Stage Sixteen「神帝の陰」

Stage Sixteen「神帝の陰」

「トリスタン皇子、あれがシュラマナ要塞だ」
リゲル=カナベにそう言われて彼だけでなくケインとヨークレイフも山中にそびえる砦を見上げた。夕方という時間のせいか、その威容は黒々と沈み、こちらを押し潰そうとするような威圧感を放っている。
「こちらに侵入路がある。このまま進んでもいいのか?」
「そうしよう。一刻も早く片づけたいからな」
「そちらの2人にはここで待っていてもらいたい。影の心得もない者を、あと2人も庇うのは難しい」
「わかった」
「トリスタンさま、わたしは反対です。妃殿下をお助けするのならリゲル1人に行ってもらえば済むことではありませんか」
「いいや、わたしが行かなければ意味がないんだ。頼むからケインたちは、ここにいてくれ。すぐに戻ってくるよ」
「しかし」
「ケイン、ここまで来たのだ。後は殿下にお任せしよう。ここで話しているのは時間の浪費だ」
「ありがとう、ヨークレイフ」
それでトリスタンとリゲルだけ要塞へ向かうのをケインは見送ることになり、恨めしそうな顔で騎士を振り返った。
しかし2人の姿が見えなくなるとヨークレイフの口調は打って変わったように聞こえた。
「おかしいと思わないか?」
「何がです?」
要塞から見つけられないように隠れながら2人は小さな声で話す。
「あのトリスタンさまが、この件について我々に隠し事があるということさ」
「何を根拠に、そのようなことを仰るのです?」
不快さを隠しもしないケインにヨークレイフの声は淡々と事実を告げる。
「解放軍を離れて単独でシュラマナ要塞に先行すると仰ってからトリスタンさまの表情が、ずっと沈んでおられる。最初はフローランさまのことで悩んでいられるのかと思っていたが、それをおまえに打ち明けないのはおかしくないか?」
「それは、トリスタンさまが妃殿下が生きておいでだと知らなかったからだけではないですか?」
「いいや。そうなら、なぜ、ここに来るまで何も仰らないのだ? しかもトリスタンさまは当初、リゲルと2人だけで行くつもりだったじゃないか。おまえが見つけなければ、そうされただろう。本当に、それだけの人数でフローランさまをお助けできると? トリスタンさまは、そのような無謀なことを考えられる方ではないだろう」
「じゃあ、何です? 何のためにトリスタンさまは、こんなところまで来られたと思っているんですか? 妃殿下をお助けする以外に、どんな用事があるって仰るんです?」
そこでヨークレイフは黙り込んだ。
けれどもケインには、その沈黙から彼が推察していることが言い当てられるような気がした。しかし彼は、そのことを自分の口から言うわけにはいかなかったし、ヨークレイフが言ってしまえば2人の心配が本当のことになりそうで騎士に言われるのも回避したかった。
そんな心境を察してか、ヨークレイフも口を開こうとはしない。2人はただ気まずい沈黙のなかにいるのだった。
一方、リゲルの先導でシュラマナ要塞に侵入したトリスタンだったが、フローラン王妃がいたと聞かされた部屋で待ちかまえていたのは思いも寄らぬ人物であった。
「シュラマナ要塞へようこそ、トリスタン皇子。それとも彼女のようにフィクス=トリシュトラム=ゼノビア殿と呼ぼうか?」
「好きなように、プレヴィア将軍。だが、なぜ、わたしが来るとわかったのだ?」
「彼女に近づく者は厳重に見張らせているからね、何かあったら、すぐにわかる。ただ、わたしもこれほど早く君が来るとは思ってもいなかったので少々驚いている。立ち話もなんだから、どうぞ、座ってくれたまえ」
トリスタンは目の前の椅子に腰を下ろした。リゲルが、その後ろに立ったがプレヴィア将軍は影の存在は意にも介していないようだった。それに「驚いている」と言いながら彼は冷静そのものに見えた。
「ならば、わたしが何をしに来たのかもわかっているのだな?」
「そうだ。その上で君に提案したい。このまま、ここを立ち去ってはもらえないか? 彼女には二度とゼノビアを名乗らせないし、公の場に出すこともすまい。生きていて不都合があるのなら死んだことにしてくれてもかまわない。それで満足できないか?」
プレヴィアの声音は、とても敵対している相手とは思えないほど穏やかだ。高慢な性格との噂だが自尊心の高さが、そう写ることもあるのかもしれない。
だが答えた自分の声は氷のように冷たく響いた。ここに来るまでの迷いが、まるで嘘のように冷徹にトリスタンは答えを返していた。
「無理な相談だ、プレヴィア将軍。わたしは神帝の名誉を守るために、ここに来た。ゼノビア王グランの后フローランが夫の暗殺後、敵国四天王と結ばれるなどという不名誉は許されない。わたしは母を殺す、そんなことが公にされる前に。母が生きていれば、その事実がいつ暴露されるか、わかったものではないからな。あなたの言を疑うものではない。だが生きている限り、その危険は決してなくならないからだ」
ゼテギネア帝国の四天王が一人アルフィン=プレヴィア将軍は50歳前後の色男だった。トリスタンは母の顔など覚えてもいないがヨークレイフの話では優しい美人だったというから、きっとお似合いの2人なのだろう。80過ぎて母を娶(めと)ったという神帝グラン以上に、だ。
「神帝の名誉と君は言うが彼はとっくに死んでいるではないか。彼女は神聖ゼテギネア帝国の虜囚として24年も不自由な暮らしをさせられてきたのだ。その歳月はゼノビア王妃としてのそれよりよほど長い。いい加減、彼女をグラン王の呪縛から解放してやってはくれまいか」
「断る。元を正せば24年前、あなたたちが我が父を暗殺したのがすべての発端だ。そのために神帝グランは伝説となり、いまもわたしや母、それにかつてゼノビア王国に仕えた者たちを縛りつけている。非業の死を遂げたグラン王の恨みは盟友ラシュディ、暗殺を実行したガレス皇子だけでなく女帝エンドラを初めとしたゼテギネア帝国の首脳を血祭りにあげなければ鎮まることはあるまい。当然、あなたもそのうちの1人だ、そして、あなたと密通した母も同罪なのだ。いいや、母の裏切りはゼノビアのために一族郎党を殺された者たちにとって、もっと重い罪だと言っていいだろう。わたしは、その罪が皆に知られる前に彼女を殺す。夫と第一皇子ジャンを殺され、ゼテギネア帝国に24年も虜囚とされていた悲劇の王妃でいられるうちにな。それだけが神帝の位を継ぐ者が彼女に与えられる、ただひとつの慈悲だ!」
プレヴィア将軍は息を呑んだようだった。彼は椅子に深く座り直したが、トリスタンが返事を急かす前に、ようやく口を開いた。
「驚いたな、トリスタン皇子、いいや、フィクス=トリシュトラム=ゼノビア殿。君はまるで神帝のような物言いをする。25年前に一度だけ会ったきりだが、君の言い方はグラン王そのままだ」
トリスタンは彼の話には応じずに自分の話を続けた。ここに来る道中、ケインにもヨークレイフにも相談できず、ずっと1人で考えてきたこと、それがようやく吐き出せるのだ。
「もしも父が天寿を全うしたのなら、このようなことにはならなかっただろう。彼は五英雄の1人として長寿をほしいままにしたが老いと無縁だったわけではないし、わたしが生まれたころには80の高齢で五英雄として名を馳せた時の覇気も、ゼテギネアで最も豊かなゼノビアを我がものとした時の行動力も判断力も失われていたと聞いている。さらに神帝が衰えるのを待っていれば、たとえ暗殺されようと、いまほどの恨みは買わなかっただろう。だが、あなたたちはそうしなかった。なぜだ?」
返答したプレヴィア将軍の目に昔を懐かしむような色は浮かんでこなかった。
「我がハイランドには時間がなかったのだ。あの時、神帝や四王国を排除しておかなければ滅ぼされていたのは我々の方だったろう。四王国かハイランドか、生き残るのはどちらかだけだったのだ。
だが君の考えはわかった。ならば、わたしはフローランを守るため、神聖ゼテギネア帝国の四天王が一角として正々堂々、君と戦おう。反乱軍を率いる将として、このアルフィン=プレヴィアを倒してみよ。だが今日のようなことが次にあれば今度は、わたしも容赦しない。彼女に近づく者は殺す。もしも、そこの影を使うようならば黙っていない」
「余裕だな、プレヴィア将軍。わたしたちに、あなたを負かせないと思うのか? それよりも、いま、わたしを殺さないでもいいのか?」
「そのようなことをしても彼女は喜ばない。それに大将軍から君の生存を知らされた時から彼女の心は砕けてしまったのだ。わたしのことも、わからなくなっているのだよ」
プレヴィア将軍の整った顔立ちが、その時だけ悲しみと苦痛に歪んだ。母に寄せる彼の愛情を思ってトリスタンの心に妬みと憎しみが募る。自分などいなければ、たとえゼテギネア帝国が敗れたとしても2人は幸せだったのだと思うと、2人のあいだに割って入り、彼らの24年間を踏みにじりたくなるほどだった。
「彼女の心は、とっくに死んでいるのだ、わざわざ君が手を降さなくともな! 君の首級をあげることで彼女の心が取り戻せるのなら何を躊躇うことがあろうか? だが、すべては手遅れだ、彼女は神帝の影に脅えている、居もしない老人に苦しめられている。グランは、なぜ彼女をそっとしておいてくれないのだ? 老いぼれめ、なぜ、おとなしく死んでいないのだ?」
「母は自分のしたことが罪だと知っているのだろう。だから神帝の影に脅えるのだ。そして、わたしが神帝の名の下に裁きを下すのを待っている」
その言葉にプレヴィア将軍はトリスタンを睨んだ。指先一本動かさないのに背筋を冷や汗が流れるような威圧感だ。
だが先に視線を逸らしたのもプレヴィア将軍の方だった。
「衛兵!」
扉が開いて、騎士が2人入ってきた。見知らぬ闖入者の姿に、それほど驚いた様子もないのは、よく訓練されているためと思われる。
「何の御用でしょうか、プレヴィアさま?」
「この2人を要塞の外まで送って差し上げろ」
「かしこまりました!」
トリスタンが立つとプレヴィア将軍も立ち、自ら扉を開けた。2人の騎士はトリスタンとリゲルを挟むように廻った。
「いまは亡きゼノビア王国のフィクス=トリシュトラム=ゼノビア殿と、その従者だ。くれぐれも失礼のないようにな」
「ははっ!」
シュラマナ要塞は広く、リゲルの案内だけでここまで来たトリスタンにはもう一度、同じ部屋へ辿ることはできなさそうだった。
追い出され、リゲルと2人きりになると、彼はいまの話を誰にも漏らさないように念を押したが、旧オファイス王国暗殺団の新しい長は確認するまでもないと返答した。
「我ら影の口から、そのような情報が漏れることはない。わたしも、わたしの部下も、その点だけは信じてくれていい」
「それはすまないことを言ったな。わたしは君たちのような影をあまり知らないから」
「命令をされれば良いのだ。なんならフローラン王妃を暗殺するか?」
「それは止めておこう。プレヴィア将軍も、ああ言っていた。わたしが、いちばん恐れているのは母のしたことが皆に知られることだ。いまは一刻も早く解放軍に戻ることを優先しよう」
リゲルは頷き、トリスタンをケインとヨークレイフの元まで連れていった。
しかし彼らは知らない。ライの海からクリューヌ神殿に向かったと思っていた解放軍が3人を追ってシュラマナ要塞へ向かっていることを。
「トリスタンさまが、お戻りになりました!」
双竜の月13日、カシム=ガデムの声が野営地全体に伝えられる前に当のトリスタン皇子ことフィクス=トリシュトラム=ゼノビアが従者と騎士を従えて皆の前を通り過ぎていった。3人だけで解放軍を離れて以来、16日ぶりの帰還だ。
誰もが声をかけられずに見送っているとトリスタン皇子は真っ直ぐに解放軍のリーダーの待つ天幕に向かい、グランディーナと対峙した。
「あなたが無事で何よりだ」
「君と2人だけで話したいんだが、かまわないだろうね?」
「ケインも入れないのか?」
「そうだ」
「わたしは納得していませんよ!」
「外してくれ。いまは彼女とだけで話したいんだ」
「先に天幕に入っていてくれ」
ケインは、まだ粘ろうとしていたが入口でトリスタン皇子に押し止められた。
「今日は駄目だ。君は外してくれ」
揉める2人の脇をグランディーナが通り過ぎる。彼女はサラディンに近づくと小声で話しかけ、彼はすぐに頷いた。
彼女とトリスタン皇子が天幕に入るとサラディンは、その周辺で即座に魔法をかけたので、中の話し声は外には、まったく漏れてこなくなってしまった。
ケインは諦めきれず恨めしそうに彼を見たが口には出さなかった。
「我々は先に休ませてもらおう」
ヨークレイフがそう声をかけると彼は渋々といった様子で、その場を離れていった。
2人をつかまえて質問するのがはばかられるほど彼らは薄汚れた格好をしていた。それでも2人の身を案じてラウニィーやマチルダが近づいていったのを皮切りに野営地は、また、いつもの様子に戻っていったのだった。
「それで私に話したいこととは何だ? 半月も、どこに行っていた?」
グランディーナは天幕の奥に腰を下ろしており、トリスタンは、その向かいに座った。
彼女の天幕にはアイーシャがともに休んでいるはずだが荷物はまとめられて、すでに外に出されていたので中は空っぽになっていた。
「君たちには迷惑をかけてしまって、すまなかった。リゲルから話を聞かされた時、急いで対処しなければならないと思ったんだが、このざまだ」
トリスタンは、まず頭を下げた。
「フローランのことだからか?」
「そうだ。君も知っていたのか?」
「事情はよく知らないが影から報告は受けていた、あなたがシュラマナへ発つ前にな。だがライの海まで行ったんだ、クリューヌ神殿を先に片づけたかったが、そうしていたら逆に時間が足りなくなっただろう。それに私もシャングリラまで飛ばされた。皆には行ったり来たりと手間をかけたが、私に限って言えば、それほど問題はない」
「時間が足りないとは、どういうことだ?」
「ルバロンと戦える者がいない。私が行けば、いちばん早いが天空の島で力を使いすぎた。フェルアーナにもいじられたが、ルバロンと戦えばゼテギネアに着く前に天空の島に連行されかねない。フォーゲルにデボネアを鍛えさせているが、どれだけものになるか不明だ」
「そうか。だが知っているのならば話が早い。確かに、わたしの母は生きている。シュラマナ要塞に人質として連れてこられたがプレヴィア将軍は彼女を人質に戦う気はないそうだ」
「あなたはプレヴィアに会ったのか?」
「わたしとリゲルだけ会えた。もっともプレヴィア将軍に会ったのは予定外だ。彼には気取られずにシュラマナ要塞に潜入して帰ってくるつもりだったからな。彼は解放軍と堂々と戦い、母を守ってみせると言った。だから、わたしにも解放軍を率いて挑んでこいと言うんだ」
「プレヴィアは何のためにフローランを守る必要がある? フローランを人質にしろという命令は誰から出されたものだ?」
「母を人質にして戦えという命令はヒカシュー大将軍から出されている」
「ヒカシューの命ならば、なぜプレヴィアが、それに逆らう?」
その問いにトリスタンはしばし口を閉ざした。彼はグランディーナを見たり、天幕の上にある通気口を見上げたりしていたが、彼女が黙って待っていたので、やがて続きを話した。
「わたしがシュラマナ要塞に先行したのは母を殺すためだ。ケインもヨークレイフも連れていくつもりではなかったが感づかれて、ともに行かざるを得なかった。リゲルには余計な負担をかけてしまった」
彼はそこで視線を落とし、むき出しの地面に目をやった。
「母がゼテギネア帝国に囚われていると聞いた時、わたしも人並みに喜んだよ。顔も覚えていないとはいえ24年前のあの時に父や兄とともに殺されたと思っていたからな。自分の生みの親が生きていて嬉しくないわけがない」
彼は考えながら言葉を継いだ。
「だが、わたしは母の子である以前に神帝の世継ぎだ。少なくともゼノビアの皇子だと言われた時から、わたしはそのように扱われてきた。だから、わたしは母のとった行動が赦せなかったのだ」
グランディーナはトリスタン皇子から目を逸らさなかった。右膝を抱えた姿勢を揺るがすことなく彼の話を聞いていた。
「母はゼノビアの王妃としてではなくゼテギネア帝国のヒカシュー大将軍の客員として、この24年を過ごした。アッシュやランスロット、ウォーレンたちがゼノビア王国縁の者だというだけで帝国に追われ、家族を殺されていたころ、神帝のように、いつ殺されるかという不安に脅えつつ、実際には母の命は大将軍に守られ、無事だったのだ」
彼はそこで顔を上げグランディーナと目を遭わせた。彼女は、それを待っていたように言葉を紡ぐ。
「帝国が、そのように扱ったのはフローランに利用価値があると考えていたからではないのか? それともヒカシューの独断か?」
「それもあるだろう。母は父から贈られた聖なる腕輪を持っている。だが、それは母が生きていなければ手に入らない物ではない。もちろん、わたしがこうして現れた時に人質として使う腹づもりもあったかもしれない。ゼノビア王妃が生きているとわかれば生き延びた旧臣も黙ってはいないだろうしな。しかし彼女を生かしておいたのは、ただヒカシュー大将軍の温情によるところが大きいらしい」
「ならば、あなたがフローランを殺しに行く理由はどこにある?」
「プレヴィア将軍が母を守ると言っただろう? それが理由さ」
「ゼノビアの元王妃が敵将に守られては都合が悪いのか? 謎かけをするな。私も暇じゃない」
「それはすまない。だがリゲルに知らされプレヴィア将軍から事実を聞かされても、まだ信じられなかったものでね。君がどう考えるのか知りたかった」
言葉を切ったトリスタンは横を向いた。自分を真っ直ぐに見据えるグランディーナの顔をまともに見られなかったのだ。
「母はプレヴィア将軍の愛人なのさ! それも1年や2年の仲じゃない、10年以上もつき合っているというんだ。彼女が神帝のように殺されるか脅えていただって? 四天王の愛人を誰が殺す? いくらゼテギネア帝国だって、そんな馬鹿なことをするものか!」
「だが実際に彼女は、いつ殺されるのか案じていたのだろう? 王妃といえど、ふつうの女性だ」
「でも母は神帝の后なんだ、そんな言い訳はできないし赦されないさ」
「誰が赦さない? あなたか、グランか?」
「父が赦すはずがないし、わたしも赦さない。神帝の后は神帝に相応しく気高くなければならない。その心配もないのに、恐れて脅えているなど、あってはならないんだ」
トリスタンが、ようやく前に向き直るとグランディーナと目が合った。それは凪いだ海のような眼差しだった。
「フローランがグランの妻だったのは数年のあいだに過ぎない。あなたは、その後の24年間も彼女が未亡人として暮らせば良かったというのか? ゼノビアの王妃が女としての幸せを求めてはならないと?」
「はっ! 君の口から、そんな台詞が聞けるとは思わなかったな。当たり前だろう! そうでなかったら、どうしてアッシュに顔向けできる? ランスロットやマチルダもそうだ。一族を皆殺しにされて1人だけ生き残った者たちに、ゼノビアの王妃は敵に保護され、敵の将軍の愛人となりましたと、どうして言える? そんな恥をさらすくらいなら、いっそ、あの場で父と兄とともに殺されていれば良かったんだ! そうすれば、わたしをこんなに苦しめないでくれたものを。そうだ、どうしてあの人は死ななかったんだ? 自ら死を選ぶなど、そう難しいことでもなかったろうに。なぜ? どうしてなんだ?!」
「彼女がそうしなかったことを、なぜ責められる? フローランに自分たちの理想を押しつけるのは止めろ。彼女が神帝の后に相応しくないのは彼女だけの責任ではない」
「意外だな、君がそんな優しいことを言うなんて。一度ゼノビアに嫁いだのだから母は死ぬまでグラン王の后さ、当然だろう? それをプレヴィア将軍と関係しただって? 冗談じゃない、そんな女に主君の后だったからと仕えられるのか? そんな女のために命をかけて戦えるのか? わたしには、とてもできない相談だ、そんなこと、できるはずがない。ああ、言えば、彼らは戦ってくれるだろう、そんな女でもゼノビアの王妃、神帝の后、わたしの母なのだからな! だが納得できると思うか? そんな女のために戦うことに彼らが心底、納得すると思うのか? しないさ、絶対に。口ではどう言っても心の奥に膿のように残るだろう。自分たちの家族は殺されたのに彼女は生き残ったというわだかまりは決して消えはしないだろう。母が死ぬまで彼らは忘れられないだろう。母が死んでもだ。だったら、わたしが殺すべきなんだ。彼女がゼノビアの王妃でいるうちに、神帝の后だと思われているうちに。母が神帝グランの悲劇の王妃でいられるうちにな!」
「なぜ彼らのことを信じない? アッシュやランスロットが、フローランがプレヴィアの愛人だからと言って恨みに思うような狭量な人物だと、あなたは本気で思っているのか?」
「思ってやしない、いいや、思いたくなんかないさ。だが、いまも、わたしよりも父に忠誠を抱くアッシュに母が裏切ったと、なぜ言える?」
「裏切りという言い方が一方的だと言っている。それは、あなたの考えであり、グランの考え方だ。皆が同じように考えるとは限らない」
「考えられてからでは遅いんだ。彼らが母に絶望してからでは遅い。そんな危険が冒せるわけがない」
「神帝とて、ただの人間だということだ、私たちがそうであるようにな。それに、あなたたちは、いい加減にグランから解放されるべきだ。24年も前に殺された人間に、いつまで縛られているつもりだ? この戦いはグランの弔い合戦じゃない。最初に、そう言ったはずだ」
「あの時とは事情が変わったんだ、それも悪い方にな。母が、ただの虜囚だったならば誰も咎めやしない。喜んで助けに行くし、よく生きていてくれたと喜びもできる。だが事実は、そうじゃない。母は大将軍の庇護を受けて24年間を過ごしたのみならず敵将の愛人にさえなった。赦してはならないし赦されてもならないんだ、絶対に」
「あなたは神帝じゃないし、ましてやグランでもない。フローランを赦してプレヴィアと解放してやれ。それは、あなたにしかできないことだ」
「嫌だ。わたしは神帝ではないが、その唯一の後継ぎだ。母は父の名誉を汚したのだ、裁かれなければならない。だからと言って母の罪を公にする気もない。せめてもの慈悲だ」
「そんなものは慈悲でも何でもない、あなたの自己満足だ」
「ならば君は、あくまでも母を殺すことに反対というわけか」
「当たり前だ。と言いたいところだが、そうはさせないつもりだろう」
「君の察しが良くて助かるよ。これだけは譲れないところだからな」
少し考えてからグランディーナが口を開く。
「2人を逃がすという選択は?」
「あり得ない。生きていることが知られれば遅かれ早かれ母のしたことも暴露される。わたしはアッシュたちを騙したことになる。それはできない。プレヴィア将軍も同じことを提案してきた。母にゼノビアの名を捨てさせ、二度と公の場には出さないと約束すると。彼は信じてもいいだろう、あそこまで行って母を殺すつもりだった、わたしとリゲルを無傷で解放したのだからな。だが人の口に戸を立てるのは難しい。母が生きていることは、やがて知られるだろう。そうなったら全てがぶち壊しだ。それに、あの2人は逃がしたところで、いまさらどうにもならない」
「どういう意味だ?」
「母は、もう何ヶ月も気がふれているそうだ。わたしが生きていたとヒカシュー大将軍に知らされた時から、ずっと神帝に脅え続けているそうだ。10年も連れ添った愛人のこともわからなくなったとプレヴィア将軍はお嘆きさ」
さすがのグランディーナも、この話には息を呑んだらしかったがトリスタンは、さらに言葉を継いだ。
「だからプレヴィア将軍は言ったよ、自分たちか、わたしが死ぬしかないとね。お笑いじゃないか、実の親子が不倶戴天の敵同士だ! わたしが死ななければ母は安らぐこともできないと言うんだ! 実の息子を殺させて安らげる母親がどこにいる? わたしこそ、いい物笑いの種じゃないか!」
だが彼の激情とは裏腹にグランディーナの声音は、あくまでも冷静だ。
「アッシュたちだって馬鹿じゃない。いまに真相は知られるぞ。それに彼らを騙すことはできないと言うが、あなたのしようとしていることも同じではないのか?」
「いま知られなければ後で何とでもごまかせる。死人に口なしだ。最優先で守らなければならないのは神帝の名誉だ」
グランディーナは、しばらく沈黙した。
「ケインを入れなかったのは、なぜだ?」
「彼は戦災孤児だ。エストラーダに拾われて、わたしと一緒に育てられたがゼノビアが、あのように負けていなければ彼だって家族を失わないで済んだんだ。どうして彼に母のことを話せる? ゼノビアの王妃としての責務も果たしていないのに」
「私はケインが、いまさらそんなことで、あなたやフローランを恨むとは思わない。彼は私的なことは脇に置いておける人間だ」
「彼には折を見て話すつもりだ、君が口を出すことじゃない」
「ふん、そこまで言うのなら私は何も言うまい。だが、あなたが、そこまでグランの名誉にこだわる理由は何だ? グランが英雄だったのは80年も前だ。非業の死は遂げたが直接会ったことのある者も減った。彼の名誉など、あなたが必死に守らなければならないものとは思えないが?」
「その台詞、アッシュやウォーレン、それにランスロットたちにも言えるのか?」
「当たり前だ。なぜ、私がグランのことを気にかけなければならない。彼は、とうに過去の人間だ。たとえ、この戦いの発端がグランの死にあるのだとしても、いまを生きる私たちには何の関わりもない」
「わたしの父が非業の死を遂げたのだから無関係とは言えまい。その魂は死した後も墓前にエンドラやラシュディの首を捧げられるまで安らぐことはない。君は、たかが死者の戯れ言だと片づけるのか? わたしには、とてもできない相談だな」
「堂々巡りだな。私は過去を断ち切れと言い、あなたはできないと言う。グランの魂が安らげば、あなたたちも、その呪縛から解放されるのか?」
「そうだ。女帝エンドラ、賢者ラシュディ、ガレス皇子、ヒカシュー大将軍、ルバロン将軍、プレヴィア将軍、彼らの責は大きい。そしてゼノビアの王妃でありながらプレヴィア将軍と通じた母も同罪だ」
「グラン1人を鎮めるためには犠牲が大きすぎやしないか」
「父だけじゃない。イグアスの森で殺された者、ラシュディの禁呪に倒された者、ゼテギネア帝国に処刑された者、皆が皆、彼らの首を望んでいる。彼らを鎮めて、初めてゼテギネアは未来を臨めるのだ」
「神帝の呪縛を解けるのは、あなたしかいない。それでも敢えて縛られたままでいるというのか?」
「逆だよ。わたしが神帝の後継ぎだから皆は、わたしを支持するんだ。ならば神帝の名誉を守り、その恨みを晴らすのも、わたしの責務じゃないか?」
グランディーナが目の色を変えたのはその時だった。
「違うだろう、トリスタン? あなたがフローランを殺したいのは、そんなことが理由ではないはずだ。神帝の名誉? 一族郎党を殺された者たちに申し訳が立たない? 私は、そんな言葉には騙されない」
トリスタンの背中を冷たい汗が流れた。それどころか気がついた時には彼の背中は天幕に触れるところまで退いていた。
「あなたの闇から逃げるな、トリスタン」
グランディーナに左手をつかまれた時、喉の奥で彼はかろうじて悲鳴を押し殺した。
「わたしの闇?」
「神帝の名誉などに惑わされて母親を殺そうとするのが闇以外の何だという? 新しい国に、そんなものを持ち込むな」
「そんなもの? 闇? 父の名誉を守ることが君は闇だと言うのか?」
「誤魔化すな。あなたがさっきから木偶(でく)のように唱えているお題目が嘘だと言っているんだ」
「だったらどうだと言うんだ? いちばん最初に君は言ったな、解放軍のことはすべて自分が負うと? わたしも同じだよ、ゼノビアの名において行われることはすべて、わたしが負うんだ。神帝グランもフローラン王妃もすべてね。お互い様じゃないか?」
「あなたの荷物は捨てられるものだ。そうではないのか?」
「捨てられないさ、わたしがゼノビアの皇子である限り。捨てようとも思わない、わたしが神帝を継ぐ者だから皆は支持するんだ。神帝を捨て、ゼノビアを捨て、わたしに何が残る?」
「だが、あなたは神帝にもゼノビアにも縛られないでいることができる。人魚たちのことは話しただろう。グランの名を蛇蝎(だかつ)のように嫌う者もいるんだ」
「だが、そういう者は少数派だ。人魚がゼテギネアの復興に必要かい? 君だって、わたしの存在を知って利用しようとするのは神帝の後継ぎだからじゃないのか?」
「それは私も否定しない。だが、あなたは、それでいいのか? グランの後釜に座ることに後悔はないのか?」
「後悔だって? そんなもの、いままでしてこなかったわけじゃないさ。それとも君が、わたしを救ってくれるのか? わたしに、この国を押しつけて去っていこうとしている君が?!」
「あなたは救われたいのか?」
「ああ、人並みにはね。君は、そうではないとでも?」
「そんな権利は私にはない。解放軍の名において何人殺したと思う? 私だって把握しきれない数だ。ゼテギネア帝国を倒すには、まだ足りないだろう。救いを願うなど、おこがましいと思わないか?」
「耳が痛い話だな。だが君は、わたしが救われたいと言うのを咎めはすまいね?」
「そうまでしてフローランを消したいのか?」
「ああ、いなくなったことにしてもらいたいよ。そうでなければ、ただの人質なら良かったんだ」
グランディーナが、また黙り込む。しかし、その視線はトリスタンから離れなかった。彼を射抜くように見つめている。
ずいぶん経ってから彼女は頷いた。
「いいだろう。フローランの件は私が引き受ける。任せてくれるか?」
「頼む。リゲルを使うわけにはいかなくなったいま、君だけが頼りだ」
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