Stage Eleven「誓いの剣」
金竜の月25日、解放軍はアラムートの城塞を発った。海路、テグシガルパを経由して、ミナチトランに渡り、マタガルパから街道を南下していった。
目指すガルビア半島へは8日もかかる。遠征隊はシャングリラへの遠征部隊とほぼ同規模で、いちばん大きな違いは、ライアンとドラゴンたちがやってきたことだった。
「デボネア殿、お久しぶりです」
「スティング、君も解放軍にいたのか。
ノルン、すまないが彼と2人だけで話したいんだ。席を外してくれないか」
「その方はどなたですか?」
「彼はスティング=モートン。ゼノビアにいた時のわたしの副官だったんだ」
「わかりましたわ」
彼女が渋々とでも立ち去ったのを見送ってから、デボネアはスティングに頭を下げた。
彼の上官は、四天王まで上り詰めた人なのに気取ったところがない。デボネアのような清廉潔白な人物がなぜゼノビアに左遷されたのか、当時は理解に苦しんだものだ。
「すまない。君には一方的にゼノビア城での責任を押しつけてしまったな。それを、ぬけぬけと解放軍に参加してと思うだろうが、かつて四天王だった者として、わたしはゼテギネア帝国をこのままにしておくことができないのだ」
「ご安心を。わたしは何も、あなたに恨み言を申し上げようと思って来たのではありませんから。ただ、あなたと話をしたかったのです」
「なぜだ? 君の立場から言ったら、相当、責められただろうに」
「解放軍は誰も責めませんでしたし、スラム・ゼノビアの住民たちも、わたしたちを責めるような気力なんてありませんでした。わたしは、あなたの代わりに皆の武装解除と解散をしただけです」
「それは良かった」
デボネアが安堵したような笑みを浮かべた。
気さくな人柄といえば聞こえはいいが、彼は物事をあまり深く考えるたちでもない。
「ですが、解放軍に加わったのは、あなたに恨み言のひとつも言おうと思っていたからなのですよ」
デボネアの顔色が変わった。さすがにあれこれ考え、それでもスティングが「恨み言を言うつもりではない」と言ったところに落ち着いたようだ。
「それは、なぜやめたのか、訊いてもいいかな?」
「シャングリラへの遠征には、わたしも加わっていました。あなたがラウニィー殿やノルン殿に付き添われてきたのを見た時に、そんな気はなくなったんです。あなたが1人で逃げたと恨んでいましたが、わたしも解放軍でのんびりと過ごしてきました。恨む筋合いなどなかった。お話ししたかったのはそれだけです」
「それは格好悪いところを見られてしまったな。陛下を説得しに戻ったつもりが、裏切りを罵られて、気がついたらガレス皇子に連れられて、あんなところにいたからな」
「抵抗もされなかったんですか?」
「陛下の兵に手を出すわけにはいかないさ。それに王宮で殺傷沙汰を起こせば、問答無用で首をはねられてしまうし、騎士としてそんな不名誉なことはできないだろう?」
「ですが、捕らえられれば、何をされるか、わかったものじゃないんですよ!」
「君が驚くこと、ないじゃないか」
「申し訳ありません」
「帝国にはまだヒカシュー大将軍がいらっしゃる。いくらガレス皇子でも、大将軍配下の四天王を無断で殺すような真似はなさらなかっただろう」
「そうは仰いますが、デボネア殿、あのままシャングリラ城で放置されていたら、さすがのあなたも殺されていたのではありませんか?」
「だが、そうなる前に君たちが来たじゃないか。そんなに案じたものではないよ」
「はぁ」
「それより、ゼノビア守備隊から解放軍に加わったのは、君とボブソンとグレッグのほかにいるのか?」
グランディーナの命令で、デボネアをリーダーとする小隊には、その3人とノルンが加わっている。
「治療部隊にエオリア=クセジュがいます。シモンズ=イルジーグラーもいたのですが、アヴァロン島でガレス皇子のイービルデッドを受けてしまい、復帰できませんでした。ほかの者はどうしたか、ゼノビアで別れて以来ですから、消息はわかりません」
「そうか。皆、無事に戻れたらよいのだが、ゼテギネア帝国は敗残兵に厳しいから、そうもいかないだろうな」
「デボネア殿こそ、ご家族はいらっしゃらないのですか?」
「ああ。わたしは身内がいないから、早くからザナドュの軍人養成学校に入ったんだ。ヒカシュー大将軍のおかげで学費も免除していただいたのでね、あそこが故郷みたいなものなんだ。だから、人より言いたいことが言えたのかもしれないな」
デボネアは快活な笑顔を見せると、スティングの肩を軽くたたいた。
「ラウニィー殿にも言われたが、わたしたちはともに解放軍で戦う同志だ。敬語はやめにしよう」
「はい、デボネア殿」
こうして解放軍は南下していった。
夏の日差しがいよいよ厳しく皆に照りつけるなか、ある日、突然、南からの風がはっきりと空気の変わることを告げる。24年前の戦争でラシュディが使った禁呪のため、ガルビア半島とバルハラは年中、雪の消えない冬に、気候まで変えられてしまったからだ。
ライアンの4頭のドラゴンに積んできた冬服が皆に配られ、先に進むにつれ、防寒具や雪靴が加わった。持ってきた天幕も冬用の厚手の物だ。
解放軍のほとんどの者が雪上での戦いには経験がない。最初のうちは季節外れの雪にはしゃぐ者も少なからずいたが、ガルビア半島に近づくほど容赦のない寒さが間断なく襲いかかり、皆はだんだん無口になっていった。
「順当に進めば、ゼテギネアを攻めるころには冬だ。いまから雪上での戦いに慣れておいた方がいい」
そう言ったグランディーナは皆ほど厚着をせず、雪さえも彼女の足は止められないと見えた。
解放軍がガルビア半島の入り口、スンツバルに着いたのは雷竜の月8日、折悪しく天候も悪化し、ゼテギネアの東大陸では滅多に見られなかった吹雪となって、風のうなりとともに渦巻いていた。
「先陣はライアンに任せる。帝国軍は雪に強いプラチナドラゴンを投入しているから、そこにプロミオスをぶつける。デボネアとラウニィーがこれに続け。あなたたち3人の隊はガルビアを目指せ。フィガロと戦うのはデボネアに任せる。説得できるようならば、解放軍に迎えるのもやぶさかではない」
「もちろんだ」
ライアンの連れてきたサラマンダーのプロミオスが、わずか一晩で焔竜フレアブラスに進化したことは、解放軍中に知れ渡っていた。
フレアブラスは最上級ドラゴンの一種で、炎そのもののような存在であり、吐く息もサラマンダーとは比べ物にならないばかりか、スーパーノヴァという魔法まで操る。鈍い赤色に変わった鱗は、興奮すると火の粉を帯び、ますます容易に操れなくなる。
通常、ドラゴンの進化は個体で行われることはない。ドラゴン、下級ドラゴン、上級ドラゴン、最上級ドラゴンのどれが生まれるかは、その親によって決まるからだ。
ドラゴンの経験は卵を通じて親から子へ伝えられる、というのが竜使いたちの定説だ。だが全てのドラゴンは一生に1つしか卵をなすことができないため、野生のドラゴンは先祖の経験が蓄積されにくいので人が飼った方が上級ドラゴンを得やすいとも言うが、最上級ドラゴンの卵が得られた例は稀である。
なにしろライアンも聞いたこともなく、もちろん最上級ドラゴンを使うのもまったく初めてのことなので、よくわからないのだと言う。フレアブラスが人に使役されることも、滅多に聞かないそうだ。
幸いなのは、プロミオスがライアンの命令に従うことで、味方とあれば、これ以上、心強い存在もない。
しかも今回は、念のために、フレアブラスとブラックドラゴンしか連れていかない。さすがのライアンも、最上級ドラゴンを含めて4頭も操るのは無理と判断したからだ。
「いかんせん禁呪にさらされたって土地だ。ガルビアから帰ってきたら、メラオースがデスバハムートになってたって、俺は驚かねぇよ」
「大丈夫よ、その時もちゃんと私が面倒を診るわ」
実際、ギルバルドとユーリアがいなければ、ライアンはにっちもさっちもいかなくなっていただろう。
プロミオスが鼻孔から真っ白な息を吐き出しながら、解放軍の先陣を切って歩み始める。
その足下で雪が溶けて水たまりが出現したが、ドラゴンが足を離したそばから凍りつき、はっきりと足跡を刻んでいった。
降りしきる吹雪をものともせず、フレアブラスは進んでいく。ライアンとギャネガーは、その陰に入って、雪を避けながら歩いた。
彼らから少し離れて、デボネアとラウニィーの小隊が続いていった。
それ以外にも町の解放を命ぜられた各小隊が、時間を空けて発つ。
とうとう最後までスンツバルに残ったのは、グランディーナとギルバルドの率いる小隊のみとなった。
「私たちはカオスゲートを探しに行く」
「お気をつけて。心当たりはあるのですか?」
「サラディンが言うには、北の山間だそうだ。あなたたちも帝国軍には気をつけろ」
厳寒のガルビア半島にプロミオスを投入したグランディーナの読みは的中した。
まともに戦えば手こずるプラチナドラゴンやバハムートが、業火を受けて木偶のように倒されていく。
フレアブラスの、唯一と言ってもいい弱点は寒さだが、通常の進化をたどらなかったプロミオスには、体内から噴き出す炎も持て余し気味のようで、ライアンはここがガルビア半島なのか、疑うほどだったと言う。
おかげでデボネアとラウニィーに率いられた小隊は、ほとんど戦闘を行わずに半島の先端まで行くことができた。帝国軍が頼みの綱にしていたドラゴンたちをプロミオスがなぎ倒していったので、戦意を挫かれ、戦いたがらないことも大きかった。
また彼らは、反乱軍ならぬ解放軍にデボネアが加わったことを聞いて、かなり驚いたようだ。四天王はまだ3人、帝国にいるとはいうものの、1人でも反旗を翻したということは、ゼテギネア帝国の落日も遠くないと思わせたのかもしれない。
一方、グランディーナはサラディンの知識を頼りにカオスゲートの位置を特定しようとしていた。ブリュンヒルドを抜けばカオスゲートが現われることはわかっているが、さすがのカノープスの視力でも吹雪の向こうを見通すことはできなかったからだ。
5人はガルビア半島の北東に広がる山岳地帯に入り、サラディンの案内とカノープスの先導で北上した。
「何だって、こんな不便なところにカオスゲートってのはあるんだ? ダルムード砂漠とかアンタリア大地とか、辺鄙(へんぴ)なところばかりじゃねぇか」
「ぼやくなぼやくな」
「カオスゲートは人が造ったものではないからだ。この土地は力を集めやすい。大地には力の流れるところと、力の集まりやすいところがあるのだ」
「ラシュディがブリュンヒルドなしでカオスゲートを開けられるのはその力のためか?」
「わたしにはわからぬな」
サラディンは尾根から見下ろし、深く落ち込んだ谷間を指した。
「今日はあそこを調べて終わりにしよう」
「しかし、こんなところにカオスゲートがあっても、今度は軍で来なきゃならねぇ。天空の島に行くのも一苦労だ」
「そうだな」
このウプサラ山地はそれほど標高が高いわけでも斜面が急なわけでもないが、決して止むことのない降雪が進軍を邪魔するのだ。
彼女たちはカノープスの助けも借りながら下りていったが、彼が皆を止めたのは、ずいぶん底に近づいてからのことだった。
「どうした?」
「いや、雪に隠れて見えなかったんだが、変な物があるからよ」
「変な物?」
「人里があったわけじゃあるまいし、こんなところに人形があるなんて、おかしいじゃねぇか」
「人形? いかん!」
その人形が雪の中から立ち上がった。女の子が遊ぶのに使いそうな、木製の頭と手足を持った1バス(約30センチメートル)くらいの大きさの人形だ。だが、カノープスの視力は、人形の周囲にたちまち細氷が生じるのを認めた。急速に気温が下がっている証拠だ。
と気づくより速く、彼女たちを灼熱の炎の壁が取り囲み、一瞬遅れて猛烈な吹雪がその周囲を吹き荒れた。
「サラディン!」
グランディーナが彼を支え、カノープスもとっさにアイーシャを庇った。
だが、彼女らの努力を嘲笑うかのように、炎の壁が外側から凍りついてゆく。
カノープスは天井をふさがれる前に、アイーシャを抱えたまま、上空に飛び出した。
「グランディーナ?!」
彼らの足下で氷の柱が崩れた。崩れる直前に、サラディンの構えた杖が燃え上がるのが見えたが、それも氷の下だ。
「ランスロット! サラディン!」
即座に氷をはね除けたのはランスロットだ。いつも持ち歩いている楯を雪よけに使ったのだろう。
しかし、グランディーナもサラディンも立ち上がってこなかった。
彼らは急いで2人を氷から掘り出し、天幕を設置した。グランディーナはその場から動くことができず、サラディンは気絶していたのだ。彼の杖は炭となり、両手にひどい火傷を負わしていた。
3人は最初、グランディーナも気絶しているのかと思っていたが、そうではなかった。彼女は氷の下にうずくまり、激しく身体を震わせていた。サラディンの杖が当たったのか、顔に火傷を負っていたが、歯の根も合わないほど震えていたのは、そんな傷が原因ではなかった。なにしろカノープスが彼女を抱えようとした時、激しく腕を払われたぐらいだ。
「アイーシャ! ちょっとあいつを診てやってくれ。いきなり腕を払われて、どこが悪いのかわからねぇ」
「右脇です。ガルビア半島に来てから古傷が痛むと言うので、ラウダナムを処方したことがあります」
「ラウダナム? そんなにひどいのか?」
アイーシャを手伝っていたランスロットが顔色を変えたが、カノープスは先にグランディーナを連れに行った。話を聞きたいのはやまやまなのだが、雪の中で震える彼女をそのままにしておくわけにはいかない。
天幕は5人で休めるように、いちばん大きな物を借りてきていたが、やはりカノープスには窮屈だ。その上、てっぺんから煙が出せるとはいえ、なかで火を焚くのも決して好ましくないが、この厳しい寒さではそんなことも言っていられない。
「それで何だ、ラウダナムって?」
「阿片の溶剤だよ。鎮痛剤にもなるんだ」
「だけど、阿片には強い中毒性があるんだろう?」
「でも、強力な鎮痛剤でもあるんです」
話しながらアイーシャは手早く小瓶の液体を計り、グランディーナの傍まで行った。
アイーシャを見つめる顔は血の気が引いて白く、灰色の眼差しにもいつもの強さがない。何より、痛みに震えるところなど、グランディーナはいままで見せたことがなかった。アヴァロン島でガレス皇子のイービルデッドを喰らい、全身から出血した時でさえ、彼女は諫めるマチルダを叱咤したではないか。
ランスロットもカノープスも事情が呑み込めず、かける言葉が見つからなかった。
「大丈夫よ、グランディーナ」
アイーシャが震えの止まらぬ頭を優しくかき抱いた。
「サラディンさまは気を失っていらっしゃるだけ、私たちを守ろうとして力を使い果たしてしまわれたの。でも休めば良くなるわ。だから、あなたもラウダナムを飲んで休みましょう。ね?」
彼女が頷いたので、カノープスは慌てて寝具を伸べた。そこへランスロットが右脇に触れないよう気を遣って抱え、グランディーナを横たえてやる。
アイーシャは毛布の端を折り込んで、まるで母親のように微笑みかけた。
「おやすみなさい、グランディーナ」
こんな時でなければ、拍手喝采したくなるような腕前だ。しかも彼女はそのままサラディンの側に座り直し、途中で止めてしまった火傷の手当てまで始めた。
「何か手伝うことはあるかい?」
「いいえ、ランスロットさま。サラディンさまも呼吸が落ち着いてこられたので、もう峠は越えたと思います。私が起きていますから、お二人ともお気遣いなくお休みください」
「じゃあ、俺が先に見張りに立つ。後で起こすから、替わってくれや」
「待ってくれ、カノープス」
外に出ると真っ暗で、相変わらず雪と風が止んでなかった。月も星も見えないので、ひどく暗い。冷寒地用の厚い天幕とはいえ、完全に密閉することは不可能だ。この天幕は闇のなかでは絶好の目印になるだろう。だが、スンツバルを発って以来、帝国軍とは遭っていない。
「驚いたな」
「グランディーナに? それともアイーシャか?」
「強いて言えば後者だ。さすが大神官の血は争えないっていうか、頼りになるな」
「わたしたちだけではどうしようもなかったしな」
「ああ。だけど、あんなことを黙っていたのは反則だぜ。治ったら、とっちめてやらねぇと」
「お手柔らかに頼むよ。彼女にとっても予想外の事態だったんだろうし」
「俺が言いたいのは、知っていれば、もっと気を遣ってやれたってことだ。だいたい、あいつは隠し事が多すぎるんだ」
「吹聴するようなことではないから黙っているんだろう。ラシュディのことも傷のことも、知られないで済めば、黙っていたいことばかりだ」
「おまえ、ものわかりが良すぎだぞ。まるで俺が頭の硬い頑固者に見えるじゃないか」
「誰もそうは言ってないが、人にはそれぞれ役割というものがあるからね」
バルモアでもそんな話をしたことを思い出して、カノープスは黙り込んだ。
「なぁ、関係ねぇけど、魔法って杖がなくてもできるのかな?」
ずいぶんと長く2人で黙っていて、またカノープスから声をかける。
「さぁ? わたしもよく知らないが、魔法使いは皆、杖を持っているな」
「サラディンの杖がなかったら、やばいのかな?」
「その時はサラディン殿が仰るだろう。だが両手に火傷を負っていて、魔法は使えないのじゃないか?」
「あっ!」
その時、カノープスは唐突に人形のことを思い出した。さすがの彼にも、こう暗くては探せないが、夜が明けるのを待っていたら雪に埋もれてしまう。天幕に戻って薪を取ると、彼は当たりをつけて人形を探した。
ランスロットもすぐに事情を察したが、彼が火を持ってきた時には、カノープスは雪の中から件(くだん)の人形を見つけ出していた。
「これが君の言っていた人形かい?」
「そうだ。サラディンに見せたら何かの役に立たないかと思ってな」
「ランスロットさま! カノープス! 葡萄酒を温めましたから、召し上がりませんか?」
「いま行くよ、アイーシャ!」
彼女に言われるまで2人は気づかなかった。寒さにさらされて、自分たちも歯の根が合わなくなっていたことに。
翌日も雪は止まなかったし、風も相変わらずだった。
それでもランスロットたちを安堵させたのは、アイーシャの言ったとおり、グランディーナもサラディンも小康状態になったことだった。
しかし、サラディンの火傷は一晩で治るようなものではなかったし、グランディーナもラウダナムを飲まねばならなかった。今日一日、ここに逗留しなければならないことは誰にもわかっていた。
ランスロットとカノープスは、夜が明けるのを待って、カオスゲートの位置を確認した。昨晩、人形を掘り出して、目印に薪を埋めた、ちょうどその場所にそれは出現した。人形が意図的に置かれたことはこれで疑いようがなくなったし、誰の仕業かも明らかだった。
「あまりゆかいな話じゃねぇな」
2人からカオスゲートの位置を確かめたことや、人形のあった場所などを聞いたサラディンは嘆息して頷いた。
「あの方のされることは、いつも、わたしの想像を上回る。まさか、こんな人形を使われるとは、思いもよらなかった」
「それはどういう用途に使うのだ?」
「本来は人形使いの道具なのだが、望む者の一部を作製時に混ぜることによって、何分の一かでもその者の力を持つようになるのだ」
「東方にそういう呪術道具があることは聞いているが、力には魔法も含まれるのか?」
「できるということだろう。だが、わたしはこんな使い方は想像もしなかった。この人形が敵の手に渡れば、不利になる可能性もあるからだ」
「不利になるとは?」
「この人形の中にラシュディ殿の一部がある。それを取り出して呪術をかければ、あの方に打撃を与えられるかもしれない」
「だが奴に限って、その対策を施していないとは思えない」
「そうだ。わたしなどには破られぬとの自信があるのだろう。使い道がないとは思わぬが、すぐに燃やすのが賢明だ」
そう言うと、サラディンは不自由そうに横になり、目をつぶった。話はできてもまだ本調子というわけではないのだろう。
天幕の隅では、徹夜の看病疲れでアイーシャが休んでいる。
グランディーナが立ち上がり、外に出た。ラウダナムを飲む時にひどく嫌そうな顔をし、アイーシャもそんなことを言っていたが、一見、いつもと変わらないように見える。
「うるさいな」
彼女はそうつぶやき、左手で耳をふさいだ。
「ここは、風がうるさすぎる」
「外は寒い。中に入っていた方がいいんじゃないか?」
「寒いのは平気だ。風の音がうるさくて眠れない」
「おまえがそういう泣き言を言うとは思わなかったぜ?」
「ラウダナムのせいだ。耳と目がやたらに良くなる。いまの私はあなたより、いい目をしている」
「耳と目が良くなりすぎたって、悪いことはねぇだろう?」
「目はそれほど気にならないが、聞こえなくてもいいものが聞こえる。ガルビア半島が落ち着かない。私たちが乗り込んできたせいだろう。一帯がざわめいて、うるさくてかなわない」
そう言いながら、彼女は子どものように首を振った。
「一帯って、ガルビア半島は広いんだぜ。どこまで聞こえるって言うんだよ?」
グランディーナはカノープスを睨みつけたが、すぐに目をつぶった。
その眼差しに浮かんだのは恐怖だとランスロットが思った時、彼女は目を開け、南の方を振り返った。その動きに2人もつい、つられる。
しかし、彼女たちの周りには雪と風があるばかりで帝国軍さえいない。ラシュディの護衛という名目でガルビア半島にやってきたフィガロ将軍も、どこまで従ったのか疑問が残るところだ。
「凄いな、プロミオスは」
「え?」
彼女が少しだけ得意そうに微笑んだ。
「フレアブラスのおかげで戦闘が楽だ。デボネアたちは今日中にエルテルスンドを解放するだろう」
「エルテルスンドってどこだ?」
「確か、ガルビア半島の真ん中辺りだが、ここから百バーム(百キロメートル)以上離れているはずだ」
グランディーナは耳から手を離し、剣を抜いた。雪の上に描く地図はすぐに隠されてしまい、ランスロットにもカノープスにもいつも以上にわかりにくい。
「そんな遠くの声が聞こえるっていうのか?」
「知った声をかろうじて拾えるという程度だ。意識しなければ聞き分けられない。それに、ほかの声や音がうるさくて、一緒になってしまうことの方が多い」
「そいつは、俺よりいいとかって類の話じゃねぇぞ。いくら良くたって百バームも離れたところの音なんか聞こえるものか」
彼女は剣を収め、また耳に手を当てた。そんなことをしても、どれだけ効果があるかは疑問だが、そうせずにいられないのだろう。
「俺たちの声も埋没するっていうのか?」
「あなたたちの声はもっと大きい。でも内緒話をされたら、どうかな?」
「いまからガルビア半島を離れるわけにはいかないのか?」
彼女は即座に首を振った。
「別に初めてのことじゃないし、痛みが治まれば、ラウダナムは飲まなくても良くなる。それにガルビア半島の次は天空の島だ。離れる意味はない」
「だがサラディン殿はしばらく動かせないだろう。そのあいだにデボネアの方が片づくのじゃないか?」
「そうだな」
答えてから彼女はしゃがみ込んだ。
「グランディーナ、いくら寒さは平気だからって、あんまり長時間、外にいるのは良くない。考え事をするなら天幕に入ろう」
「そうする」
いつもより、やけに彼女が素直なのも気になる。
戻ると、アイーシャが起き出していて、サラディンの世話をしていた。すぐに横になってしまったグランディーナも、甲斐甲斐しく面倒を診る。
しかし、彼女はすぐに眠ってしまわず、しばらく考えてから、こう言った。
「ランスロット、カノープス、あなたたちのうち、どちらかスンツバルまで戻ってくれないか?」
「おまえたちはどうするんだ?」
「食糧は足りる。私たちはここで皆が来るのを待つ。その方がサラディンも早く回復するだろう」
2人は顔を見合わせたが、どちらかというなら話は決まっている。カノープスの方が絶対的に移動は速いからだ。
「だけど、ガルビアまで行ったデボネアたちを待っていたら、ずいぶんかかる。いくら食糧があるからといって、ずっとここにいるのは厳しくないか?」
グランディーナはアイーシャを見たが、彼女もランスロットの言葉に頷いて、続けた。
「いくら暖めても天幕では限界があります。サラディンさまが歩けるようになったら、すぐにスンツバルまで戻った方がいいと思います」
さすがのグランディーナも、アイーシャの言うことには滅多に反抗しない。
「サラディンの容態は?」
「明日になれば出発できると思います。もちろん戦闘は回避しなければなりませんが」
サラディンは何も言わなかったので、グランディーナはアイーシャの言葉を吟味したようだが、とうとう同意した。
「わかった。ここはあなたたちの言うようにしよう。明日、スンツバルへ戻る」