Stage Twelve「天空の騎士」
一方、ムスペルム城に招かれたグランディーナは、ムスペルム騎士団の者でも滅多に来ないだろうと思われる、奥の部屋まで通されていた。
「すみまセン。わたしたち、召使いを置きまセン。あなたには少し不便かもしれませんネ」
「別に気にしない。あなたは食事もしないのか?」
「はい。食べることはできマス。でも必要ではありマセン。わたしたち、フィラーハに永遠の命を与えられましタ。その時から食べる必要がなくなったのデス。でも時々、お酒を飲みマス。天空の島のお酒、とても美味しいですネ。あなたもいかがデスカ?」
「私は酒を飲まない」
「つき合ってもいただけませんカ?」
「酒を飲みたいのならば、解放軍には私以上の適任がいる。だが、あなたの話とはそんなことではあるまい?」
「あなたたちに協力するという話デスヨ。でも、あそこにいたのはあなた以外は男ばかり、わたし、とても楽しくは話せませんデシタネ」
スルストは杯に酒を注ぐと、グランディーナに向けて軽く持ち上げた。
「あなたとの出会いに乾杯しましょウ」
彼女はこっそりため息をついた。
「ラシュディと帝国軍はどこへ行った?」
「オルガナへ行きマシタ。わたしがカオスゲートを開いたのデス。アア、怒らないでくださいネ、その時のわたしはラシュディに操られていたンデス。彼が古くから知っている、友人のように見えたのデスヨ。だから、彼の言ったことは頼みのように聞こえまシタ。オルガナへ通じるカオスゲートを開けてくれと友だちに頼まれマシタ。友だちの願いを聞いてあげるのは当然デスネ」
「ムスペルム騎士団の者も何人か帝国軍に協力していたと聞いたが?」
「ええ。ヴィンソンとフィンクのことですネ。彼らも一緒に行ってしまいマシタ。わたしがラシュディの術に落ちたことに衝撃を受けたんでショウ。かわいそうなことをしてしまいまシタ。でも、わたしが復活したことを知ったら、キット戻ってきてくれまスネ。騎士団の人たち、とてもいい人たちデス」
「ラシュディはあなたに何を頼んだ?」
「最初は地上へ降りるように言われましタ。デモ、わたしたち、それ、できまセンネ。フィラーハの許しが得られなくて、地上に降りられなかったんデス。彼は残念だと言いましたが、わたし、そんなにおかしいとは思いませんデシタ。それならば、あなたたち反乱軍、解放軍というのデスカ? 追いかけてくるから、それを倒してくれと言われマシタ。ムスペルム騎士団に命じて、あなたたちを連れてくるよう言いましたガ、大事に至らなくて良かったデス。ところで、わたし、とても大事なことを聞き忘れていましタネ。あなたの名前、教えてくだサイ」
「グランディーナだ」
スルストは杯にこぼれそうなほど酒を注ぐと、彼女の隣りに素早く座り込んだ。この部屋にはスルストほどの長身でも楽に横になれる、大きな長椅子が2つも置いてあった。
「とてもいい名前デス! あなたに相応しいデスネ。それではグランディーナ、今度はわたしから訊かせてくださイ。あなたたちは、どうやってわたしを倒しましタカ?」
「覚えていないのか?」
「はい、面目ありまセン。あなたたちと戦っていたことは覚えていマス。でも気がついたら、わたし、正気に戻っていまシタ。ですが、あなたたちにわたしたちを倒せるはずがありませン。何を使いましたカ?」
「スコルハティだ。ずっと私の右腕に宿っていたのを放った」
「スコルハティとはどこで会ったんでスカ?」
「ユリマグアスだ。サラディンがアルビレオに石化されたのを解くために、光のベルを探しに行った。私は彼と戦って負けたが、彼が私の腕を封じることでユリマグアスに入れてくれたんだ」
「それはいつのことデス?」
「2ヶ月ぐらい前かな」
「そんなにユリマグアスを空けるトハネ。あなたはよほどスコルハティに好かれたんでショウ。彼は気紛れデス。オウガバトルの時にも誰の味方もしなかったんデスカラ。ですが、あなたがスコルハティと戦ったんでスカ? ヨクそんなことができましたネ」
「ユリマグアスに入るのにスコルハティを何とかしないといけないと言われたんだ。私は魔法が使えない、剣で黙らせられないかと思ったが負けた」
「ふつうの人、そんなコトは考えませンネ。わたしだって、躊躇(ためら)いまスヨ。さっきだって何かに襲われたことまではわかりましたガ、反応が遅れマシタ。だてに神殺しとは呼ばれていまセン。スコルハティはそれだけ強いデス。それに、ユリマグアスやスコルハティのことを知っているなんてただ者じゃありマセンネ。ユリマグアスにはそれだけ大事な物が収められていマス。簡単に人が来られては困りまス」
そう言って杯の中身を飲み干したスルストは、杯を傍らに置くと素早くグランディーナの右手を取った。
「この手にスコルハティが入っていたんでスカ?」
彼女も負けじとその手を振りほどく。
「私がわかっているのはスコルハティが右腕を封じていたことだけだ。どうしていたのかなんて、彼に訊いてくれ」
「デモ、ふつうの人、スコルハティを宿していたら、腕が千切れてしまいマス。あなたの腕、とっても頑丈デスネ。考えられませんネ」
「そんなことは私にも説明できない。私だって自分のことがわかっているわけじゃない」
「だったら、この話はココでおしまいにしまショウ。わたし、あなたに嫌われるようなことはしたくありまセン」
「ならば、もう一つ訊きたい。ラシュディがあなたに頼んだのはそれだけか? 奴はほかに何を言った? ラシュディが空しいとわかっていて、あなたたちを味方にするためだけに天空の島に来たはずがない。奴の狙いは何だ?」
「天界のこと、いろいろ訊いてきましタネ。でも、わたしたちも自由に天界に出入りできるわけではありまセン。天界については知らないことの方が多イノデス。神々のことは特にわかりマセン」
「だが奴が手ぶらで帰ったはずはあるまい?」
「そうデスネ。彼はキャターズアイという石の行方を知りたがっていまシタ。とても危険な石デス。わたしたちも名前しか知りマセン。でも、その名を知っているということだけでもずっと危険なノデス」
「キャターズアイ?」
「エエ、恐ろしい破壊の石デス。でも、それは天界にありマス。わたしたちは在処も知りまセンネ。彼はやっぱり、なんて言ってまシタネ」
「ほかには?」
「それだけデスネ。神に誓ってもいいデス」
「キャターズアイについて訊いてもいいか?」
スルストの表情が急に真面目になった。
「知って、どうしまスカ? あの石はあなたたち人間には破壊しかもたらしませんヨ」
「ラシュディがなぜ、そんな石の行方を知りたがっているのか気になる。ゼテギネア帝国を倒すためには奴を倒さなければならない。だが奴の目的が不明だ。手がかりは多い方がいい」
彼は杯を卓に置き、立ち上がった。
「話す前にわたしの質問に答えてくだサイ。ユリマグアスのことは、どうやって知りましたカ?」
「人に教えてもらった」
「誰にですカ? 別にあなたやその人に何かをしようとは思っていませんヨ。わたし、優しいのでス。恐いこと、ありませんネ」
「デネブ=ローブという魔女にだ」
「わかりましタ」
スルストは愛嬌のある笑顔を浮かべた。
「ラシュディがキャターズアイを手に入れられたとは思えませんガ、石のことを教えてあげますネ」
「本当にそう思っているのか?」
「何をデスカ?」
「ラシュディがキャターズアイを手に入れられないと本当に思っているのか?」
「わたしたちでさえ滅多に入ることのできない天界に、たかが人間が入れるはずがありませんネ。キャターズアイは天界に封印されていまス。手に入れられるとは思いませン」
「天界に入れなければ、入る手段を考え出す。人間が無理ならば、それ以外の手を考える。あなたの考えか天界の共通の認識か知らないが、ラシュディを甘く見ている。サラディンなら、そう言うだろう」
それでも彼は肩をすくめてみせた。
「それよりもキャターズアイのことを話しましょウ。キャターズアイは13人目の使徒の石でス。十二使徒は知っていますカ? そう、オウガバトルの時に、わたしたちとともに戦った賢人ですネ。でも本当は13人目がいたんでス。いまでは裏切りの使徒と言われ、存在も認められていないドュルーダがネ。彼は使徒のなかでいちばん強く、賢く、物事を知っていましタ。それなのに、彼は力に走り、フィラーハを裏切って、デムンザについたのでス。そのために神々はその対応に追われて、人間たちがカストラート海に追い詰められるまで手を貸すことができませんでしタ。しかし、ドュルーダはとうとう捕まり、その力のほとんどを石に封じられ、追放されましタ。彼は神々への復讐を誓いましたが、最後は惨めに殺されたとカ。ドュルーダの力を封じた石がキャターズアイでス」
「ドュルーダはなぜフィラーハを裏切った?」
「サァ。わたしは彼と戦っていないので詳しいことは知りませン。ですが、キャターズアイに封じられた力は凄いものだそうでス。力の使い方を知っている者に渡せば、再びオウガバトルを起こすのもたやすいでしょウ。だから天界の奥深くに封印されているのでスヨ。誰でも行けるところではありませんネ」
彼女はしばらく考え込んだ。そのあいだにスルストが杯に酒を注ぎ、隣りに座りなおしたのも気にしていない様子だ。だが、彼の手が髪を弄び、頬に触れるにつれ、かなり乱暴にその手を振り払った。
「いろいろ話してくれたことは感謝する。だが1つだけあなたに頼みがある」
「何でしょうカ? あなたの頼みなら、喜んで聞きまスネ」
「解放軍には私のほかにも女性がいる。彼女たちにこんなことをしないでくれ」
「なぜでスカ?」
「彼女たちは帝国と戦うために解放軍に加わった。あなたに慰めを与えるためじゃない」
スルストの目が細くなり、笑みも消えかけたが、それはかろうじて留まった。
「わたし、皆さんとは了解の上でおつき合いをしていますネ。それにわたし、女性に無理を言ったことはありませんヨ。わたしのことをファーレンが何と言ったか知りませんガ、わたしたち、とても楽しく過ごしているだけデス。わたし、女性を泣かせたくありませんカラ」
「あなたはそのつもりかもしれないが、女性もそうだとは限らない。天空の三騎士の頼みとやらを、無碍に断れる女性はなかなかいないだろう。ましてや解放軍に支障があっては困る。あなたが彼女らと接触しなければ済むことだ」
「男と女の仲に口を挟むなんて、あなたも野暮なんですネ。わたし、女の人をただの慰めと思ったこともありませン。わたしたち、いつでも真剣なおつき合いをしているんですヨ」
「あなたも戦うためにムスペルムを離れるのだろう。真剣なおつき合いとやらは、この戦いが終わってからにしてもらおう。だが、あなたは半神だ。私たちには想像もつかないほど永く生きている。あなたにとって、私たちの命など一瞬のものでしかなかろう? 本当に真剣なおつき合いをしているのなら、女と見れば見境なしに声をかけるのでは、誤解されても仕方ないな」
スルストの表情から完全に笑みが消えた。
彼はしばらくグランディーナを睨みつけていたが、やがて彼女の肩に手を置くと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あなた、解放軍の女性たちのこと、言いまシタ。『私のほかにも』と言った、そうですネ?」
「そうだ」
「それは、あなたならば、いいということですカ? わたしのお相手をしてくれますカ?」
「あなたが皆に手を出さないと約束してくれるなら。だが私は戦争屋だ。過度な期待をされても困る」
スルストは微笑んで、彼女の赤銅色の髪に指をとおした。グランディーナはそんな彼を、まるで石でも見るような目つきで眺めている。
「もしも、もしもでス。わたしが約束を守れなかったら、どうしますカ?」
「殺すとでも言ってほしいのか?」
「わたしは不死ですヨ。いくら殺されてもすぐに蘇りまス。どうやって殺しますカ?」
「あなたの身体を繋ぎ止めて、ずっと殺し続ける。蘇って死に続ければいい、とでも?」
「オオゥ!」
スルストは手を離し、万歳をした。
「そんな恐ろしいことを表情も変えずに言わないでくださイ! わたしも約束は守りますヨ。天空の騎士が約束も守れないと言われるのはしゃくですからネ。それならばいいですカ?」
「それが、あなたの望みなのだろう?」
「でも、わたし、あなたに強制するようで好みまセンネ。それに、あなたはわたしを好いてくれていませン。わたしのことを好きでもない人と一緒にいても楽しくありませンヨ」
と言いつつ、スルストは再度、彼女の手を握る。
「わたしを好きになれとは言いまセンネ。でも、一緒にいる時は笑ってくだサイ。わたし、人形に興味はありまセン。それでもあなたが微笑んでくれたら、楽しいでスネ。女性の笑顔には、それだけで全てが癒される力がありますネ」
「笑うのは苦手だ。だが努力はしよう」
彼女の言葉にスルストは満面の笑顔を浮かべたが、またしてもその手がほどかれた。
「明日、オルガナへ向かう。カオスゲートを開けてくれ。その次はシグルドに向かう。つき合ってくれるだろうな?」
「もちろんデス。フェンリルさんやフォーゲルさんがどうなったか、すごく心配でスネ。特にフェンリルさんはとても優しい人デス。ラシュディの魔法にかけられて、心の中ではきっと苦しんでいマス。早く助けてあげたいデス」
「私は皆に説明してくる。前庭も借りる」
「エエ、どうぞ。でも、戻ってきてくれますネ?」
「少し遅くなるかもしれないがな」
「待っていまスネ。わたしたち、眠る必要もありませんカラ」
グランディーナが外に出ると、辺りはすっかり暗くなっており、彼女が断るまでもなく、解放軍は前庭に野営地を築いていた。食事も済んだようで、皆は思い思いに休んでいる。
彼らが驚いたように自分を見るのを彼女は疑問に思っていたが、右腕が動かせるようになったことを、サラディンたちが説明していないのだと気づいて納得した。
「ずいぶん長かったのだな」
「スルストは相当な女好きだ。その話をつけるのに時間がかかった」
「皆にはスルスト殿にかけられた術が解けたという話はしてある。だが、おまえの右腕のことは話していない」
「スコルハティのことも話していないのか?」
「話していない。先日のこともある。おまえから話した方がいいだろう」
「面倒だな。またスルストのところに戻らなきゃならないんだ」
「無理をするな」
「そうは言っても、スルストに好き勝手させておくよりはましだ。さっさとオルガナに行って、フェンリルを味方にすれば、スルストのお守りも押しつけられるかな。
ランスロット、カノープス、リーダーたちを集めてくれ」
いまの話を聞いていた2人は、黙って皆を集めに行った。
グランディーナの話に、ほとんどの者は忘れていた2ヶ月前の記憶を掘り起こさねばならなかった。
しかし、存在さえ疑っていたスコルハティが、彼女の腕を封じていたという話は、実際にその姿を見たのでもない者には、やはり眉唾としか聞こえないようだ。
実際に彼女とスコルハティの戦いを目撃しているランスロットとカノープスだって、まさかそんなものが彼女の腕から出てくるとは思ってもいなかったのだ。否、皆と同じようにスコルハティのことなど、きれいさっぱり忘れていた。グランディーナがその名を呼ぶまで、思い出しもしなかったし、彼女の腕が動かなくなった原因にも思い至らなかった。
「何はともあれ、あなたの利き腕が動くようになったことは我々には朗報ですな」
ケビン=ワルドの言葉に皆が頷く。それだけで十分だとでも言いたげだ。彼らはお伽話だとしか思っていなかった天空の島におり、半神を助けた。それだけでも伝説など腹一杯だというのに、これ以上、説明のつかないような不可思議なことはもうたくさんだと言いたそうでもあった。
「明日はオルガナへ向かう。おそらく、氷のフェンリルもスルストのようにラシュディの術にかかっているだろう。だが、今度はスルストの力を借りて、フェンリルにかけられた術を解くつもりだ。その後でシグルドに渡る。竜牙のフォーゲルも同様だろうが、その時にはスルストとフェンリルがいる。私たちの出る幕はあるまい。ラシュディが何のためにカオスゲートを開き、天空の三騎士を配下に置こうとしたのかは不明だが、あなたたちはこのムスペルムで待機していてもらいたい。スルストに同行するのは私とサラディンだけでいい。そのあいだ、こちらの指揮はランスロット、あなたに任せる」
「すまないが、それは引き受けられない。わたしは何があっても君に同行する。例外はなしだ」
グランディーナは案の定いい顔をしなかったが、サラディンがランスロットに助け船を出した。
「わたしも話し相手がほしいところだ。来てもらった方がいいな。それにアイーシャにも同行してもらいたい」
グランディーナが珍しくサラディンに反論しようとしたが、ほかの者が何か言うよりも早く、アイーシャが来る場合と置いていく場合とを天秤にかけたらしく、不承不承に頷いた。
「ならば、こちらはケビン、あなたに頼めるか?」
「かまいませんぞ。あるいは先にアラムートの城塞まで戻っていてもよいですが?」
「天空の島が片づいて、すぐにダルムード砂漠に進めるとは限らない。ムスペルムで待っていてくれ」
「承知しました」
「デボネアはどうしている?」
「ノルンさんとご一緒だと思いますが、怪我の方はこれといった異状は見つかりませんでしたわ」
「ないに越したことはない。ただ相手が半神だ、後で厄介なことになっても面倒だからな」
「でしたら、あちらの天幕にいるはずですから、直接お話を伺った方がよろしいと思います」
そう言ってマチルダが指した天幕は、皆の物とは1つだけ離れたところにあった。
グランディーナはそちらに向かい、リーダーたちは明日以降のことを軽く打ち合わせて解散する。
1人、グレッグ=シェイクだけが残って、例によってサラディンにユリマグアスやスコルハティについて訊ねていた。魔術師の彼には皆よりもずっと惹かれる話題のようで、その熱心さは若者に負けるとも劣らなかった。
「それよりも俺は気になることを聞いたんだがな」
「スルスト殿のことだろう?」
「いくら天空の騎士だからって、そこまで気を遣う必要があるのか?」
「彼女の話だと、相当の女性好きらしいが、ならば、わたしたちが首を突っ込んだら、逆効果だろう?」
「だからって、黙って見てるわけにもいかねぇだろうが」
「彼女も子どもじゃない。余計なことだと言われるのが落ちだと思うんだがな」
「いいや、俺は絶対に反対だ」
「いくら女性好きだからって、スルスト殿も無理は言わないだろう」
「そんなことどうだか、わかったものじゃねぇぞ」
一方、グランディーナはデボネアを訪ねると、その傷口を見、ノルンと2人から話を聞いていた。
「少し血が止まりにくいようだったな。やっと落ち着いたところだ」
「大したことがなければいい。ただ、明日の朝まで気をつけていろ。スルストがムスペルムを離れてからでは取り返しがつかなくなる」
「私が見ているわ。何かあったら、ムスペルム城に行けばいいのでしょう?」
「あの城、出入りは簡単ではなさそうなんだが、あなたなら入れるだろう」
その言葉の意味をノルンは考えていたが、いまはそんなことよりもデボネアの方が大事だと思い直した。幸い彼は聞き分けが良く、治療に関しては彼女に任せきりだ。
それでグランディーナが天幕を出ると、早速カノープスにとっつかまった。
「ムスペルム城に行くのか?」
「スルストに戻ると約束したからな。だが、あなたは連れていけないぞ」
「おまえだって戻る必要なんかねぇだろう。いくらスルストが天空の三騎士だからって、そこまでご機嫌取りをする必要があるのか?」
「彼を放り出して、好き勝手にやらせておく方がよほど問題だ。私もいつもつき合う気はない。それとも、あなたにスルストを止める策があるのなら聞くが?」
「俺だって、そんなものがあるわけじゃねぇさ。だけど、みんなのためにおまえ一人が犠牲になる必要はないって言ってるんだ」
「別に犠牲だなんて思っていないから、気を遣わなくていい。私一人で話が済むなら、その方が気楽だ。あなたに気を遣ってもらわなければならないようものじゃない。いまさら自分のしてきたことを否定するつもりもない」
カノープスは力ずくでも彼女を止めようとしたが、グランディーナは素早くその手を逃れた。利き腕の自由を取り戻した彼女は、彼の覚えていた以上に敏捷な動きだった。それにここであんまり騒いで、事を大きくするのもまずい。その気持ちも彼女を止め損ねた。
「サラディン、あなたに話しておくことがある」
彼は頷き、己の天幕に誘った。2人はそれきり、ずいぶん長いこと、天幕から出てこなかった。
カノープスは仁王立ちになって天幕を睨みつけていたが、皆はだんだん休んでいく。
ようやくグランディーナ、続いてサラディンが出てきた時には、起きているのはカノープスのほかに夜営だけになっていたほどだ。
彼女は散歩するような足取りでムスペルム城に向かい、サラディンはその姿を見送った。
「どうしてあんたが止めないんだ?」
「哀れまれるのは嫌だと言われた。あれの判断には口を挟まぬようにしている」
彼にそこまで言われては、カノープスにはもう口を挟む余地はなかった。
そんなわけで、グランディーナがムスペルム城に戻っていったことはごく少数の者しか知らなかった。
スルスト以外に誰もいない城は、廊下も薄暗く照らされ、不便さを感じさせなかった。
彼女は城の間取りを覚えていたが、途中にある部屋はすべて扉が閉ざされている。鍵がかかっているわけではないのだが、どの扉も開けられないのだ。この城には魔法がかけられていて、スルストの思うがままということなのかもしれない。
「どれも開けられませんヨ、グランディーナさん」
幾つめかの扉に手をかけた時、彼女はいつの間にかスルストに背後を取られていた。
「わたし、他人に勝手に城の中を歩かれるの、好きじゃありませンネ。別に宝物があるのではありませんが、この城、わたしの大切な住まいデス。荒らされるの好きじゃないんデス。あなたにもそういうものがあるでショウ?」
「ないな。私は武器以外の物を持たないようにしている。だけど解放軍は別だし、あなたには悪いことをした」
「それでいいでスネ。でも、もしもあなたがムスペルムに来てくれるなら、この部屋に何があるか、1つひとつ見せてあげられマス。仲良くなった女の人には1つずつ見せてあげているのデス。だけど、全部の部屋を見られた人はまだ、いませンネ」
「私がそうしないことを、あなたはよく知っていると思っていたがな」
スルストの手が彼女の胸の前で交叉する。解放軍の誰よりも太い腕だ。天空の三騎士であることを差し引いても、彼の戦士としての力量は高いようだった。
「そんなことはありませんネ。でも、もしもあなたがムスペルムに住みたいと言うのなら、わたし、骨を折ってもいいでス。その方がみんなのためにもいいと思いまス」
「私に剣を棄てろと? 殺されてもありえないな」
「それは残念でスネ。別にいますぐとは言いまセン。この戦いが終わってからでもいいノデス。考え直す気はありませンカ?」
「ない。私はフィラーハを信用していない」
スルストの手が彼女の口を塞いだ。
「そんなことを軽々しく言わない方がいいでス。フィラーハは何でもご存じですネ。でも、あなたの命を奪わないのは、あなたのことを信用しているからですヨ」
彼の手が引っ込んだが、グランディーナの肩に置きなおされた。
「さぁ、この部屋のことはもういいでしょウ。あちらの部屋で飲みなおしまショウ」
「私は飲まないと言った」
「でしたら別のお楽しみもありまスネ。夜はまだ、これからデスヨ」