Stage Eleven「誓いの剣」
グランディーナたちはカノープスのために遅く飛んだものの、それでも小一時間と経たないうちにルガノ湖中央の島を見出し、建物に近づいていた。
確かにユーリアの報せたとおり、ロシュフォル教会の尖塔のようで、三角屋根が乗っている。それを見てカノープスが真っ先に思い出したのは、ユリマグアスで見た不思議な塔群だ。ただしあれよりずっと太く、土で汚れているのは確かにおかしい。周囲の土の盛り上がり方も不自然だった。それに太さのわりに背が低く、カノープスの翼より、ほんの1バス(約30センチメートル)高いぐらいだ。
だが、壁が白亜で塗られているように見えるのは同じだし何より入り口も窓もない形がそっくりだ。
そしていちばん目立つのは、建物全体が北の方に傾いていることだった。
「グランディーナ、おまえ、ユリマグアスで光のベルを取る時に建物に入っちまっただろう? 今度も同じようなわけにはいかねぇのか?」
「どうだろうな」
しかし彼女はすぐに試してみようとせず、サラディンの様子をうかがっている。
彼は建物の北側の面に向かって立つと、杖を構えて何やら呪文を唱えているようだ。その額に脂汗がにじんで、眉間の皺がいよいよ深く刻まれる。
だが、それ以上のことも起こらず、カノープスは拍子抜けした。
しかも、サラディンは今度は南の面に向かって同じような行動を繰り返すと、カノープスの予想どおり、西の面、東の面に同様のことをし、結局、何も起きないままであった。彼は息を荒げて腰を下ろした。
グランディーナが三角巾で汗をふいてやるのを見ながら、彼女なりに気を遣っているのだろうが、その三角巾はお世辞にもきれいとは言えないなとカノープスはどうでもいいようなことを考えていた。もちろん、見張りの役目は怠っていない。
「ラシュディ殿に開けられぬものを、わたしにできるはずがなかったな」
「ラシュディがここに来たっていうのか?」
サラディンは杖にすがって立つと、北側の壁の焼けこげた痕を指し示した。
「この建物はたいがいの魔法を受けつけぬ。見かけよりもよほど強固に守られていて、わたしのかけようとした魔法も全てはねつけられた。おそらく、わたしではこのような傷をつけることもできまい」
カノープスは焦げ痕を眺めた。魔法のことがわからぬ彼には松明でも押しつけたとしか思えない。
だがサラディンはそれがラシュディによるものだと言い、グランディーナも異論を挟まなかった。
「で、天下の賢者殿でも開けられないなんて、こいつはいったい、どういう代物なんだ?」
「確たることは言えぬ。だが、わたしの推測を言わせてもらえるならば、女神フェルアーナの本神殿ではないかと思う」
カノープスはいささか驚いたが、グランディーナはやはりサラディンと同意見のようだ。
「それにしちゃあ、ずいぶんとお粗末な建物だな。もっと地中にあるのかもしれねぇけど」
「神を祀るのに神官が必要とか、豪華な神殿が必要という考え方は後からつけ足したものだ。人びとが自分の好きなように神を拝んでいては都合の悪いと思った者が、人びとを統制するために始めたのが宗教団体だ。見てくれの豪華さもけっこうなお題目も神には意味がない。この建物はそなたの言うとおり確かに小さいが女神が十分だと思わぬとは誰にも言えないのだ」
「だけど、確か天宮シャングリラ全体がフェルアーナの住む神殿だって話じゃなかったか? この建物とシャングリラ城の違いはどこにあるんだ?」
「地上で我々がロシュフォル教会に通うのは神に見(まみ)えるためか?」
「俺は教会なんて行ったことはねぇが、たぶん、違うんだろうな」
「シャングリラ城には別の意味があるのかもしれないが、天宮シャングリラをロシュフォル教会と同様に考えれば、辻褄は合う。あくまでもわたしの推測にすぎぬがな」
その時になって、ようやくグランディーナは建物に触れた。塔の高さがさらに低くなっていたが、カノープスも、もう驚かなかった。
「サラディン、これがフェルアーナの本神殿と仮定してだ。この建物を地中から引っ張り出し、何のためにこじ開けようとしたのだと思う?」
「仮定ばかりで確たることは言えぬが、女神に会おうとしたか、ここに隠された物を探していたか、どちらかに絞り込むことはできるかもしれないな」
「女神に会って何とする? 帝国教会は女帝を最高神とする。正義の女神といえど下位神に過ぎない。いまさらフェルアーナの支持を得たところで、帝国には意味がなかろう?」
「おまえたちにはそうかもしれぬが、この大陸には神の威光を崇める者の方がよほど多い。解放軍がゼテギネアの東大陸を解放したいまになって正義の女神フェルアーナが帝国を支持するとなれば、綻び始めた帝国の支配に、たがを締め直すことができるかもしれぬからな」
「だが、そうはできなかったということだな?」
「あくまでも仮定の話だ、確たることはわからぬ。ほかの理由も考えられよう。ラシュディ殿に限って、女神に会うなどという単純な動機とは思えぬ」
「ならば、私たちもルツェルンに向かうとしよう。これ以上、ここで情報は得られそうにないしな」
「ルツェルンってどっちの方向だ?」
「ここからだと北北西だ」
「やれやれ」
カノープスに続いてピタネも飛び立った。
上空からはルガノ湖はまるで鏡のように凪いでおり、ここが天空の島だということを忘れさせる。だがよく考えてみれば、その水が無くなってしまわないことも、島の端から流れ落ちた水が地上にどのような形で降り注いでいるのかということも、わからないことばかりなのだ。
湖を離れてしばらくしてから、カノープスはあの建物があとかたもなく消え失せているのを見た。彼はグランディーナとサラディンにそのことを伝えたが、2人には島がかろうじて見分けられる程度だ。
「無理に引き出された物が元に戻ったのだろう。塔の低さが不自然だったこともこれで納得できる。沈むところが見られなかったのは残念だが、何があったのか、見られただけでも良しとしよう」
彼女たちはそのまま解放軍本隊と合流するために、北北西へ急いだのだった。
「チェスター! 武器持ったジャイアントが近づいてきてるぜ!」
「野生のジャイアントではないのか? 帝国軍だという確認は取れたのか?」
「まだだが、待ってるわけにもいかないだろう?」
「それもそうだな。用心するに越したことはない。
全軍停止! 魔法部隊、前へ!」
皆が立ち止まり、命じられた者がさらに前進する。ラウニィーやポリーシャ=プレージら槍騎士も前に出てきた。
ヴィンタートゥール山地はまだ抜けきっていなかったが、ずっと下り坂だったので、誰もがもうじき終わるものと思っていた。
ゼテギネアにも野生のジャイアントはいる。人間との交流はほとんどないが、言葉が通じるもので、稀に人間よりも魔獣に近い怪力を買われて、傭兵のような存在として軍に加わることもあるが、まとまったジャイアント部隊というのは旧王国時代以前から知られていない。しかし、粗末ながら武器や鎧を操れるという点は時々、重宝されるのだった。
また、ジャイアントが国を興したという話や集団で行動していたという話も聞かれたことはなく、大方の人びとにとってジャイアントとは有翼人より野蛮で言葉が通じる分、魔獣よりましな生き物でしかなかった。
だから、チェスターが疑ったのも無理はなかったが、もう一度偵察に立ったカリナは、粗末な鎧にゼテギネア帝国の紋章を見つけたと報告した。さらに、巨体に隠れて帝国兵や、魔術師を乗せたワイバーンまで接近しており、もはや帝国軍の襲撃は疑いようもなかった。
「先制攻撃をジャイアントに集中させよう。帝国軍もその力は頼みにしているはず、ジャイアントを崩せば、こちらにより有利になろう」
グランディーナが戻っていないので、リーダーたちは緊急会議だ。方針を手早く決めて、陣営を整えなければならない。グレッグ=シェイクの意見にポリーシャが同意し、チェスターもさして反対するところはないようだ。
だが、ランスロットは敵の陣容に引っかかりを覚えた。黒騎士が撤退した以上、こちらの戦力は多少なりとも知られているはずだ。サラディンとラウニィーの魔法はそれだけ強力なものだったのだ。その2人を警戒していないとは思えないのだが、ジャイアントについてそれほど詳しいわけでもないので、確実なことが言えなかった。
「よろしいか、ランスロット?」
チェスターが確認する。もう時間がないことは彼にもわかっていた。そこで己の懸念を口にするにとどめ、それが当たらなければ良いのだが、と締めくくった。
「ランスロット殿、魔法よりも射程の長い攻撃方法は滅多にありませんぞ。弓は遙かに長いが、集団を攻撃するには敵の数が足りませんし」
「わたしも懸念で済めばいいと思う。だが、我々と戦ったのに帝国軍が無防備すぎるのが気になる」
「皆には警戒させておきましょう。万が一ということもありますからな」
グレッグは元帝国兵でデボネア将軍の部下だったが、ゼノビアでスティングらともに解放軍に加わった。貴重な魔術師ということもあり、加入後から活躍の場は多く、アラムートの城塞攻略前に、ウォーレンの補佐を命じられて魔法部隊の副官を務めている。人づき合いの悪いウォーレンと違い、若い魔法使いや人形使いたちをよく鍛えており、一部でのあだ名は鬼教官というそうだが、彼に勝てるほど魔力を鍛えられた者もなかなかいないらしい。
ランスロットはいつでも飛び出せるよう、魔法部隊とともに隠れた。
グレッグが皆に注意を促す。
「みんな、隠れろ!」
カリナの声に、何事かと逆に頭を出しかけたカシムをランスロットは引っ張った。
そこへ猛烈な突風が吹いてきて、狭い山間の道を滅茶苦茶に吹き荒れた。カシムがあのまま頭を出していたら、飛んできた岩に頭を潰されていたかもしれない。
隠れていても吹き飛ばされる者、運悪く風の通り道にいた者もあり、魔法部隊は軽装だから、あっという間に混乱状態に陥った。吹き飛ばされないでもほとんどの者が風にあおられた石や岩で怪我を免れなかった。
思い切って様子をうかがったランスロットは、件のジャイアントたちが第二陣の突風を巻き起こすところを見た。人間の子どもほどの大きさの棍棒を彼らが振り回すと、竜巻が発生したのだ。
「頭を引っ込めてください!」
グレッグに勢いよく引っ張られた。
「あれはただのジャイアントではないぞ」
彼は神妙な顔で頷いた。
「ジャイアントには時々、地形に合わせた突然変異が生まれると聞いたことがあります。帝国軍がこのシャングリラで仲間に引き入れたのかもしれませんね。ですが、我々には手の出しようがない。この風では弓も届きませんし、魔法も射程外だ」
「だからといってこのまま手をこまねいて見ているわけにはいかないだろう」
「帝国軍とて、いつまでもジャイアントの影に隠れたままではいられません。迂闊(うかつ)に動けば、奴らの思うつぼです。
おまえら、浮き足立つな!」
チェスターやポリーシャもグレッグに同意見だった。3人は浮き足立ちそうになる者を懸命に制し、ランスロットも協力する。
治療部隊も軽装だし、女性ばかりなので動くわけにもいかない。皆は怪我人をかばい合い、いたわり合いつつ、辛抱した。
しかし風はまったく同じところなど吹かない。さっきは安全だったところが次は危険極まりなくなる。
それでも解放軍が飛び出していかなかったのは、風が強すぎて帝国軍に接近するのも容易ならざる事態だったというのも大きかろう。
とうとう先に痺れを切らしたのは帝国軍であった。ジャイアントを先頭に突撃してきたところへ、解放軍から反撃ののろしが上がった。
敵からも強力な魔法が撃ち込まれると、ラウニィーと槍騎士の援護が加わり、解放軍がまた押し返す。
接触してしまえば、後は敵味方入り乱れての乱戦だ。
しかし、相手が人間とジャイアントだったためか、ブリュンヒルドは鋭い切れ味こそ見せたものの、今回はランスロットを振り回すには至らなかった。
「私はハイランド王国の聖騎士ラウニィー=ウィンザルフ! いまの帝国に正義はないわ! 何が人びとのためになるか、一緒に考えないこと?」
剣士の手は一瞬止まった。ラウニィーの名は知らなくとも、ウィンザルフ家の名は大将軍とともに名高い。そんな人物が解放軍とともに戦っていることは、帝国の兵士たちにとって多少ならずとも動揺をもたらさずにいられないはずだ。
だが、彼は次の瞬間には躊躇(ためら)うことなく彼女に斬りかかり、ランスロットが庇った。
「何をするの?!」
「あんたが本物のお姫様だろうと俺たちには関係ないね! こんなところで軍を脱走してみろ、故郷で待ってる家族がどんな目に遭わされるか、あんたはガレス皇子の恐ろしさを知らないんだ!」
「ガレス皇子? 彼が恐ろしいのは、エンドラさまのためには何でも斬るなんて言うからよ!」
「とんでもない! そんなお方が気紛れに部下を殺すものか! このシャングリラに来てからだって、反乱軍のリーダーがいまだに捕まえられねぇって、毎日、何人も殺されてるんだぞ!」
「何だって?!」
傍で2人の会話を聞き流していたランスロットだが、急にそんなわけにはいかなくなった。彼はラウニィーを差し置いて、その剣士を追い詰めると、捕虜として後方に引っ張っていった。
彼女は驚いたようだが、また戦闘に戻っていった。
「な、何しやがるんだ?!」
「無闇に命を取ることはしないが、後で訊きたいことがある。
モーム、悪いが彼を見張っていてくれ」
「気をつけてくださいね、ランスロットさま」
そこへ、ようやくグランディーナたちが戻ってきた。サラディンとカノープスは即座に前線に加わり、頼もしい味方の復帰に解放軍は俄然、勢いをつけて帝国軍を押し返し始める。
とはいうものの、彼女は前線に置くと宣言したブリュンヒルドごとランスロットが後方に下がっていたのを見て、あまりいい顔はしなかった。
「その男にそれだけの価値があったのか?」
「聞き捨てならないことを口走ったから、尋問の必要があると思ったのでね」
「何と言った?」
「ガレス皇子の機嫌が、君を捕まえられないからといって毎日、部下を殺すほど悪いそうだ」
「私は帝国にとって最大の障害物だ。ガレスの機嫌など、いちいち気にすることもあるまい」
「君がゼテギネア帝国最高の賞金首であることは、わたしだって知っている。だけどその文面は『生死を問わず』だ。わたしたちも何人か賞金首になっているが、誰一人として生きたまま捕らえろとは言われていないんだ。なぜいまになって、ガレス皇子が君を捕まえろなどと言い出す?」
「奴の気紛れなど私が知るものか」
グランディーナはランスロットを振り切るように皆の方へ行ってしまったので、敵方の剣士と2人だけで残された。戦闘が終わったので、治療部隊が働き始め、ユーリアもその手伝いに行っているようだ。
「あれかい、反乱軍のリーダーって?」
「そうだ」
「あんまり女っぽくないけど、意外とふつうじゃないか。俺はもっと化け物じみた奴を想像してたぜ」
ランスロットは思わず剣士を睨みつけた。カノープスならば問答無用で拳骨の雨を降らしていたかもしれないが、彼が気分を害したことは察したようだ。
「俺に訊きたいことってのは何だい?」
「ガレス皇子のことだ。君も意外と口が軽そうだが、故郷で家族が待っているんじゃなかったのか?」
「ああ、いるさ。だけど、このまま帝国軍に残るのも気が進まねぇんだ。なにしろ、ガレス皇子の下にいる限り、いつ殺されても不思議じゃねぇからな」
「ガレス皇子の出した命令について話してくれたら、君を放免できると思うが、どうだ?」
今度はランスロットの方が睨みつけられた。
「そんな口約束、俺が信じると思うのか? だいたい、あんた、何様なんだよ?」
「これは失礼した。わたしはランスロット=ハミルトン、解放軍の兵士だ」
「えっ? あんたがランスロット=ハミルトン?」
「はははっ、わたしも有名になったのだな。悪い噂でなければいいのだが」
「反乱軍の幹部っていうから、どんな奴かと思っていたが、意外とあんたもふつうの奴なんだな」
「君も遠慮無くものを言うのだな。それに帝国では、解放軍が奇人揃いだとでも教えられているのか?」
「あはははっ、そんなわけじゃねぇけど、不気味な存在であるのは違いないさ。20年以上、誰も帝国に逆らおうとしなかったのに、いきなり東の田舎から打倒帝国を掲げてきたんだからな」
不意に彼の頭がのけぞり、うめき声を発した。髪を引っ張ったのはグランディーナだったが、その後ろにはサラディンもいる。
「あなたは先に行け。尋問は私が替わる。少し聞いておきたいこともあるからな」
サラディンが頷いたので、ランスロットにはそれ以上、そこに残る理由がなくなってしまった。
気がつくと皆はすっかり支度を済ませて発っており、彼は待っていたカノープスに追い着いた。
「何だ、聞き捨てならない話ってのは?」
「ガレス皇子がグランディーナを捕らえられないからって、毎日、部下を殺しているという話だ」
「アヴァロン島でお目にかかった時もふつうじゃないと思ったが、何か化け物じみてきたな。それで?」
「それ以上、聞き出す前に彼と余計な話をしてしまってね」
「おまえって、つくづく尋問とか向かないよな。そんな話、簡単に聞き出せそうなものじゃないか」
「つい、彼との話に興じてしまったんだ。彼が我々のことを意外とふつうだの何のって言うものだから、親しみを覚えてしまって」
「解放軍に加わるっていうんならともかく、曲がりなりにも敵兵だろうが。あんな若造に丸め込まれてどうするんだよ」
「すまない、君の言うとおりだ」
「まぁ、謝る相手は俺じゃないし、そもそもおまえに尋問は無理だ。よく自覚して、次からは捕まえるだけにしておくんだな」
「そうするよ」
「それよりも聞いてくれ」
「どうしたんだ?」
「さっきの戦闘でユーリアのやつがワイバーンの命乞いをしやがったんだ」
「彼女らしいじゃないか」
「魔獣をやたらに殺すなって話には俺だって賛成さ。だけどな、あいつときたら、早く傷が治るようにって秘蔵の身体の源を飲ませやがって。どうせ後で逃がしちまうくせに」
「何だい、その身体の源というのは?」
「俺たち有翼人に伝わる魔獣の滋養強壮剤だよ。1月に1遍くらい飲ませてやると、魔獣が元気になるし、毛艶も良くなるし、いいことづくめなんだ。旧ゼノビア王国でも正式に採用されたんだぜ」
「なるほど」
「だけど材料を集めるのが大変で、俺は忙しい合間を縫ってだなぁ、一生懸命集めてるんだ。その身体の源をあっさりあんなワイバーンにくれやがって」
「彼女は優しいからな。そのワイバーンを見過ごせなかったんだろう」
「くっそー、それなのに『そろそろ切れかけているから、よろしくね』ときたもんだ」
「まぁまぁ、落ち着いてくれ。ルツェルンらしい町が見えてきたじゃないか」
「どれ?」
遙か前方に町らしい家並みが見えてきた。エルシリアと同様、外壁はない。それに畑と畑の間に家があって町と言うよりも村だ。周囲の平原との境界も曖昧で、攻めやすく守りにくそうだった。
「シャロームの田舎を思い出すような光景だな。あれがルツェルンでいいんだろうな。ん?」
「どうした?」
「カリナが呼んでるんだ。ランスロット、エレボスの手綱を持っててくれ」
「どうするんだ?」
「あいつが何か気づいたんだろうから行ってくる。しかし、ディアスポラの時といい、カリナが見つけるのってろくなものじゃねぇんだよなぁ。あと、この旗、振ってくれよ。それで下の連中が止まるはずだ」
「承知した」
カノープスはエレボスに二言三言話しかけると、勢いよく飛んでいった。グリフォンやワイバーンにはさすがに劣るが、こうして見ると彼もなかなか速い。
しかしランスロットは忘れないうちに旗を振った。解放軍の青い無地の旗だ。ずっと下の方で誰かが旗を振り返したが、視力の良さでユーリアだろう。
「ランスロット! グランディーナたちはまだ来ねぇか?!」
そこへ血相を変えたカノープスが文字どおりすっ飛んできた。戻るのが早いと言う間もない。
「いや、まだだと思うが、何かあったのか?」
「あの村に動いている人間がいねぇんだ。
エレボス、おまえ、急いで迎えに行ってこい!
ランスロット、後は任せたぞ!」
「承知した!」
たちまちカノープスが遠ざかり、冷たい風に頬を切られそうになる。エレボスの翼は解放軍で一番速い。ランスロットが指示する必要もなく、じきにグランディーナたちが見えてきたが、彼ときたら、振り落とされないようにしがみついているのが精一杯だった。
一方、ランスロットを追い払って、グランディーナは帝国軍の剣士を尋問していた。
「あなたの名前は?」
「ガランス=デュルケームだ。俺なんか捕虜にしたって大した金はないぞ!」
「解放軍は捕虜も取らないし、降伏した者を殺しもしないと、いつになったら帝国軍は言い聞かせるようになるのだろうな?」
「おそらく、この先もすることはないだろう。帝国軍に良いことはない」
「ガランス、あなたに聞きたいことは1つだけだ」
「お、俺がしゃべるとでも思ってるのか?」
グランディーナは膝を落とし、彼と同じ高さの視線になった。突風が赤銅色の髪をあおる。
「ガレスが私の捕獲と解放軍全滅の指令を出したのは本当だな?」
彼女の言葉にガランスの頬が動いた。彼は肯定も否定もしなかったが、その表情が何よりも雄弁だ。
グランディーナはサラディンを振り返り、彼も頷く。それから彼女は立ち上がると、腰の剣を抜き、ガランスを縛った綱を切っ先で絶った。彼は自由の身になり、信じられない様子で2人を交互に見た。
「あなたのためにカオスゲートを開いてやるわけにはいかないが、どこでも好きなところに行くがいい」
「あんた、本気で言ってるのか? 俺が帝国軍に戻ったらどうするんだ?」
「愚問だ。手向かえば切るし、降参すれば許す」
「俺が丸腰だからってなめてるのか?」
「ガレスの指示は私を捕らえることだろう。あなたには無理だ」
「こいつっ!」
サラディンが動くまでもなかった。ガランスが捕まえに来たのをグランディーナは身体を沈めてかわし、そのまま顔面に蹴りをたたき込んだからだ。
だから、ランスロットがエレボスとともに到着した時、そこには伸びた帝国軍兵士が倒れていた。背中が上下するので生きているのはわかるが、どう尋問したら、相手が鼻血を出して気絶していることになるのか、ランスロットには理解しがたい。
「グランディーナ、カノープスの報告ではルツェルンらしい町に人がまったくいないそうだ。皆には停止するよう伝えてある。すぐに行ってくれ」
「わかった」
彼がエレボスを降りると、グランディーナはすぐに騎乗し、サラディンも後ろに乗った。彼の顔が青いが、引き止める間もなく、グリフォンは速攻で戻っていく。
ランスロットも急いで走り、皆に合流した。
カノープスが事情を説明したのだろう。ただならぬ事態を察してか、青ざめた顔色の者も少なくなかった。
「ランスロット、俺たちもルツェルンに行くぞ。治療部隊以外は全員でルツェルンを囲めって指示だ」
「何をしようっていうんだ?」
「これからサラディンが大がかりな魔法の準備をする。そのあいだに帝国軍に邪魔されないよう、俺たちに守れって話だ」
「グランディーナは?」
「魔法をかけるのにあいつも必要なんだと」
「彼女に魔法の心得はないんじゃなかったか?」
「俺もそう聞いたと思ったんだがな」
話しているうちに一同はルツェルンの町に着いた。
動く者といえば風ばかりの町を浅い溝が囲み、サラディンが何やら地面を杖で掘り返している。
町の傍らにはユーリアがピテュスとともに待機していて、皆に溝を踏み越えないよう注意した。
「皆さんがその線を越えてしまうと、サラディンさまのかけようとしている魔法が働かなくなってしまうんだそうです。グランディーナは襲撃は夜になるかもしれないと言ってましたから、いまのうちにかがり火を用意しておいた方がいいかもしれませんね」
「戦闘が始まったら、どさくさに紛れて踏んじまうかもしれねぇぜ。それでも駄目なのか?」
「絶対です」
ユーリアは問答無用と言わんばかりの笑顔を浮かべ、皆が手分けして火の支度をするのを見守った。
「面倒くせぇなぁ。何だって、そんなことを言い出すんだ?」
カノープスもぼやきながら働いたが、彼の性格を考えれば、決して踏まないのは明らかだ。
だが、サラディンの言いつけはランスロットにも不可解である。以前、マラノ攻略の時にウォーレンたちが描いた魔法陣の実験に彼も立ち会ったことがあるが、魔法陣を壊さないよう注意は受けたものの、絶対に外周の線を越えるなという話は聞かなかったからだ。もっとも、あの時の魔法陣は直径1バスの大きさしかなかったので、外周の線を踏めば魔法陣そのものを壊さないではいられなかっただろう。
しかし、今度のはそれよりもずっと大がかりで、かつてポグロムの森で、グランディーナの身体を借りた賢者ポルトラノが描いた魔法陣よりも遙かに大きい。直径30バスのそれを、ポルトラノは約2時間ほどで描いたそうだが、サラディンはルツェルン全体を囲む魔法陣を描くのに、どれほどの時間をかけるつもりなのだろうか。
「グレッグは手伝っていないのだな」
「ああ、サラディンが一人でいいって言ったんでな。だけど汗水垂らしているところを見ると、見かけよりずっと大変そうな作業だな。それにしても、あいつも人使い荒いよなぁ。サラディンが汗を垂らすのは、今日、二度目なんだぜ」
「それほど切迫しているのだろう」
「さぁ。それなのに一人でやる理由がわからん。ユーリアがいるのは、何でも終わり次第、サラディンを連れ出すためだって話だ」
「大将、それよりも家の中、見てくださいよ」
「何だ? おまえが見つけると、ろくなことがねぇからなぁ。いまだって俺の予感は当たったんだぞ」
「そんなこと言わないで、ほら、あそこ」
カノープスばかりか、ランスロットもカリナの指す方に目をこらした。
家の中で人が倒れている。思わず助けに行こうとして、ランスロットは両脇から思い切り引き止められた。
「何をするんだ?! 生存者がいるかもしれないじゃないか」
しかし、カノープスもカリナも揃って首を振った。
「死んでるんだよ、あれは死体が転がっているだけだ。俺たちが急いだって、できるのは弔ってやることだけなんだ」
「何のために、こんなことを?」
そうつぶやいたきり、ランスロットは絶句する。同時に怒りがこみ上げてきた。おそらくは解放軍を止める、倒す、ただそれだけのために何の関係もないルツェルンの人びとは殺されたのだ。地上の争いを憂えて天空の島に逃れた人びとの子孫が、最も残酷な形で地上の争いの犠牲となったに違いない。
「グランディーナがあれに気づかないはずがねぇし、サラディンもそうだ。だけど、死体の埋葬よりも優先したいことがあるんだろう」
カノープスの声は周りに気遣ってささやくようだ。
実際、ポグロムの森の焼き討ちで両親を殺されたカシムなど、これを見たら決して黙ってはいまい。ランスロットも自重せねばならなかった。
やがて皆の支度が済むと、動き回っているのはサラディンだけとなった。グランディーナは相変わらず町の真ん中から動いていない。
彼の影がだんだん長くなる。辛そうに見えるが誰も手伝えないし、手助けできない。サラディンの立ち止まる間隔は少しずつ短くなっていったが、彼を見守るグランディーナの眼差しは恐ろしいまでに冷徹だ。
ランスロットはふと、彼女が剣も鎧も身につけていないことに気づいた。手には細長い紙片を持っているだけだが、それもサラディンがかけようとしている魔法に彼女が要る理由なのかもしれない。
気がつくと辺りに夕闇が迫ってきた。天空の島は上空にあるので陽が沈むのは早い。
問題なのは、サラディン以外に動く者のないはずの町の中で、いくつもの影が夕闇に紛れて動き始めたということだ。
それらは最初のうちはただの幻に過ぎなかった。
ところが、ポグロムの森でお目にかかった亡霊のようにその輪郭がはっきりしてくると、とうとうグランディーナが大声を張り上げた。
「サラディン、急げ! 時間がない!」
しかし、それでも彼女は動かない。群がってくる亡霊はうるさそうに追い払うものの、サラディンに近づくでなし、彼の作業が終わるのを待っている。
「2人とも、すぐにはやられねぇだろう。それよりも俺たちの相手はこっちだぞ!」
夕闇に隠れて羽ばたきが近づいてきた。黒い翼のレイブンたちだ。そして亡霊たちも町の外に出てき始め、皆を襲いだしたのだ。
ブリュンヒルドはレイブンにも亡霊にも抜群の効果を発揮したが、逆に敬遠されて、ランスロットには誰も近づかなくなってしまった。
そしてレイブンたちが次々に魔法陣の内側に向かうのを止めようとするのも、カノープスとカリナ、グリフォン2頭で凌ぎきれるものでもなかった。
「グランディーナ!」
サラディンの声が飛んだのはその時だ。
「アイギークの名において我、浄化の力をここに召喚す! 受けよ、審判!」
最初、光はグランディーナの持っていた紙片から発せられた。それが魔法陣に当たると、唸るような音を立てて魔法陣全体が光を発し、内側にいた、あるいはその光に触れただけの亡霊を消滅させていった。
もちろん侵入を試みたレイブンたちも無事ではいられず、酷い火傷状の傷を負ってはじき出された。
サラディンはぎりぎりのところでピテュスに拾われていたが、グランディーナはど真ん中だ。
しかし彼女は光が消えるまで立ち続けた。
ルツェルン全体を覆った光の柱は天まで届き、敵とはいえレイブンの惨状を見ると、誰もがその内側に足を踏み入れることはおろか、光そのものに触れることさえ躊躇うというのに、彼女が無傷でいられるのは不可思議と言うよりなかった。
すべての光が失せた時、サラディンの苦心の跡は見る影もなく、グランディーナの手から紙片も消えていた。そして彼女が召喚したという浄化の力は、ルツェルンの町そのものにはいかなる傷痕ももたらしていなかった。
「怪我人の報告と野営地の設置を、急げ!」
彼女が命じて、ようやく皆の時間が動き出す。
治療部隊が合流し、ルツェルンを囲んでいたかがり火が動かされた。辺りはすでに真っ暗で、さすがに今晩は携帯食で済まさざるを得ないようだ。
「皆さん、今回は軽傷ですね」
「だが、さすがに怪我人が増えたな。明日は少しゆっくり進むか」
「ほんとですか?」
モームの声が珍しく弾む。グランディーナがらしからぬことを言ったからだろう。
「帝国も無制限に兵を送り込んだわけでもないらしい。そろそろ兵も尽きそうだから、様子を見てもいいだろう」
「わかりました」