Stage Twelve「天空の騎士」
しかし、アイーシャはなかなか寝つかれなかった。昼間の疲れもあったが、一日移動などということは解放軍ではよくある話で、それは大した理由ではない。グランディーナの様子が気にかかって、目をつぶっても、火を睨みつけるようにしていた彼女の表情が浮かんできて眠りが訪れなかったのだ。
とうとう意を決して外をのぞいてみると、グランディーナ、サラディン、スルストが焚き火を囲んで座っているのが見えた。だが、3人とも話はしているわけではないようで、火のはぜる音が聞こえてくるぐらいだ。
「いつまでそうして座っているんでスカ?」
そう言いながら、スルストがグランディーナの隣りに座り、肩を抱く。その仕草にアイーシャは思わず目を背けた。
彼の話は続いている。
「わたし、こんなに長時間、歩いたのは久しぶりデスネ。とっても疲れてしまいまシタ。早く休みませンカ?」
「悪いが今日はそんな気分じゃない。また明日にしてくれ」
「オオ〜、そんなことを言って、2人でずっと座ってるつもりなんデスカ? わたし、あなたの心配していること、当てられまスネ。でも、そんなことを心配していてもしょうがないデス。世の中、なるようにしかなりまセン。ましてやフィラーハの思し召しは誰にもわかりマセン。それよりもいまを楽しんだ方がお得デスネ。そうではありませンカ?」
グランディーナが何か言ったようだが、アイーシャには聞き取れず、彼女はまた3人の方を見た。その位置は先ほどと変わっていない。スルストは相変わらずグランディーナの肩を抱いているし、サラディンも動いていない。
「もちろんデス。わたし、天空の騎士になったことをとても名誉だと思っていまスヨ。フィラーハのため、弱い人びとを守って戦うことはわたしの誇りデス。その途上で倒れても悔いはありまセン。それはフェンリルさんもフォーゲルさんも同じはずでスネ。ああ、いや、ちょっと違うかもしれませんケドネ」
グランディーナは首を振ったが、アイーシャにはそれが意外に思えなかった。
「しょうがないでスネ。今日はこれで退散しまショウ。お休みなさ〜イ、グランディーナさん」
その時、スルストが自分の方も見たような気がして、アイーシャは慌てて首を引っ込めた。しかし、天空の騎士は自分に割り当てられた天幕へ行ってしまい、彼女のいる天幕には近づいてこなかった。
それで彼女がまた外をのぞくと、グランディーナとサラディンの話が切れ切れに聞こえてきていた。
「あなただってガルビア半島からこちら、黙ってばかりいる。何を思いついたのか、いい加減、話してくれてもいいんじゃないか?」
サラディンの返答は歯切れが悪く、ほとんど聞こえない。彼でもそんな風に話すことがあるのだ。アイーシャはいつも他人に聞こえるよう、はっきり話す印象しかなかったので、とても意外に思った。
「私はまだ起きている。夜番をスルストに頼むわけにもいかないだろう。後でランスロットに替わってもらう。あなたこそ、もう休んだらどうだ? 手の火傷だって、治ったわけじゃないんだろう?」
グランディーナがサラディンの返答を待たずに立ち上がった。炎が彼女の髪を赤々と照らしている。
「足が痛むのか? すまない、あなたやアイーシャには無理をさせたな。アイーシャに頼んで、薬湯を煎じてもらおう」
それを聞いて、アイーシャは再度、天幕に引っ込んだ。治療箱を探すまでもなく、疲労によく効く薬草が2種、道具のいちばん上にしまわれていた。マチルダが気を利かしたものと思われ、その心遣いにアイーシャは感謝するばかりだ。
グランディーナが天幕に入ってきたのはその時だ。彼女は天幕に灯りがついていたことに、ひどく驚いた様子だった。
「起こしてしまったか?」
「いいえ、眠れなくていたの。そうしたら、あなたとサラディンさまの話が聞こえたから、捜し物をしていたのよ」
「あなたも疲れたのか?」
「私は大丈夫、アヴァロン島育ちだもの、これぐらいの移動だってどうってことないわ。それよりもサラディンさまがお疲れなのでしょう?」
「何か、効く物があればと思って。手伝うか?」
「お湯を沸かしておいてもらえる?」
「わかった」
結局、アイーシャはサラディンに按摩(あんま)をすることになった。薬草だけに頼るよりも、その方が早いと思ったからだ。
「サラディンさま、今度からもっと早めに仰ってください。こんなになるまで放っておいては、お身体にも良くありません」
「いろいろと考え込むことが多かったものでな。自分の身体のことは忘れていたのだ。だが、わたしも歳を取ったものだ」
「お身体はもっといたわってください。私だけでは及ばないところもありますし」
「今度から気をつけよう」
「そんなことを言ったって、サラディンはどうせ忘れてしまうだろう?」
「いつもは魔獣がいてくれるからな。油断していたのだ」
サラディンは苦笑いをしたが、グランディーナは小さく舌を出した。
「ご自分のことも忘れられるほど、何について気にかけていたのですか?」
アイーシャの言葉に2人の笑みが消える。彼女は思わず手を止めたが、サラディンが話し出したので按摩を再開した。
「ラシュディ殿がなぜ、天空の三騎士殿を虜にしたのかということや、そもそもなぜ、このような戦いを起こしたのかということをだ。だが、わたしにできることは想像してみることだけだ。確証がないから、堂々巡りを繰り返してしまう」
「だったら、そんなことはやめればいい。奴が何を企もうと、いずれ出会う相手だ。会ってから潰せばいいだろう?」
グランディーナの声音は、少し怒っているようにも聞こえる。
「先に対処できることがあれば手を打ちたいのだ。単に戦うだけで止められるような方ならば、事態はもっと単純なもので済むだろう」
「堂々巡りをしているだけなのに有効な手などあるものか。あなたの言うことは矛楯しているぞ」
「そんなことはわたしにもわかっている。だが、ラシュディ殿のことはおまえよりも知っているつもりだ。考えるうちに答えが出るかもしれない」
「だからといって、こんな時間にアイーシャを働かせるのは論外だ。でも、あなたは熱中すると周りが見えなくなる。だったら、最初からアイーシャに気にかけていてもらった方がよほどいい」
「そうだな。頼むよ、アイーシャ」
「は、はい」
妙なところで話が落ちたが、アイーシャは気にしないことにした。どちらにしても彼女は天宮シャングリラへの遠征以来、グランディーナ専属の癒し手であるようマチルダから命じられている。ここにサラディンが加わったところで大した違いはないはずだ。
それよりも、さすがにそろそろ眠くなってきた。夜中に按摩をするなんて、考えてもいなかったからだ。サラディンが先に休み、アイーシャも続いて休んだ。
グランディーナがランスロットを起こしたのは、その後のことであった。
翌日も同じような行程だった。ただ、昼過ぎにルーガナナの町に着き、彼女らはカッファの町と同様の歓迎を受けた。
さらに、ここで初めてオルガナ騎士団長のディーン=マーンチと顔を合わせた。聞けば、フェンリルに招集されて以来、ずっとルーガナナに滞在していたのだそうだ。
「いったい、何をしていたんですカ? オルガナの秩序を守る騎士団が1ヶ所に集まっているのは、あんまりいいことではありませんネ」
「仰るとおりです、スルストさま。ですが、わたしたちもこのような事態は初めてだったものですから、どうしたらいいのかわからなくて。それに、そのゼテギネア帝国軍にはムスペルム騎士団の方が2人、混じっていらっしゃいました。スルストさまやフォーゲルさまに助けを求めようにもカオスゲートは開けられず、ほかの島の状況も分からないままで、動きが取れなかったのです」
そう言って、オルガナ騎士団長は恐縮する。ムスペルム騎士団長も生真面目そうな人物だったが、こちらも負けず劣らずだとランスロットは感じた。
「まぁ、過ぎてしまったことはしょうがないデスネ。それにわたしが来たからには百人力デス。明日にもフェンリルさんを解放して、オルガナも平和にしてあげまショウ!」
「お願いします、スルストさま。来ていただいて、本当に助かりました。どうか、今日はゆっくりとこの町でお休みください。スルストさまがおいでいただいたのも久しぶりですし、皆も喜びましょう」
「もちろんデス。わたし、2日も野宿するのは嫌でスネ。
グランディーナさん、あなたたちもぜひ、そうしなサイ」
「そうだな」
常夏のムスペルムに比べて、オルガナの気候は厳しく、フェンリルが島を閉ざした時にオルガナの民は餓えてしまった、という話をスルストがしていたので、ランスロットは何となくオルガナを貧しいものだと考えていたのだが、ルーガナナで催された宴会に出された料理を見ていると、天空の島について、自分がいかにものを知らないか、思い知らされるかのようだった。あるいは、それから何百年も経って、天空の島はずっと豊かになったのかもしれないが。
カッファに続いて歓待を受けて、スルストは上機嫌だった。
言ってみれば神のような存在がすぐそこにいるのだ。人びとの歓迎ぶりは地上でならば、さしずめ神に捧げる祭りと同じなのかもしれなかった。
「一昨日の話が嘘のようだな。スルストの女癖の悪さはオルガナでは知られていないのか?」
「そんなことはないだろう。スルスト殿の周りにいるのは男性ばかりだ。女性はすぐに離れているよ。ムスペルムよりも警戒しているくらいだ」
「本当だ」
グランディーナが皮肉な笑みを浮かべた。
「あんたたちはムスペルム騎士団ではないようだが、どこの島の者かね?」
「私たちは地上から来た、ゼテギネア帝国と戦う解放軍だ」
グランディーナの即答に、その老人はかなり驚いたらしかった。地上と天空の島の交流などないに等しい。天空の島の住人が地上の者を見ることは、ここ何百年か何千年もなかったのだろう。
「地上の者がなぜ天空の島へ来られたのだ? ま、まさか」
「あなたの言うまさかが何を指すのかは知らないが、カオスゲートを開く聖剣ならばスルストが持っている。私たちは天空の三騎士に力を借りに来た」
「では、おぬしたちがスルスト殿を助けてくれたのか?」
「そうだ」
老人はいきなりグランディーナの肩をたたいた。
「偉い! おぬしたち下界の人間もなかなかやるもんじゃな。見直したよ。いや、ほんと!」
彼の声がほかの者にも聞こえたのだろう。人びとの視線が急にこちらに集まった。そのまま老人がいまの話をしたので、スルストの歓待を横目で眺めていただけだというのに、いきなりグランディーナが宴の主役にまでなってしまったかのようだ。
「おお! 皆さんを紹介するのをすっかり忘れていましタネ。ごめんなさいデス。許してくださイネ。オルガナの人たちにいっぱい歓迎してもらえて、わたし、とっても嬉しかったんデスヨ。
でも改めて皆さんに紹介しまスネ。この人たちはわたしを助けてくれた解放軍デス。わたしたちを魅了したラシュディという魔導師のいるゼテギネア帝国と戦っていマス。この人がリーダーのグランディーナさんデス。地上から来ましタネ。その魔導師も帝国も放っておくととっても危険デス。天空の島の平和も脅かされてしまいマス。だから、わたしはこの人たちと一緒に行くことにしまシタ。フェンリルさんやフォーゲルさんも、解放したら一緒に行ってもらいマス。皆さんはわたしたちが帰ってくるまで、各騎士団の指示に従ってくだサイ。別にいつもと変わりまセン。ちょっと、わたしたちがいなくなるだけデスネ」
「そうは仰いますが、フェンリルさまはともかく、スルストさまがいらっしゃらないとずいぶん寂しくなります。一刻も早いお帰りをお待ちしていますよ」
「オルガナの皆さんは優しいでスネ。わたし、一昨日はムスペルムの女の人たちにたくさん怒られてしまいまシタ。フェンリルさんにオルガナと替わってもらいたくなったぐらいデス」
すると大きな笑い声が上がった。
「それは無理もないですよ。どうせ簡単に口説いて、結婚の約束ばかりされたのでしょう? 女の人たちを責めるのは筋違いってものですよ」
「そう言われると面目もありまセン。でも、わたし、女の人を見るとつい口が軽くなってしまいまスネ。皆さんがあんなに真剣に受け止めていたなんて思ってもいなかったんでスヨ」
「そいつは罪なことをしましたねぇ」
「だけど、それぐらいでスルストさまの癖が直るはずがありませんや」
「そうそう、オルガナみたいに女の方で気をつけてないとね!」
人びとは笑い転げたが、スルストは真剣に抗議した。
「皆さん、そんなにいじめないでくだサイ! しばらく会えないのに、寂しいじゃありませンカ」
「それもそうだな」
「だけどスルストさま、たまには女っ気を断って、真面目なところも見せた方がいいですよ!」
「それは手厳しいですネェ」
人びとはまた笑い、スルストも一緒になって笑った。
その時、彼の肩にグランディーナが手をかけたので、彼らは一斉に笑うのを止め、彼女が何を言い出すのかと待ちかまえた。
「明日はフェンリルと戦うのだろう。私たちは先に休ませてもらうぞ」
「そうでスネ。
皆さん、そろそろお開きにしまショウ。明日はフェンリルさんを解放して、その次にはシグルドにも行かなければなりませんカラネ。今夜はとても楽しかったデス。皆さん、ありがトウ」
人びとはスルストの言うことに従って、片づけを始めた。1人がグランディーナたちを寝室に案内する。
ここは天空の騎士のための建物だが、宿泊施設も兼ねているそうだ。そんなに大きな町ではないし、カオスゲートからも遠いので、今日のように4人も泊まることもなかなかないようだった。
寝室は一部屋だけで、あまり広くなかったが、木製の寝台からはどれも良い香りがし、気持ちが安らぐ効果もあるようだ。だがサラディンもアイーシャも、そのような香りのする木には心当たりがなく、天空の島特有の種類なのかもしれなかった。
「先に休んでいてくれ。少し夜風に当たってくる」
そう言ってグランディーナが部屋を出ると、大胆にもスルストはそこで待ちかまえていた。
「フェンリルというのはそんなに気楽に戦える相手なのか?」
「そうではありませンネ。わたし、これでもとっても緊張しているのデス。だから、あなたに慰めてもらいたいと思ったのでスヨ。女の人と一緒に過ごすのは、わたしには何よりの薬でスネ」
そう答えると、スルストは彼女を真正面から抱きしめた。強い酒の匂いが鼻をつく。宴では何も食べずに酒ばかり飲んでいたのだから当然だ。それだけ、ふだんから何も食べないという証でもあるのだろう。
「放してくれないか。人いきれにあたったから、夜風を吸いたいと思って出てきたんだ。あなたにはその後でもつき合うから」
「エエ、喜んデ」
しかし、スルストはグランディーナを1人にせず、窓のある部屋までついてきた。
「あなたは、もしかしてあのような宴は好きではないのデスカ? カッファの時も今日も、全然楽しそうじゃありませんでしタネ」
「嫌いなわけではないが慣れてない。それにカッファの時でもここでも、あれはあなたのための宴だ。私が出しゃばってはまずいだろう」
「でも、出しゃばるのと楽しむのとは違いマス。あなたの仲間はそれなりに楽しんでいたようにも見えましたが、あなたは不承不承あそこにいた感じでしタネ。だから嫌いなのかと思ったんでスヨ」
「あなたの気分を害したのなら謝ろう。だけど本当に苦手なだけなんだ。ああいう雰囲気に慣れてない」
「このようなこともオルガナまででスネ。シグルドではわたしたちが来たからといって、いちいち宴なんて開きませんカラ」
「それもフォーゲルに関係があるのか?」
「わたしの口からは言えませンネ。行けばわかりまスヨ。そんなことよりも、あなたのことをもっと知りたいデス。少し話してくれませンカ? もちろん、ここでなくてもいいでスネ」
「あなたは酒に酔うこともないのだな」
「もちろんデス。お酒を飲むのは単に気分でスネ。わたしが好きだから飲んでるんデス。無駄になってしまうことは心苦しいと思ってますが、お酒も飲めなくなったら寂しいデスネ」
「解放軍にも酒好きがいる。あなたと飲ませたら、気が合いそうだな」
「何でそう思うんでスカ? きっとわたしは知らない人でスネ」
「宴の時のあなたを見ていたら、そう思った。彼には酒なしの人生など考えられないそうだ。私には理解できない」
「いいでスネ、そういう人は。でもわたしは、あなたにもお酒を好きになってもらった方がもっと嬉しいデスヨ」
答える代わりに彼女がそっぽを向いたので、スルストは慌てて追加する。
「だけどわたし、お酒を無理強いする気はありませンネ。あなたがそんなにお酒を嫌うわけも追及しまセン。お酒は楽しく飲むものデス」
「そう言うところまでそっくりだ」
グランディーナがつい笑いながら答えると、スルストも微笑んで彼女の手を握った。
「初めて笑ってくれましタネ。やっぱり、あなたの笑顔は素晴らしいデス。わたしはとっても嬉しいデスネ。それに、今日はわたしの手を払わないんでスネ」
「あなたとの約束だからな。あなたが守っているのに私が破るわけにはいかない」
「義理堅い人なんでスネ。そういうところも好きデスヨ。あなたは魅力的な女性デスネ、わたしの思っていたとおりデス。わたしが女性と一緒にいるのが好きなのは、その人の魅力を引き出してあげたいからでもありまスネ。たいがいの女の人は自分でも気がついていない魅力を隠していマス。わたしが見つけて、指摘してあげるととっても喜んでくれまスネ。あなたのも同じように、一緒に見つけられたら、いいと思いマス」
「何のために?」
「あなたともっと良く知り合うためデスヨ! いくらわたしが女の人が好きだからって、知り合った時のままでは話が続きまセン。女の人は楽しませてあげなければ、言うことを聞いてもらえませんシネ。それに、わたしも女の人も楽しいのでスヨ。好きな人のいいところを見つけるのは楽しくありませンカ?」
「そういう話はしたことがないんだ。いつも戦場にいたし」
「大丈夫デス! わたしがいくらでも手ほどきしてあげまスネ。そうすれば、あなたも楽しくなりマス。その方がお互いのためにもいいと思いまスヨ」
「私はどちらでもいい。あなたを多少見直しもしたが、いつまでもこんなことをしているつもりもない」
「でも、今夜はつき合ってくれるのでスネ?」
「あなたとの約束だからな」
スルストは彼女の手を取ったまま立ち上がった。
「だったら、わたしの部屋へ行きまショウ。ここは窓が閉められないので寒いでスネ。わたし、寒いのは苦手なんデス。いくらゾショネルの加護があっても、オルガナは寒くてかないませンネ。早く、わたしを暖めてくだサイ」
グランディーナが立つと、彼は勝ち誇ったように笑んだ。
「さあ、わたしの部屋へ行きましょウカ」
アイーシャが目を覚ますと、サラディンとランスロットはまだ休んでいて、室内も暗かった。廊下からは外の明るさも差し込んでくるが、夜は明けたばかりのようだ。
室内を見回したアイーシャはグランディーナがいないことに気づき、割り当てられた寝台にも休んだ跡がないことを知った。昨日の晩から動かされていない掛布は冷たく、オルガナの寒さを伝えるかのようだ。
部屋の隅で身支度を調えた彼女は、足音を忍ばせて廊下に出た。右に行けば昨晩、宴の催された大きな部屋があり、そのまま玄関に繋がっている。それで彼女は左に曲がった。
吐く息が白く、空気も冷たい。昨晩より寒いのは明け方に最も気温が下がる地上と同じと言うことだ。
グランディーナも地上で食べる物と天空の島で得られた食べ物がそれほど違わないと言っていたが、地上と天空の島とは、本来あまり違わぬものなのかもしれない。
すると、水の跳ねる音が聞こえ、アイーシャは四方を建物に囲まれた中庭に出ていた。その隅に井戸があり、グランディーナが水浴びをしているところだった。
「おはよう。いつも早いのね」
「夜明けごろに目が覚める。身体がそうできているんだろう」
「冷たい水。ディアスポラでも言ったけど、平気なの?」
「あまり気にしない。目が覚めて、却っていいぐらいだ」
「だけど、この水ってどこに溜まっているのかしら? 天空の島って不思議なところね。山も湖もあるのに、私たちの頭の上を飛んでいるんだもの」
「フェンリルはグルーザに加護を受けている。その力もあるんじゃないか?」
「だったら、私たちのいるゼテギネアにも、同じように神様の力が働いているところがあるのかしら?」
「さぁ? そういう話はサラディンの方が詳しいと思うけど?」
話しながらグランディーナは身体を拭き、服を着た。そういえば、彼女が水浴びをするのは、利き腕が動くようになってからだ。彼女なりに不便さは味わっていたのかもしれない。
「そういう意味ではないの」
アイーシャの言葉に、グランディーナは首を傾げる。
「天空の島に、神様がこんなに近くにいらっしゃるところにいるのに、敬虔な気持ちになれなくて。傍にいることが当たり前だからかしら? それに天空の島も地上とほとんど変わらない。いいえ、アヴァロン島にいた時の方がずっと敬虔な気持ちだったと思うわ。司祭なのに、自分が信仰を失ってしまったみたいで」
「別に不思議でもないだろう。アヴァロン島ではいたるところに教会があったけれど、ここにあるのはせいぜい天空の騎士のために建てられた物だけだ。教会ではあなたたち司祭が神の言葉を代弁するが、天空の騎士とは直接、話せる。たぶんシャングリラでも条件さえ揃えばフェルアーナに会えるのだろう。天界の神がスルストと同じだとは思わないが、私たちの想像していたような神と違うのは確かだ。神なんて、ここでは私たちより力のある存在でしかない」
「そうね。それに私たちが神様の声を代弁するのだって、本当は違うのだものね。お母さまはきっとお母さまの言葉で話していたわ。でも、もしもお母さまが天空の島にいらっしゃったら、どんな風に感じるのかと思ってしまったの。私なんか、ここにいる資格もないのに」
「あなたに資格がないのなら、私なんて天罰を喰らってるよ。天空の島の住人だって、あなたより資格があるなんて思えない。フォーリスさまはフォーリスさま、あなたはあなただ。私はあなたが感じたものを、フォーリスさまが感じたように信じる。それに、神を必ず敬わなければいけないとも思わないけれど?」
「でも、神様には力があるわ。私たちにはかなわないのではないかしら?」
「力を認めるならば、ゼテギネア帝国を否定できなくなる。力ある者が正義とは限らない。正義がいつも正しいわけではない。もしも力を振るって己が意に従わせようとするのなら、私はそれが神でも戦うよ」
赤銅色の髪が一瞬、グランディーナの背で炎と化したかと思われた。その灰色の眼差しはいつもと変わることなく冷静だが、アイーシャはその中に彼女の怒りを認めた。それは彼女のなかで、決して消えることも揺らぐこともない炎だ。その灯りが解放軍をゼテギネア帝国との戦いに導いてゆく。決してぶれることのない眼差しは、この戦いが始まった時から遙かなゼテギネアを見据え続けている。
「ごめんなさい、グランディーナ。私には、あなたと同じ道は選べない。たとえ、お母さまを手にかけたガレス皇子でも、その命を奪ってしまいたくない、奪ってほしくない。誰も傷つかないで済めばいいのに、私には何もできないわ」
アイーシャは彼女の手を取った。涙が一筋、頬をつたう。
グランディーナはそれを驚きの色さえ浮かべて見つめた。そんな表情はすぐに失せてしまい、グランディーナはアイーシャを抱きしめたが、彼女にはもう一度「ごめんなさい」と言うことしかできなかった。
「あなたが謝ることじゃない」
「でも、ごめんなさい、グランディーナ」
母がいたならば、とアイーシャは思う。けれど、大神官フォーリスさえ己の無力を嘆いたことを、この時の彼女はまだ知らなかったのだ。