Stage Seventeen「四天王」
「昔々、天と地をボラとアネムが治めていたころ、世界は我ら人のものではなく竜人のものであった。天と地はいまだ混沌としていたが、天との境を古語でクリュニー、つまり割れたところと呼び、そこから、この地をクリューヌと呼ぶようになったのだ。つまり大昔、世界はこのクリューヌを境に天と地に分かれ、天をボラ、地がアネムと治めあっていたという。
竜人たちは天と地の境にボラとアネムに捧げる神殿を築いたが、その文明もいまの人間にはとうていかなわぬほど高いものであった。現在、たまに見つかる竜言語魔法や禁呪なども竜人たちによって作られたと言われているが、その呪文を操ることはできても同等の力を持った魔法を作り出すことはできない。また術者の力が劣れば呪文を唱えることもできないか、唱えることができても呪文の力に振り回されてしまうのだという。
だがボラとアネムが太陽神フィラーハを初めとする兄弟神に滅ぼされ、混沌としていた天と地が分けられると竜人たちの文明も滅んだ。竜人たちの力はボラとアネムの二神に負うところが大きすぎたため、二柱の神が滅ぼされて竜人たちも力を維持できなくなったのだと言われておる。と同時にクリューヌの地に建てられた神殿も朽ちていく運命をたどることになった。フィラーハの世になり、ボラとアネムを信仰する者はいなくなったからだ。世界中の天と地も分けられ、かつてのクリュニーの意味を知る者も減っていった。主人を失った神殿にはただ風が吹き、雨が降り、やがてこれらの建物も地に還ることじゃろう」
クリューヌ地方の最北端の島には、この地域の名前の由来ともなったゼテギネア最古の神殿が建つ。その神殿は現存するいかなる宗教とも関係がなく、どんな神が祀られていたのかもわからない。あるいは古老が話すボラとアネムを祀った古代高等竜人族が建てた神殿だったというのも、あながち嘘とは言い切れないほどだ。
火竜の月10日、解放軍はクリューヌ地方の入口となるモンツアラトに着いた。シュラマナ要塞を発って15日目のことだ。
だがモンツアラトには帝国軍が駐留しており、着いて早々に戦端が開かれた。敵兵のなかにルバロン将軍はいなかったが剣士や魔術師に有翼人も混じった手堅い編成だ。
対する解放軍もソロンで合流したデボネアを中心にホイスラー=メーズロアとショーター=クラッススを両翼に置いた上、ガストン=リートケとシキュオーン=グルーナーの援護付きで攻め込んだ。
さらに、その後方からギルバルドの操るワイバーン2頭、カノープスの操るグリフォン2頭、ニコラス=ウェールズの操るコカトリス2頭も攻め上がったので戦いは双方入り乱れての激戦となったが最終的には解放軍が勝利を収めた。
いつものとおり、グランディーナはモンツアラト守備隊の隊長だけ残して、生き残った帝国兵は解散させた。解放軍の治療部隊に傷の手当てをされ、食糧や水まで与えられた彼らだったが、ランスロットが見ていたところ、南ではなく北に向かう兵が多く、その行く先は当然、ルバロン将軍の元だと思われた。
「グランディーナ」
「どうした?」
「今回の帝国軍は手強いな。いつものように降伏した兵士を解放したが神殿の方へ向かった者が多い」
「そのようだな。だが方針を変える気はない。降伏した敵兵は解放するし彼らが手向かえば倒す」
「しかし皆の危険は増す」
「臆病風に吹かれて方針を変えろとでも? それこそ帝国の思う壺だ。我々は解放軍ではなくなる」
彼女は、そう言って一方的に話を打ち切った。
だが、ついさっき解放したモンツアラトの守備隊長は、やはり北に向かっている。
それも視界に入っているだろうにグランディーナはギルバルドら小隊のリーダーを集めて指示を出した。
そのあいだに負傷者の治療も行われている。
やがて東の方にカノープスとホイスラー、ユーゴス=タンセの小隊が発ち、ギルバルドとショーター、ライオス=ジュベールの小隊が西の方に、デボネアとニコラスの小隊が北上した。その後を追ってグランディーナとトリスタン皇子の小隊も北上していった。
それらの手順はモンツアラトに来るまでのあいだにグランディーナが説明してあったので解放軍の行動は円滑だった。
「モンツアラトに着いたらクリューヌの神殿までは部隊を三方向に分ける」
いつものように彼女は地図を描き、皆を注目させる。
「まずライの海のクリューヌ地方はカストラート海ほどではないが多くの島を擁する群島地帯だ。移動には船を使わなければならず、すでに帝国軍が各町にある船を先に接収している恐れもあるがこちらは強制的にならぬよう、地元の協力を引き出すこと」
「金を払って船を借りるのはいいのか?」
カノープスが口を挟む。久しぶりにグリフォンを駆って小隊を率いることになったので念を入れたいようだ。
「やむを得まい」
その返答にカノープスだけでなくギルバルドやデボネアも頷いた。
次にグランディーナは地図の真ん中に移動し、元いたところから縦に線を引いた。空いたところに騎士のワイアット=メニルが移動する。
「ワイアットのいるところがモンツアラト、その北端がクリューヌとする」
彼の向かいに立つのは司祭のエリー=スイングだ。
「私の左手がアンチグア、右手がサンマルタン、その北にマリーガーランドだ」
グランディーナが右手に持った曲刀を素早く左右に動かす。いつもなら木の枝でも使うところだが、今回は皆に説明するので地図を大きく描く羽目になり、4バス(約120センチメートル)もの長さがある曲刀を鞘ごと振り回しているのだった。
「最終的な目的地はクリューヌの神殿だが、最初に言ったように今回は部隊を三方向に分ける。その合流地点がマリーガーランドだ。ギルバルドとカノープスの部隊はアンチグアを通らずに西と東から迂回するように進み、途中の町を解放しろ」
そう言いながら、彼女はモンツアラトを始点に、マリーガーランドを終点とする円弧を前後に描いた。それから順に3ヶ所ずつ指す。
「東にはモンツアラトに近い方からクアドループ、ラアスタンシオン、マルチニークの町、西には同じく南からロスロケス、トリニダード、グレナディーンの町がある。ただしモンツアラトからロスロケスは他の町よりも離れているしロスロケスとトリニダードのあいだも遠い。だがクリューヌ地方でロスロケスだけ残すわけにもいかないからギルバルドたちは1日遅れでマリーガーランドに到着することになるだろう」
「てことは俺が東か」
「そうだ。進路は次のように進め。中央路はモンツアラトから北上して町を解放しながらマリーガーランドを目指す。東方路はモンツアラトから東進してクアドループから北上してやはりマリーガーランドを目指す。西方路もマリーガーランドが目標だが経路的に1日余分に見ている。マリーガーランドの北の島がこの地方一帯の名前の由来ともなったクリューヌ神殿で、ルバロンはそこにいる」
グランディーナが、そこで言葉を切ったので皆はしばらく聞き慣れない町の名前を繰り返した。
具体的には東はゼメキス=トロイヤーの前にクアドループ、1人置いてロゼ=チャップマンの前がラアスタンシオン、さらに1人置いてカノープスの前がマルチニークだ。同様に西はフィロウ=サンタクルスの前がロスロケス、2人置いてバーバラ=タラの前がトリニダード、1人置いてゼリグ=キオンドの前がグレナディーンだった。
「部隊分けは次のように行う。東方路はカノープスの先導でホイスラー、ユーゴスの小隊。ホイスラーの下にはガストン、エリー、ワイアット、ゼメキスがつく。ユーゴスの下にはシキュオーン、ロゼ、プレグラー、カインだ。西方路はオイアクスの先導でギルバルド、ショーター、ライオスの小隊。ショーターの下にはオイアクス、フィロウ、バーバラ、アンソニーがつく。ライオスの下にはクリストファー、ゾーラ、ローリー、ゼリグがつく。中央路はユーリアの先導でデボネア、ニコラスの小隊とする。デボネアの下にはノルン、ウォーレンと、フォーゲルとフェンリルは戦闘に参加できないのでラウニィーとヨークレイフが交替する。マリーガーランドの解放は時間的にデボネアとニコラスが行う。以上だ。何か質問はあるか?」
カノープスが手を挙げた。
「マリーガーランドにはいつまでに着けばいい?」
「モンツアラトを発って5日目の朝にクリューヌ神殿に向かう」
「承知」
それでギルバルドとカノープスが、ともに行く者を集め、進路の確認を行い、隊列も決めた。
そんなことをシュラマナ要塞を発ってから毎晩のように続けたのでソロンに着くころには皆が、すっかりクリューヌ地方の地理に詳しくなっていた。
もっとも多くの者は実際にクリューヌに着いた時には想像していたのと、だいぶ違っていたことも認めなければならなかったが、まったく知らないよりはいいかと納得もしたのだった。
クリューヌの群島が浮かぶライの海は南はゼテギネア、北はガリシアの2つの大陸に囲まれた内海である。幅は狭いところで数十バーム、広いところでも150バーム(約150キロメートル)ほどしかないが南北の奥行きは1000バーム以上と広く、南北に細長い。ただしゼテギネア大陸側の地形は複雑に入り組んでおり、バルモア半島の方へ深く抉(えぐ)る。
旧ドヌーブ王国の首都であったバルモアを除くとライの海沿岸が地勢的に重要視されたことはなく、炎の女神ゾショネルを信奉するボルマウカの民がニルダム王国を築いたことくらいしか知られていない。
しかしゼテギネア大陸との交流は薄く、11年前にニルダム王国がローディス教国に滅ぼされたことも、ほとんどの人は知らないままだ。
ライの海は、その北端で外海オベロに通じているが、帝都ゼテギネアより、さらに北にある2つの大陸が最接近するグアビアーレ海峡のことを知る人は、さらに少ない。
今回のクリューヌへの遠征部隊は慌ただしいなかで決められた。このような長距離の移動を行う際は留守役を務めることが多いアッシュが、クリューヌ神殿に行くというので加わっているのが珍しいところだ。旧ゼノビア王国の副騎士団長パーシバル=シュレディンガーがクリューヌ神殿にグラン王の密命で向かったので、その目的とパーシバルの行方も知りたい一心であろう。
そのためにシュラマナ要塞に残った解放軍の本隊は、リーダーを補給部隊のヨハン=チャルマーズが務めることになり、ほかにケビン=ワルドやチェスター=モロー、グレッグ=シェイク、モーム=エセンスらが、いつものように志願者の試験役と皆の鍛錬のために残っている。デネブはパンプキンヘッドの新たな実験に忙しいし、ライアンはザナドュでプロミオスが投入されるのがわかっているので休憩だ。
一方、皆が進軍のことで忙しくしているのを脇目に見ながら、まったく別の用事を言いつけられていた者たちもあった。
火竜の月に入ったばかりの晩、カノープスはウォーレン、ランスロットとともにトリスタン皇子の呼び出しを受けて、新しい国家の魔獣軍団長、魔法軍団長、聖騎士団長になってほしいと言われたからだ。
意外だったのは即答で快諾すると思っていたランスロットが、これを断ったことだ。
ウォーレンもカノープスも、これには気勢を削がれたが当のトリスタン皇子と立ち会っていたケインの驚きは2人の比ではなかっただろう。
「申し訳ありません、殿下。ですがアッシュさまがご健在のいま、わたしのような若輩者がその地位に相応しいとは思えません」
「だがアッシュ殿はご高齢です。これ以上、重責をお任せするのは難しかろうとトリスタンさまはご判断なさったので、あなたにお願いしているのです」
「もちろん殿下が新たな国を興された時には、どのような地位であれ与えられた仕事には誠心誠意尽くす所存です。ですが聖騎士団長をお引き受けするには、わたしでは力不足です」
そう言ってランスロットが平伏したのでトリスタン皇子もケインも、それ以上話しても、いまは無駄と判断したのだろう。了承した。
するとウォーレンまで自分よりも力のあるサラディンを差し置いて、そのような地位に就くわけにはいかないと言い出したのだ。
グランディーナがゼテギネア帝国打倒後は大陸を離れると広言している以上、彼女に、いちばん近いサラディンがトリスタン皇子の申し出を受けるとはカノープスは思わなかったが、その可能性もまったくないわけではないと皇子もケインも考えたらしかった。
前の2人に、そう言われてはカノープスだって承諾しづらい。彼としては魔獣軍団長ならば引き受けるのは吝(やぶさ)かではなかったが、いまはゼテギネア帝国との戦いに専念したいと理由をつけて返事は保留することにした。
「そうか。まだ、このような話をするのは早かったかな? わたしとしては残る敵の拠点も上都ザナドュとゼテギネアだけになったのだから、そろそろ先のことを考えてもらいたかったのだが」
「申し訳ありません、殿下」
ウォーレンとランスロットが揃って頭を下げたのでカノープスも軽く頭を下げた。
「この先、トリスタンさまが前線に立たれることもないでしょうが、油断は禁物ですからね」
「そうか、油断か。
3人ともありがとう、もう下がってくれ」
「くれぐれも今晩のことはご内密に願いますよ」
「承知している」
ケインに釘を刺されて、3人はトリスタン皇子の天幕を退出、もとい追い出された。
外で3人は顔を見合わせたが、この場で話すようなことではないのはわかっていたので、すぐに自分の天幕に戻った。3人の天幕は別々で、カノープスの天幕にはグリフォンしかいなかったが、その晩のウォーレンにもランスロットにも話しかけづらい雰囲気が漂っていたのだ。
2人と何も話せないまま9日が経った。カノープスに限って言えば、承諾する気だったのだから話し合う必要などないことだ。いまからでも魔獣軍団長を引き受けると言えばいい。
ただトリスタン皇子に言い訳がましく言ったとおり、新しい国について話すのは、まだ早計かもしれない。帝国の拠点がザナドュとゼテギネアだけになったとはいえ、そこを守るのは帝国屈指の騎士ヒカシュー大将軍と女帝エンドラ、黒騎士ガレス、そして最大の難関は賢者ラシュディだ。その4人との戦いは熾烈を極めるだろうし、ここで倒れる者が出ないとも限らない。
それにウォーレンはともかくランスロットもカノープスもグランディーナとともに前線に立つことが多い。余計とは言えないまでも、いろいろなことに思い煩わされている時間はないのだった。
ランスロットの案じたとおり、敵兵はなかなか退かず戦闘は長引いた。だがデボネアとラウニィーを中心にした連携攻撃は息も合い、2つの小隊だけで敵を退却させた。
双竜の月13日、解放軍はクリューヌ神殿の門前町マリーガーランドを解放した。
東方路に向かったカノープスたちの部隊も陽が落ちてから合流を果たし、残すはルバロン将軍と麾下(きか)の兵士のみとなっていた。
カノープスの報告を受けたグランディーナは夕食の前に皆に通達した。
「明日はクリューヌ神殿に向かう。カノープス、ニコラス、ホイスラー、ユーゴスの部隊はここで待機、今晩の夜営はあなたたちに頼む。先日、話したとおり、ギルバルドたちの部隊は明日、着くだろうからそのまま合流しろ」
名を呼ばれたリーダーたちが夜営の分担を相談しようと集まるのを横目に、カノープスはユーリアに近づいた。
「おまえ、俺と変わってくれ。大丈夫だろう?」
「私はかまわないけれど、そういうことは先にグランディーナを通してくれない?」
「えっ? そんな固いこと言うか?」
「兄さんを小隊長に任命したのは彼女だもの、当たり前じゃない」
「どうせ、いいって言うに決まってるじゃねぇか。いちいちめんどくさい」
「いいから行ってらっしゃい」
それで彼が確認に行くと、グランディーナは、やはり悪いとは言わなかった。ただしカノープスのぼやきには苦笑いを浮かべた。
「確かにユーリアの言うことが正しい」
「何だ、おまえまでそんなこと言うのか」
「解放軍は軍隊だ。そのなかであなたの影響は小さくない。よく知らない者に真似をされても後で困ると思ったのだろう」
「ちぇっ、その時は俺が修正してやるっての」
「ユーリアにはそう伝えておいてくれ」
そう言って彼女が立つと、デボネアとフォーゲルが従った。
カノープスは事情を知らないのでランスロットの方を見ると、彼は小声で説明する。
「ここのところ、毎晩なんだ」
「だけど、それならソロンで合流した時に腕試しとか言って2人にやらせたじゃねぇか」
「彼女が立てない理由があるからな。念には念を入れておきたいんだろう。デボネアがよくついていっていると思うよ」
「俺にはデボネアの方が焦っているように見えたぜ。俺たちのなかでルバロンの実力を知っているのは奴一人だ。その妄想がどれだけ膨れ上がったか知らねぇが、まだ足りないと思ってるんだろう」
「無理もないさ。ルバロン将軍はゼテギネア帝国の建国時から将軍の位にあるんだ。同じ四天王と言っても実力には開きがある」
「手合わせして一度も勝ってねぇんだっけ?」
「そうらしい。プレヴィア将軍にはまだ勝ったこともあったそうだが」
「だけど俺たちが心配しても始まらねぇ。ルバロンがデボネアの一騎打ちを受けるかどうかなんて明日にならなきゃわからねぇんだからな。俺たちはそうならなかった時に最大限、自分の力を発揮できるようにするだけさ」
「そうだな」
「カノープス! 夜営のことなんだが?」
そこにニコラスが声をかける。
「悪い悪い。俺はユーリアと交替してクリューヌ神殿に行くことになったから外してくれ」
「ごめんなさい、皆さん」
兄妹が揃って近づくと、ニコラスとホイスラー、それにユーゴスは話してから頷き合った。
「いいや。昼間の偵察もあったから、あなたたちには夜営は外れてもらおうと話していたところだ。治療部隊の方々にお願いするわけにもいかないし残る8人で2人1組、2交替でやろうと思っていた」
「いいんじゃねぇの」
「じゃあ、明日の昼間の偵察は私が引き受けるわ」
「そうしてもらえるとありがたい。有翼人の方に視力ではかなわないからな」
「じゃあ頼んだぜ」
ニコラスは頷き、ホイスラーとユーゴスの小隊にいた者たちに声をかけに行った。
その一方で辺りには夕食の匂いも漂い出していて女性たちが声をかけるまでもなかった。
「デボネア、剣を収めよ」
「どうした?」
「明日のことを考えて気もそぞろなようだ。こういう時に修練しても得るものはない」
「申し訳ありません、フォーゲル殿。貴重な時間を割いていただいているというのに」
「そんなことはない。おぬしのような有望な使い手に教えるのはやり甲斐もあるし有意義だ。それに俺はおぬしたちと違って眠る必要もないのは知っているだろう? 時間ならばいくらでもある。だが、いまのおぬしの気持ちは明日のルバロンとの対戦に向いている。彼女の言ったことも半分も聞いていなかったのではないか?」
「すまない、グランディーナ。もう一度、言ってくれないか?」
「息も上がっているようだ。そろそろ休んだらどうだ?」
これにはデボネアも苦笑いをするしかなく、愛剣を鞘に収めた。
「わたしだって一晩、徹夜したって堪えはしないさ。だがルバロン殿は別格なんだ」
「あなたが倒されれば私が行くしかない。
フォーゲル、結局はあなたたちの思うとおりになるということだな」
「俺とてそのような事態を期待しているわけではない。おぬしが堕ちないのが最善だ」
グランディーナが自嘲気味に笑い出した。
デボネアには2人の会話が理解できなかったがフォーゲルの次の言葉には赤面した。
「なに、いまはこのように言っているが俺の弟子とて捨てたものじゃない。ルバロンと戦う時には成果を見せてくれるさ」
「そう願おう。私だってまだ天界に縛りつけられたくはないからな」
そう言いながらグランディーナが去っていったのでデボネアはフォーゲルを見た。
しかし竜頭の騎士は肩をすくめただけだ。
「おぬしはまだ食事に行かないのか?」
「フォーゲル殿さえよろしければ、またお手合わせ願います」
「考え事をしながら剣を振るっていたら今度は遠慮なく打ちのめさせてもらうぞ?」
「心得ました」
言われたとおり、デボネアは目の前のフォーゲルに意識を集中させた。さすがの彼も連日、戦いの後の修練で疲労が溜まりまくっているがルバロンと戦えるという気持ちの高揚が手を止めることを許さない。
ソロンに来たばかりのころ、フォーゲルはデボネアを片手であしらっていた。彼の使う剣は片手剣なので、そのような芸当も可能なのだろうが、デボネアには雲の上の存在と思っていたフェンリルよりも、さらに上手がいることに、ただ驚きを禁じ得なかった。
それが半月ぐらい教わったところでフォーゲルが両手を使うようになり、デボネアはさらなる壁に当たる。
ルバロンも敗者には容赦のない強者だったがフォーゲルの指導も負けず劣らず厳しいものだった。
ノルンは毎晩、泥のように眠るデボネアの身を案じ、一度ならず天空の騎士に抗議をしたが、フェンリルもフォーゲルも決して手を休めることはなかった。その得難い経験にデボネアは感謝するのみでノルンを止めることもしなかったが、彼女の方で勝手に口を挟まなくなっていった。
そして、いまも彼女は胸が潰れそうな思いでデボネアの帰りを待っている。その心細さもソロンでラウニィーと再会してからは多少なりとも癒されただろうがデボネアにできるのは、より腕前を上げてルバロンに勝つことだけだとわかっていた。
「グランディーナにはああ言ったが、おぬしとしてはどうだ?」
「わからないというのが正直なところです。ですが昨年、手合わせしてもらった時のように一矢報いることもできないというみっともない事態にだけは陥りますまい」
「よかろう。今日はもう休め。おぬしにはまだ教えたいことがある。疲れのためにルバロンに倒されるようなことにはなってくれるなよ」
「ありがとうございます、フォーゲル殿!」
デボネアと入れ違いに近づいてきたのはフェンリルだ。彼女はフォーゲルがソロンに来てからはデボネアのことは完全に任せていたが、かといって先にシュラマナ要塞に帰ったりもしなかった。
「毎晩、熱心なことね」
「デボネアには教え甲斐がある。だが彼らに関わるのは天空の騎士としての分を越えていると言うのだろう?」
「わかっているのなら私の言うことはないわ。あなたにしては珍しいことだけれど」
「ここは地上だ。俺がシグルドでなした罪状を誹る者も、この異形の姿を忌み嫌う者も少ない。そう思うとつい羽根も伸ばしたくなるのさ」
「彼らが知らなくてもスルストと私は知っているわ。天空の騎士としてのあなたの功績は誰にも優るものだけれど、そこに至った罪状も決して忘れられてはならないのよ」
「わかっている。しょせん地上にいるのはわずかなあいだに過ぎない。誰が忘れても俺は自分の罪を忘れない。おぬしやスルストに釘を刺されなくともな」
その夜、カノープスは、ようやくウォーレンとランスロットを捉まえて話す機会を得た。2頭のグリフォンは狭い天幕の中よりも多少寒くても外で寝る方を選んだからだ。
「明日はルバロン将軍との戦いだというのに何の話ですか?」
「このあいだのトリスタン皇子の申し出について、おまえたちの本音を知りたいのさ」
そう言ってカノープスは、まず酒杯を廻したがウォーレンは断り、ランスロットも舐めるようにしただけだった。
「本音も何もあそこで殿下に申し上げたことがすべてだ。わたしに聖騎士団長は重責だ」
「だからってアッシュの歳を考えろよ。とっくに引退していてもおかしくない歳なんだぜ」
「それはわかっている。しかし解放軍にはわたし以上に団長に相応しい者がいるじゃないか」
「おまえ以上? 誰のことだ?」
「歳は若いが将軍にまでなったんだ。剣技でもわたしより優れている。デボネアの方が聖騎士団長に相応しいと思う」
「じゃあ、なぜ、あの時、そう言わなかった?」
「アッシュ殿ならばいざ知らず、わたしのような若輩者が推薦するなどおこがましいだろう」
「じゃあ何だ、逆にアッシュがおまえを推薦すれば引き受けるっていうのか?」
「そんなことはないと思うがね」
ランスロットは苦笑したが、その笑みは、すぐに消えてしまった。
「で、ウォーレンは? もっともらしくサラディンを持ち出したけどグランディーナがゼテギネアを離れると言ってるんだ、一緒に行くんじゃねぇのか?」
「あなたはその言葉を信用しているのですか?」
「疑う理由がねぇし、あいつが好き勝手やってるのはいずれいなくなるからだろう?」
「ですが殿下に替わって彼女に新しい国を治めてもらいたいという声はいまだに根強くあります。いまはゼテギネアを離れると広言し、殿下ともそのような約束があると言っていますが彼女が前言を撤回しないとは誰にも言えないでしょう」
「うーん」
カノープスは頭をかいた。
「ランスロット、おまえも同意見か?」
「危惧していないと言えば嘘になる。彼女の意志の強さは知っているつもりだがね」
「あいつに限って前言を撤回するようには思えないがなぁ。そうでなかったら皇子も含めて俺たちを騙していたってことになるぜ?」
「騙していたというのではありません。ただ強く要請されて彼女の気が変わらないとは言いきれないでしょう」
「堂々巡りだな、そいつは。あいつの意志を変えられる奴がそうそういるとも思えねぇけど。それに、いまだってサラディンはみんなから距離を置いている。訊かれれば確かにたいがいのことにはよどみなく答えるが自分から仲間には入らねぇ。それはいずれいなくなるのが前提だからじゃねぇのか?」
「そうかもしれません。だからといって、わたしの持っている危惧が消えるわけではないのです」
「何でそこまで警戒するんだ。グランディーナを据えたのはあんたの独断だと聞いているぞ? 実際、ここまで勝ち進んできたんだ、誰も文句はつけねぇだろうが?」
「我々のリーダーと仰ぐには彼女は危険だった、そういうことです」
「それに君の言ったことにも一理ある。残る拠点は確かにザナドュとゼテギネアだけとなったが敵将も手強い。先の話をするのはまだ早いかな。逆に訊くが、それ以外の理由で君が断ることはなかったんじゃないのか?」
「まぁな。いまさらギルバルドに押しつけるつもりもねぇし、あいつがした苦労を俺もするだけだ。だけど、おまえら2人が断った後で俺だけ受けると言うのも変な話だろうが?」
「君に限ってそんなことを気にするとは思わなかったがな」
「何言ってんだ。あの場で受けますなんて言ってみろ、格好悪くてかなわねぇ」
やっとランスロットに笑顔が戻った。
「グランディーナに剣を捧げたことを気にしてるのか?」
「それもある。殿下に剣を捧げてもいないのに聖騎士団長を引き受けるのは順番が逆だと思う」
「なんだ、やる気がないわけじゃないんだな」
「当たり前だろう。ゼノビア王国に仕えた者として殿下に直接声をかけていただける機会など滅多にあるものじゃないんだから身に余る光栄だよ。だからといって自分に聖騎士団長が務まるかどうかは別問題だ。確かにいまの解放軍を見てもわたしより年上の者は少ない。だが聖騎士団長はその地位に相応しい者がなるべきだ。そう思わないか?」
「デボネアの実力は知らねぇけどおまえが相応しくないとも思わないがな。確かに剣技でいったらデボネアの方が上だし、チェスターもいるが騎士団長はそれだけじゃ務まらねぇだろう?」
「それは褒め言葉と受け取っておくよ」
「当たり前だ」
「この歳になると夜更かしは堪えます。先に休ませてもらいます」
「おぅ、遅くまで悪かったな」
ランスロットが一緒に立たなかったのでカノープスは彼の杯に酒を注いだ。
「まだ飲むのかい?」
「まだって一回しか飲んでないじゃねぇか。俺は3日も禁酒してたんだぞ。一緒に行った奴らが誰一人として飲みやしねぇ」
「それは気の毒だったな。今夜もギルバルドが着いていないし」
「そうだろうそうだろう。おまえもやっと俺たちの気持ちがわかるようになったんだな」
「酒の方はそれほど強くはならないがね」
「そんなものはこれから鍛えればいいのさ。お、悪いな」
ランスロットが杯に注いでやるとカノープスは嬉しそうに受けて、速攻で飲み干した。
「それにしてもグランディーナもずいぶんと信用がねぇんだな。解放軍にはあいつほど有言実行な奴もいねぇだろうに」
「ウォーレンは占星術師だ。我々には見えないものが見えるのかもしれない」
「何だ、おまえまで疑ってんのか?」
「彼女も人間だ。万が一の可能性は捨てきれない。彼女が立てば殿下には最大の障害になる。君だって、それはわかってるんだろう?」
「あいつは女王ってがらじゃねぇぞ。本人も言ってるが戦争屋だ。あいつに限ってそういう勘違いは起こさねぇと思うがなぁ」
「ならば訊くが、君がそこまで彼女を信じられる根拠はどこにあるんだ?」
「10ヶ月、一緒に戦ってきた勘さ。あいつが一度、言ったことを違えたことはない。ならばたとえ国というでかいことだろうと、やっぱり違えることはねぇだろう」
「そうか。ならばわたしは騎士失格だな。剣まで捧げた者を信じられないと言うのだから」
「まぁ、俺みたいに信じる奴ばかりじゃ釣り合いがとれねぇだろう。ほかでもない、俺たちが仕える国のことなんだからな」
その言葉にランスロットは笑おうとしたが歪んだ笑顔にしかならなかった。
翌火竜の月14日の早朝、ランスロットは夜明けとともにカノープスの天幕を抜け出した。
野営地はいつもと同じようにマリーガーランドの郊外に設けられたが、そこは海に近かった。その対岸にクリューヌの神殿がある。夜の闇に乗じて帝国軍が来ることを想定して海岸には夜営が立てられていた。
ランスロットが眠気覚ましに海の方に歩いていくと穏やかな波の音が聞こえてきた。
夜営のカイン=ダリウスとローリー=アリエティが彼に気づいて近づいてくる。
「おはようございます、ランスロットさま」
「おはよう。同じ解放軍の一兵士なのだから敬称はなくてもいいよ」
「先ほどグランディーナさまにも同じことを言われました。ですが解放軍の立役者である方にそんななれなれしい真似はできません」
「グランディーナが? どこに行ったんだい?」
「そこの岩陰で水浴びをされるそうです」
「そうか。それはいつものことだな」
「へぇ」
話しているうちにカインの指した岩の背後からグランディーナが出てきた。
「おはよう、グランディーナ。相変わらず早いな」
「習慣だ。身体が夜明けとともに目覚めるようにできているんだろう。あなたは何の用だ?」
「海が見たくてね」
「朝食を採ったら出発だぞ」
「ああ、わかってる」
去っていくグランディーナの髪から雫がひっきりなしに垂れていた。
そこにニコラスまでやってきた。
「カイン、ローリー、夜営、ご苦労様だった。そろそろ朝食の時間だから交替しよう。今日はゆっくり休んでくれ」
「わかりました」
「おや、ランスロット、どうしたんですか?」
「目が覚めたので海を見たいと思ったんですよ。ゼルテニアにいたから懐かしくてね」
「そうですか。でもあなたは急いだ方がいい。グランディーナ殿が戻ったら早いですからな」
「そうですね」
結局、彼はカインとローリーと一緒に野営地に戻った。眠気は覚めたのとクリューヌの神殿に行くのに海を越えるのだから、その時に見られるからだった。