Stage Fifteen「女神」3

Stage Fifteen「女神」

目を開けると涙で視界が曇った。妙な夢を見ていたせいだ。思い出せる限り、いちばん古い記憶から、順に辿ってきた。いいことも悪いことも思い出したくないようなことまですべてだ。彼女自身もとっくに忘れていたようなことまでを順に夢に見ていた。
「何の用だ? 神の使徒というのは他人の過去をのぞくのが趣味らしいな」
グランディーナは涙を払ったが、次の瞬間には地面に這いつくばっていた。凄まじい気が彼女を打ち倒したためだ。
「我が名はぁフェルアーナァ、正義とぉ慈愛のぉ女神ですぅ。あなたのぉ記憶をぉのぞいたのはぁ、あなたのぉ資質をぉ試すぅためですぅ。あなたはぁババロアにぃ会いぃ、緑柱石をぉ託されぇ、ポルトラノォ、マンゴー、ギゾルフィィ、タルトからもぉ秘石をぉ預かりましたねぇ。それがぁ正しかったかぁどうかぁ、私がぁ知るためですぅ」
「そいつはご苦労なことだ。それだけのために私をわざわざ天界まで呼びつけるとはな」
「ここはぁ天空の島ぁシャングリラァ、私にぃ捧げられたぁ神殿はぁ、このようなぁ時のぉためにぃあるのですぅ。天界はぁ遙かぁ彼方ぁ、あなた方ぁ人がぁ立ち入るぅことはぁできないぃ場所ですぅ。人がぁ行ってもぉあなたのようにぃ私たちのぉ気にぃ当てられてぇ何もぉできないぃものですぅ。ですからぁ無理にぃ話さなくてもぉよいのですよぉ。そのままではぁ、あなたがぁ潰れるぅでしょうぅ。本当はぁ息をぉするのもぉ辛いはずですぅ。考えるだけにぃなさいぃ」
それは事実だった。ただ女神と対峙しただけなのに、その気に潰されそうになっている。息をするのも辛いし、指一本動かすのもやっとだ。
「私のぉ話し方がぁおかしくぅ聞こえるぅでしょうぅ。あなた方にぃ合わせるとぉ話すぅ速度をぉいつもよりぃ、ずっとぉ遅くしなければぁなりません。それがぁあなたたちにはぁ、おかしくぅ聞こえるのですよぉ。わかりますかぁ、グランディーナァ」
フェルアーナの声が直接、頭に響く。それも頭のなかで音が跳ね回っているような騒々しさだ。
「これがぁ、あなた方ぁ人とぉ私たちぃ神々のぉ器のぉ差ですぅ。あなたがぁいくらぁ天空の三騎士よりぃ強かろうとぉ私がぁこうしてぇ現れただけでぇ私のぉ気にぃ潰されそうにぃなっているぅ、それがぁあなた方ぁ人のぉ限界ですぅ。でもぉ恥じることはぁありません。それがぁ人のぉ限界ぃ、神とのぉ器のぉ差なのですぅ。それゆえにぃ人はぁ神にぃ保護されてぇいなければぁなりません。あなたたちはぁとてもぉか弱いぃ存在なのですからぁ。おやめなさいぃ!」
「神の前だろうと這いつくばらされているのは性に合わない」
そう言って彼女は身を起こそうとした。だが、それは彼女にとっても賭けだ。日頃から抑え続け、堰を切ってあふれ出しそうな力を解放することに似ている。その先に待っているのは抗いがたい破滅だけだ。
「おやめなさいぃ、強情をぉ張るのはぁ。あなたはぁそんな短慮でぇ自身のぉ破滅をぉ招くぅつもりですかぁ?」
フェルアーナの「器」が見えない力となってグランディーナを押し潰そうとする。それは先ほどより、さらに強くなって彼女を地面から上げまいとしていた。息が詰まりそうになり、彼女は舌を出して喘いだ。
「認めなさいぃ、神とぉ人のぉ器のぉ差をぉ。受け入れなさいぃ、フィラーハのぉ愛をぉ。フィラーハはぁすべてをぉ見ているのですぅ。あなたのぉ戦いもぉフィラーハがぁ望むことをぉ代行しているにぃすぎません。世界のぉ秩序とぉ平和こそぉ、何よりぃフィラーハがぁ望むものぉだからですぅ。あなたはぁフィラーハにぃ反発しているぅつもりでしょうがぁ、しょせんはぁその掌のぉ上でぇ踊っているぅだけなのですぅ。それにぃフィラーハはぁ、あなたをぉ愛しぃ、慈しんでいますぅ。前のぉ天使長ぅミザールをぉ誑(たぶら)かしぃ、堕天させたぁラシュディさえもぉフィラーハにぃとってはぁ愛すべきぃ人のぉ子なのですぅ。太陽がぁ地上のぉすべてをぉ照らすようにぃフィラーハのぉ愛もぉまたぁ遍くぅ変わらないぃものなのですよぉ」
急に身体が軽くなってグランディーナは激しく呼吸した。ようやく顔を上げるとフェルアーナの気は、かなり弱くなったようだった。だが女神の姿は光り輝くばかりではっきりと見えなかった。
「恥じてはぁなりません、己のぉ弱さをぉ。それがぁ神とぉ人のぉ差ですぅ。あなたたちぃ人はぁ神にぃ守られながらぁ生きていくぅ存在なのですぅ。魔法ぅひとつをぉとってもぉ神のぉ力がぁなければぁ起こすこともぉできないではぁありませんかぁ」
「私は魔法など使えないし、神を頼みに思ったこともない」
話すうちに女神の気が、また次第に強まってきて、グランディーナは、ただ顔を上げているためだけに激しい抵抗を試みなければならなかった。だが結局、地面に伏せる羽目になった。女神の気は大きさを自在に調節できるものらしく、手加減しなければ、言ったように人間など潰してしまうのだろう。
「委ねなさいぃ、神にぃ。その身もぉ心もぉ任せるのですぅ。そうすればぁ何のぉ心配もぉ要らなくなりますぅ。己のぉ力をぉ恐れることもぉありません。安らぎをぉ与えるぅ手をぉ、あなたはぁなぜぇ拒むのですかぁ?」
「私に、触るな!」
彼女には差し伸べられた手を振り払うのがせいいっぱいだった。それさえ全神経と気力を振り絞っての動きだ。また息が詰まる。彼女は、まるで陸に揚げられた魚のように喘ぐことしかできなかった。
再びフェルアーナに触れられた時、グランディーナには、もう抗う力は残っていなかった。身体中が悲鳴を上げて軋んでいる。女神の気に当てられて倒れていなければ、何をしでかすか彼女自身にもわからないほどだ。
「無理をぉするものではぁありません。あなたをぉ、このままぁ天空の島にぃ引き留めておきたいぃところですがぁ今日のぉところはぁ辞めておきましょうぅ」
女神の声は温かく、そのまま身を委ねたくなるような頼もしさも感じられた。
そうすればグランディーナは二度と堕ちることを案じる必要もなくなる。いつ、その刃を大切な人たちに向けるかと恐れることもない。彼女はひと言、「承諾する」と言えばいいのだ。神も天界も新たな天空の騎士の誕生を歓迎するし、地上は自分という脅威を失う。
けれど彼女には、それだけはできなかった。そうすることが、どれほど正しいのかわかっていてもグランディーナは頷き、女神の手を取るわけにはいかなかった。フィラーハに否定されたというばかりが理由ではない。神々という力ある者に己の生を託すのは、ゼテギネア帝国を認めることと彼女のなかでは同一だからだ。神々という強者に生を委ねるのは、力で人を支配してきたゼテギネア帝国と何ら違うところはないと思うからだ。
だからグランディーナは神々の手を取らない。最終的に、それが間違いだとわかっても神々に委ねるより、彼女は死を選ぶだろう。
「天界の助力には、感謝しているし、ゼテギネア帝国も、必ず倒す。世界が、あなたたち神々の力で、動いていることも、認めよう。だが、あなたたちの狗に、なる気はない」
あくまで口で言葉を発する彼女に女神が微笑んだ気配がした。
「それもぉいいでしょうぅ。いまはぁ自分のぉ好きなようにぃ生きなさいぃ。ですがぁ、あなたにはぁ私のぉ名にぃおいてぇ正義をぉ執行してもらいますぅ。これはぁ、その証したるぅサードニクスですぅ」
フェルアーナが差し出したのは細鎖の先に宝石がついただけの首飾りだ。しかし、その宝石は指の先ほどの大きさがあった。
「こんな物を、使って、何を、しろと?」
「これはぁ十二使徒の証ぃ、前のぉオウガバトルのぉ時にぃ地上をぉ救ったぁ12人のぉ賢者たちのぉ力がぁ込められていますぅ。これをぉ身にぃつけていればぁ暗黒のぉ力からぁ守られぇ、魔界へぇ行くこともぉできますぅ。何よりぃ神のぉ威光をぉ地上にぃもたらすことがぁできるのですぅ」
「そんな物!」
「私がぁ、あなたのぉ所有をぉ認めたのですぅ。これはぁこの戦いをぉ終えるまでぇ、あなたのぉ手をぉ離れることはぁありません」
グランディーナは勝手に首にかけられたそれを投げ捨てたりはしなかった。彼女はただフェルアーナを罵る言葉とともに激情も呑み込んでいた。サードニクスがかけられた時、女神の気が発する威圧感が和らいだためもある。
だが、そうと知ってか女神が気を高め、あくまでも彼女を地面から動かすまいとしたので、グランディーナもこれ以上は逆らおうとは思わなかった。
「そしてぇ、これもぉ預けてぇおきましょうぅ」
女神の手元らしき箇所に薄い石板が現れた。
「これはぁヤルのぉタブレットですぅ。あなた方がぁ、さらにぃ十二使徒のぉ力をぉ借りたいとぉ思った時ぃ、この石板をぉご覧なさいぃ。そこにぃ現れたぁ神のぉ名をぉ唱えればぁ、新たなぁ証をぉ得ることがぁできるでしょうぅ」
石板は掌2つ分ほどの大きさしかなく、その表面は凪いだ水面のように凸凹がなかった。フェルアーナがタブレットをグランディーナの掌に押しつけると、それは何の抵抗もなく入り込んできた。だが彼女の内に、いつも砂に触っているようなざらつきが生じ、それはスコルハティが右腕に宿った時と、よく似た違和感だった。
「ヤルのぉ名にぃおいてぇ我ぇ、望むぅ。12人のぉ偉大なるぅ賢者よぉ、力をぉ貸したまえぇ」
女神が口にするとグランディーナも勝手に唱和した。そして、手の中に入ったヤルのタブレットが、また出てきたのを見ていた。
「正義とぉ慈愛のぉ女神ぃフェルアーナのぉ名にぃおいてぇ、勝利をぉ司るぅサードニクスよぉ、来たれぇ!」
女神が自分の名を告げ、宝石の名を読み上げると石板の文字が光り、首飾りが宙に浮いた。サードニクスは、そのまま彼女の傍らまでゆっくり下りてきた。
よく見ると石板には神の名と対応する石の名が刻まれており、それを読み上げればよいようだった。
女神は用の済んだ石板を、またグランディーナの掌に押しつけてしまい込んでしまった。
「ヤルのぉタブレットはぁ、あなたにしかぁ出すことはぁできませんがぁ、十二使徒の証はぁ誰にでもぉ出すことがぁできますぅ。もちろんフィラーハのぉ御心にぃそぐわぬ者にはぁ無理ですがぁ。証はぁ、あと11個ぉありますぅ。どれをぉ誰にぃ持たせるかはぁ、あなたにぃ一任するとぉしましょうぅ」
「大した配慮だ。私に、こんな石を、持っていけとはな。しかも、それを配れ、とまで言う」
「このぉ戦いはぁ、あなたがぁ考えているよりもぉずっとぉ厳しいものにぃなりますぅ。私たちのぉ助けがぁなければぁ、あなたたちはぁ勝ち進むことはぁできますまいぃ。それにぃあなたはぁ、いまもぉそうやってぇ自分のぉ力をぉ抑えきれずにぃいるではぁありませんかぁ」
「誰のせいだと、思っているんだ!」
「私のぉせいでしょうかぁ? いいえぇ、あなたはぁ人がぁ持つにはぁ分不相応なぁ力をぉ授かったのですぅ。人のぉ器にぃ、あなたのぉ力はぁ大きすぎるのですぅ。本当にぃ責められるべきはぁ、あなたではぁありませんねぇ」
「満足か、私が、力を抑えきれずに、いるのが? そうすれば、あなたたちは、私を天界に、縛りつけるための、大義名分を、得られるのだからな」
「誤解をぉしないでくださいぃ。あなたをぉ天界にぃ置いておきたいとぉ思うのはぁ、地上とぉあなたをぉ守るためなのですよぉ。フィラーハのぉ愛をぉ疑ってはぁなりません。フィラーハはぁ自分のぉ使いたるぅ天使よりもぉ人をぉ愛しているのですからぁ」
「それが、大きなお世話だと、言ってるんだ。あなたと、話していても、益がない。私は、地上に帰りたい。このまま、天空の島に、束縛する気が、ないのなら、さっさと、いなくなってくれないか」
「しょうがありませんねぇ。いまはぁ私はぁ引き下がるとぉしましょうぅ。でもぉ、いつもぉフィラーハとぉ神々がぁあなたをぉ見守っていることをぉ忘れないでくださいぃ、愛し子よぉ」
その言葉とともに女神の気配が消え、グランディーナはようやく身体の自由を取り戻した。抑えられなかった力も、いまは嘘のように鎮まっている。
けれど彼女は自分の手を見つめ、握り込んだ。少しずつ足下が崩れていっているような感じだ。使うまいとしてきた力に、だんだん自分の制御が及ばなくなっていく。
天空の三騎士や女神に言われるまでもない。自分の力をいちばん脅威に感じているのは彼女自身だ。その力でサラディンやアイーシャを傷つける夢さえ見た。それでも地上にいたいと思うのは、彼女のわがままに過ぎないのだろうか。
「だけど私は、地上で生きていきたいんだ」
絞り出すように呟くのが、いまの彼女にはやっとだった。
そこで彼女は立ち上がろうとしたが身体は言うことをきかなかった。ポグロムの森でポルトラノに身体を貸した時以上に女神と対峙していたことは彼女を激しく疲労させたものらしかった。
「くそっ」
喉が猛烈に渇いていたし、空腹でもあった。だが彼女は、その場から動くことはできず、身体の向きを変えるのもままならなかった。いまはただ、そこに横たわり、体力の回復を待つしかなかったのである。
目が覚めると辺りはすっかり暗くなっており、頭上には満天の星が輝いていた。グランディーナは仰向けになることができ、星を眺めた。
彼女が真っ先に探したのは北極星だ。その位置さえわかれば、いつでも行きたい方向がどちらなのか知ることができる。彼女は、いつもそうやって自分の行く先を決めてきた。
身体が動かせることを確かめてグランディーナは立ち上がった。空腹もそうだが喉の渇きがいちばんひどい。けれど、大して探さないうちに湖が見つかり、かつてシャングリラに来た時に、サラディンやカノープスと寄った孤島を思い出した。
喉を必要以上に潤してから彼女は湖に泳ぎだしていった。この先、アラムートの城塞に着くまで食べる物も飲み物も得られそうにないからだ。
湖を渡るとグランディーナはカオスゲートを目指して南下した。夜は当分、明けそうになく、このままだと真っ昼間にダルムード砂漠を渡ることになりそうだ。だが彼女が案じているのは解放軍がクリューヌ神殿に急ぎはしないかという一点だ。しかし自分が、どんなに急いでもウォーレアイまでは17日はかかる。焦る気持ちが募ったが、いまはただ走るしかなかった。
カオスゲートからダルムード砂漠に至ったころ、ようやく夜が明けた。今度は北上し、アラムートの城塞を目指す。幸い、疲労はすっかりとれており、多少の強行軍でも差し障りはなさそうだ。
泳ぎながら湖に流したサードニクスは、いつの間にか彼女の手に戻っていた。やはり女神の言ったとおり、少なくともゼテギネア帝国を倒すまで手放すことはできなさそうだ。グランディーナは、それを首にかけなおしたが、それが見えるところにあることに抵抗を覚えて服の下にしまいこんだ。
それからは、ひたすら飢えと渇きとの戦いだった。照りつける日差しは熱く、以前のように傍らを流れる河もない。吹きつける風は乾燥を煽り、肌はひび割れていく。フェルアーナと話したのが、どれぐらいの時間だったのかわからず、彼女はひたすらに歩いた。
やがて砂だらけだった地平線が時々、光るようになり、海が近いことを知らせた。前にシャングリラに渡った時は、そこは切り立った崖で登る道を探さなければならなかった。ゼテギネアの東大陸はアラムートの海峡に面したところは崖が多い。だからこそアラムートの城塞が重要なわけなのだが、いまのグランディーナの関心は、その崖を歩いて下りるか海に飛び込んでしまうかというところにあった。
崖の高さは彼女の目算だと200バス(約60メートル)以上はあったろう。飛び込めないものでもないが、そこからアラムートの城塞まで、さらに泳がなければならない。海峡は流れが速く、水も冷たい。ここまで来て無茶はしたくないところだが、先送りにしたところで事態が改善する見込みは、まったくない。
やっと崖を見下ろせるところまで来て、グランディーナは下をのぞき込んで思案した。崖を下るには、さらに1バーム(約1キロメートル)ほど西進しなければならなかったはずだ。いまは昼頃だろうか。日差しが厳しく、身体が干上がったように感じる。彼女はもう一度、海面までの高さを確認した。対岸のアラムートの城塞までは数10バームあり、さすがに見えるような距離ではない。波は荒く、速い流れのために数バームくらい、簡単に流されそうだ。それに、いま飛び込めば、アラムートの城塞にたどり着く前に日が暮れる。夜間、星だけを頼りにこの海を泳ぐことは、さすがの彼女も避けたい。
それでグランディーナは、その場で休んだ。翌日になってからアラムートの城塞に渡ることにしたのだ。ただし、水と食料は見込めない。すべてはアラムートの城塞に行かなければ得られることはないだろう。彼女は少しだけ砂を掘って、身を落ち着けた。大した日除けにもならないが、これ以上、動き回っているよりも体力の消耗は抑えられるはずだ。
翌朝、グランディーナは崖から海に飛び込んだ。崖を下りるよりも飛び込んだ方が多少なりとも距離を稼げるという判断だ。水は冷たかったがディアスポラの雪融け水ほどではなく手足の凍える恐れはない。心配なのは潮流の速さだけだが、彼女は流れを横切っていった。
波間に見覚えのある建物が見えてきたのは昼近くなってからだ。それからは彼女は進路を修正しながら、そこを目指して泳ぎ続け、陽が沈む前に港門にたどり着いていた。しかし門は閉じられたままで多少たたいたところで、大した音はしない。見張り台はあるが、そこに誰かいるのかも不明だ。
けれど門に沿って潜ってみると門と港の間に隙間があり、そこから入ることができた。港から上陸するのは簡単だったが、そこにいた若者が目を丸くしてグランディーナを見ていた。
「な、何者だ、おまえは?!」
彼は剣を抜いて血相を変えて走ってきたが、彼女に一喝されると足を止めた。
「責任者のリスゴー=ブルックを呼んでこい! 私は解放軍のリーダーだ!」
それでも彼が近づこうとするのを彼女は睨みつけ、下がらせた。自分からリスゴーに会いに行けば話は早いが、できることなら、もう動きたくないところだ。
やがて走ってくる足音に振り返るとリスゴーが近づいてきた。
「グランディーナ殿、なぜ、このようなところに?」
「話せば長くなる。先に食事をして休ませてくれ」
「承知しました。こちらへどうぞ。
君は引き続き港の見張りを頼む」
「は、はい」
若者は、なお不審そうな眼差しを彼女に向けていたが、責任がリスゴーに移ったので安心もしたようだ。
食堂に着くとかき集めたような食事が出されたが、彼女はいつもの調子で平らげた。3日も絶食状態だったのだ。それを思えば、どんな食事でも文句はない。
「20日分の食糧と水を用意してくれ。私は休んだら勝手に出ていく」
「わかりました。食糧と水は部屋に運ばせます。門番にも、そのように伝えておきましょう」
「その前にひとつだけ教えてくれ。今日は何月何日なんだ?」
「今日は黒竜の月22日です」
「ありがとう」
宣言したとおり、グランディーナは夜更けにアラムートの城塞を出ていった。砂漠の旅は夜の方が身体に楽だが、この場合は休んでいたら、たまたまこんな時間になったに過ぎない。
そうして一路、街道を進んでいった彼女が、南下してきたユーリアと再会したのは双竜の月4日、ダルムード砂漠とライの海の間のセウジト地方でだった。
「グランディーナ!」
グリフォンが近づいてくると思ったらエレボスで、その背にユーリアが乗っていた。
「どうしてこんなところにいるんだ?」
「サラディンさまの命であなたを迎えに来たのよ」
「それは助かった。このままウォーレアイまで走らなければならないのかと思っていたところだ。みんなはどうしている?」
「それがね」
と言ってユーリアがトリスタン皇子が行方不明になったことと、クリューヌ神殿には行かないようだというサラディンの見解を告げると、グランディーナは眉をひそめた。
「だから私たちは近くの町で待機しているように言われたのだけれど、どうする?」
「確かにアッシュたちならばルバロンよりもトリスタンを優先するだろう。だが私たちには回り道だ」
「あら。まさかあなた、トリスタンさまがどこに何のために行ったのか知っているの?」
「見当はついている。女神の秘石を優先させて、このざまだ」
「人の心はわからないわ。みんなだって、まさかトリスタンさまがたったの3人で行く先も告げずに行ってしまうとは思わなかったみたいだもの」
話しながら2人はエレボスに乗り込んだ。手綱をとったのはグランディーナだ。
「今度はどこへ行くの?」
「ゴルドリアまで戻る。シュラマナへ行くには、あそこが分かれ道だ。皆もそこまで来るだろう」
「任せるわ」
グランディーナが話を再開したのは上空に上がってからだった。
「私もトリスタンの気持ちを読み違えた。24年も前に別れた母親に、身の危険も顧みずに会いに行くとは思いもしなかった」
「そうね。トリスタンさまはいつも冷静に振る舞っていたから、どんなことにもそのように対処できる方なのだと思ったわ。それにフローランさまの安否だって知られていなかったわけじゃない?」
「ゼテギネアへ行くには、どのみちシュラマナを通らなければならない。クリューヌ神殿まで行ったら引き返してくるつもりだったが、トリスタンには私の言葉が足りなかったな」
「でも、まさかフローランさまが生きていらっしゃったなんて思わなかったわ。てっきり24年前に殺されたものとばかり思っていたのに」
「あなたは、それを見たのか?」
「私がゼノビアに行ったのは、あのことのずっと前よ。あんな混乱の後ではグランさまの葬儀だってできなかったわ。それからは私自身が追われる身となってしまったから、ジャンさまやトリスタンさまのことを聞いたのだって、ずいぶん後のことだもの」
グランディーナが返事をしなかったので2人の会話は、それで途切れた。エレボスの翼は力強く羽ばたき、眼下の風景は次々に変わっていく。ゴルドリアの町に下りたのは夕方も近いころだった。
「天幕は持ってきたけれど、どうする?」
「使おう。食糧はアラムートの城塞で余計にもらってきた」
「あなたのことだから、シャングリラからそこまで無理をしていそうね」
「それほどでもない」
「シャングリラで何があったかはみんなにも話すんでしょう? 私には戻ってくるまでを話して」
「どうかな。女神と会った時のことを詳しく話してもしょうがないだろう」
「どうして?」
「女神とは大したことを話していない。天空の騎士になれ、ゼテギネア帝国を倒せ。それに、これをもらったくらいだ」
そう言ってグランディーナが首元からサードニクスの首飾りを引っ張り出すと、ユーリアは目を丸くして眺めた。
「凄い物を戴いたのね。手にしてもいい?」
「どうぞ。私には、どこが凄いのか、よくわからないが」
「だって、こんなに光り輝いているじゃない。凄い、見ているだけで励まされるようよ。何ていうか、自信に溢れている感じね」
「だったら、あなたがかけてみてくれないか」
「いいわよ。でも女神さまがあなたにくださった物を、私がかけてもいいのかしら?」
「かまわないだろう」
首飾りは簡単にグランディーナからユーリアの手に渡り、首にかけることもできた。
「どう?」
「私には同じように見える。石は石だ」
「じゃあ返すわ。あなたには女神さまの威光も通じないのかもしれないわねぇ」
ユーリアの手からサードニクスが戻される。彼女の眼差しから石の放つ光や力などは予想できたが、首にかけなおしたグランディーナは、また服の下にしまい込んだ。
「もったいないわ、そんな風にしまってしまったら。いつも出しておけばいいのに」
「私に女神の威光を喧伝しろと言うのか?」
「そういうわけではないけれど、でも綺麗だわ」
「あなたにそんなことを言われるようでは出すわけにはいかないな」
「あら、どうして?」
「自分が何のために戦っているのか、わからなくなる。私たちがゼテギネア帝国と戦うのは神のためじゃない、自分自身のためだ」
「あなた、兄さんにもそんなことを言ったわ。初めて会った時に自分のために戦っていると。変わっていないのね」
「そんなもの、変わりようがないだろう」
「そうでもないわ。特にトリスタンさまがいらした時から、みんな、ゼテギネア帝国を倒した後のことを考えるようになったのよ。トリスタンさまに、どう印象づけるかとか、重職に就くことになる方たちによく見せるとか、そんなことばかり心配しているのよ」
「残る者は戦っているばかりでは済まないだろうからな」
「それはそうかもしれないけれど、せっかく解放軍として一緒に戦っているのに目指すものが違うのは寂しいわ」
「私が言ったんだ、利用しろと。だから咎める謂われはない」
「そんな言い方をするってことは、本当にこの戦いが終わったら、いなくなってしまうつもりなのね?」
「そうだ。新しい国に私はいない方がいい」
「ここを離れて、どこへ行くの?」
「さぁ。まだそんな先のことは決めていない。でも解放軍を結成する前も各地の戦場を渡り歩いていたんだ。またその生活に戻るだけだ」
「それも寂しいわね」
「そんなことを言う暇もなくなる。新しい国作りで忙しいだろうからな」
「でも、みんな寂しがると思うわ」
「トリスタンとは話はついている」
ユーリアは微笑んだ。
「そう言うのが寂しいのよ。私たちには何の相談もしてくれないのだもの。どうせ一人で決めたと言うのでしょう?」
「私以外は国に残るんだ。下手に相談して気持ちが鈍ったら困るじゃないか」
「でも、そういうことって言ってほしいのよ。兄さんみたいな人は特にね」
「面倒だな」
「面倒だなんて言わないの。みんな、あなたのことが心配なのよ」
「心配などしてもらうには及ばない。どこかの戦場で倒れるのが私にはふさわしい。戦争屋らしい最期だろう」
「馬鹿ね、グランディーナ!」
そういったユーリアに急に抱きしめられたので彼女は目を白黒させた。
「あなたのことが好きなのよ。だから心配するんじゃない。それぐらいもわからないの!」
彼女は、しばらく無言だった。最初、ユーリアが何を言っているのか理解できなくて、その言葉を何度も反芻した。
「私、言ったじゃない、アヴァロン島で。あなたはもう独りじゃないって。私もギルバルドさまも、ランスロットもカリナもライアンも兄さんも、みんな、あなたが好きよ」
ユーリアの言葉には無償の暖かみがあり、女神のそれとは明らかに異なっていた。
けれどもグランディーナのなかで、それは危険だという声がする。その柵(しがらみ)は彼女が忌避する天界への道をつける。傷つけたくないと思う者がいればいるほど、彼女は彼らを守るために自分勝手なことはできなくなる。女神の言葉が現実味を帯びてしまう。
「いいのよ、それでも」
ユーリアが彼女の心を読んだような言い方をした。
「私は、あなたのすることを許すわ。それがどんな結果をもたらしても、あなたのしたことを許す。それが好きだと、愛しているということよ」
「私がギルバルドやカノープスを殺してもか?」
「ええ、私はあなたを許す。だって、あなたがいなければギルバルドさまと兄さんは二度と和解できなかったわ。私も兄さんを許さないままだった。そのことは決して忘れないわ」
「私には過ぎた話だ」
だいぶ経ってから、グランディーナは呟いた。
「いいのよ、それで」
ユーリアがもう一度、応える。その胸は暖かく、グランディーナに、今は亡い人を思い出させた。と同時にギルバルドと初めて対峙した時、彼を庇うように翼を広げていた親鳥のような姿をも。
彼女は目をつぶった。ユーリアの心臓が鳴らす確かな鼓動を聞きながら、グランディーナはいつしか寝に入っていた。彼女の言葉で心のなかに抱き続けている懸念が消えたわけではなかったが、何ヶ月ぶりかの穏やかな眠りであった。
彼女たちは、それから4日待った。解放軍がゴルドリアの町に現れたのは双竜の月8日で、グランディーナの顔を見て、さすがのアッシュも安堵した様子だった。
さらにランスロットやギルバルド、カノープスらが遅れて到着したのは双竜の月10日のことだ。
「あなたたちには手間をかけさせた。まさかトリスタンが、このような性急な行動に出るとは思っていなかった」
まずリーダーだけで会議が開かれ、グランディーナは真っ先にこう言って頭を下げた。
「ではそなた、妃殿下がシュラマナ要塞に囚われていることを知っていたというのか?」
「私も知ったのは、つい最近のことだ。クリューヌ神殿は行き止まりだ。先に片づけようと思っていたら、こんなことになってしまった」
「殿下が早まった行動に出ていなければよいのだが。まさかリゲルのような奴の甘言に惑わされようとは思わなんだ。せめて一言相談していただければ止めようもあったものを」
アッシュの顔に疲労は濃く、皆が考えている以上にトリスタン皇子の行動に心を痛めているようだ。
「ともかく私たちもシュラマナに急ごう。こうなった以上、トリスタンを放っておくわけにはいかないからな」
「うむ」
しかしシュラマナ半島は、そこからまだ4日もかかり、シュラマナ要塞は、さらにその先端にある。どんなに急いだところで先行しているトリスタンたちに追いつけるはずがないことは誰もがわかっていた。
それでもいま解放軍はシュラマナへ歩を進める。旧ゼノビア王国の王妃フローランの無事を確かめるためにも。
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