Stage Nine「いつか海に還る日まで」6

Stage Nine「いつか海に還る日まで」

意外なことにアルコルは魔法使いらしくなく、小舟に乗って洞窟に入ってきた。部下の1人が櫂を操っており、彼は舟の真ん中に立っている。
意外なことにアルコルは魔法使いらしくなく、小舟に乗って洞窟に入ってきた。部下の1人が櫂を操っており、彼は舟の真ん中に立っている。
彼の名を聞いた時から、ポルキュスの表情には緊張の色が走っていた。力づけようにも彼女は口で言うほどにはカノープスを当てにしているわけでもない。そのことが目に見えてわかるだけに彼は悔しかった。
あともう1日あれば、人魚たちと信頼関係を築くことができたかもしれない。だが、そんな時間がなかったことも最初からわかりきっていた。
「お久しぶりです、ポルキュス。あれからどうしました? ブリュンヒルドは手に入れられましたか?」
声はアルビレオのそれとは違っていたが、転生した後で声が変わるかどうか、サラディンに聞き忘れた。
「ええ、ブリュンヒルドは確かにあなたの教えてくれたところにあったわ。だけど、あなたの言っていた状況とはかなり違ってもいたわ。なぜ、本当のことを言ってくれなかったの?」
アルコルはカノープスを一瞥してから答える。
「わたしがおかしなことを言いましたか?」
「剣は堅固になど守られていなかったわ。そこにいたのはブリュンヒルドのことなど知らぬ存ぜぬ一点張りの頑固な人間だけ、私が行くまでもなかったわね」
「楽に手に入れられて、あなたたちには逆に幸運だったのではありませんか? あなたたちがわたしの差し上げた情報で苦労したと仰るのなら責められてもしょうがありませんが、楽をしたのにそのように大げさに責められる覚えはありませんよ」
「そうね、ブリュンヒルドの時はあなたの言うとおりよ。だけど、あなたが教えてくれた船についてはどうだったかしら?」
「襲ったのですね?」
「もちろんよ。グランの言いなりになって私たちを狩らせた人間たちの長だと言うのですもの、償いはしてもらわなくてはね」
「それならば何が不満だと言うんですか?」
「そんな者、船に乗っていやしないではないの。一方の船では私の部下たちが殺され、もう一方の船には解放軍が乗っていたと聞いたわ。これはどう釈明するつもりなのかしら?」
アルコルは軽く肩をすくめた。
「カストラート海を行く船は1艘や2艘じゃありません。あなたたちは襲う船を間違えたのでしょう。それよりも、あなたの話が終わりならば、こちらの用事を片づけたいのですがね」
「ブリュンヒルドはあげられないわ。カストラート海から人間を追い出すのに力を貸してくれると言ったでしょう? 剣はそれが達成されるまで渡さない」
「ああ、それでわかりました」
彼が知った顔で高笑いを始めたので、ポルキュスの顔が怒りに歪んだ。
「先ほどからそこに控えている有翼人、どこかで見たと思っていましたが、反乱軍のカノープス=ウォフルでしたか。ポルキュス、あなたは彼に、何か吹き込まれたんでしょう?」
「そんなことするものか。それにしても俺の名前も有名になったものだな」
「ふふふっ、知らぬはずがないでしょう? あなたには1万ゴートの賞金がかかっているんですよ。金額の大小はともかく、神聖ゼテギネア帝国に仕える身としては見逃せない相手ですからね」
アルコルの話しぶりから、カノープスは彼がアルビレオの転生ではないという確信を抱いた。
「それにしても1万ゴートってのは気に入らねぇな。グランディーナは最初から2万ゴートだったんだぞ、俺の値段が低すぎるだろうが?」
「あいにくと賞金の額を決めたのはわたしではありません。そのような文句はお門違いというものです」
「お待ちなさい、アルコル。彼はいまは解放軍の一員ではないわ、私たちのお客様よ」
「それは初めて聞きましたよ。あなたが反乱軍を辞めたんですか?」
「いまは人魚たちに協力しているんだ、おまえにがたがた言われる覚えはねぇな」
するとアルコルは悪意に満ちた笑顔を浮かべた。
リエッシーが嫌な奴だと言ったはずだ。彼からはアルビレオと同じにおいがする。たとえ別人であっても、自分は高みに立ったつもりで他人を見下した、ラシュディの1番弟子と同種の人間なのだ。
「ふふふっ、それならばポルキュスに言ってあげましたか? あなた方の反乱軍に旧ゼノビア王国、グラン王の第二皇子、フィクス=トリシュトラム=ゼノビアが加わったということを?」
「いまはトリスタン皇子のことは関係ねぇだろう」
カノープスはつい声を荒げたが、彼を見るポルキュスの表情は覿面(てきめん)に変わっていた。
「何を言いますか。反乱軍が神聖ゼテギネア帝国を倒した後でトリスタン皇子の下で新しい国家を築くことは決まったようなものでしょう。その時、カストラート海を支配するのは誰ですか? グラン王の遺児、トリスタン皇子以外にはあり得ないじゃないですか」
ポルキュスが激しい勢いでカノープスを振り返る。向けられる不信の眼差しを、払拭する言葉が見つからない。グラン王の人柄は知っていたが、これほど憎まれているとは思わなかった。
「こんな奴の言うことを信用するのか?」
「それならば、なぜ、グランの息子が生きているって、解放軍に加わったってあなたは言ってくれなかったの? 言えなかったからじゃないの!」
「トリスタン皇子はグラン王とは違うし、王があんたたちを狩れと命令したわけでもねぇだろう。冷静になってくれ。トリスタン皇子のことをあんたに話さなかったのは俺の落ち度だ。だけど、俺は人魚狩りなんてやめさせたいんだ、それも信じられないのか?!」
「あなたにはわからないわ」
彼女は呻くようにつぶやいた。
「グランがどれだけ私たちを苦しめたと思っているの? あなたたちにとっては英雄かもしれないけれど、私たちにはただの人殺しよ、グランさえいなければってどれだけ思ったかもしれない。でもあなたたちは言うのでしょうね、グランが殺せと言ったわけじゃないって。私たちには同じことだわ、グランの長命にあやかろうとして大勢の人魚が殺されたことに代わりはないのよ、私の娘だって! あの子はまだ30年も生きていなかったわ、私の可愛いラーニ、あの子はばらばらに刻まれて貪欲な人間たちに食べられたのよ!!」
「でも、あんたにだってわかっているはずだ。王はその名を使われただけで、あんたの娘や仲間たちを殺してない、あんたにはどんなに忌まわしい名前であっても王は人魚を殺させていないんだ」
ポルキュスの唇が戦慄(わなな)いている。
カノープスだって自分が理屈をこねているのに過ぎないことは十分承知しているつもりだ。だが何とかしてポルキュスに冷静になってもらいたかった。
「だからわたしが言ったでしょう? 反乱軍の者は必ずグラン王を擁護するだろうって。彼らには神にも等しい存在なんです。グランの名の下にどれだけの人魚が殺されたかなど、彼らには二の次なんですよ」
「アルコル、てめぇ!」
カノープスは彼を取り押さえようとしたが、それまでずっと気配さえ感じさせなかったアルコルの部下の1人が魔法を放ち、足止めされた。
そのあいだに彼から逃げたアルコルは、人を小馬鹿にしたような表情で物知り顔に話し始める。
「あなたのことはもっと詳しく知っていますよ、カノープス=ウォルフ。古代高等有翼人の末裔で風使いとも呼ばれているそうですね。でも、実際のあなたはそんなに格好いいものじゃないでしょう? 親友のギルバルド=オブライエンが旧ハイランド王国の軍門に降った時にあなたは軍団長にして親友の執った措置に不服を唱えてシャローム地方の片田舎に引っ込んで酒に溺れる生活を送っていたんですから。反乱軍のリーダーがあなたを迎えに来た時もあなたは二度も追い返している。おやおや、顔色が変わりましたね、図星ってやつでしょう? あなたがその重い腰をやっと上げたのは、親友が反乱軍のリーダーと決闘していた時だ。わたしたちはあなたたち、反乱軍のことならば何でも知っているんですよ、あなたたちがいかにくだらない烏合の衆であるかもね」
「ふざけんな!」
「待って!」
ポルキュスの声はアルコルが来る前とはまるで別人のような冷たさで、彼を追いかけようとしたカノープスはその場に止まらざるを得なかった。
「カノープスと2人きりで話したいわ。しばらく、席を外してもらえないかしら?」
「どうぞ、お気が済むまで」
アルコルは小舟に乗り込み洞窟を出ていった。
「冷静になって話し合いたいってわけじゃなさそうだな」
「グランの息子のこと、なぜ、黙っていたの?」
「別に大した理由があったわけじゃねぇさ。単に忘れてたんだ。あんたがそんなにグラン王のことを嫌っているなんて思ってもいなかったからな」
「嫌ってる? そんなに簡単なものじゃないわ、彼の名前なんて二度と聞きたくなかったわよ。疫病神? 魔神? 私たちにはそれ以上の存在だわ!」
「だったら、トリスタン皇子のことなんか話したってしょうがねぇだろう。それとも、俺が先に話していれば、あんたももっと冷静に聞けたって言うのか?」
「そんなこと、わかるものですか。違っていたかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。だけど、これだけは言えるわ。あなたが先に話していてくれれば、私はあなたに裏切られたような気持ちにはならなかったでしょうね」
「裏切りだって? いくらあんたがグラン王を憎んでいるからってトリスタン皇子のことを言わなかったってだけで、俺はそこまで大げさに責め立てられる覚えはないぜ」
「あなたの何が信じられるというの? 確かにあなたはリエッシーを助け、メリアーも助けてくれた。だけどそれだけじゃない。あなたから種をもらったわけでもないのに何を信じろと言うの?」
そこまで言われては、カノープスにはもはやいかなる言葉も思いつかなかった。
「ポルキュスさま!」
メリアーが洞窟に入ってきたのはその時だ。彼女は急いでポルキュスに近づき、カノープスの方を盗み見ながら耳打ちした。
ポルキュスは改めてカノープスに不信感に満ちた眼差しを向ける。
そこへ、まるで彼女らの行動を見ているかのようにアルコルが突然、岸に現れた。
ポルキュスは驚くこともなく彼を見、アルコルもしたり顔で頷く。
「何があったんだ?」
カノープスが近づこうとすると、ポルキュスは水中から三つ叉槍を取り出して彼に向けた。彼のほかには誰もいない島で、たった1人で殺された隠者の死体が脳裏をよぎった。
それを見たメリアーが口の中で悲鳴を上げる。
「何のつもりだ、ポルキュス?」
「反乱軍が来たそうよ。誰がこの島の場所を教えたの?」
「俺はメリアーに連れてこられるまでエニウェトック島の場所どころか名前も知らなかったんだ、教える暇があるわけねぇだろう?」
「そうかしら?
メリアー、あなたは彼と来る時に誰にもつけられていないかどうか、気をつけていてくれたわよね?」
今度はメリアーが青ざめてしまった。
「申し訳ありません、ポルキュスさま!」
「馬鹿言え! 俺を疑うならまだしも、あんたは仲間を殺されてやっと帰ってきた部下を疑うのか? 人間たちに殺されそうになって、彼女がどんな思いをしてきたと思ってるんだ? いい加減、目を覚ましたらどうなんだ?!」
「だけど、彼女が警戒しなかったのも事実だわ。この島の場所を人間たちに知られるなんてあってはならない。誰であろうと私は全力で追い出してみせる」
「ですが、ポルキュスさま、彼らは、解放軍は敵ではありません。ラアティラもリエッシーも撃退されはしましたが無事に戻ったのです、彼らはカストラート海の人間とは違います!」
ポルキュスの表情が屈辱に歪む。まるで別人のような醜さだ。
「そう、あなたはもう、彼に種をもらったのね? 自分は卵を孵せるのだから彼を庇うというのね?」
「違います、ポルキュスさま!」
「それならば、なぜ彼を庇うというの? 卵はあなただけのものではないし、種もあなたが独り占めしていいものではないのよ」
「やめねぇか!」
「そのニクシーを弁護しても無駄ですよ、カノープス=ウォルフ。人間たちが誰も知らないはずのエニウェトック島に反乱軍が来た、それだけであなたたちの裏切りを証明したようなものじゃありませんか」
「言いがかりだって言ってんだろう! 現におまえだってエニウェトック島に来てるじゃないか。誰に教わったって言うんだ? 何でもお見通しの帝国にか?
ポルキュス! 奴がこの島に来た時、あんたは何て聞いたんだ? あんたはそれでも、メリアーよりも奴を信じるのか?!」
「もうやめて、カノープス。警戒を怠ったのは私の落ち度だわ、ポルキュスさまにそのことを責められても申し開きもできない。でも、私はあなたたちを信じてる、アルコルだってここに来られたのだもの、あなたの仲間にもきっと、この島の場所を知る手段はあったはずだわ」
「すまない、メリアー」
「いいのよ、私の正直な気持ちですもの。だから、これ以上、ポルキュスさまを責めないで」
「だけどな」
「見苦しいですよ、カノープス=ウォルフ。あなたもいい加減、ご自分の裏切りを認めたらどうなんですか?」
「うるせぇ! 俺と人魚ばかりか人魚たちの仲まで引き裂かないと気がすまねぇのか?」
「これは奇妙なことを仰る。よそ者のわたしごときに引き裂かれるような仲など大したことないじゃありませんか。何百年生きていようと、しょせん、人魚なんか、それだけの存在だということでしょう? 違いますか?」
「そんなことを証明するためにそなたはカストラート海まで軍を率いてきたのか、アルコル?」
「誰ですか?!」
クージュラージュを漕ぎ手に舟が洞窟に入ってきていた。ほかに乗っているのはサラディンとランスロット、ローベックである。
「わたしの名はサラディン=カーム、そなたが本当にラシュディ殿の弟子だというのならば、そなたには兄弟子ということになる」
「お目にかかるのはこれが初めてですね。初めまして、わたしは偉大なる賢者ラシュディさまの4番弟子、アルコルです。もっとも、わたしの存在はまだ公式のものではありませんがね」
そう言って若者は薄笑いを浮かべる。
「ならば、そなたに問う。パルミラの帝国軍はすでに降伏した。このまま降伏するか、それともまだ目的を遂行しようとするのか?」
「パルミラが落ちた?」
舟はさらに近づいてくる。その先頭に立ったサラディンの視線はずっとアルコルに注がれていた。
ランスロットがカノープスに気づいて合図を送ってよこす。
「そんなこと訊くまでもないでしょう? あなたたちの足止めにもなれない無能な連中です、なぜわたしが彼らのように降伏しなければいけないんですか?」
「そなたはまだ若い。できるならば殺したくない」
「あっはっはっは! アルビレオ殿に聞いたとおりの方ですね、サラディン=カーム! あなたに殺す気がなくてもわたしはその気だし、師からもあなたを殺していいとの命令も承っているんです、それでも殺したくないなんて甘ったれたことが言えるんですか?!」
「そなたにわたしを倒せると思っているのか?」
「アルビレオ殿にも倒せなかったのに、とでも言いたいのですか? あの方がラシュディさまからどのような命令を受けていたか知れば、あなたの考えも改まりましょう」
「我が師ラシュディ殿にならばいざ知らず、アルビレオ殿に我が手の内をすべて見せた覚えなどない。我が弟弟子というより、話を聞いている限りではアルビレオ殿の弟子と言った方が正しいのではないか?」
「言わせておけば!」
アルコルが手を伸ばす。
舟はすでに岸に着いていた。ランスロットは素早く彼に斬りかかったが、すんでのところで避けられた。
遅れて彼らを襲ったのは強力な雹(ひょう)の嵐だ。
てっきり、それがアルコルから放たれたものだとばかり思っていたカノープスは、ポルキュスだと知って愕然とした。
雹は解放軍やアルコルばかりか、彼女の守るべきメリアーさえも巻き込んでいた。
「ポルキュス! あんた、なんてことを!」
「来ないで!」
またしても三つ叉槍が向けられた。だが、その先は激しく震えている。
「近づくな、カノープス!」
サラディンが制止するのも聞かず、彼はポルキュスの槍を押さえた。
アルコルにはそこを狙われた。
雷の束が皆に襲いかかり、水中にいたポルキュスとメリアーはもとより、濡れた三つ叉槍を介してカノープスも火傷を負わされたのだ。
彼は槍を握ったまま海に落ちた。
ローベックが海に飛び込み、カノープスを捉まえる。
サラディンが魔法を撃ち、鎌鼬(かまいたち)がアルコルを捕らえた。風の刃はその衣服ごと彼を切り裂き、足も止めた。そして今度は彼もいきなり消えたりはしなかった。
ランスロットとクージュラージュの2人がかりでアルコルを追いつめた。
剣で斬りつけられ、槍に貫かれて、アルコルが倒れる。サラディンが岸に降り立ったのはそれからのことだった。
苦い薬を流し込まれた衝撃でカノープスは目を覚ました。サラディンが安堵したような顔をし、同時に右腕から腹部にかけて猛烈な痛みが襲いかかる。気を確かに持っていないとすぐに失ってしまいそうなほどだ。
「ポルキュスとメリアーはーーー?!」
「動くな。わたしは癒しの業を使うことができぬ、そなたは大火傷を負ったのだ」
「俺のことはどうでもいい! 2人はどうしたかって訊いてるんだ!」
そう口にするだけでも息が詰まるようだ。
カノープスは半身さえ起こして2人の様子を知ろうとしたが、右半身に力が入らない。
「メリアー、君が助けたニクシーはあいにくだった。だが、もう1人、ポルキュスはまだ息があって、君と話したがっている」
ランスロットが答える。
力強い腕がカノープスを背後から支えた。それがクージュラージュだったと気づいたのは彼と別れてからのことだ。
ランスロットがポルキュスを支えている。だが、カノープスにさえ、彼女が長くないことは容易に察せられた。
「ポルキュス」
苦しい息の下から呼びかけると、彼女は目を開いた。輝くようだった鱗は黒く焦げ、その身体にも痛ましい傷跡が残る。
「ごめんなさい、カノープス。私、あなたに、ひどい、ことを、言って、しまった」
彼がクージュラージュに助けられながら手を握ってやっても、握り返される力もない。
「気に、しなくても、いいさ。俺は、忘れっぽい、方なんだ」
「こんな、こと、頼めた、義理じゃ、ないのだけど、あなたに、お願い、したいの」
「何だ?」
ポルキュスはカノープスからサラディンに視線を移し、順にランスロットたちを見た。
「ブリュンヒルドを、あなたたちに、あげる。場所は、ソデワが、知ってるわ。その代わりに、私を、私と、メリアーを、あなたたちの、手で、海に、捨てて、ほしいの」
「捨てる?」
彼女は小さく頷いた。
「海に、グルーザさまの、元に、還りたい。メリアーを、殺して、しまった、私だから、グルーザさまには、許して、いただけないかも、しれないけど、少しでも、おそばに、いたいの」
「約束する。それに、俺は、トリスタン皇子に、掛け合う。もう、二度と、人魚たちを、狩らせないって」
ポルキュスはかすかに微笑んだ。けれども、彼女の首は次の瞬間には力なく垂れていた。
「ポルキュス!」
己の痛みもかまわずにカノープスは彼女を抱きしめる。失われていくぬくもりが彼女の紛れもない死を知らせていて、彼は誰にはばかることなく、涙を滂沱として流したのであった。
〈漆黒の涙〉号がエニウェトック島を離れたのはその翌々日のこと、一行は人魚たちの見送りを受けて、そのままカストラート海をも後にした。もちろん船には聖剣ブリュンヒルドが乗っている。
ポルキュスの言ったとおり、深い海の底に隠されていた聖剣は、人魚たちの気遣いもあって、鞘も水に濡れることなく守られていた。
しかし、サラディンも剣を鞘から抜いてみようとはせず、ブリュンヒルドは大切に〈漆黒の涙〉号の船底にしまわれたのだった。
エニウェトック島に引き続き、カノープスは怪我の治療に努めて休み、別行動を取ったサラディンたちの動きを知ったのは金竜の月に入って、だいぶ経ってからのことだ。
最後に海に還りたいと言ったポルキュス、その願いはサラディンたちの手でかなえられ、彼女とメリアーは海の腕(かいな)に抱かれて永遠の眠りについた。
マーメイドもニクシーも2人の死を悲しんだという。けれど、彼女たちにとっては陸の上で迎える死、最後にグルーザの懐に抱かれることのない死ほど悲しいものもないのだそうだ。
いつか海に還る日まで、人魚たちはその長き生を生きる。陸(おか)に生きる人間や有翼人たちと、その生にどれほどの違いがあるだろう。
タシャウズの港で再会した〈何でも屋〉のジャックは、解放軍がすでに荒鷲の城塞アラムートを陥落させたとの情報を伝えた。
そのころになるとカノープスの怪我もかなり回復しており、彼らはまたグリフォンに分乗して、アラムートの城塞を目指した。
ゼテギネア大陸を左右に分かつアラムート海峡、その要所、アラムートの城塞、旧オファイス王国の時代より難攻不落の要塞と言われた荒鷲の城塞を、解放軍がいかに落としたか。
その顛末は次に語られることであろう。
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