Stage Sixteen「神帝の陰」

Stage Sixteen「神帝の陰」

トリスタンは夢を見ていた。夢だと気づいたのは母の顔が見えなかったからだ。知らないものは夢に見ることもできないらしい。
夢のなかで彼は母を呼んでいた。
だが何か話したいことなどあっただろうか。母の死を望んでいる自分が、いまさら何を話すというのだろう?
しかし彼は母と話すことができなかった。まるで彼の声など聞こえぬかのように母が去っていくのを、ただ追いかけるだけだったからだ。
気がつくとトリスタンはケインに揺り起こされていた。彼が目を開くと幼なじみは心底、安堵したようにため息を吐き出した。それで彼は自分だけ天幕で休んでいたことをも思い出したのだった。
「すまなかった、ケイン。少し夢見が悪かったんだ。もう大丈夫だから君も休んでくれ」
しかし彼は立ち上がらずに言った。
「いま、この天幕の音は外に漏れないようにしていただいています」
「何だって?」
「差し出がましいことを申し上げているのは百も承知でお願いします。どうか妃殿下の事情を話してはいただけませんか? これ以上、トリスタンさまが妃殿下のことでお心を痛められているのは見るに耐えられません」
そう言ってケインは、その場にひれ伏した。
「わたしは母上のことで何か言ったのか?」
「いいえ。ただ妃殿下を呼んでおいででした。ですが、わたしが気にかかっているのはシュラマナ要塞に行ってからというもの、トリスタンさまのお気持ちが沈んでいらっしゃるということです」
トリスタンは返答に迷った。ケインに隠し事をするのは初めてだ。それぐらい、この幼なじみとは苦楽をともにしてきた。彼は、いまだにケインと一緒に戦場に立った日のことを思い出せる。いまは亡いエストラーダ=エクソンの声とともに自分たちの弾んだ息遣いを覚えている。それは、この先も生涯、忘れることはないだろう。
トリスタンにとってケインは、それだけ特別な存在だ。たとえ自分がゼノビアの王になれなくても彼だけは変わらず傍にいるだろう。トリスタンが、そう確信できるのはケインただ1人なのだ。
「わかった。君に隠し事をしようと思ったわたしが間違っていた。せっかく君が用意してくれた場だ。無駄にするのももったいないからね」
ケインは顔を上げて笑ったが、トリスタンの次の言葉には、もう真顔に戻っていた。
「だが、このことは君のほかにはグランディーナとリゲルしか知らない。いまさら念押しするまでもないだろうが、くれぐれも他言無用に頼む」
「承知しております」
「それと」
そこでトリスタンは言葉を切り、咳払いをした。
「いまだけでいい。言葉遣いを昔に戻してもらえないか。忌憚ない君の意見が聞きたい」
「わかりました」
言ってからケインは笑い、楽な姿勢で座り直した。
それでトリスタンも話を始めた。自分の感想や感情、グランディーナには、さんざんに話した母を討つ理由も一切を抜いて、ただ事実だけを。
おかげで話はグランディーナにした時よりもずっと短く終わったが、問題はこの先だ。案の定、ケインは小難しい顔で考え込んでいる。
それでトリスタンは最後にひとつだけ自分の感想を付け加える余裕ができた。
「ただしグランディーナは裏切るかもしれない。それが最悪の事態を招かないことを、わたしは願うばかりだ」
「それはフローランさまのことが公に知られる場合か?」
「わたしは、そう考えている」
「事情はわかった」
そう言いながらケインは立ち上がり、近づいてくるとトリスタンの襟首をつかまえた。何かと思う間もなく、したたかに頬を張り飛ばされて彼は右手をついた。
「なぜ、もっと早く打ち明けてくれなかったんだ? 俺たちのあいだで隠し事はなしにしたはずだろう。それとも俺は、おまえの相談には値しないのか?」
「すまない、ケイン。だが特に君には申し訳なくて言えなかった」
「まだ、たたかれ足りないのか? 俺は自分の境遇を嘆いたことはない。おまえには悪いがゼノビア王国が滅んで感謝さえしているんだ。そうでなかったら、どこの馬の骨ともわからない俺が、どうしてゼノビアの皇子などと知り合える? 一緒に肩を並べて戦える? 新しい国作りなんかに、どうやって携わることができる? 俺は、おまえの手足だ、おまえの影だ。おまえに国を興させるためなら、どんなことだってできる。神帝のことも王妃のことも解放軍だろうと何だって利用してやるさ」
「ありがとう。わたしも修行が足りないな」
「何度だって言うさ。そのたびに直せばいい。
さあ、それよりも明日にはシュラマナ要塞に着いてしまう。どうするつもりなんだ?」
「プレヴィア将軍との和解はあり得ないのだから彼を倒すしかない」
「そうだな。だが彼が君の企みに気づく可能性はないのか? むしろグランディーナを行かせたのは早計だったのでは?」
「それは彼女次第だ。ただ最後まで反対していたから、わたしの意に反して母を逃がすぐらいのことはするだろう」
「厄介だな」
「ああ、厄介な存在だ。だけど彼女なしでゼテギネア帝国の打倒もかなわない。彼女も、それがわかっているのだから強気なものさ。もっとも彼女が王になりたがらないから切り札を握っているのはこちらだがね。そのことはずいぶん苦々しく思っているだろう」
「仕方がない。ゼテギネア帝国を倒すまでの辛抱だ。彼女の方だって辛抱しているのはお互い様だろう。だから俺たちは解放軍に合流することに決めたんじゃないか」
「そうだったな」
「話を戻そう。明日の算段は?」
「ラウニィーにはプレヴィア将軍と話してもらう。彼が応じるとは思えないが、やらせないわけにもいかないからな。その後はプレヴィア将軍と戦うだけだ」
「一騎打ちを申し込まれたらどうする? 彼は優れた魔法剣士だと言っていたが」
「指名がなければアッシュに頼む。グランディーナもデボネアもいないからな、ほかに適任がいない。グランディーナはともかく、デボネア将軍をライの海に残されたのは痛かったな」
するとケインの手が伸びてきてトリスタンの右腕を鷲づかみにした。
「おまえは絶対に立つな」
「まさか。プレヴィア将軍が、わたしと戦ってどうするつもりだと思うんだ?」
「彼の狙いを考えていたのさ。愛する女が狂ってしまったのに、なぜシュラマナ要塞にいるんだ? 彼は何のために、おまえに解放軍を率いてくるよう言ったんだ?」
それはトリスタンも考えていた。母を守るという名目をプレヴィア将軍は失っている。それなのにゼテギネア帝国の将軍としてシュラマナ要塞を守るのは単に忠誠のためかと思ったのだ。
「違うだろうな」
トリスタンが自分の考えを言うとケインは少し思案してから、そう答えた。
「それぐらいの用で、おまえに解放軍を率いてこいとは言わないよ。ほかに意図があるんだろう」
「ならば、それは母を狂わせたわたしや父に対する復讐じゃないかな。そんな素振りはうかがわせもしなかったがね」
「なぁ、この件、アッシュに相談した方が良くないか? プレヴィア将軍に一騎打ちを申し込まれたら、アッシュに頼むつもりなんだろう? 事情を知っていてもらった方がいいんじゃないかと思うんだ」
「それは駄目だ。彼に母の裏切りを知られたくない。それに、この件を知っている者は少ない方がいいんだ。アッシュに限らず誰にも知らせるつもりはない」
「そうか」
2人のあいだに、しばしの沈黙が流れた。トリスタンは明日、皆に話すことを考えていたし、ケインはプレヴィア将軍との戦いをどう切り抜けるか、またその先のことも、いっそ新たな王国を興してからのことも気にかかっていた。考えるべきことはいくらでもある。その全てを彼が行うわけではないにしてもケインは王国内で起きることは全て把握していたかった。
それにしても今夜はトリスタンに言いたい放題だ。いくら彼の頼みとはいえ、やりすぎだとケインは内心で赤面する。もっとも、こんな機会はしばらくないだろう。彼は家臣の分をわきまえているつもりだし、トリスタンには王の自覚を持っていてもらわなければならないからだ。王と親しげに話せる者など、その家族だけで十分だ。
「とにかく、おまえは絶対にプレヴィア将軍と戦うな。彼の目的がわからない以上、迂闊なことはしないでもらいたい」
「彼と戦うことは迂闊なことか?」
「王となる者が優れた剣士である必要はない。おまえは神帝にならなくていいんだ」
「わかったよ」
「ただ、ひとつだけ言っておく。王妃の件、おまえが手を出す必要はなかったと俺は思う。もちろん神帝の名誉を守りたいという、おまえの意志は尊重したい。だけど俺にとって神帝は過去の人だ。その人の名誉を守るために、おまえの名が傷つけられるなどということがあっていいはずがない。おまえの名が傷つけられることなく神帝の名誉を守ることができれば、いちばんよかったんだが」
「そのために彼女を使ったんだ、いざという時には切り捨てられるように。そうと気づいていただろうに彼女も引き受けた。心憎い話さ」
「それが彼女の役割さ。おまえのために道を馴らす、新しい国作りという道を。だが、そこに彼女の居場所はない。これが、おまえたちのあいだで交わされた約束だっただろう?」
「そうさ。だけど人間が、そんな簡単に割り切れるものだろうか?」
「そういう人間もいるんだよ、おまえが気に懸けることじゃないさ。アクエリアスにも、そういうところがあったじゃないか」
「ああ、彼女、どうしているかな? 懐かしいな」
「俺が調べさせたところではサツに戻って教会にいるそうだ。おまえが王に即位したことを知らせれば、きっと訪ねてきてくれるさ」
「用意のいいことだ。もちろん彼女には知らせなくてはな。ナーナやリヒトフロス王、ゴールディにも招待状を送る。早く彼女たちに会いたいな」
「それには一刻も早くゼテギネア帝国を倒すことだ、わかってるんだろう?」
「ああ、そうだ。その時にグランディーナの問題も片付けなければなるまい」
「おまえが手を出すことはない。必要な時は俺がやらせる。その代わり、おまえには必ず報告を上げる。だから汚れ仕事は俺に任せてくれ」
「君は、それでいいのか?」
「それが俺の役割だからな。誤解するなよ、好きでやってるんだ。俺は平穏無事な人生なんて望んじゃいないのさ」
「強いな、君は」
「いいや、俺が立っていられるのは、おまえがいるからだ。おまえがいなければ、ここにいる甲斐もない。おまえを王にする、おまえが治める王国を支える。俺が強いのは、そこだけさ」
「ならば、わたしの責任は重大というわけだ。一歩間違えば君の人生を台無しにしかねない」
「そうならないようにするためにも俺の仕事があるのさ。だけどグランディーナは違う、彼女は1人でも立っていられる。だから恐ろしいんだ。いや、この場合は手強いと言うべきかな」
トリスタンは深く頷いてみせた。その認識は解放軍に合流する前から2人に共通しているものだ。だが、それは2人のあいだだけにとどめ、誰にも言わないという点でも一致している。解放軍の誰かに話すにはグランディーナの存在感が大きすぎて皆の反感を買ってしまいかねなかったからだ。その代わり、2人は皆をよく観察した。新しい王国をともに支えるに足る者は誰か、彼女に対する反応や考え方を判断材料の1つとしたのである。
いつか2人の記憶の中にだけ、そのための人名一覧が綴られていった。それは足されたり引かれたり、トリスタンの意向で加えられたりしながら1日として同じことはなかったが徐々に形を整えていった。来たるべき日に滞りなく国の形を作り上げるために。
新しい王国の主立った役職は、ほとんど決まっていたが、ただ1人、グランディーナだけが、どこにも入る余地はないのだった。
けれど、やがて口を開いたケインの話は、明日のことに戻っていた。
「もしもプレヴィア将軍が、どうしてもおまえと戦うと言うのなら、先に俺が出よう。俺の屍を越えずに、おまえには指一本触れさせやしない」
「万が一、彼に臆病者と誹られるようなことがあってもかい?」
「そんなこと、口実にもならないさ。前線に立って剣を振るうのは王のすることじゃない、おまえは神帝とは違うということを皆に認識させてもいいころだ」
「彼女ともかい?」
「そうだ」
「わかったよ。君が、そこまで言うのならば、わたしはプレヴィア将軍の挑発には決して乗らない。君たちが全員倒されるまで、わたしが彼と戦うことはない、そうならないことを強く願うがね」
ケインは満足そうに頷いた。そのまま彼が立ち上がったのでトリスタンが目で追うと天幕の入口が引き開けられ、夜が明けていたことを彼は知った。
「すっかり夜更かしをしてしまったな」
「一晩くらい堪えやしないさ。それより夜が明けたから俺は元に戻る。しばらく、こんな風に話すこともないだろう」
「そうか。残念だな、ケイン」
「命令とあれば、いつでも戻りましょう」
そう言うと彼は一礼して天幕を出ていった。
トリスタンは寝不足の目で外を眺めやった。一寝入りするには半端な時間だ。かといって誰かが起きてくるのを待っているのも退屈であった。
だが、やがてマチルダを先頭に皆が起きてきた。戦いが控えているのがわかっているためか誰もが緊張した面持ちだ。
「ラウニィー、まずはプレヴィア将軍の説得を試みてくれ。失敗したら戦闘だ。彼の得意な魔法を知っているか?」
「召喚術で悪魔を従わせられると聞いています。その連携がうまくいく時には、まるでアルフィンが剣技と魔法を同時に操っているかのようだと」
「ならば、こちらも複数人で対応できるな。最初に断っておくがプレヴィア将軍が一騎打ちを申し出ても、わたしは応じないつもりだ。剣技と魔法に優れているという彼に対峙するには1人では厳しいだろう。
ヨークレイフ、君に守りの要を任せたい」
「承知しました」
「アッシュ、ランスロット、あなたたちには攻撃を任せる。
サラディン、ケイン、あなたたちには2人の補助を頼む」
「お任せを」
名前を呼ばれた者が呼応したのを見て、トリスタンは頷いた。
「さあ、シュラマナ要塞に向かおうか」
再びシュラマナ要塞の姿を目にした時、トリスタンは以前、見た時のような威圧感を覚えないことを不思議に思った。前に来た時はリゲルも入れて4人だったが、いまは大勢の味方がいるからだろう。
彼らが近づいていくと要塞の中からプレヴィア将軍が出てきた。部下は連れておらず、彼のほかには誰もいないかのようだ。
「貴様ら反乱軍をこれ以上、行かせるわけにはいかん。わたしはデボネアやフィガロみたいな腰抜けではない。四天王の真の力を見せてやろう!」
「待って、アルフィン!」
「これはラウニィー、久しぶりだ。だが、いまのあなたは反乱軍の一員、わたしと話すことなど、あるとは思えないが?」
「いいえ、あるわ。いいえ、あなたの言いたいことはわかっている、でも過去の友情に免じてお願いよ。ゼノビアの王妃フローランさまをトリスタンさまにお返しして。フローランさまを人質にするつもりがないのなら、あなたには無用の方のはずでしょう? そして、もしもできるなら戦いを回避することも考えてほしいの。あなたほど聡明な方ならゼテギネア帝国の未来も見えているはず、ここは祖国のため、ともに戦ってくださらない?」
「あなたとの友情は残念だが、あなたが祖国を裏切った時に終わっている。その上で答えるならば二つとも否だ。フローラン王妃を人質にするようにとの命はヒカシュー大将軍から発せられている。神聖ゼテギネア帝国の四天王の1人として、その命に背くことはできない。だが、そちらのトリスタン皇子にも言ったとおり、人質などいなくても反乱軍を食い止めるには、わたし1人で十分だ。つまり、わたしは祖国に背く意志はない」
そう言うなり彼は細身の剣を引き抜き、自らの手の甲に滑らせた。
「要らぬ邪魔が入った。さあ、戦いを始めようか」
プレヴィア将軍が周囲に血を撒くと、そこから4体の悪魔が現れた。濃い緑色の体色に背の高さと同じくらいの鎌を持っている。鎌が一斉に振り上げられた。
「我、ここに星々の力を召喚す。受けろ、メテオストライク!」
詠唱が終わると同時に彼らの頭上に隕石が降ってきた。ランスロットとヨークレイフは、とっさに楯を構えたが全員を庇うには足りない。
怪我を押してアッシュが斬り込んでいき、ランスロットも遅れて続いた。
2人の後方からサラディンとケインが呪文を飛ばす。
アッシュとランスロットと、2人を相手にしてもプレヴィア将軍は強かった。細身の剣で2人の剣を受け流す。
しかも悪魔の攻撃が厳しい。先ほどのメテオストライクに加えて鎌の攻撃にも長けている。ヨークレイフ1人では守りきれず、ラウニィーが加勢した。
彼女の言ったとおり、プレヴィア将軍と悪魔との連携は手強かった。
だがサラディンとケインは確実に悪魔を倒していき、形勢は逆転した。
傷つけられて後退したアッシュに代わってランスロットが前線を務め、とどめまで差したのだった。
「アルフィン!」
倒れたプレヴィア将軍にラウニィーが駆け寄る。
だが彼は差し伸べられた手を拒絶した。
「あなたは、あなたの信じる道を進まれるがよい。敗者に同情は無用、ただ散りゆくのみ」
「でも、あなたは私の友人だわ。あなたは、さっき、ああ言ったけれど私は、いまでも友人だと思っているのよ」
プレヴィア将軍はラウニィーに微笑みかけた。けれど、それきり力なく首を垂れ、彼女が呼びかける悲痛な声だけが後に残るばかりだった。
皆はトリスタンの命令で、負傷したアッシュとヨークレイフ、その治療のために残ったマチルダとフローラ以外はシュラマナ要塞に侵入し、フローラン王妃の捜索と残党の処理に当たった。
けれど要塞中を引っ繰り返してもフローランの姿は見つからず、残った帝国軍の誰に聞いても、その行方は判明しなかった。
やがてトリスタンやケインにさえ事情がわからぬなか、山道を大きな馬車が上って来た。
皆が驚いて見守っていると馬車から降りてきたのは〈何でも屋〉のジャックだ。
「皆様、ご機嫌よう」
「や、やあ、久しぶり、ジャック」
「お元気そうで何よりです、トリスタン皇子。まずはフローラン王妃のことでお知らせがございますが、よろしいですか?」
「ケインとともに聞こう」
ジャックが心得顔で2人を馬車に招いた。馬車の中には棺が2つ置いてあり、ジャックのほかには御者を務める用心棒しか乗っていないようだ。
「妃殿下はシュラマナ要塞に拘束中、心労がたたられて、みまかられました。わたしはプレヴィア将軍のご依頼で妃殿下のご遺体をゼノビアへ運ぶよう仰せつかっております」
「何だって?! 母上は、いつ亡くなったのだ?」
「昨日、あなた方がシュラマナ要塞に到着される前のことでした」
「では我々が来た時には母は、もう亡くなっていたというのか?」
「そうです」
「だったら、どうしてプレヴィア将軍は、あんなことを言ったんだ?」
「さて、わたしは存じ上げません。ただ妃殿下を、このままシュラマナ要塞に残すのは忍びないので、せめてご遺体をゼノビアにお返しするよう言われただけなのです」
「母上が亡くなっていた」
力なくつぶやいたトリスタンの脇でケインが口を挟んだ。
「では、そこにある棺にはフローランさまのご遺体が入っているのだな?」
「ご覧になりますか?」
「拝見しよう」
ケインの言葉にトリスタンも腰を上げる。もっとも見たところで、それがフローラン王妃かは2人にはわからない。ゼノビアに送り、旧臣かバーニャにでも判断してもらうしかないとトリスタンが思った時、ケインが口を開いた。
「アッシュ殿に見ていただきましょう。あの方ならばフローランさまをご存じです」
「そうだったな」
それでアッシュが馬車に招かれた。事情を説明された元騎士団長は厳かな姿勢で入ってき、棺に一礼した。
それからフローランだと言う遺体をのぞき込むとアッシュの眉間に刻まれた皺がひときわ深くなり、彼は絞り出すような声で言った。
「妃殿下、最後までお守りできなくて申し訳ございません」
「すまない、アッシュ。母の死はあなたの責任ではないのに」
しかし元騎士団長は頑なな表情で首を振った。
「いいえ、陛下をお守りできなかった以上、妃殿下が帝国の捕虜とされたのもわしの責任です」
「アッシュ」
「ところで、プレヴィア将軍のご遺体を引き取らせていただきに伺ったのですが、よろしいですかな?」
「誰の命令でだ?」
またもや応答したのはケインだ。
「アルフィン=プレヴィア将軍ご自身のご依頼です。万が一、ご自分が負けることがあった時には故郷に葬ってもらいたいと頼まれておりまして」
「それにしては来るのが早すぎる。プレヴィア将軍との戦闘は今日あったばかりだ。彼が負けたことを、あなたは、どうやって知ったんだ?」
「将軍は毎日、夕方になると狼煙(のろし)を上げてくださっていました。それが途切れたのです、何かあったと考えない方が不思議ではありませんか? わたしはゼノビアに発つところでしたがプレヴィア将軍のために一日回り道をしても良いでしょう」
ケインが振り返ったのでトリスタンは頷いた。
「わかった。プレヴィア将軍の遺志ならば果たしてやってもらいたい。我々には敗者の遺体を弄ぶ気持ちはない」
「ありがとうございます」
ジャックが馬車を出たのでトリスタンたちも続いた。
もっともジャック自身は指図するだけで、実際に力仕事をするのは御者だけだった。しかし彼は棺を馬車から出し、プレヴィア将軍の遺体を収め、また棺を馬車に戻すという作業を滞りなく済ませた。
「それでは皆様方、今晩はこの辺で失礼いたします。わたしの力がご入り用の時には、いつでもお申しつけください」
そう言って一礼すると、夜間だというのに馬車はセローウェに続く山道を下っていったのだった。
その後、旧ゼノビア王国の王都に小さな墓が設けられ、そこに神帝グランの后フローランが葬られていると伝えられ、生き延びた旧臣たちがこぞって墓参りに訪れた。けれど、その墓に葬られた女性の顔を見た者はいない。亡くなったのが秋だったため、遺体はゼノビアに着くころには腐敗してしまっていたからだ。
その一方で〈何でも屋〉のジャックの命で旧ホーライ王国の辺境、かつてプレヴィアと呼ばれた領地に墓碑銘も刻まれぬ墓が1基建てられたが、そこに葬られた者の名は誰も知らないのである。
翌双竜の月17日、トリスタン皇子の一行はセローウェに着き、グランディーナや解放軍の本隊の到着を翌日まで待って合流した。
解放軍の指揮を取り戻したグランディーナはクリューヌ神殿に引き返し、ルバロン将軍麾下の帝国軍と戦う者を選ぶと、双竜の月19日にセローウェを発った。
四天王筆頭と戦うために、すでにライの海に残ってデボネアが天空の騎士、竜牙のフォーゲルに鍛えられているとはいえ、ルバロン将軍との戦いは誰もが激しさを予感せずにいられなかった。けれど解放軍がゼテギネア帝国を倒すために、避けることのできない戦いでもあった。
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