Stage Twelve「天空の騎士」
「サァ、皆さん、行きましョウ! オルガナ城はすぐデスネ。フェンリルさんを解放したら、一緒にシグルドへ行きまショウ」
朝食を摂り、ルーガナナの人たちの見送りを受けて、彼女たちは発った。スルストが案内に立ち、聖剣ブリュンヒルドと神剣ザンジバルを腰に提げ、意気揚々と歩いてゆく。
オルガナ城まではすぐ、という距離でもなかったが、冷たい朝の空気は気持ちよく、楽な道程でもあった。
小一時間も歩いただろうか。ムスペルム城と似たような趣の城が遠くに見えてきて、スルストはようやくおしゃべりを止めた。
空はよく晴れているというのに、その灰色の城だけ、影の中だ。その上には雲があり、太陽の光など差し込んでいないような錯覚も受ける。
「あれがフェンリルさんの住むオルガナ城でスネ。上空はフェンリルさんの気分次第で晴れたり曇ったりしマス。雨が降る時はすごく機嫌が悪いデス。今日もあんまり良くないようでスネ。もっとも、オルガナ城が晴れていることはほとんどありませンガ」
「同行してもかまわないか?」
「もちろんデス。ただ、できたらサラディンさん、あなたにも来てほしいデス。グランディーナさんとだけ一緒だと、フェンリルさんに誤解されまスネ。
ランスロットさんとアイーシャさん、あなたたち2人は離れたところで待っていてくだサイ。
さぁ、行きまショウ」
彼女たちがオルガナ城に近づいていくと、その雰囲気を察したかのように青い鎧を身につけた女騎士が城から出てきた。透き通るような白い肌と淡い金髪はラウニィーやノルンと同じハイランド人を思わせる。
オルガナ城がムスペルム城と違うのは、中庭がないことだ。寒冷な地のためか、フェンリルの好みか、城の前には殺風景な平原が広がっているばかりで、平坦な道が続いていた。
「フェンリルさん、久しぶりデスネ! 今日はあなたの剣を持ってきまシタ」
「ラシュディさまに逆らう愚かな者たちよ。この天空を荒らす悪しき下界の殺戮者たちよ。我が剣を受けてみよ!」
「フェンリルさん、なんてつれない台詞でスカ。せっかくわたしが会いに来たのに、ラシュディのことしか言わないなんて寂しいでスヨ。まさか、わたしのこと、忘れてしまったわけじゃないですヨネ?」
「忘れてはいないわ。でも、いまのあなたはラシュディさまの敵、一緒にいる反乱軍のリーダーともども倒させてもらいます」
彼女は腰の剣を抜き、さらに近づいてくる。その細身の刃は、離れていても微少な雷を纏っているのが認められる。
スルストも聖剣ブリュンヒルドを抜いた。その刃の輝きにフェンリルの動きが一瞬止まったが、彼女は素早く近づくと、斬りかかってきた。
グランディーナとサラディンは後方に下がり、2人の半神が斬り結ぶさまを見つめた。その力はほとんど同等だったが、フェンリルが素早さに優れていれば、スルストは力に優れているという違いもあった。
だが、どちらも剣を触れさせることはなく、火花だけが激しく散った。スルストがたった1人でランスロットとデボネアを圧倒したように、フェンリルもまた優れた剣士なのだ。
2人の動きはまるで剣舞のようだった。それぞれが互いの動きを紙一重でかわし、また次の手を繰り出す。その仕草が計算されつくしたもののように見えたからである。
しかし、フェンリルにブリュンヒルドを当てれば済むスルストと異なり、彼を倒そうとするフェンリルの息は少しずつ上がってきていた。次第に激しくなっていく彼女の息づかいが、表には出さない焦りを表しているかのようだ。氷のフェンリルの名に相応しく、感情は秘めてしまう方なのだろう。
「フェンリルさん、わたし、あなたにとっても会いたかったデス。いまみたいにちょっと怒った顔も魅力的ですが、わたし、いつものあなたの方がずっと好きでスネ。こうしてあなたに剣を向けるのは忍びないのですが、いつものフェンリルさんに戻ってもらうためには仕方ないのデス」
「あなたは何をごちゃごちゃ言っているの?!」
フェンリルが感情的に叫んだ。
「わたしの勝ちデス」
そこへスルストがブリュンヒルドを突き出す。聖剣は狙い過たずに青い鎧の隙間に突き刺さり、向こう側に抜けた。
何百年、あるいは何千年も愛剣を手にすることのなかったフェンリルは、自分を串刺しにしたブリュンヒルドを見下ろした。
「スルスト?」
青い鎧の天空の騎士が両膝を落とす。雷を纏った細剣が転げ落ち、形の良い唇からは真紅の血が一筋、滴った。
「フェンリルさん、大丈夫でスカ?!」
スルストがブリュンヒルドを抜き、駆け寄った。その表情には、彼がいままで見せることのなかった恐れと思いやりとが浮かんでいる。
「私は、どう、したの? いいえ、そうだわ。ラシュディ、という、魔導師が、やっ、てきて、それから、私は、虜にされて、しまったのよ」
「正気に戻ってくれたのデスネ」
スルストはフェンリルを支えていた。だが、彼がすぐに死から蘇ったように、彼女の受けた傷もまた直に癒されたようで、次に発したフェンリルの言葉はしっかりしたものになっていた。
「ええ、あなたのおかげで助かったわ。ありがとう。感謝します」
彼女が立ち上がるのに、スルストは残念そうな顔で手を貸した。
「あなたたちね、ラシュディの言っていた反乱軍というのは?」
「そうだ」
「でも、このオルガナまで来たということは、ただの地上の権力争いとは思えない。
それにスルスト、あなたが来た理由も知りたいわ。シグルドのフォーゲルのことも気になるし。あなたたちをオルガナ城に招待します。そこで話をゆっくり聞かせてちょうだい」
「わかった。だが仲間が待っている。あなたたちは先にオルガナ城へ行っていてくれ」
フェンリルの返答を待たずにグランディーナは踵を返し、サラディンもそれに続いた。
呆気にとられたフェンリルの腕に、スルストが手を絡ませる。
「わたしたちは先に行ってまショウ、フェンリルさん。なに、対して待たされるわけじゃありませンヨ。彼女たちはすぐにやってきまスネ」
「あなたは相変わらずね、スルスト。だけど、あの2人のことを紹介ぐらいしてくれてもよかったんじゃないかしら? 私は彼女が反乱軍のリーダーということしか知らなかったわ」
「オオ〜! それは申し訳ないことをしまシタ。わたし、フェンリルさんが正気に戻ってくれたのが嬉しくて、そんなことは二の次になってしまったんデス。お仲間が来たら一緒に紹介しまスヨ。さあ、オルガナ城へ行きまショウ」
「そうね。でもスルスト、この手は余計よ」
そう言ってフェンリルがつまみ上げた手に、スルストは声も出ない。
「どうやら、私の目が届かないと思って、おいたをしているみたいだけれど、私が一緒に行く以上、そんなことは許しませんからね」
フェンリルはスルストより背が低く、体格でも劣っていたが、どうやら2人の力関係は逆のようであった。あわよくばフェンリルの腰にまでまわされかけた手は、抓(つま)まれたところが変色するほどひねり上げられ、スルストが手をばたつかせても容易には放されなかった。
2人はグランディーナたちが戻ってくるよりも早くオルガナ城に入っていたが、スルストにとって幸いだったのは、その醜態を見られずに済んだ、ということだけだったろう。
グランディーナたちがオルガナ城に向かう途中で、それほどの寒さではないというのに雪が降り出してきた。それは淡雪と呼んでもよいようなはかない雪で、服に落ちてはたちまち消えてしまった。
けれどアイーシャが嬉しそうな声を上げたので、それがただの淡雪でないことがわかったのだった。
「フェンリルさまの御心が感じられます。皆さんに安心するよう仰ってますね」
「そうだな。これもグルーザの加護のおかげなのだろうか?」
「さぁ。便利な力ではあるがな」
「スルストさまも同じようなことができるのでしょうか?」
「雪だから消えてしまっていいが、スルスト殿の場合はゾショネルの加護だ。灰なんか降ってきても、あまり嬉しくないだろうな」
「まぁ、ランスロットさまったら」
彼女たちがオルガナ城に入っていくと、鎧を身につけたままのフェンリルが穏やかな様子で出迎えた。
「ようこそ、オルガナ城へ。人が過ごすのに快適な場所とは言いかねるのだけれど、我慢してもらえるわね?」
「私は屋根があれば十分だ」
サラディンたちもこれに同意したので、フェンリルは頷いた。
「スルストからおおよその事情は聞きました。ありがとう。あなたたちが来ていなければ、今頃、天空の島は大変なことになっていたわね」
「礼には及ばない。私たちはあなたたちの力を借りるつもりで来た。たとえあなたたちが天空の島から出られなかったとしても、敵のままでいられては都合が悪い」
「でも、私にとってはそれだけではないのよ。あなたたちがブリュンヒルドを持ってきてくれたから、私に課せられた罰も解けたのだわ。ありがとう、あなたたちは二重の意味での恩人ね」
「ならば、あなたも私たち解放軍に力を貸してもらえるか?」
「ええ、喜んで。次はシグルドへ行くのでしょう?」
グランディーナが頷くと、フェンリルは立ち上がった。アイーシャには天空の騎士が身につけた外套のこすれる音が耳に心地よい。
「シグルドへ行くカオスゲートは、バルデラという町の近くにあるわ。明日の朝発てば、日暮れまでには着けると思います。その予定でかまわないかしら?」
「私たちは天空の島には不案内だ。あなたたちに任せよう」
「ありがとう。あなたたちはこの部屋を使って。オルガナ騎士団の人たちが時々、泊まる部屋です。
それではスルスト、私たちは別の部屋にさがりましょう」
「いいでスネ、フェンリルさん。お互い、時間はたくさんありマス。ゆっくり、これからのことを語り合いまショウ」
「ええ、そうね」
そう言ったフェンリルの腰には聖剣ブリュンヒルドが提げられていたし、スルストも赤い鎧を脱いでいなかった。
その2人がいなくなると彼らを威圧していた空気は去り、ランスロットは思わずため息をついた。
「どうした?」
とグランディーナ。
「フェンリル殿がいらっしゃると、スルスト殿お一人の時よりもずっと緊張するんだ。スルスト殿がくだけすぎなのか、フェンリル殿の方が本来の天空の騎士の姿なのだろうが」
「そうか」
彼女は頷くでなし、荷物を広げた。
ランスロットがサラディンやアイーシャを見ると、2人とも同様の感覚は味わったようで、それぞれに消化しているところと見えた。
「スルスト殿と戦った時は、それどころではなかったのか?」
とサラディンが尋ねる。ランスロットはつい数日前のことを思い返してみたが、圧倒的な力の差は感じても、やはり今日のような威圧感は覚えがない。
「スルスト殿とフェンリル殿ではかなり違うようですね。一昨日の晩に話を伺った時も、スルスト殿はわたしたちを緊張させぬよう気配っておいでだったようですし。カッファやルーガナナの人たちも緊張していた様子はありませんでした」
「天空の島の人びとの方が我々よりも天空の騎士殿とは慣れているはずだ。最初は緊張しても気にならなくなっていくこともある。だが、一口に天空の三騎士といっても、御三方の性格にもよるのだろう。シグルドのフォーゲル殿とは、どのような方なのだろうな」
「スルスト殿はご自分が批判的な言い方になってしまうとフォーゲル殿のことを仰っていましたね。フェンリル殿がオルガナを閉ざしたようなことが、過去にあったのでしょうか?」
「それももっと重大なことなのだろう。シグルドが分断された理由にも関わっているのかもしれない」
その時、アイーシャが昨日、ルーガナナでもらった糧食を渡した。しかしそれは1食にはとても足りなさそうな焼き菓子で、芳ばしい香りがわずかに漂うだけの代物だ。
「なんだい、これは?」
「ルーガナナの方たちが持たせてくださったのです。是非、食べてみろと仰って、食べたら絶対に驚くからと言われて、これしか持たせてもらえなかったのです。こちらではクラムと呼んでいるようなのですが」
「クラム? それはとても古い言葉だな。何かあるのだろう、食べてみよう」
クラムは円盤状の焼き菓子といったところで、とても食事には足りそうにない。だが、一口かじったランスロットは、匂いを嗅いだだけではわからぬ、その豊かな味に驚き、満腹とは言いかねるが、たった1枚で空腹感が失せてしまったことに気づいたのだった。
「何でしょうか、これは? とても不思議な食べ物ですね。それにクラムとはどのような意味ですか?」
「食べ物のことだ。だが、これはどうやら天空の島の不思議とも言えそうだな。こんな焼き菓子1枚で糧食が足りるなら、長い旅も少しは楽なものになるだろう。人を当てにできない土地を行くのに、クラムがあれば、どれほど心強いかわからぬ。
アイーシャ、そなた、作り方は聞かなかったのか?」
そう言ったサラディンが料理好きなことを思い出して、ランスロットは微笑ましい気持ちになる。アイーシャが首を振った時も、彼はひどく残念そうな顔をしたほどだ。
「申し訳ありません、サラディンさま。出立の直前に渡されたものですから、そのような時間もありませんでした。ルーガナナに戻って伺ってまいりましょうか?」
「そこまでする必要はないだろう」
グランディーナが口を挟む。
「オルガナで手に入れられる物がシグルドにないはずはないし、ムスペルムでマチルダが知ったかもしれない。ルーガナナに戻る必要はあるまい」
しかしアイーシャは反論した。解放軍でもこんなことができる者はごく少数だ。
「でも、日没までにはまだ時間があるはずだわ。今日は大して移動したわけでもないし、ルーガナナに行って話を聞いて帰ってくるぐらい、できるのではないかしら?」
グランディーナも頑固に首を振った。
「教えるつもりがあれば、昨晩なら、いくらでも時間があっただろう。それに、いまのところ何もないが、帝国兵だって完全にいなくなったわけじゃない」
「だったら、サラディンさまと一緒に行ってくるわ。作っているところを見られるかもしれないし、サラディンさまとご一緒なら安心でしょ?」
その言葉にグランディーナが返答できないでいると、アイーシャはサラディンの腕をつかんで引っ張った。
「さぁ、参りましょう、サラディンさま」
「良いだろう。わたしも是非、見てみたいと思っていたところだ」
彼が同意したので、2人は出かけていった。
この場にカノープスがいたら大変だったろうな、と思いつつ、ランスロットはグランディーナの表情を盗み見る。
もっとも、彼女はそれほどふてくされたような顔はしなかった。ちょっとだけ頭をかくと、片隅に座り込んだ。
「あなたはどうする?」
「わたしは留守番しているよ。アイーシャの言ったとおり、サラディン殿と一緒ならば案ずることもあるまい」
「そうか。だったら、私は少し休む。何かあったら起こしてくれ」
「承知した」
彼女は相変わらず寝台の脇に腰を下ろしていた。膝を抱えて、顔を伏せたと思ったら、もう寝息を立てている。呆れるほどの早業だ。
天空の島に来てからこちら、戦闘もないのだから、疲れているわけではないのだろう。バルモアの時にそうだったように、思わぬ空き時間に寝だめをしているだけのようだ。
気がつくと、この部屋には暖炉もないというのに、オルガナに来て以来、ずっと感じていた肌寒さもなく、むしろ室内は快適だった。
どういうからくりなのか、室内のあちこちを調べていたランスロットは、ふと思い出して毛布を取った。解放軍で使っている毛布より、ずっと薄くて軽いのに、羽織ってみるだけで暖かさの違いがわかる逸品だ。
しかし、それをグランディーナにかけてやると、案の定、彼女はすぐに目を覚ましてしまった。
「どうかしたのか?」
「ああ、すまない。君に毛布をかけようと思っただけなんだ」
「毛布? この暖かさなら、なくても大丈夫だろう。それに私は寒さに強い方だ。気を遣わせた」
「1人だとつい暇を持て余してしまってね。わたしもサラディン殿やアイーシャと一緒に行けばよかったかな」
「クラムの作り方に、あなたも興味があったのか? それは意外だったな」
「そういうわけではないが、暇つぶしにはなるだろう?」
珍しく彼女が笑った。ランスロットもつられて、2人は笑い合った。
グランディーナがそのまま休もうとしないので、彼は先ほど感じた疑問をぶつけてみた。
「君はさっき、フェンリル殿と話した時に威圧感は覚えなかったようだな?」
「そんなことはない。半神の力は感じたが、気にしないようにしていただけだ」
「それはあの2人が元は人間だからそう思うのか? それとも、神々が相手でも君はそう言えるのか?」
彼女は肩をすくめた。
「さぁ。そこまで考えていない。あなたの言うとおりかもしれないけれど」
そう言ってからグランディーナは不意に横を向いた。その表から笑みは失せ、ランスロットはそのまましばらく、彼女が続きを話すのを待った。
けれどグランディーナはやがてゆっくりと首を振り、その話題を打ち切りたそうに見えたので、ランスロットもそれ以上、追及しないことにしたのだった。
「休もうとしていたところを邪魔してしまってすまなかった。ゆっくり休んでくれ」
「そうさせてもらう」
毛布を身体に巻きつけて、グランディーナはまた顔を伏せた。
その邪魔をせぬよう、ランスロットは鎧を脱ぎ、日課になっている剣の手入れを始めた。
次のシグルドでも戦いはしなくて済むのだろうか。ムスペルムを離れてからもう3日目だ。連絡が取れないが、カノープスやギルバルド、それにアラムートの城塞の皆はどうしているか。オルガナが楽に片づいたように、シグルドでも城に行くのにつき合うだけで済むのだろうか。
それなのに、気がつくと彼はグランディーナの言葉の意味を考えていた。ラシュディに育てられ、サラディンに助けられた娘、常人には及ばぬ剣の腕前を持つ彼女の力は、解放軍を、このゼテギネアを、どのような方向へ導いてゆくのだろう。
サラディンとアイーシャが戻ってきた時、彼は剣の手入れをすっかり終えたところだった。
「どうでしたか、成果は?」
「グランディーナの言うとおりでした。皆さん、口が堅くて教えてくださらないのです。地上には伝えていけない理由でもあるのでしょうか?」
「サラディン殿にも聞き出せませんでしたか?」
「うむ、クラムのことに話を持っていこうとすると、察して逃げられてしまう。遠回しに訊いてみようとしたのだが、材料もよくわからなかった有様だ。1つだけ地上にはない香料を使っていることがわかったが、その種を得られなければ、生産には乗せられない」
「それはご苦労様でした。外はもう暗いのでしょう?」
サラディンは頷いた。
「すっかり遅くなってしまった。夜になると寒さが厳しくなる」
「ですがランスロットさま、皆さん、フェンリルさまが降らせられた雪のことはご存じだったのですよ。フェンリルさまが解放されたことを知って、とても喜んでいらっしゃいました」
「それは良かった。オルガナ騎士団の方たちももう知っているようだったかい?」
「はい。それで、フェンリルさまが明日の朝、オルガナ城を発たれるつもりでいらっしゃると申し上げたら、これからいらっしゃると仰っていました」
「フェンリル殿にはお知らせを?」
「はい。フェンリルさまも喜んでいらっしゃいました。ですが、天空の騎士の方々が皆、地上に降りてしまわれることになるので、シグルドに行かれたら、フォーゲルさまと相談したいとのことでした」
「それは、天空の三騎士殿の力でしか、カオスゲートを開けられないからですか?」
「そのようだ。それと、後でグランディーナに訊きたいことがあると言っていたが、起きられるか?」
「何の話だ?」
「そこまでは仰っていない。オルガナ騎士団との話が終わったら、迎えに来るということだ」
「ふん」
グランディーナは寝台に座り直すと、それきり扉の方を見つめている。
「あなたたちは先に休むといい。オルガナ騎士団との話も、簡単には終わらないかもしれない。明日はかなり歩くはずだ」
「でも、グランディーナに用があるのならば、どうして先ほど続けて話されなかったのでしょう?」
「先にスルストと話をしたかったのだろう」
「スルストさまもいらっしゃったのに?」
「私たちには聞かれたくない話もあるだろう。解放軍に加わると言っても、客員気分だ」
「お二人の力を考えれば仕方あるまい。助力を頼むには過ぎた方たちだ」
グランディーナは鼻で笑ったようだが、自分からその話を混ぜ返そうとはしなかった。
サラディンは寝台に座り、目をつぶった。アイーシャも明日に備えて寝る支度を始める。
ランスロットが毛布のことを2人に教えると、2人とも興味深そうな顔をしたが、さすがに作り方とか素材を知りたいとは言い出さなかった。
「良いことは教えてもらえれば、見習いたいと思うのですがね」
「地上の者が皆、そなたのように考えるならば、あの者たちの気持ちも変わるかもしれぬ。だが現実には、この毛布やクラムを巡って、地上では殺人を行う者もあるかもしれないからな」
「天空の島の人たちがそのように地上を野蛮なところと考えているとしたら、残念なことですね」
「天空の島とて楽園でないことはムスペルムで聞いたはず、それでも彼らは地上よりましだと思っているのだろう」
「あなたの言うとおりだとしたら、愚かな話だな。戦いを憂えて天空の島へ逃げ出したのは彼らではない、その先祖だ。いまの天空の島の住人など、私たちとそれほど違わぬだろうに」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。そうと判断するには我らは天空の島のことを知らなさすぎる。彼らが地上のことを伝え聞いたことしか知らぬようにな。そのような先入観は持たぬがよいぞ」
「わかっている」
グランディーナが振り返ると、サラディンは微笑みながら頷いた。
「あまり無理をせぬようにな」
「大丈夫だ」
それきり、彼は横になるとすぐに寝入ってしまった。それで、ランスロットやアイーシャもいつまでも起きているわけにもいかず、早々に横になった。
しかし、やがてフェンリルが静かにグランディーナを迎えに来た時まで、2人とも眠れないままでいた。オルガナ城の深閑としたさまが、却って眠れなくしてしまうようであった。
「こんな夜遅くに呼びつけて悪いわね。シグルドへ発つ前に、どうしても確認しておきたいことがあったものだから」
そう言ったフェンリルは鎧を脱いでいたが、ブリュンヒルドは腰から提げたままだった。同行しているスルストも同じだ。
「別にかまわない。だが何の話だ?」
「スルストにも聞いたのだけれど、あなたのことを知りたいわ。スコルハティを宿していても、千切れなかった腕のこととか、をね」
「そんなことならばスコルハティに訊いてくれ。私の腕を封じていたのは彼だ。千切ろうと千切るまいと、彼の意志によるのだろう」
「ええ、そうしたわ。でもスコルハティは、私たちフィラーハの徒にはつれないの。単に居心地が良かったから千切るのには忍びなかったなんて、ふざけた答えをしたのよ。だけど彼が言っていたわ。あなたとはまた手合わせしたいと、もしも会うことがあったら、それだけ伝えてくれとまで頼まれた。神殺しの獣にそんなことを言わせるとは、やはりあなたはただの人間ではないようね」
「私は彼とやるのはお断りだ。手と足に怪我を負わされたし、右腕は動かなくなるし。もう一度会ったら、そう答えておいてくれ」
「ふざけないで! スコルハティにそう言わせること自体が尋常ではないのよ。彼と対等に戦える者など、たとえスコルハティが手を抜いていたのだとしても、この世界にはそんなにいない。ましてやただの人間が戦える相手ではないわ」
「残念だな。私も自分のことは知らない。それも、あなたたちが納得できるような説明など持ち合わせていない」
そう言い放つと、グランディーナはすかさず踵を返した。
「お待ちなさい。だからといって、そのまま行かせる気はないわ」
フェンリルがブリュンヒルドを抜き、切っ先をグランディーナに向けた。
「何のつもりだ?」
「あなたの腕前を見せてもらいたいと思って。スコルハティにまた手合わせしたいと言わせるその腕に、私はとても興味があるの」
「フェンリルさん、それはいけませんヨ。天空の三騎士が人間を傷つけるなど、あってはなりませン」
それまで黙っていたスルストが真顔でフェンリルを止めようとしたが、彼女はブリュンヒルドを収める気はさらさらないようだ。
グランディーナも、挑発するかのようにその正面に立った。
「1つだけ聞かせてもらおう。私と剣を交えようというのはフィラーハの意志か?」
「いいえ、これは私自身の意志だわ」
「なるほど。それならば、私の答えはこれだ!」
彼女は言うなり左手をブリュンヒルドに突き出した。
フェンリルは剣を引っ込めようとしたが、その動きを完全に予測できず、聖剣はグランディーナの手の平に刺さってしまった。
「何をするの?!」
鮮血が滴ったが、彼女は素早く手を引っ込め、そのまま握り込んだ。
「そんなものにつき合う義理はないということだ」
「だからといって、自分の手を傷つけることはないでしょう?」
「天空の騎士は人間を傷つけられないのだろう。ならば、私が血を流せば、こんな話もおしまいだ」
唖然とするフェンリルを残し、グランディーナはその場を去っていった。
「だから、言ったでしょウ、一筋縄ではいかないト。でも、わたしも見ていましたが、いまのことはグランディーナさんが自分からしたのでス。あなたの咎にはなりませんネ」
「だからって、自分から手を傷つけるなんて。思ってもみなかったわ」
「彼女には説明のつかないことが多いのでス。ただ、一度に尋ねるわけにもいきませんし、本人もあのとおり、知らないと言い張りまス。またの機会を待った方がいいでしょウ」
「そのようね。どうやら、あなたの得意技も彼女には効き目がなかったようじゃないの?」
「そんなこと言って、またいじめないでくだサイ、フェンリルさん。わたしたちはただ、楽しい時間を過ごしただけなんデスヨ」
スルストの耳をフェンリルがいきなり引っ張り上げたので、彼は涙目になり、声にならない悲鳴を上げた。
「そうやって、いったい何人の女性を手籠めにしたの?! あなたって人は、本当に油断がならないんだから。そこになおりなさい、スルスト。彼女の代わりに、というわけにはいかないけれど、少しつき合ってもらうわよ」
「フェンリルさ〜ん、勘弁してくだサイ。久しぶりに会えたというのに、この仕打ちはひどいデス」
「問答無用!」
翌日、グランディーナたちは夜明けとともにオルガナ城を発ち、フェンリルとスルストの先導でバルデラという町を目指した。
フェンリルが説明するには、オルガナとムスペルム、シグルドを結ぶカオスゲートは、そのバルデラの近くにあるということだった。
バルデラで1泊して、彼女たちはカオスゲートに向かった。スルストの頼みでムスペルムに寄り、騎士団長ファーレンに解放軍への手紙を託して、シグルドに至る。闇竜の月5日のことであった。