Stage Seventeen「四天王」
朝食後、グランディーナ、トリスタン皇子、デボネアに率いられた部隊が海を渡り、クリューヌの神殿に向かった。魔獣は置いてゆき、マリーガーランドで漁船を調達したのだ。
クリューヌの神殿はゼテギネア大陸でも最大の面積を誇り、他に類を見ない。ゼテギネアには教会は数多くあるが神殿と呼ばれる建物はクリューヌにしかないからだ。
ただその荒廃ぶりはひどく、建物という建物は、ほとんどが半壊状態にあり、全壊となるのも時間の問題と思われている。
敷地を南北に貫く幅20バス(約6メートル)の石畳の道もところどころ陥没していて、その周辺には瓦礫と石ころが散らばっている有様だ。
道を挟んで立ち並ぶ高さ30バス(約9メートル)ほどの列柱も、まともな形を残した物は全体の2割ほどで、あとの物は崩れたり倒れたりして歩行の邪魔になっている。
クリューヌの神殿についての伝説を聞いたのはマリーガーランドを解放した時にだった。いかにも隠居した老人といった風情の語り部は解放軍に近づいてくると問わず語りに話し始めた。
それは天空の三騎士でありオウガバトルも経験したフォーゲルとフェンリルにとっても初めて聞くという伝説であった。
古老によるとクリューヌ神殿とは、この広大な敷地を指す名前で中には様々な建造物があるという。ボラの神殿とアネムの神殿、広場や演舞場、池、入り口や十字路に設けられた門などもあり、全てを調べて廻るには相当な時間がかかりそうだ。
もっとも旧オファイス王国も、その前からもクリューヌの神殿を修復するという動きはなかった。この先、新しい国が興されたとしても誰一人として信者のいない神殿を修復する必要性は薄いだろう。
古老の話とカノープスとユーリアに上空から偵察させて作った簡単な地図を見ながらグランディーナは2つある神殿のどちらかがパーシバルとルバロンの目的地だろうと当たりをつけていた。
「どちらがボラで、どちらがアネムだと思う?」
だがサラディンが肩をすくめたので彼女が天空の騎士を見やるとフォーゲルが答えた。
「俺の推測に過ぎないが、おそらく、右手の奥の方がボラで、左手の方がアネムだろう。ボラは天を支配する男神、アネムは地を支配する女神、2人の神の関係がほぼ対等であったとしても主神殿はボラと考えられるし、右手を男手、左手を女手と言うのにも合う」
「一理あるな。それではルバロンもパーシバルもどちらかの神殿に向かったはずだが、なぜ2人とも帰ってこない?」
「それはいろいろな理由が考えられる。オウガバトルの際には、ここも戦場となったし、その時に悪魔やオウガが逃げ込んだ可能性もある。ルバロンの場合は単に探し物が見つからないためもあろうし、パーシバルという騎士はグランに託された物をここに隠した時点で力尽きたのかもしれない」
「私とそう変わらないな。行ってみれば状況もわかるだろう」
しかし、そのルバロン将軍はクリューヌ神殿から動かない。
解放軍は1ヶ月もライの海を離れていたのだ。そのあいだにルバロン将軍にランドルス枢機卿が討たれたという報告が届いていないはずはないし、それによってクリューヌ神殿からソロンに戻るなりの行動があってもいいはずなのだが、ずっとソロンで鍛練を積んでいたデボネアたちは帝国に目立った動きはないと言うし、現にクリューヌまでの道中、急いで帝都なりに戻ろうとするルバロン将軍自身とも遭遇していない。もちろんルバロン将軍の遣わした影が帝都に向かっていないとは言い切れないがクリューヌから帝都は、さらに遠い。
ルバロンの使いが行って帰ってくるまでにクリューヌは片が付く。
それがグランディーナの筋書きだった。
「奴はクリューヌ神殿で探索する物が見つけられぬから動かぬのだろう。もちろんそれは陛下の命でパーシバルが隠した物に違いない」
アッシュはそう言い、それが何かを知るために今回の遠征に参加している。
グランディーナも異論は挟まない。そもそも彼女はゼノビア王の遺産には興味を示さないがトリスタン皇子が取り返そうとするのを邪魔もしないのである。
「語り部殿に、ひとつお伺いしたい」
トリスタン皇子が口を挟む。
「何なりと」
「24年ほど前にも騎士が来なかっただろうか? 伴もなく、ただ1人で訪れたと聞いているが」
「確かに、そのような騎士さまがいらっしゃったという話は伝わっている。24年前だったかどうかは定かではないが、ここは何しろ辺境の地、神々が失われて誰も祈りを捧げなくなった神殿しかないところ、誰かがいらっしゃれば、すぐに噂は広まる。だが、その騎士さまは神殿の方に向かわれて二度と戻ってはこられなかったとも聞いておる。神殿で何があったのかは誰も知らぬことじゃ」
「わかった。いろいろとありがとう」
「皆様もお気をつけて」
こうして解放軍はクリューヌ神殿に足を踏み入れた。
と同時にマリーガーランドの方から狼煙が上がるのをカノープスは認めた。
「おい、あれっ!」
指さすとグランディーナは頷いた。
「潜伏していた帝国兵がルバロンに合図を送ったのだろう。やはりルバロン自身は神殿から動いていないようだな」
「どうするんだ?」
「ルバロンが動かないのだから我々が神殿に行くしかあるまい。
カノープス、先行して周囲の状況に気をつけろ。何かあったらランスロットに伝えろ」
「了解」
上空に飛び上がった彼は昨日、偵察したばかりだがクリューヌ神殿が思っていた以上に大きいことを知った。だが見渡す限り、石ころと瓦礫、それに砂の山ばかりだ。
2つの神殿は、それぞれ北端と西の海沿いにあり、そこまでは、ずっと石畳の道が続くが左右から倒れてきた列柱が道を占領しているので傍目には石畳とはわかりづらい。
徒歩だと、かなり歩きにくそうだし、万が一、戦闘になっても足場のいいところを探さないと、そもそも戦えないだろう。ルバロン将軍が兵を待ち伏せさせていないのは、そのためだと思われる。
もっとも、いざという時には飛べるという天空の騎士2人はもとよりグランディーナは足場の悪さなど気にしてもいなさそうだ。皆の先頭を歩いていき、しばしば振り返って立ち止まった。
カノープスは急にガルビア半島でのことを思い出して頭をかいた。
あの時、彼女は右腕を吊っているという不安定な状態だった上、古傷の痛みも抱えていたはずだ。けれどもラシュディの罠で禁呪もどきを浴びせられるまで、そんな素振りは見せもしなかったし、アイーシャの提案でキルケネスに戻ることになった時だって誰の手も借りはしなかったものだ。
「それにシャングリラじゃ天使に剣も投げて、これも一撃で倒しやがった」
ユーリアに20年ぶりに再会した時、グランディーナに挑発されて彼は自分の利点を生かそうと上空に飛んだが、もしも彼女と戦うことになっても彼が考えている利点は思っているよりも利点ではないのかもしれないと思わされたのだった。
「だからって爺やランスロットみたいにあいつが敵になるとこれっぽちも思いやしねぇのは俺が皇子よりもあいつに加担してるからかもしれねぇな」
そんなことを考えながらカノープスは、ゆっくりと北の方に向けて羽ばたいていった。
一方、地上ではカノープスの推測どおり、道を探しながら進んだので進軍はあまり捗らなかった。石畳の道をたどっていくだけならば楽だったが、アイーシャやノルンは障害物を越えるのに四苦八苦していてラウニィーやフェンリルに助けられていた。
敷地の入り口は道の上に築かれた門で知れた。しかし崩れかけた門は荘厳な雰囲気を残してこそいたが、そこにどんな石像が置かれていたか推測するのは難しい。天と地を治めたボラとアネムの姿を似せた物か、古代高等竜人族自身の姿か、残された瓦礫を復元して、かつ想像力も駆使しなければ、それはわからないままだろう。
そして、このような物に興味を持つのは、たいがいサラディンと相場が決まっていたが今回はウォーレンも一緒になって列柱や彫刻、時には瓦礫を挟んで熱心に話していた。
自然、2人は皆の最後尾を歩き、それでもまだ遅れていくという有様である。先頭のグランディーナが十字路に着いた時、サラディンとウォーレンとは半バームくらいの差があった。
建ち並ぶ列柱が視界の邪魔をすることがあっても基本的には見晴らしのいいところである。カノープスの見張りもあるから奇襲の心配はないが、いざ戦端が開かれた場合、2人の参戦は間違いなく遅くなるだろう。
十字路は四方を門に囲われているが、どれも損壊が酷く、十字路自体を迂回しなければ先に進めない。ここまでの道は門をくぐって、すぐに右に曲がって北に向かい、ほぼ真っ直ぐに北の端に見える神殿まで続いているようだ。十字路の東には大きな広場があり、すぐ北の西側に、これも大きな池が見える。池の水面が波打っているところを見ると海の水を引いているのかもしれない。
その時、ランスロットが大きく手を振ったのでカノープスは下りていった。
「先に手前の神殿を調べたいが君に偵察してほしいそうだ」
「承知」
それからランスロットは、すぐに耳打ちした。
「もしも調査の必要があるようならサラディン殿も連れてこいと言ってる」
「わかった」
皆は続々と十字路に到着していたが、サラディンもウォーレンも当分、着きそうにない。ランスロットに伝言を頼んだグランディーナの心中を察して、カノープスも苦笑いだ。
こうして上空から見ると2つの神殿は、それほど大きさに違いはない。古代高等竜人族にとって天と地が分かちがたかったようにボラとアネムへの信仰も甲乙はつけがたかったのだろう。
ただし、まだ建物の形を残している北の神殿に比べて西の神殿は、ほとんど全壊に近かった。それは少し近づいていくだけで、はっきりとわかった。建物は土台から崩れかかっており、パーシバルが何かを隠すにも、ルバロンがそれを探すにも不向きだ。
念のために、もう少し近くまで寄ってみたが帝国兵の姿もなく、神殿の床が大きく陥没していることがわかっただけだった。
全盛時には、ここに大勢の古代高等竜人族が集まり、ボラやアネムに祈りを捧げたのだろう。だが、その光景を想像するのは難しかった。古代高等竜人族の姿形は、どんな記録にも残っていないからだ。
ゼテギネアにはいないがリザードマンが古代高等竜人族の末裔と言われている。しかし魔法を使えないために、その説も疑わしいのである。
古代高等竜人族は半ば伝説の存在、それもオウガや悪魔以上に存在が疑われている。ただ彼らは、現在の魔法の知識では決して作れないと言われる竜言語魔法や禁呪を作り出した。言ってみれば、それだけが古代高等竜人族が確かにいたという証しでもあるのだった。
そういう意味ではクリューヌ神殿は古代高等竜人族の実在を大きく裏づける建築物ではあるのだが、かつてフィラーハに倒されたボラとアネムを崇めていたという彼らの存在を、太陽神を信奉する人びとは、あまり宣伝したくはなかったかもしれない。神殿の荒れようが、ここに人の手が入ってこなかったことを証明し、ひいては古代高等竜人族の存在を抹殺したいという天界の意図をも感じさせるのは十分だった。
「こっちは外れらしい。全壊に近い状態だし、床も陥没してる。帝国兵の姿もない」
彼の報告にグランディーナは頷いた。
さすがに、この時にはサラディンとウォーレンも皆に追い着いていたが、2人はなおも話し続けていてオウガバトルよりも、さらに古い時代の神殿に興味は尽きぬようであった。
皆が揃ったのを確認して、またグランディーナを先頭に北上し、カノープスも上空に戻る。
池を左手、演舞場を右手に見て先へ進んでいくと、いちばん損傷の酷い建物の先で、またしても道の上に門が覆い被さっていた。その門は上空から見た限りでは、ほかの5つの門と比べて、いちばん完全な形で残っているように見える。
しかし、そこから北の神殿までは人間の視界にも入る。残念ながらサラディンとウォーレンに門を調べる時間は与えられないだろう。
それにしても足下の建物は何だったのか推測もできないほど破損が酷い。あんなところにサラディンとウォーレンが足を踏み入れたなら1ヶ月でも2ヶ月でも出てくることはないに違いない。
もっとも2人に、そんな自由が許されるのはゼテギネア帝国との戦いが終わってからのことだ。その時、自分たちは、どうなっているか、いよいよ考えざるを得ない状況に近づいている。カノープスは次にトリスタン皇子から魔獣軍団長を提示されたら引き受けようと心に決めた。
そんなことを考えながら彼が下を眺めると同時に、その視界に帝国兵らしい姿が捉えられた。地上のランスロットに合図を送ると、すぐに下がるようにと返事があった。
こう見晴らしが良くては、夜間でもなければ気づかれないように近づくことはかなわない。帝国軍も彼の接近には気づいているだろう。
カノープスは下りて、皆に合流した。
そこに遅れてサラディンとウォーレンも加わる。
「まずは近づいていって様子見だな。ルバロンがここから離れない理由がわからない以上、いきなり戦闘ということにはなるまい」
「グランディーナ、うまくいくかどうかわからないけれどデニスを説得させてくれるでしょうね?」
「任せる」
「行きましょう、ラウニィー」
デボネアが彼女と並んで先に立つとグランディーナは頷いた。皆も、その後に続く。
しかしラウニィーは緊張していた。プレヴィアに先日、断られたばかりである。いくら友人とはいえ、ルバロンとは親子ほども歳が違うし、彼と話したことは多くなかった。
聖騎士に選ばれたばかりのころにルバロンに思うように強くなれないと助言を求めたことがある。助言というより彼女には軽い愚痴のつもりだったが彼の返答は、らしいとしか言いようがなかった。
「鍛錬あるのみだ、ラウニィー。他人が1000回剣を振るのなら、あなたは2000回でも振るがいい。人と同じことをしていては強くなれない。大切なのは強くなるという意志と弛(たゆ)まぬ努力だ。あなたの側には幸いにして大将軍がいる。あの方に追い着こうとする努力は必ず報われるだろう」
本当に、そんな日が来るのだろうか、と言いたいのをラウニィーは堪えた。父の存在が大きすぎて潰されそうになっている娘には、あまり参考にならない助言だ。聞けばルバロンは四天王に選ばれたころから最強の名を譲らなかったという。デボネアとフィガロの前任者であるオレグ=ガヤルドやボルーシ=コーニッシュも四天王としての実力は十分でもルバロンには、なかなか勝てなかったと聞く。
そんな彼は自分の才能への疑いなど、これっぽちも抱かなかっただろう。そう心がけるだけで強者たりえたルバロンに自分が選んだ道への迷いなどなかったに違いない。
しかし、その彼でさえヒカシュー大将軍には滅多に勝てなかったそうだ。その姿はラウニィーも何度か見ていて、むきになって父と戦いたがるルバロンを見るたびに父を誇りに思ったものだったが、いまは自分の未熟さを思い知らされるばかりであった。
ゼテギネア帝国最強の騎士との誉れも高い父との戦いも、そう遠くないはずだ。その覚悟はマラノから逃げ出した時にしていたはずだったのに実感されてくると震えが止まらない。
父と戦うことが果たして正しいのか、そのことに迷いはなかったはずなのに、ほかのゼテギネア帝国の兵士と戦うのとは違う意味を持ってラウニィーに迫ってくるのだった。
その時、手を優しく握る者があってラウニィーは我に返った。振り返ると並んでトリスタン皇子が歩いている。
「殿下」
「あなたが一人で悩んでいることはない。何かあるのなら話してくれ。あなたがヒカシュー大将軍の娘で、その立場は誰にも肩代わりできないものでも、その重荷をともに背負っていくことはできるのだから」
「ありがとうございます、殿下。そのお言葉だけでどれだけ勇気づけられるかわかりませんわ。でもいまはデニスを説得することに専念しなければなりませんね。彼を説得できるもできないも私にかかっているのですから」
そう言ってラウニィーはトリスタン皇子の手を握り返した。
「その見込みはありそうなのかい?」
「デニスもアルフィンと同じくらい自尊心(ぷらいど)は高い人なので私1人の言葉に動かされるかどうかはわかりません。でもデニスは強い方につきます。力が彼にとっては最優先で、それでゼテギネア帝国に仕えることを承諾したとお父様に聞いたことがあります」
「つまり我々が帝国よりも強いと証明できればいいかもしれない?」
「そこに望みがつなげるということですけど」
やがてデボネアが進軍を止めたのでトリスタン皇子とラウニィーも止まった。帝国兵とは、そろそろ魔法が互いに届く距離だ。
その背後には壊れかけたボラの神殿がそびえ立つ。往時にはどれほどの威圧感を持っていたか計り知れない大きさだ。
「ラウニィー殿、お先にどうぞ」
「ありがとう、クアス」
トリスタン皇子から手を放し、彼女は前に進み出る。
「デニス、ラウニィー=ウィンザルフです! あなたと話したいことがあるの、聞いてくださらない?」
見渡す限り、ルバロン将軍の姿はなかったが、彼女の話を聞いて、帝国兵が1人、神殿の方に走っていく。
やがて神殿から1人の男が現れた。銀髪に黒い肌の偉丈夫、デニス=ルバロン将軍その人だ。
「お久しぶりです」
「お父上の命に逆らい、祖国を裏切ったあなたがいまさら何の用だ?」
「アプローズ男爵は卑劣な虐殺者でゼノビアの裏切り者よ、たとえお父様の命令でもあんな男とは結婚できません。ですがデニス、私たちのあいだにはまだ和解の余地があると思うの、それとも私の話など聞く耳は持たないと言うつもり?」
「かつての友人にそんなことは言わんよ。だがあなたは勘違いをしている。わたしは反乱軍に降る気はない。ここで聖杯を手に入れて神聖ゼテギネア帝国の支配を盤石のものとするのだ」
「聖杯?」
「そこにいるトリスタン皇子に訊いてみるがいい。ゼノビアのグランが使い、このクリューヌ神殿に隠したという秘宝だ。グランがゼテギネアでいちばん豊かなゼノビアを手に入れたのも聖杯と聖なる腕輪のためと聞いている」
すると彼女の後ろにいたトリスタン皇子が前に進み出た。
「ありがとう、ルバロン将軍。あなたのおかげでここに何が隠されていたのかわかった。だが父の遣いはあなたの前には姿を表さないようだな? それも道理、ゼノビア王の遺志を継ぐ者が王を暗殺したゼテギネア帝国になど協力するものか!」
「大した自惚れだな。しかもまるでゼノビアには瑕疵がないような言い方だ。だが討たれるからには討たれるだけの理由があるものだ。神帝にまさかそのような覚悟がなかったとは言うまいな?」
「何を言うの、デニス! そんな物を使ったってゼテギネア帝国が犯した過ちは取り返しのつかないところまで来ているわ。たとえ聖杯で人心を掌握したところでその罪は消えない。いいえ、その罪は決して忘れられてはならない」
「ふふっ、ならばどうする? わたしを討てるのか、ラウニィー? このデニス=ルバロン、手負いではあってもあなたのような青臭い小娘に討たれるほど老いてはいないぞ」
「何ですって?!」
彼女は激昂しかけたが肩に手を置かれて、かろうじて堪えた。手に持ったオズリックスピアが激しく震えて止まらない。
けれどルバロンとの交渉は決裂した。打ち合わせどおりデボネアが出てきたのだ。
「ならばルバロン殿、わたしがお相手ではいかがか? このクアス=デボネア、昨年、あなたに敗北した時と同じに考えていただいては痛い目に遭うぞ」
「これは大きく出たものだな。このわたしに一つも勝ったことのない若造が付け焼き刃の力を得て勝てると思うのか? それよりも反乱軍のリーダーよ、出てくるがいい。わたしは強者との戦いにしか興味がない。しかもおまえを倒せば反帝国活動も止むだろう。一石二鳥と来ている」
呼ばれてグランディーナが前に出たが刀の柄には手もかけなかった。
「手負いの身で私と戦うつもりか? まずはデボネアを倒してみせろ、話はそれからだ」
「わたしを馬鹿にするのか?」
「あなたはディヴァインドラゴンと戦ったことがあるそうだな」
「ふん、あんなものは幻だ。わたしは騙されたんだ、神龍などとんでもない」
「解放軍に本物のディヴァインドラゴンと戦った剣士がいると言ったらどうする?」
「それがデボネアだというわけではあるまい」
「デボネアはその剣士の弟子だ。聖杯を手に入れてゼテギネアに帰りたいのだろう? 我々を突破できねば、それもかなわないぞ」
その言葉とともにボラの神殿を囲うように皆が立ち上がった。
対するルバロンの部下は数でこそ同じくらいだったが負傷者が目立つ。ルバロン自身、頭に包帯を巻いていたぐらいだがデボネアと話す前に取っていた。
「そちらには非戦闘要員もいるではないか。それで我らと対等なつもりか」
「デニス=ルバロンは四天王最強と聞いたがどうしてどうして、目先の強さに惑わされ、本当の強さも見えないらしい」
「ふん、そんなものは弱者の言い訳に過ぎん」
ルバロンは腰の曲刀を抜き放った。
「四の五の言わずに俺と戦え! 勝った方が聖杯を手に入れ、ゼテギネアを支配するのだ!」
と同時にルバロン配下の騎士や剣士たちも一斉に剣を抜き、それぞれ解放軍に斬りかかってきた。
デボネアはグランディーナとルバロンのあいだに素早く割って入った。彼が動くのを待ちかまえての動作だった。
「あくまでもおまえが立ちはだかるのか!」
「いかにも! あなたに一矢報いる機会をわたしが逃すとお思いか!」
「ならばおまえを斬り伏せて奴と戦うまで!」
2人の武器がぶつかり合い、激しい火花を散らした。
グランディーナは前に出たデボネアに替わってノルンを庇い、同様にアッシュがケインを、ランスロットがアイーシャを、カノープスがウォーレンを、ラウニィーがトリスタンを、ヨークレイフがサラディンを庇った。戦闘に加わらないフォーゲルとフェンリルは、すぐに後退していた。
それは一度に2人ないしは3人を相手に戦うという厳しい局面だったがグランディーナが真っ先に2人を倒すと皆の加勢に廻ったのでトリスタンが手を出すまでもなくデボネアとルバロンの戦いを残すのみとなっていた。
デボネアはルバロンの動きによくついていっていた。フォーゲルという、またとない師の存在が彼の力を飛躍的に上げたのだった。
それはルバロンには計算外の事態だった。同期のフィガロより脆弱だったデボネアが手強い相手となって帰ってきたのだ。
だが、それは、いつもならば彼の心を躍らすものであった。ヒカシュー大将軍やプレヴィアのような強敵との戦いはルバロンにとって楽しみだったのである。
しかし、いまは違った。デボネアなど簡単に片づけて反乱軍のリーダーに迫るつもりだったのに、そうできないのだ。
「なるほど、確かにおまえは俺の知っているデボネアとは違うようだな。ならばこれも受けられるか!」
ルバロンの周囲に微細な稲妻が現れては消えた。彼の必殺技イクスティンクは剣に雷の力を載せて斬る大技だ。デボネアは、いつもまともに受けてしまい、剣を折られたことも一度や二度ではなかった。
だが、いまは違う。どんなに強力な攻撃でも完全なものはない。グランディーナが使う必殺技も効果は絶大だが彼女自身を傷つける。
ルバロンの放つイクスティンクも、まともに受ければ被害は大きいがデボネアは、これを受け流すことで反らした。発動のきっかけを見破りやすいので彼の速さをもってすれば剣による防御は可能だった。だが、それもフォーゲルとの鍛錬があってこそだ。彼はデボネアの長所が速さだと知ると、そこに磨きをかけさせたのである。
もっとも受け流したくらいではイクスティンクの衝撃は防ぎきれない。大技を放ち、すかさず斬り込んできたルバロンに対応が遅れたのは雷で全身に痺れと痛みが走ったせいだった。
けれどデボネアは倒れなかった。左上腕で刀を食い止め、デュランダルでルバロンに斬りつけた。
ルバロンは急いで刀を引っ込めたが、そのような隙を見逃すデボネアではない。素早く斬りかかり、逆に彼を追い詰めた。
しかしルバロンも素早く体勢を立て直す。
「残っているのはあなた一人だ! 降伏したらどうだ?!」
「俺がおまえたちを倒せば済むことだ! 降伏するなど万に一つもあり得ん!」
「なぜそこまでゼテギネア帝国に固執する? まさかエンドラさまやヒカシュー大将軍に義理立てしてのことではあるまい?!」
「ふん、俺の過去を知っているのか。おまえもそれなりに苦労はしていそうだな」
「わたしの苦労など苦労のうちには入らない。彼ら、敗残の民として追われた者に比べれば」
「若造が言うようになったじゃないか! だが奴らが追われたのはなぜだ? 敗残の民となったのはなぜだ? 弱い国のせいじゃないのか!!」
「違うっ! ゼノビアのグラン王を暗殺し、禁呪を使ったのはハイランドの方が弱かったからだ! 弱いから奇策を弄し、ラシュディを味方につけ、それでも足りずに敵の王を暗殺した、それが我らが帝国の成り立ちだ!」
「だったらどうした?」
激しく斬り結んでいた2人が離れ、間合いを取った。
「強いから勝者になるのではない。勝った者が強者と呼ばれるのだ」
デボネアは激しく息をしていたがルバロンのそれも負けずとも劣らない。ただ出血はデボネアの方が多い。
「わたしはあなたを尊敬していた。ゼテギネア帝国が興った時からヒカシュー大将軍に選ばれた四天王、伝説の神龍ディヴァインドラゴンを倒した強者、あなたはヒカシュー大将軍に次いでフィガロやわたしの憧れであり、いつか乗り越えるべき目標だった」
「ふん、憧れであり目標だった男が俗な人間で失望したなどと陳腐なことは言ってくれるなよ」
「それでもあなたがわたしが越えるべき目標であることに変わりはない。だが今日こそわたしはあなたを越えてみせる!」
デボネアは一歩退いて、剣を構えた。
「先ほどは俺がイクスティンクを撃った。今度はおまえがソニックブレイドを撃つ番というわけか」
ルバロンは足を止めない。右手に曲刀をぶら下げ、1歩ずつ踏みしめるようにデボネアに近づいてゆく。
デボネアは一瞬、足を下げかけて、その場に踏ん張り直した。
「おまえは先ほどイクスティンクを受け流した。1年ばかり手合わせをせぬうちに大した成長だ」
ルバロンが、さらに近づく。そこから大きく踏み込まねば互いの武器は届かない距離だ。
「だがおまえは気づいているか? おまえの必殺技にも明らかな弱点があることに」
ルバロンは歩調を変えずに踏み込んだ。
そこを狙ってデボネアは目にも止まらぬ早業で剣を振り下ろした。ソニックブレイドを使うのはフィガロと戦った時以来だった。
しかしルバロンは、これを避け、刀を掲げて走ってきた。
けれどデボネアも彼の行動を予測していた。ソニックブレイドを撃つや否やルバロンに走り寄り、大上段に振り下ろす刀をかすめるように下から斬り上げた。
その動きはルバロンの不意を突いた。
だが、さすがだったのは不意を打たれても彼の刀がデボネアの肩口から斬り込んだことだ。もう1歩、自分の反応が遅れていたら彼は左腕を失っていただろう。
2人は同時に倒れた。
「デニス!」
「クアス!!」
同時に叫んだラウニィーとノルンが2人に駆け寄った。デボネアも大怪我を負っていたが息も絶え絶えなのはルバロンの方だった。
「デニス、死なないで、デニス。カラムもアルフィンも倒されて、あなたまで死んでしまうの?」
「前を、向きなさい、ラウニィー。あなたの、選んだ、道は、間違いでは、ないのだろう? 誇りを、持って進め、それが、死にゆく、我らへの、礼儀、というものだ」
ルバロンが空に伸ばした手をデボネアはつかんだ。
ノルンの熱い涙が彼の頬を濡らす。しかし彼女は何も言わなかった。天空の騎士に特訓を受ける彼を最後には黙って受け入れて癒したように。
「大した、ものだ。ソニックブレイドを、囮に、使うとは、考えも、しなかった」
「いいえ、ルバロン殿。わたしなど、あなたにはまだまだ及びません。四天王も、我ら、2人が、残るのみと、なりました。どうぞ、わたしを、お導きください。傷が、癒えたら、ともに、戦って、ください」
「いいや、おまえは、おまえの、道を行け。最後に、おまえと、戦えたこと、感謝しているぞ。さらばだ、デボネアよ」
ルバロンの手が力を失った。ラウニィーの悲痛な泣き声が辺りに響き渡るばかりだった。
それきりデボネアは気を失った。次に目覚めた時は、どこかの宿屋の暖かい寝床だった。
「ここは、どこだ?」
「マリーガーランドで宿を取ったのよ」
枕元に涙目のノルンと、もう1人の気配を感じて頭を巡らすとユーリアが立っていた。
「皆は、どうした?」
「私たちを置いて先にシュラマナ要塞に向かったわ。あなたはしばらく安静、起き上がれるようになったらグリフォンで後を追いかけることになってるの」
「どれぐらいかかりそうだい?」
「治るまで1ヶ月はかかるわ。それまでは絶対安静よ、クアス」
「それではヒカシュー大将軍にお会いできないじゃないか!」
「私がどれだけ心配したと思っているの? あなたの傷を見た時に心臓が止まるかと思ったわ。下手に動かしたら、あなたの左腕は動かせなくなってしまう。それでもいいの?」
実際、いまのデボネアには左腕の感覚がなかった。しかし1ヶ月もマリーガーランドという辺境にいなければならないのも耐えがたかった。
「わたしが倒れてからどうなったのか教えてくれないか?」
「みんなはクリューヌ神殿で一晩、過ごしてトリスタンさまが聖杯を見つけられたの。昨日、マリーガーランドを発っていったけどシュラマナ要塞に着くのは光竜の月に入ってからでしょうね」
その時、デボネアの視界の隅で動いた者があった。
「頑張って怪我を治せ。おぬしにはまだ教え足りないことがあると言っただろう?」
「フォーゲル殿! 皆と一緒にシュラマナへ発たれたのではなかったのですか?」
「俺は地上での戦いには介入できん。ならばおぬしにつき合った方がおもしろいからな」
「ありがとうございます」
「だがそれにはまず怪我を治さなければな。それも騎士の務めだ」
「承知しています。ですがヒカシュー大将軍はわたしにとって大恩ある方、一目、お目にかかりたく思っていました」
「その願いとルバロンに勝つという二つの願いを同時に果たすにはおぬしの力が足りなかったということだ。力をつけろ、デボネア。それには何よりもゆっくりと休むことだ」
「はい」
彼が素直に目をつぶったのでノルンは安堵のため息をついた。彼女を誘ってユーリアとフォーゲルは揃って部屋を出ていった。
マリーガーランドには宿屋が1軒しかない。そのうちの2部屋を4人で借りていたので、もう一方の部屋に移ったのだ。
「フォーゲルさま、私が申し上げた数々の無礼をお許しください」
「気にすることはない。恋愛などという感情からは縁遠くなった俺だがおぬしの気持ちくらい理解できないわけではない」
「いいえ、剣術のこともわからぬのにわがままを申しました。いまはフォーゲルさまにもフェンリルさまにも感謝しております。クアスにとってデニス=ルバロンという方はそれほど大きな壁だったのです」
「それはデボネアからも聞いた。ディヴァインドラゴンと戦ったと聞いていたが当人はあれは幻だと言っていたな?」
「はい、私もそのように聞きました。ですがルバロンさまはそのことについて多くを語られていなかったので私たちの知らない事情がおありだったのではないかとしかわかりません」
「俺がディヴァインドラゴンと戦ったのも大昔のことだからルバロンの相手について確たることは言えないが神の威光に陰りが見えた時代に神龍が地上に下りることはないかもしれないな」
「それはオウガバトルや天空の島々について地上ではお伽噺のように語られていることを仰っているのですか?」
「そうだ。次のオウガバトルの時にはどうなっているのか俺には想像もできん」
ノルンはユーリアと思わず顔を見合わせた。
「ああ、すまん。おぬしたちに言っても詮ないことだったな」
「いいえ、お心遣いいただき感謝します。それに、フォーゲルさまのことを誤解していたことをお詫びしますわ」
「見てくれのことならば気にしないでくれ。これは大昔、俺の犯した過ちのために刻まれた印だ」
「では以前からそのようなお姿だったわけではないのですね?」
「恥ずかしながらな」
「ですが、そうと知らなければフォーゲルさまはそのようなお姿なのだと思ってしまいますわね?」
「俺もこの姿でいる方がよほど長い。奇異な目で見られることも、非難の目を向けられることも当然のことと受け止められるようになってしまったのかもしれないな」
ルバロンの死を確認するとグランディーナはカノープスをマリーガーランドに飛ばした。重傷を負ったデボネアと付き添うノルンを魔獣で運ばせるためである。
それから生き残ったルバロン配下の兵士たちをいつものように解放し、ボラの神殿の探索を開始した。
やがて彼女らは地下道を見つけてグランディーナとサラディン、それにランスロットが調査に入ったが、じきに戻ってきた。
「あの地下道を探索するのは無理なようだ。長すぎて終点がどこかもわからない」
「多少の時間をかけても調べるべきでは?」
「血の痕が奥から入り口に向かって残っている。ルバロンが下りたのだろうが何も手に入れていないところを見ると聖杯は隠されていないだろう」
「そう言える根拠は?」
「下りていった足跡は多人数のものだが帰ってきたのは1人分しかない。部下を連れていったルバロンが地下道で部下を失ったと考えるのが妥当だろう」
「ならばパーシバルはどこへ行ったのだろう? マリーガーランドの古老はパーシバルらしい騎士は帰ってこなかったと言っていたじゃないか」
「本命がアネムの神殿で24年のあいだに床が陥没した可能性もあるな」
「とにかく今日はここで野営だ。船は明日の朝にならなければ迎えに来ない」
天幕を広げるような場所もなかったので彼女らはボラの神殿の周辺で休んだ。夜営はフォーゲルとフェンリルに任せて皆が寝静まったころ、異変は起きたのだった。
それに先に気づいたのはフェンリルだった。彼女は剣の柄に手をかけたものの、それが剣で対処できるようなものではないことに、すぐに気づいた。
フェンリルがグランディーナを起こしにいくと彼女は指された方を見、それからトリスタン皇子を起こしに行った。
トリスタン皇子の傍らで眠っていたケインも、じきに目を覚まし、同じように近くにいたアッシュやヨークレイフも起きてくるころにはトリスタン皇子は、それを注視していた。
それは壮年の騎士だった。
トリスタン皇子はルバロン将軍に言ったことが当てずっぽうでもないことを知った。騎士が身につけた鎧にはゼノビア王国の紋章を認めたからだ。
だが騎士の姿は半透明で向こう側が透けて見える。
トリスタン皇子がアッシュを招くと元騎士団長は進み出た。
「彼はパーシバルで間違いないか?」
「そのようです。24年も姿が変わらぬ理由はわかりませんが」
「ならば、あなたが仲立ちしてくれ。彼はわたしの顔は知らないだろう」
「心得ました、殿下」
アッシュが進み出ると騎士も近づいてきた。
「久しぶりだな、パーシバル=シュレディンガー」
「その声は騎士団長アッシュ=クラウゼン殿ではありませんか! わたしは陛下のお血筋がおいでになったことを察して出てまいりました。ご存じならば、どうかお引き合わせ願いたい」
「よかろう。こちらは陛下の第二皇子フィクス=トリシュトラム=ゼノビア殿だ。
殿下、ゼノビア王国の副騎士団長パーシバル=シュレディンガーです」
「おお、フィクス殿下でいらしゃったのか!
お久しゅうございます。パーシバル=シュレディンガーにございます」
「わたしがあなたに会ったのは子どものころだから覚えていないが久しぶりだ、パーシバル」
騎士が深々と一礼すると、どこからともなく杯が現れた。半バスほどの高さで把手が2つ正反対の位置についている。
それを目にした者は、ただ1人を除いて思わず膝をつき、頭を垂れずにはいられなかった。
そのグランディーナでさえ、すかさず目を逸らした。
「陛下の命により、聖杯を今日まで守ってまいりました。殿下こそ、この聖杯を受け継ぐにふさわしいお方とお見受けします。この聖杯を使って乱れた世を、苦しむ人びとをお救いください」
「必ずや、パーシバル、あなたと父上の期待に応えよう」
「殿下は立派になられました。陛下もさぞ喜んでおいででしょう」
「パーシバル、行かないでくれ! わたしはもっとあなたと話したい、父上のことを聞きたいのだ」
「いいえ、それはかないません。こうして聖杯をお渡しした以上、わたしの務めは終わりました。聖杯がなくば、ここで散らしていた命、もはや悔いもありません」
「待って、パーシバル」
「パーシバルよ、ご苦労であった。わしも老い先短い身、いずれ後を追うから殿下のことは任せよ」
「お願いいたします、アッシュ殿」
けれども完全に消えてしまう前にパーシバルはトリスタン皇子とアッシュにしか聞こえないほど小さな声で、こう囁いた。
「よくぞ陛下の名誉を守られた。フィクスさま、感謝いたします」
「パーシバル!!」
彼らの周囲を、また闇が押し包んだ。
トリスタン皇子の手の中に残った聖杯は見た目の大きさに反して重たかった。それは神帝の後を継ぐ者の重さだった。
その肩にアッシュが手を置いた。
主従はそれから夜が明けるまで2人きりで話していた。近づいたケインをアッシュは追い払おうとしたがトリスタン皇子が許したので、彼は一言もしゃべらず、ただ、いつものように黙って従うばかりだった。
聖杯が皆の目から隠されると跪いていた者たちも決まり悪そうに立ち上がった。
「夜明けまでにはまだ時間がある。寝られる者は寝ておけ」
グランディーナは、そう言ったが、聖杯を目にした者たちは、なかなか寝つかれそうになかった。人智を越えた神の業を見てしまったからかもしれない。
こうしてルバロン将軍を討ち果たした解放軍はシュラマナ要塞への帰途についた。彼女らが本隊に合流を果たすのは光竜の月11日のこととなる。
残す帝国の拠点は、あと2つ、旧ハイランド王国の王都だった上都ザナドュと帝都ゼテギネアだ。
解放軍は、ついに敵の喉元に喰らいついた。だが今度は彼女らが侵略者と呼ばれることになるのを、まだ誰も気づいてはいなかった。