Stage Eleven「誓いの剣」1

Stage Eleven「誓いの剣」

「報告! 仰せのとおり、反乱軍が現れました!」
漆黒の鎧が音を立てて振り返った。面貌の奥に暗赤色の灯が動いたが、伝令はそれに気づかないふりをする。彼と目を合わせなければ生きていられるというのがこの役を押しつけられた者たちの知恵だ。だがそれも明日は変わるかもしれない。ガレス皇子の気分など、誰にも計ることはできやしない。
「殺せ。反乱軍は皆殺しにしろ。足りなければ本国より援軍を送らせる。反乱軍はこのシャングリラで足止めだ」
「ははっ!」
「いや、待て」
急いで立ち去ろうとした伝令は、へまをしたかと、恐怖に全身の筋肉が引きつる思いがした。
「反乱軍のリーダーはいるのか?」
「はっ。確認されております」
「そいつだけ生かしたまま連れてこい」
「生かしたまま、でございますか?」
ガレス皇子の真意を汲み取りかねて、つい問い直してしまう。
「そうだ。四肢の骨が折れていようがかまわん。だが無くなっていては駄目だ。死んでいても駄目だ。貴様らにあいつを嬲(なぶ)り殺しにする楽しみは与えん。あいつは俺の獲物だ!」
「かしこまりました!」
退室し、急いで遠ざかりながら、伝令はガレス皇子の発した狂気から逃れようとした。あの黒騎士ガレスにそこまで憎まれる反乱軍のリーダーとはいかなる人物なのか、彼には想像もつかなかった。
一方、一人に戻ったガレス皇子は、漆黒の鎖籠手をつけた手で、面貌をわしづかみにして身体を揺らしていた。
「くっくっくっくっく。やはり来たな、ガルシア。アヴァロン島で会った時はまさか貴様だとは思わなかったが、反乱軍というお遊びもこれで終わりだ。貴様のあるべきところを思い出させてやるぞ!」
鎧の軋む音は廊下にまで響いた。
しかしそこに控える部下たちは知っていた。ガレス皇子の機嫌の良い時、それは何の前触れもなしに人が殺される時だ。両手持ちの戦斧で誰かの首がはねられる前兆なのだ。
「グランディーナ、おまえは引っ込んでろ!」
カノープスは飛び上がり、振り下ろされた鎌を槌で受けて跳ね返した。しかし、暗赤色のデーモンは1匹や2匹ではない。たとえグリフォンに乗っていても、彼らと戦うのはランスロットたちには荷が重かろう。
デーモンにもわかっているらしく、耳元まで裂けた口に醜悪な笑みが浮かぶ。だがそれも一瞬のこと、サラディンの放った紅蓮の炎が空中を駆け抜け、わずかに遅れて、魔術師たちの唱えた魔法も襲いかかる。
ところが、デーモンに続いて現れた敵に皆は驚き、手を止めずにいられなかった。
純白の翼に衣、藤色の髪を垂らし、5バス(約1.5メートル)以上もある十字架を掲げた天使たちだったからだ。
「天使長ミザールのなした誓約により、あなたたちを敵とみなします!」
現れた天使は9人いた。9本の十字架が向けられたのはどれも別々の方向だったが、彼女らは一斉に同じ言葉を唱えた。
「誓約によりて我らが敵に神の裁きを与えん! 消滅せよ、バニッシュ!」
「うわあぁぁっ!」
天使は神の使いである。ロシュフォル教の最高神、フィラーハに仕えるのは6枚の翼を持つ天使長ミザールであり、その姿は教会を飾る着色硝子にも好んで描かれる。さらにミザールに従う天使には2つの階級があって、上位の天使をスローンズ、下位の天使をエンジェルと呼んで区別する。この場に現れたのはスローンズであった。
だから、皆が天使に反撃できなかったのは、実在するものと思っていなかったことと、彼女たちが天使長ミザールの名を口にしたことで、自分たちの戦いに疑念を抱かされてしまったためでもあった。
「戦え!」
「きゃあああっ!」
その時、スローンズの1人を剣が貫いた。彼女は地面に崩れ落ちたが、その身を足蹴にしてグランディーナが剣を取り返す。
「いまさら私たちの戦いが神の意に反するものだからといって、あなたたちはゼテギネア帝国の支配に甘んじられるのか?!」
彼女の足下でスローンズは消滅した。その断末魔の苦悶した表情は、彼女らの存在の確かさと同時に、帝国と戦うためならば、フィラーハ神にも弓を引きかねないグランディーナの意志の強さと、実際にそうすることの恐ろしさをも見せつけていた。
しかし彼女は畳みかけるように続ける。
「戦え! 天使であろうと悪魔であろうと手向かう者は敵だ! 敵と戦う意志のない者はいますぐ解放軍を去れ!」
「神をも恐れぬ不届き者め! 神の裁きを受けるがいい!」
だが、8本の十字架が揃ってグランディーナに向けられるや否や、悪霊の群れと雷が、立て続けに彼女らに襲いかかった。
「きゃあああっ!」
悪霊を召喚したのはサラディン、雷を撃ったのはラウニィーだ。
「あなたもたまにはいいことを言うじゃない! 天使だからって黙ってやられる道理はないわね!」
その言葉に皆はようやく我に返り、デーモンとスローンズを次々にしとめていった。
しかしデーモンも、スローンズのように倒された姿を残すことはなく、すべての敵を倒した時には、傷ついた解放軍が残されているのみであった。
「モーム、負傷者の治療と報告を!
カリナ、ユーリアは見張りに立て!」
「了解!」
グランディーナの指示が飛ぶと、皆は自然と負傷者と治療部隊を中心に円陣を組んだ。
金竜の月18日、解放軍はアラムートの城塞の南方に発見したカオスゲートから天空の島の1つに至った。すでに帝国軍が先行していることはわかっていたが、カオスゲートを出たところでは待ち伏せを受けなかったのだ。
デーモンとスローンズの混成部隊が襲ってきたのは、グランディーナの指示で皆が5人ずつの小隊に分かれて散開しようとしていた矢先のことであった。
誰もが改めて、ここが天空の島という異世界であり、慣れ親しんだゼテギネアではないのだという思いを新たにしていた。
だが、スローンズの発した天使長ミザールの名は決して軽くない。皆がゼテギネア帝国と戦うという意志と理由をもって参加した解放軍ではあるが、特に今回が初めての戦場という者たちを筆頭に、この戦いへの正当性を疑う心が鎌首をもたげつつあった。
「グランディーナ、天使たちの言葉、おまえはどう考えるのだ?」
「どうもこうもない。天使だろうと悪魔だろうと帝国に与するならば敵だ。それを敵に黙ってやられる法があるか」
「だが天使長ミザールは最高神フィラーハの使い、それが万が一にもゼテギネア帝国を支持しているとなれば、我々の戦い、これからロシュフォル教会はもとより民衆の支持を得るのも難しくなるだろう」
「フィラーハがゼテギネア帝国を支持しているのなら帝国のやり方を受け入れられるのか? あなたは神が右を向けと言えば右を向くのか? そんな戦いならば辞めてしまえ。ゼテギネア帝国を倒す。それが解放軍の目的だ。成し遂げる気がないならば去るがいい」
「そう急いで結論を出すこともあるまい。天使長ミザールの名が即、フィラーハ神とは限らぬ可能性も考えてみなくてはな」
「どういう意味だ?」
「スローンズたちは最初にこう言った、『天使長ミザールのなした誓約により』と。その誓約をなした相手がフィラーハ神とは限らぬということだ」
「帝国教会では最高神はエンドラさまということになっているわ。だけど天使長が神ではなく、エンドラさまと誓約を交わすなんてこと、あり得るかしら?」
当の帝国教会の最高位にいたはずなのに、ノルンの言い方はまるで他人事だ。もっとも法皇と言ってもその上には賢者ラシュディがおり、現人神となった女帝までいる。実情は知らされていないのだろう。そして彼女がなぜ天空の島に来たかといえば、単にアラムートの城塞での暮らしが退屈になり、遠征軍にラウニィーが加わっているからにほかならなかった。
「ないとは言い切れぬし、相手が女帝ではない可能性もある。天使たちの攻撃が即、フィラーハの命令とは限らぬということだ」
「だが肝心のミザールに確認してみない限り、フィラーハの介入も否定しきれないということだな?」
皆の安堵に水を差すようにグランディーナが反駁したが、サラディンもそれまでは否定しなかった。
「やがて見(まみ)えることになろう。だが、もしもおまえの言うとおりだとすれば、天が我々、人間たちの戦いに介入する理由も知らねばなるまい。24年前の大戦で天はどちらの味方もしなかったのだからな」
グランディーナは立ち上がり、ランスロットが続こうとするのを制した。
「影が戻った。あなたたちはまだ休んでいろ」
しかしサラディンは続こうとせず、瞑想するかのように目を閉じる。
グランディーナが影の報告を聞く時、誰かを同席させることは滅多にない。そういう意味ではサラディンもまた特別扱いというわけではないらしい。
それに、先ほどのやりとりは明らかに皆に聞かせるもので、グランディーナもそのことは察していた節がある。特別扱いではないが、やはりサラディンの立場は特別なものになるようだ。
そこまで考えたランスロットは、ふと目を合わせたカノープスが同じようなことを考えていたらしいのを察したが、彼は笑ってみせただけだった。
しばらく経ってグランディーナが戻ってきた時、右腕を吊った三角巾にどす黒い血が4ヶ所ついているのをカノープスが真っ先に見つけた。
「おまえ、影と会ってただけじゃないのか? 何だ、この怪我は?」
「血は止まってるから後ででいい。それよりもあなたたちに伝えることがある」
カノープスは彼女の言葉を無視してアイーシャを手招いたが、次に聞こえてきた名にはさすがに言葉を失わざるを得なかった。
「帝国の将は黒騎士ガレス、この島は天宮シャングリラだ」
「何だって?!」
「ガレス皇子はアヴァロン島で倒されたのではなかったのか?」
「倒したつもりだ。だが、わたしたちが戦ったのは空っぽの鎧で、再戦を宣言していったからな」
「ガレス皇子の地位を考えると、影武者ということはなかったのか?」
「違う。あれはガレス本人だ」
「だったらどうする?」
グランディーナは皆を下がらせ、剣を抜いた。地面にいびつな丸を描き、何ヶ所かに印、最後は中央に二重丸を描いて、元のところに戻った。
それで皆が円の周辺、あるいは見えるように集まってきた。
「これが天宮シャングリラだ。ここが現在地」
と自分の足下を指す。次にちょうどはす向かいに立ったノルンの足下を指して、
「そこがガレスのいるシャングリラ城。ほかの印は町と考えろ。位置は正確ではないがな」
「ずいぶん町が少ない気がするが、その二重丸は何だ?」
「この島を南北に分断するヴィンタートゥール山地、真ん中がルガノ湖だ。天空の島といってもゼテギネアとそれほど変わらないらしい」
彼女がそこで言葉を切ったので、皆はシャングリラの全体像を見直した。だが確かにカノープスの言うとおり、町が少ない。すぐ近くに見える町はいいとしてもシャングリラ城まで2つしかない。
ランスロットがそのことを指摘しようとすると、グランディーナは手を振って遮った。
「今回は部隊を分けない。敵が初めてデーモンやスローンズを使ってきたのも天空の島だからと片づけるのは危険だ。ガレスが将というのも気になる。帝国は我々より先行しているし、ラシュディもいたはず、今回は中央突破のみだ。質問がなければ、エルシリアから行くとしよう」
帝国軍の手に落ちた天宮シャングリラだったが、幸いカオスゲートに最も近いエルシリアの町は支配が厳しくなく、すぐに解放軍に門戸を開いた。
だが、解放軍を出迎えた町の代表はお世辞にも友好的とは言えず、反感は示さないまでも、その態度には解放軍も帝国軍もひっくるめて、地上の人びとへの蔑視がはっきりと伺えた。
「地上の争いを持ち込まれて、わたしたちは大変迷惑しております。わたしたちの祖先はいつまでも止まぬ地上の争いを憂えて天空の島に上がることを許された人びとです。わたしたちは争いに争いをもって解決することができませんし、その手段も力も持っておりません。あなた方が帝国軍と名乗ろうと解放軍と名乗ろうと、わたしたちにはあまり変わりがありません。この天空の島での争いを終結して、速やかに地上に戻ってください」
「この地での争いを長引かせるのは私たちにも本意ではない。解放軍は帝国軍を倒したら早々に撤退するつもりだ」
「当然です。地上の方々には、たとえ1人たりとも残っていただきたくありません」
「承知している」
そう言うと、グランディーナは頭を下げた。
「このたびのことは、地上を代表してお詫びする。ゼテギネア帝国を1日でも早く倒すことが私たちの願いだ」
「倒すなどと、なぜあなたたち地上の方々は簡単に戦うのですか? ゼテギネアという帝国といえど道理がないわけではありますまい。あなたたちには話し合うという道は最初からないのですか?」
「地上には地上のやり方がある。天空の島のやり方で口を挟まないでもらいたい」
彼女が立つと町長も負けじと立ち上がったようにランスロットには見えた。グランディーナの言葉に彼が気を悪くしたのは間違いない。
サラディンは終始、沈黙を守り、3人は揃って町長の家を辞した。そうは言っても、ここだと教えられなければ、とても町長の家だとわからなかったろう。
「地上の者たちはもう24年も帝国の圧政に耐えてきた。いまさら話し合う余地などないと言えば良かったのだ」
サラディンの言葉に、グランディーナは苦笑いを浮かべた。
「わかっていたが、上からの物言いをされたから言い返したくなった。これで町々の協力が期待できなくなったかな?」
「元々、望みは薄かったろう。彼らは戦うという選択肢をとうの昔に棄てた人びとの子孫だ。帝国のやり方も受け入れまいが、解放軍の思いも理解はすまい」
彼の言葉を証明するかのように、人びとが3人を避けていく。
ランスロットは鎧こそ脱いでいたが、剣を手放す気にはなれなかったし、サラディンも杖を携えたままだ。ましてやグランディーナが身体から剣を放すとはとうてい思えない。
「ですが、人が戦いを棄てられるとは驚きです。そのような町や国があるなど、地上では聞いたこともありませんから」
「ここシャングリラには正義の女神フェルアーナがおわす。人びとがいまも戦いを棄てていられるのは、女神のお膝元のためもあるかもしれない」
「女神にはそんなに気軽に会えるのか?」
グランディーナには珍しく興味のありそうな顔で振り返った。
「そうではない。女神に会うにはそれなりの資格が要る。誰でも会えるものではないのだ。だがシャングリラはそもそも島全体がフェルアーナに捧げられた神殿とも聞く。女神に近いというのはそういうことだ」
やがて彼女たちは町の外に出ていた。
地上の町に比べてエルシリアには外壁がない。ランスロットには、それは開放感とも無防備とも写った。地上にはそんな町や村は数えるほどしかない。隠れ里のゼルテニアにさえ柵はあった。戦いを棄てるということは決して1つの町でできることではないのだと彼は気づいた。
3人の帰還を待って、解放軍は進軍を開始した。
何事もなければ、シャングリラ城までは2日ほどだということだ。
「敵襲!」
火の玉を喰らって天幕が燃え上がった。中から飛び出してきたモーム=エセンスが急いで火を消し止めようとする。
鎧をつける間もない。武器だけ持ち出すのが精一杯のところに、いくつもの魔法陣が出現し、その内側にいた者に暗黒の洗礼を浴びせかけた。
「きゃああああ!!」
「ランスロット、無事か?!」
「わたしは大丈夫だ、だが−−−」
「怪我人なんかにかまうな! ブリュンヒルドを抜け!」
ランスロットが言われるままに聖剣を抜き放つと、ブリュンヒルドはすべての闇を打ち払うがごとく燦然(さんぜん)と輝いた。
「ゼテギネア帝国に仇なす反乱軍め! 我ら、ガレス皇子の親衛隊が始末してくれるわ!」
両手持ちの斧を構えた漆黒の騎士が次々に斬り込んでくる。
彼らと斬り結んだランスロットはブリュンヒルドがひときわ強烈な光を放ち、鎧を易々と切り裂くのを見た。手応えはまるで紙のようだ。数百年ぶり、あるいは数千年ぶりに戦場に現れた聖剣は、彼の手の中で唸るような勢いで敵を切り裂き、倒してゆく。
その時になって、ようやく解放軍のなかから反撃の魔法が飛んだ。
「1ヶ所に固まるな! またイービルデッドの餌食になるぞ!」
グランディーナが皆に檄を飛ばして廻る。
ガレス皇子の親衛隊を名乗った黒騎士が彼女に追いすがろうとし、チェスター=モローやスティング=モートンらに阻まれた。
ランスロットもそちらに加わろうとしたが、ドラゴンの吠え声を聞いたような気がして立ち止まった。
野営地に出現した魔法陣がイービルデッドだということはわかっている。それを放ったのは闇竜ティアマットだったのだ。
その姿はかがり火に照らされてなお黒く、闇の中にさらに濃い影を落とす。破壊神リュングヴィの加護を受け、言葉を操れなくても暗黒魔法イービルデッドを操る。そのティアマットが6頭も出現したのだ。ランスロットは思わず手が震え、聖剣を握り直した。
「おまえ一人に任せるわけにはいかねぇからな!」
カノープスとカリナ=ストレイカーが彼の両脇に揃って降り立った。
「相手はティアマットだぞ、怖くないのか?」
「怖くねぇって言っちゃあ嘘になりますけど、ホークマンてのは相手が強いほど血もたぎるんでね」
「それに、どうやらこいつらに立ち向かえるのは俺たちだけらしいぜ」
「承知した!」
彼らがティアマットに斬りかかる寸前、雷が束になってドラゴンに襲いかかった。
「さすが聖騎士、実力は本物だな!」
「褒めても何も出ないわよ!」
「槍を振るってくれるだけで十分さ!」
ティアマットとの戦いで、またしてもランスロットは紙を切り裂くような手応えを味わった。
ドラゴンの鱗は歳月を重ねるごとに厚く堅くなるという。ましてやティアマットは上級ドラゴンだ。その鱗はたいがいの鎧よりもよほど頑丈で、ドラゴンが手強い理由の1つには、攻撃力よりも防御力が上げられることが多いくらいなのだ。それがブリュンヒルドにかかるとたやすく切り裂かれてしまう。そのことは、ラウニィーの持つオズリックスピアが苦戦しているのを見ても明らかだ。聖剣ブリュンヒルドは魔性のものに恐るべき威力を発揮するようなのだ。
黒騎士たちを撃退したチェスターたちがやってきた時、最後のティアマットがラウニィーとカリナの攻撃で倒れたところだった。
4人とも思わず皆が絶句するような姿になっていた。ティアマットが吐き出す酸の息で衣服は襤褸(ぼろ)同然、返り血は真っ黒で凄まじい臭いを放っていたからだ。
「ラウニィーさま、なんてお姿に!」
ノルンには珍しく大慌てで彼女をシーツでくるむ。
「私は大した怪我じゃないわ。それよりも彼らの方を診てあげてよ」
「ですが、まずはお身体を洗ってお着替えなさいませ。酷い臭いですもの、御髪(おぐし)を傷めてしまいますわ」
そこへ、ちょうどよくグランディーナとモームが現れたので、ノルンはまだ何か言いたそうなラウニィーを引っ張っていった。
「ご苦労だったな。あなたたちのおかげで黒騎士も撃退した」
「怪我人は? みんな、無事なのか?」
「皆様のことよりも、まずはご自分の身を案じられたらいかがですか、ランスロットさま?」
「いや、わたしは大丈夫だ。大した傷は負ってない。カノープスとカリナを診てやってくれ」
「でも、酷い血です」
「ティアマットの返り血を浴びただけだ。わたしも血を洗い流してくるよ」
皆が不思議そうな声を立てるのをランスロットはうるさく感じて、強引に立った。いまになって猛烈な疲労を覚えたせいもある。松明をかざして水辺まで案内してくれたカシム=ガデムの親切も、ありがたいのになぜか鬱陶(うっとう)しいと思ってしまったぐらいだった。
「カノープス、何があったのか説明できるか?」
ランスロットが遠ざかるのを見送ってから、グランディーナが口を開く。
「何なんて、ご大層なものじゃねぇ。ティアマットを倒しただけだ。ただし3頭はあいつの手柄だ。俺たちは1頭ずつ倒すのが精一杯だったってだけさ」
「ティアマットを3頭も1人で?」
その場のほとんどの者が信じられないという声を上げた。ランスロットの剣の腕は、解放軍内ではグランディーナに次ぐというのは誰もが認めるところだが、それでもティアマットを3頭も倒せるとは思えなかったからだ。
ドラゴンというのはそれだけ強い。数ある魔獣の中でも別格であり、だからこそ、そのドラゴンを意のままに操る竜使いの力は重宝される。しかもランスロットたちが戦ったのはただのドラゴンではない。闇竜ティアマットは人が容易に操れるものでもなければ、1対1で対等に戦える相手でもなかった。
「だけど、あれはあいつの戦い方じゃねぇ。戦ってるのは剣で、あいつは手を添えていただけだ。グランディーナ、おまえ、最初からこうなるって知っていたんだろう?」
彼女は切り口のきれいなティアマットの首を持ち上げていたが、放り出すとカノープスの方を振り返った。
「予想はしていたが予想以上だ。あなたたちも、まさか彼にカオスゲートを開けるだけの物を渡したのだとは思っていまい? それに剣に振り回されるうちはランスロットの腕も未熟だ。そうではないのか?」
「確かにおまえの言うとおりかもしれないが、気に入らねぇな、そういうやり方は」
「だがブリュンヒルドは切り札になる。ランスロットが辛いと言うのなら、チェスターとの使い回しでもかまわない。ブリュンヒルドを前線から下げるわけにはいかない」
「あいつのことだ、剣を渡すのは嫌だって言いそうだけどな」
「できるようならば預けておく」
それから彼女は皆を振り返った。
「あなたたちももう休め。明日は予定どおり、ルツェルンを目指す」
「カリナ、俺たちも身体を洗いに行こうぜ」
「大将、この臭い、しばらく取れませんよ」
「だからって、香水を振りかけるわけにはいかねぇだろうが!」
「そんなぁ」
カノープスとカリナが川辺に行くと、無防備にもランスロットが寝呆けていた。両足を川に突っ込んで、2人が来たことにも気づかぬ様子だ。聖剣ブリュンヒルドは罰当たりなことに鞘ごと脇に放り投げてある。
「こんなところで居眠りしているとグランディーナにどやされるぞ」
「大丈夫だ。何かあったら剣を取れるぐらいには回復した。君たちこそ、こんな時間にどうしたんだ?」
「何って、おまえと同じだ。ドラゴンの血を流しに来たに決まってるじゃねぇか」
「そうか。みんなはどうしてる?」
「休んだんじゃねぇか。明日は次の町を目指すって言ってたぜ」
「わかった」
ランスロットは起き上がり、ブリュンヒルドを腰に提げ直した。
「さっきは格好悪いところを見られてしまったな。いくら聖剣とはいえ、騎士が剣に振り回されるようではわたしもまだまだ未熟だな」
「グランディーナと同じことを言うなよ。だけどあいつは聖剣を前線から下げる気はないとも言ったぞ。おまえ、大丈夫か?」
「わたしも一度任された以上、誰かに譲るつもりはない。グランディーナの利き腕が復活すれば、話は別だろうがね」
「言うんじゃねぇかと思ってたよ」
「わたしの性分だからな。だけど正直言って、今晩のように振り回されていたのでは駄目だな。疲労も酷かったし、最悪だ」
「じゃあ、おまえが強くなればいいんじゃねぇ?」
「簡単に言ってくれるな」
「あいつも、まさか俺に剣を持たせようなんて思わないだろうからな。代役に上がった名はチェスターだけだ。だけど、その剣を使いこなすのは難しそうだな。さっきのおまえを見てたら、そう思ったよ」
「こちらの意志とは関係なしにティアマットの方に引きずられたからな。もともと魔の物を倒すために鍛えられた剣ではないかと思うんだ」
「まぁ、聖剣ていうぐらいだからなぁ」
そんな話をしているあいだにも東の空が白々と明るくなってきた。
「長い夜だったな」
「ガレス皇子を倒すまでは、厳しい戦いが続きそうだな」
「頼りにしてるぜ」
肩をこづかれてランスロットが笑い出したので、カノープスもカリナもつられて笑った。
もっとも解放軍の現状は、とても笑っていられるようなものではなかったのだが。
ティアマットの先制を許したことは、解放軍に大勢の負傷者を生んだ。せめてもの幸いは、イービルデッドの威力がガレス皇子ほどではなく、魔法陣も集中しなかったので重傷者が出なかったことだ。
昨日のうちに解放軍はヴィンタートゥール山地に入っていた。道は山間を細く長く続いている。高さはセムナーン山地ほどなく、上り下りの繰り返しだ。
こういう道は待ち伏せされやすいが、前方にカリナ、後方にユーリアがグリフォンで飛行しており、加えて影の先行もあって、そう簡単に奇襲を受けないように配置されていた。
「グランディーナ!」
そこへユーリアがエレボスを駆って下りてきた。
合図で全軍がゆるゆると停止し、カリナや影にも止まるよう指示された。
「ルガノ湖の真ん中に島があったのだけど、そこにおかしな建物を見つけたわ。ロシュフォル教会の尖塔ぐらいの大きさだと思うのだけど、入り口が見当たらないし、人もいないの。怪しいと思わない?」
「確かに気になるな」
グランディーナがサラディンを見ると、彼も頷いた。
「おいおい、たとえ帝国軍がいないとしたって、おまえたちだけで行かせられるわけがないだろうが」
「だからといってブリュンヒルドを本隊から離すわけにもいくまい。
ランスロット、あなたはこちらに残れ。
グリフォンを1頭借りていく。チェスター、今朝の話どおり、ルツェルンの手前まで進んでおけ。ヴィンタートゥール山地を抜けても、カリナとユーリアの見張りは続行させろ。私たちも塔の調査が済み次第、合流する」
「承知した。サラディン殿とカノープスが一緒だ。万が一もないと思うが、気をつけて行かれよ」
彼女は頷き、カノープスが引いてきたピタネにサラディンと乗り込んだ。グリフォンは一緒に来た2頭が飛んでいるもので自分も飛びたくてしょうがなかったらしく、珍しくカノープスが言うことを聞かせるのに苦労していた。
「おい、グリフォンが足りねぇぞ」
「こちらの見張りを疎かにするわけにはいかない。あなたには飛んでもらう」
「げっ、そう来たか」
しかし、彼が飛ぶ気満々なのは誰が見ても明らかだ。グリフォンが飛び立つと、カノープスも真紅の翼を広げて追いかけていった。
チェスターが出発の合図を出したので、解放軍は動き出した。
アイーシャは案ずるように飛び去ったグリフォンをいつまでも見送っていたが、ランスロットに促されて、ようやく歩き出す。
「チェスターの言うとおり、サラディン殿とカノープスが一緒だ。案じることはないよ」
「ですがランスロットさま」
言いかけてアイーシャは口をつぐんだ。解放軍では数少ない未成年だが、同い年のミネアと違って彼女は時々、驚くほど大人びた顔をすることがある。大神官の娘という立場や、ロシュフォル教会の大聖堂で生まれ育った環境のせいもあるのだろう。滅多に自分から意見を言うことはないが、ランスロットは彼女に、決して周囲に流されない意志の強さを感じることもあった。司祭なので戦う手段は持っていないが、アイーシャもまた単に守られているだけの存在ではないのだ。
ランスロットが彼女の肩を軽くたたいて微笑みかけると、アイーシャは彼をいたわるような笑みを返した。本隊から遅れたことに気づいて、2人は急ぎ足になる。
地上と変わらぬ夏の日差しが、このシャングリラをも照らしていた。
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