんな彼を不思議そうに見る。翼があるからといっていつでも飛んでいればいいというものではないことは、水中にいる彼女にはわかりづらいところかもしれない。
「ようこそ、カノープス。あなたを歓迎するわ。それにリエッシーやメリアーを助けてくれたこと、礼を言います」
「ああいうやり方は俺は好きじゃねぇ。先に手を出したのがあんたたちの方だとしても、ほかのやり方があったはずだ」
「だからといって、私は人間たちを殺させたことを悔やんではいないわ。人間には何人もの人魚たちが殺されているし、あの船にはマーケサズの支配者が乗っていた。彼はさんざん私たちの仲間を狩って金儲けを企んだという話ではないの、殺されて当然だわ」
「マーケサズの支配者?」
「ええ」
カノープスはメリアーを見たが、彼女はポルキュスの言葉に同意するように頷いてみせた。もう1人のニクシー、たぶんラアティラも頷く。
しかし、彼女らの話はサラディンの説明といささか矛楯している。彼の知識が10年前のものだとしても、そう簡単に町の制度が変わるものだろうか。
「カストラート海の多くの町は町長を置かない。マラノのように人びとの話し合いで物事を決めることが多いが、住人の数もそれほど多くないのでうまくいっているらしい」
「何だってそんな面倒なことを?」
「必要がないからだろう。カストラート海で最も尊敬されているのは腕の立つ漁師だそうだ」
「それは平和なものですね。ゼテギネア帝国はなぜそんなところにまで争いを持ち込もうとするのでしょう? やはりブリュンヒルドのためでしょうか?」
その問いにサラディンは首を振っただけであった。
「それで、そいつはうまく片づけたのかい?」
先に首を振ったのはメリアーだ。
「船に乗っていたのは戦い上手な戦士たちでした。1人は殺せましたが、彼らは無防備だということではありませんでしたか? むしろ、私たちが来ることを知っていたかのようです」
ラアティラは話す前にカノープスを盗み見た。
彼女たちが〈漆黒の涙〉号を襲撃した時はサラディンが対峙しており、カノープスはラアティラの顔をほとんど見ていない。
「私たちが襲った船は、彼の言う解放軍の物で、カストラート海の物ではありませんでした。私たちは無事でしたが、とても正確な情報だとは思えません」
「彼が嘘を言ったと?」
「たとえカストラート海の者ではないとしても、人間を信用するのは危険だと申し上げているのです」
「でも、剣はあったわ」
そう言って、ポルキュスはカノープスの反応を伺うように見る。
「俺はそもそもブリュンヒルドを探してカストラート海に来たんだ。メリアーに聞いただろう?」
「ええ、聞いたわ。でも、仲間と別れてきたのだったら、剣は要らないでしょう?」
「そうだな」
「どちらにしても剣は私たちでなければ行けないような深海に隠したわ。在処も私と、もう1人の人魚しか知らない」
「俺には必要ない」
「いいでしょう。あなたはメリアーやリエッシーを助けてくれたのだから、信じるわ」
「俺たちは人魚の肉を食べて不老不死なんて信じちゃいなかったし寿命にも不自由してないもんでね」
「ならば、あなたが役目を果たしてくれることを願うわ。私たちには勇敢な男性の種が必要なの」
「あんたが俺を招いたのは、種馬って言ってもあんたたちにはわからないんだろうな、要するに種をよこせって念を押すつもりだったのかい?」
「それだけではないけれど、目的の1つでもあるわね。この島に男性を迎えるのは50年ぶりだもの、たくさんの卵が孵ってほしいわ」
「まぁ、俺もここまで来た以上、協力しねぇなんて野暮なことを言うつもりはないが、ほかに俺を呼んだ目的があるのなら、そっちも聞かせてもらいたいね」
「あなたは解放軍、帝国の言う反乱軍の戦士なのでしょう?」
「そうだ」
「その腕を見込んで、私たちと一緒に戦ってもらえないかしら?」
「人間とか?」
「ええ」
「帝国となれ合うのは真っ平ご免だぜ。あんたたちだって、帝国の奴らを信用してるってわけじゃないんだろう? それからさっき、彼と言ったな? 誰のことなんだ?」
「神聖ゼテギネア帝国女帝エンドラの使い、アルコルという男よ。船とブリュンヒルドのことは彼から聞いたの。知り合い、というわけではなさそうね」
「もちろん、初めて聞く名前さ」
「でも、あなたも聞いていたとおり、彼のくれた情報には全面的な信頼が置けないわ。少なくとも、彼は私たちに好意を持っているわけではない。最初にエニウェトック島に彼がやってきた時、彼はエンドラの言葉を伝えたわ。ゼノビア王国のグラン亡き後もカストラート海で人魚狩りが続いているのは嘆かわしいことだ。自分はグランのような過ちは繰り返さないし、そのためにも人魚が平和に暮らせる、人魚だけの王国をカストラート海に作ることを約束すると言ったのよ」
「それで、ついでに聖剣ブリュンヒルドの在処も教えてくれたっていうのか?」
ポルキュスは頷いた。
彼女の困惑ぶりはカノープスにも理解できる。アルコルがエンドラの使いならば、なぜ偽の情報を流すなどするのかわからないからだ。
「だからと言って、私は帝国からの援助を断るつもりはないわ。せっかくゼテギネア帝国という強国が私たちに協力してくれると言うのだもの、せいぜい利用させてもらわなくてわね」
「アルコルは相当の曲者なんだろう? 利用するなんて言ってるけど、あんたたちが人間のことをそんなに知ってるとも思えねぇ。そううまくいくかね?」
「ポルキュスさまに何てこと言うの!」
「じゃあ聞くが、あんたらが人間の何を知っているって言うんだ? 長年、あんたたちの肉を不老不死の妙薬と信じて狩ってきたことか? あんたたちの卵を孵すために親切に種をくれたことか? それ以外にあんたらが人間たちの何を知ってるって言うんだ?」
「だから、私はあなたを呼んだのよ。解放軍の一員だったあなたなら、アルコルが来た時にどうすればいいのか、わかるのではないかしら?」
「何だって?!」
ポルキュスは微笑んでみせ、メリアーも手をたたく。
「アルコルは今日の夕方にこの島に来ます。15日前に来た時は情報をもたらしてくれただけだったけれど、今度は何が目的かわからないわ」
「ちょっと待ってくれ。俺はその時にいなかったから状況が全然わからねぇ。先にそっちを説明してくれ。それが順番てものだろうが?」
「話したら、協力してくれるの?」
「協力してほしいのはそっちだろうに、ずいぶん強気なんだな」
「ここは私たちの島だもの、それにカストラート海のことは誰よりもよく知っているわ。海で人魚に逆らうなんて愚かなことだとは思わない?」
カノープスは思わず頭をかいた。ここで我を通してポルキュスたちの機嫌を損ねるのは望むところではない。何より、彼の目的は人魚たちが持ち去ったブリュンヒルドの在処を探ることだ。
「それは、あんたの言うとおりだな」
「良かったわ、わかってくれて。
メリアー、ラアティラ、あなたたちはもう休んでくるといいわ」
「わかりました」
2人のニクシーが洞窟を出ていってからカノープスはポルキュスに言った。
「どうして人払いをする必要があったんだ?」
「アルコルの姿はみんなが見ていたけれど、彼と話したのは私だけだわ。それに、メリアーもラアティラも戻ってきたばかりよ、いつまでも引き止めていないで休ませてあげなくてはね」
「俺と2人きりになりたかったっては、言ってくれないのかい?」
「あら、私はもう卵を孵すつもりはないわ。あなたの種は若い子たちに分けてあげて」
「あんたたちときたら、男と見たら種馬としか考えねぇのか?」
ポルキュスはさっきのメリアーのように驚いた様子で彼を凝視した。「所変われば品変わる」とはよく聞くが、カノープスもここまで価値観の違う相手は初めてのことだ。
「だって、私たちの世界に男性なんていないのよ。なにもあなただって、ここにずっといたい、ずっといてくれるなんてわけではないんでしょう?」
「じゃあ訊くが、俺の前にこの島に来た連中はどうしたんだ?」
「みんな、隣の島まで送ったわ。この島は人間が住むには適していないそうよ。だから、私たちのことも知られないで済んでいるのだけれど、もしも住めたとしても、独りで暮らすのはつまらないでしょうから、やっぱり送り返したでしょうね」
「なるほど」
カノープスにはほかに言いようがなかったのでそう答えたが、ポルキュスの方は彼がそれで満足したものと思ったらしかった。
「それで、アルコルが初めてここに来た時の話だったわね」
それから、彼女の話を聞いてわかったことは、アルコルが見た目は若い魔法使いで、印象はアルビレオに似ているのだが、どうもアルビレオ本人ではなさそうだということ、言葉にも態度にも人魚を馬鹿にしているのが見えるということであった。
「そいつは本当にエンドラの使いなのか?」
「ええ、私も疑ってみたわ。でも、パルミラに帝国軍が来たことは確認できたの、彼はその点については嘘は言っていないのよ」
「じゃあ、あんたは奴の何が気に入らない?」
「彼の、と言うよりもエンドラの言うこと全てが、と言うべきでしょうね。人間たちは平気で嘘をつくし、私たちのことも冷酷に狩ってきた。私たちの娘たちが何人も殺されたわ、人間なんてカストラート海からいなくなればいい。それが偽らざる私たちの気持ちよ。そのためにならゾショネルにだって祈るわ、私たちにそれだけの力があればって、何度思ったかしれない」
ポルキュスが炎神ゾショネルの名を出した理由が彼にはわからなかったが、「グルーザの愛娘」と呼ばれる彼女たちには乾燥をもたらす炎の神は、魔神のように忌まわしい存在だということなのだろう。
「だけど、人間たちだってオウガバトルの後からカストラート海に住んでいるって聞いたぞ。一方的に出てけってわけにはいかないんじゃないのか? あんたたちは人間が狩りをやめればいいんだろう?」
「呑気なことを言わないで。あなたは人間に狩られたことがないから、大切な家族を失ったことがないからそんなことが言えるんだわ」
「俺たちバルタンはあんたたちみたいに誰が相手でもガキができるってわけじゃないんでね。確かに狩られたこともないし、大切な家族を殺されたわけでもねぇが、数の問題じゃこっちも切実なんだ」
「本当なの?」
「そんなことで嘘を言ったってしょうがねぇだろう。あんたたちに姉妹なんて考え方があるのかは知らないが、さすがの俺もーーーいや、いい。事情も知らねぇのにあんたに八つ当たりするべきじゃないんだ」
「顔色が悪いわ、カノープス」
「嫌なことを思い出しちまっただけさ。大丈夫だ、少し休めば、治るから」
そう言いながら、あの時感じた全身の毛が逆立つような嫌悪感に包まれて、彼は吐き気さえ覚える。
ポルキュスはそんな彼を優しく抱きしめた。
人魚たちの上半身は人間や有翼人のような皮膚を持っており、下半身が見えなければ人間と間違えられることも珍しくない。
ただし、彼女たちのこめかみからは珊瑚のような角が2本生えており、マーメイドの時はともかく、ニクシーにもなると長く枝分かれし、髪の毛で隠せなくなるので見間違えようもないのである。
ポルキュスからはカノープスが嗅いだこともない得も言われぬ香りが漂う。それは磯の香りではない。女たちが香水を身につけるように、人魚たちにも同じような物をつける習慣があるのかもしれなかった。
「あんたたちにとっちゃ、男は種馬じゃなかったのかい?」
「でも、いまのあなたは子どものようだわ。それは男性も女性も関係ないのではないの?」
「だけど俺は雄だし、あんたは雌だ。それとも人魚は全部雌だから、そういう考え方はしないのか?」
「私にはそういう考え方がわからないわ。私にわかるのは、あなたが私たちの無神経な言い方に思い出したくないことを思い出さされて傷ついているっていうことだけ」
「大げさな言い方はやめてくれよ」
そう言いながら彼はポルキュスを乱暴に押しのける。しかし、彼女もそれほど驚いた様子ではない。
「何にしてもアルコルがやってきたらわかることだ。俺に何ができるかもわからねぇが、あんたはどうしたいんだ?」
「もちろん、帝国の援助をもっと引き出すことよ。ブリュンヒルドは確かにあったけれど、あれぐらいの情報だけではお話にもならないわ。私たちが欲しいのは人間をカストラート海から追い出せるだけの力、戦力よ。でも、アルコルはきっとブリュンヒルドをよこせと言ってくると思うの、その時に負けないようにしたいわ」
「俺はあんたを加勢すればいいのか」
「本当はアルコルから約束を取りつけられればいいわ。だけど、そう簡単にはいかないと思うの。戻って相談してくるとか、そんなことを言うでしょうね」
「アルコルに剣を盗られる恐れはないんだな? あんたは部下たちを信じてるかもしれないけど、人質でも取られたらわかったもんじゃねぇからな」
「人質なんてこと、私は考えもしなかったわ。そうね、そんなことにならないよう、みんなには隠れていてもらわなければならないわね。やっぱり、あなたは人間のことをよく知っているのね」
「あんまり褒められた気はしねぇけどな」
ポルキュスが笑い出したのでカノープスもつられる。だが、もしもそんな事態になれば、彼女だってブリュンヒルドにこだわりはしないだろう。もともと人魚たちには何の価値もない代物だ。けれど、帝国が聖剣を手に入れれば、カノープスたちがカストラート海にやってきた目的も潰(つい)える。それだけは避けなければならないことであった。
「でも、あなたはさっき、帝国軍となれ合うつもりはないって言ったわね。そのことはどうするの?」
「だからって、いまさら関係ないってわけにはいかねぇだろう? 乗りかかった船だ、ここは最後までつき合うさ」
「では、あなたにいつかお礼をしなくてはならないわね。私もいろいろな男の人に会ったけれど、あなたほど勇敢な人には会ったことがないわ」
「別に、俺は礼なんか期待しているわけじゃないんだから、気を遣うことはねぇさ」
「あら、それは長としては当然のことだわ。あなたにメリアーたちを助けてもらって、その上、まだいろいろとお願いしようとしているのだもの、お礼ぐらいしなくてはね」
「そういうことならば、考えておくよ」
「ええ、ぜひ、そうしてほしいわ」
洞窟の外に出ると陽はずいぶん高くなっており、アルコルの来ると言っていた夕方まで大して時間もないことがわかった。
「カノープス、話は終わったんでしょ?」
「よくわかったな」
「だって、お姉様たちが先に出てきてたもの、あなたも待っていれば出てくるだろうって思ったの」
「よくできました」
「子ども扱いしないでちょうだい。あたしだってもう卵を産めるのよ、種はいつもらえるの?」
「あのなぁ、人魚がいま、それどころじゃなくて、部外者の俺も巻き込まれてるんだよ、種どころじゃねぇの。後回し後回し」
もちろん、わざわざ巻き込まれるべくエニウェトック島までやってきたのは彼の方だが、そんなことは言わない。
しかし、そうとは知らないリエッシーの大きな蒼い双眸にたちまち涙が溢れた。人魚が幾つで成人するのかはわからないが、精神年齢はまだまだ子どもだ。その点ではかしまし娘たちといい勝負である。
「何もやらないなんて言ってねぇだろう? ただ、俺の用事の方が先だって言ってるんじゃねぇか」
「本当に?」
「ああ。ポルキュスとの約束が片づいたらな」
「いいなぁ、ポルキュスさまは。カノープスに逢ったのはあたしがいちばん最初なのに」
「なに、呑気なこと言ってるんだよ。長っていうのは大変なんだぞ。おまえが代わろうって言ったって代われるものじゃないんだ」
「そんなこと、あたしだってわかってるわよ」
わかってないから、そんなことを言うのだと彼はリエッシーに言ってやりたい気がしたが、彼女も今度は泣いてしまうだろうと思って言わないことにした。
「なぁ、リエッシー。それよりも何か食わせてくれねぇか?」
「ええ、いいわよ」
そう言ったリエッシーの顔が嬉しそうに輝いたので、カノープスはちょっぴり後ろめたい気持ちになってしまった。
エニウェトック島でも人魚たちの食事は魚か海藻だった。しかし火を使わないので食べ方も単調なものだろうと決めつけていたカノープスは、人魚たちの見せた工夫にかなり驚かされた。
「どう? 美味しいでしょう?」
「ああ、これで酒でもあれば最高だね」
「人間の作る飲み物のことね? あなたたちも人間と同じ物を食べるの?」
「ああ、ほとんど同じ物さ。俺は人間と一緒だった方が長いからな」
「じゃあ、これはどう? この子、ソデワっていうんだけど、ソデワって私たちの中でいちばん料理が得意なのよ。それで、いろいろと新作を作ってくれるんだけど私たちにはどれがいいのかよくわからなくて」
「美味い料理にどれもこれもねぇだろう。美味い料理は何だっていいのさ。どれ?」
ソデワもニクシーだったが、受ける印象はメリアーともラアティラとも違っていておとなしそうだ。たぶん、彼女は同じニクシーであっても戦闘部隊に加わることはないのだろう。彼女は恥じらいながらカノープスに大きな巻き貝を差し出した。
「この前、人間の男の人が来た時にもお酒のことを言われたんです。それで聞いたことを思いだして作ってみたんですけれど、誰も飲んでくれなくて」
巻き貝には厳重に封がしてあった。カノープスが封を外すと、紛れもない酒精(あるこーる)の香りが立ち上る。酒を口にするのは何日ぶりだろう。〈漆黒の涙〉号はいい船だが、酒を載せていないという致命的な欠点があった。
彼はまず、予想以上に芳醇なその香りを気の済むまで堪能した。
「カノープス、どうしたの?」
「ちょっと黙っててくれ。何日も酒なんか見てもいないんで邪魔されたくないんだ」
「まぁ。どうぞ、ごゆっくり」
次いで1口だけふくんで舌の上で転がす。いつもなら一息にあおってしまうところだが、この匂いを嗅いだら、もったいなくなってしまったのだ。
塩辛さと生臭さが残っているのが海の酒らしいと言えなくもないし、それが嫌というわけでもない。
次いでもう1口。思っていたよりも辛い。それに意外と強い。解放軍を離れてからずっと酒断ちをしたせいか、酒精が身体中に染み渡っていくようだった。
「どうですか?」
「いい酒だ。ここでしか飲めないのがもったいないくらいだ。俺の友だちに酒好きがいるんだ、そいつにも飲ませてやれたらと思うよ」
「ありがとうございます、カノープス。作った甲斐がありましたわ。私にとっては最高の褒め言葉です」
「一気に飲むのがもったいないけど、この封は元には戻せないよな?」
「ええ。でも気にしないでください。私、また作ってみますから。それでまた、あなたに飲んでもらえたら嬉しいです」
「ああ、俺もそうしたいな」
それから彼は陽が西に傾くまで人魚たちの相手をして過ごした。メリアーにせがまれてシャローム地方について話したりもしたし、海の不思議な話を聞かされたりもした。
そうすることでカノープスが気づいたのは、小娘のようなマーメイドはともかく、ニクシーたちが話し上手の聞き上手であるということだ。だから、彼女たちと話をするのは楽しいことであった。
けれども、彼女らと話すことが楽しければ楽しいほど、彼はじきに訪れるアルコルのことを考えないではいられなかったし、洞窟から出てくることもなく、独りで思慮を巡らしているのであろうポルキュスのことも案じられた。
もしもソデワがカノープスの酒を飲ませたい友だちが人間だと知ったら拒絶するだろうか、それともやっぱり喜んで飲ませてくれるのだろうか。彼にはそれを確かめる術もないのだけれど。
カノープスがポルキュスの洞窟に戻ると、彼女は岩にもたれて眠っているように見えたが、近づいていくとやはり寝ており、彼が来ても目を覚まさなかった。ニクシーに特有の鈍い金色の髪がほつれて頬にこぼれ落ちている。その頬がこけているのは、やはり帝国が来てからの心労のためだろうか。
戦闘能力が高いと言っても人魚は有翼人のような好戦的な種族ではない。だからこそ、人間は長年、人魚たちを狩ることができた。もしも彼女たちに本気で反撃するつもりがあったなら、帝国の力を借りるまでもなく、人間はとうの昔にカストラート海から追い出されていたかもしれないのだ。
そう考えると、比較する対象がそもそも間違っているのかもしれないが、グランディーナの強さはやはり特筆に値すると言っていいだろう。だいたい彼女の場合、いくらこちらが無茶だと言ってもいまのポルキュスのように頬をこけさせていたことなんかないのだ。
「どっちにしても、リーダーをやるのも楽じゃねぇってことか。なんてあいつに言っても鼻で笑われそうだな」
「独り言なんか言って、どうかしたの?」
「あんたの寝顔を見ていたら、俺まで眠くなっちまった」
「あら、それは困るわ。アルコルが来た時にちゃんと起きていてもらわなくては」
「実はさっき、ソデワに酒をもらって、いい気持ちなんだ」
「いい気持ちになると眠くなるの? よくわからないわ。ソデワはそんなにおかしなものを作ったの?」
「それだけうまい酒だったってことさ。こんなところで酒が飲めるなんて思いもしなかったよ。それに、彼女は料理も美味いんだからな」
「それは良かったわ。気に入った子がいたら、ぜひ種を分けてあげてね。いちばん若い子たちも十分、卵を産める歳になっているの、1人でも多くの人魚が生まれてほしいと思っているわ。お願いね」
思わず彼は、人魚たちがいったい幾つの卵を孵すつもりなのか訊きそうになって思いとどまった。いま、自分が心配しなきゃいけないのは人魚たちの卵の数ではなくてアルコルをどうするかだ。リエッシーにも言ったとおり、卵のことは後回しにすべきなのである。
「なぁ、ひとつ訊いてもいいか?」
「どうしたの、改まって?」
「もしもだぜ、もしも、人間が二度と狩りはしないと約束したら、あんたはそれでも彼らをカストラート海から追い出さなけりゃ気が済まないのか?」
「おかしなことを訊くのね。そんなこと、あなたにだって訊くまでもないことだと思っていたわ。それに強欲な人間たちがそんな約束をするなんて私には信じられない」
「だから、あくまでもしもの話さ」
ポルキュスは一応考えたようだったが、しまいには彼の予想どおり、硬い表情になって首を振った。
「やっぱりあり得ないわ。人間たちの方からどうしてもって言われれば考えなくもないけれど、そんなことするとは思えないもの。それに、これは千載一遇の好機なのよ。力のあるゼテギネア帝国の人間たちが、わざわざブリュンヒルドのことを教えてくれて、私たちに力を貸そうとまで言ってくれたのよ、彼らが何を企んでいるにしても、この機会を利用しない手はないじゃない? それは、私だって人間を追い出すのに人間の力を借りるのは悔しいわ、だけど、こんな機会は二度と巡ってこないような気がするのよ」
「俺はあんたたちにはそういうのが似合わないように思えるよ」
「それはどういう意味なの?」
「あんたたち人魚は俺や人間たちと違って争いごとに向いてないと思う。でも、いまのあんたは無理に自分を煽ろう、追い立てようとしているように見える」
「そう見えるなら、私たちをそこまで追いつめたのは人間なのよ、あなたは止める相手を間違っているのだわ」
そちらには仲間が向かっているのだとは言いにくい。
そして彼の沈黙をポルキュスがどう解したのか、カノープスはついに訊くことができなかった。
ラアティラがアルコルと部下の到着を告げたのだ。