Stage Nineteen「漆黒の女王」

Stage Nineteen「漆黒の女王」

「ゼノビアの国王として、わしはハイランドの女王エンドラにゼノビアを初めとする四王国へ侵略の意志ありと訴える。ローディス教国の侵略などハイランドの侵略を隠す口実に過ぎん。ホーライ、ドヌーブ、オファイスの王よ、あなた方の忌憚なき意見を聞かせてもらいたい」
「グラン殿の意見に賛成じゃ」
間髪入れずに発言したのはオファイスの王、老獪なヒューバートだった。
驚いたエンドラがホーライの王、アルテュールとドヌーブの王、ジョフロワを見やると二人も言葉少なに頷いてみせたが、その視線は彼女に何を遠慮してか、いささか伏し目がちであった。
「あの者の装束はゼテギネアでは見られないものです。それは皆様にもお目にかけて納得していただいたはずではありませんか。それなのに、なぜローディスの侵略を考慮せずにハイランドが他国に侵略などという言いがかりをつけるのです? グラン殿、あなたは何を根拠にそのようなことを仰るのですか?」
しかし齢80にならなんとする神帝は若き女王の抗議を鼻先で笑って、いなしただけだった。
「勘だ」
二の句が継げないで絶句したエンドラに神帝は割れ鐘のような声で続けた。
「諸王もご存じのとおり、ハイランドの国土は貧しい。しかも北にはダミエッタ山脈という天然の要害が聳(そび)え、新たな領土を求めようとすれば南下するしか手がないのは周知の事実」
「誤解です!! ハイランドは他国への侵略など考えたこともありません!」
彼女は思わず椅子を蹴ったが、即座に立ち上がった神帝に比べれば、すぐにも手折れそうな可憐さしかなかった。
そしてエンドラが、それ以上、何か言おうとするより早く、ホーライ、ドヌーブ、オファイスの王たちも立っていて、グランに続いて次々に退室していった。
「姉上、話し合いはどうなったのです?!」
「エンドラさま!」
そこに弟のガレスとヒカシュー将軍が入ってきたが、二人の顔を見た途端にエンドラは泣き崩れていた。言葉もなかったが、それで彼らは理解した。
ゼノビアを初めとする四王国との会議は決裂した。北の大国ローディスの侵略を警告しようとしたエンドラの好意は無惨に踏みにじられたのだと。
「まずは現状の確認から参ろう。ヒカシュー、我がハイランドは四王国を相手に勝てるものか?」
「難しいでしょう。ゼノビアは必ず三王国を前に押し立ててきます。すでに、その盟約は成されたものと考えなければなりますまい。グランが何を手土産にしたのかはわかりませんが三王国と戦って消耗した我らはグランを擁立するゼノビアには勝てません」
「あるいはゼノビア一国だけなら負けはせぬか」
「クラウゼン卿の首級を上げられれば、我らに有利な条件をつけられるやもしれません。ですがクラウゼン卿が倒されればグランが出てくるのは必定、そうなったら勝負の行方は不透明なものとなりましょう。しかもハイランドを約されたと思われるヒューバートが、事ここに及んでゼノビアを裏切りましょうや」
「オファイスが動かねばホーライとドヌーブも我らに味方はするまい」
「仰るとおりです」
そこに慌ただしく駆け込んできた者があった。ハイランドの若き女王エンドラと、姉を止めようとして果たせなかったガレス皇子だ。
「ごめんなさい、イシュメイル、ごめんなさい、ヒカシュー!」
「エンドラさまは何を謝られますか」
「私がもっとしっかりしていれば王たちを説得できたものを、私がだらしなかったばっかりに、あなたたちに余計な心配をかけてしまったわ」
そうして彼女は澄んだ湖水のような目に大きな涙を浮かべながら、それを溢れさせまいと堪えてみせるのだった。
ハイランドの宰相イシュメイル=サロージェンは、これを細長い指ですくった。魔術に通じた者らしく、その指先は薬品灼けして変色していたがエンドラに魔術を教えたのも、ほかならぬ彼であった。
「謝らなければならぬのは我らの方です、エンドラさま。誰よりも大切にしなければならぬあなたさまを我らの不甲斐なさからグランなぞにみすみすさらしてしまうなど、お叱りを受けるべきは我らの方でありましょう」
しかし、うら若き女王は激しく首を振り、弟の皇子を、ますます案じ顔にさせた。
「いいえ、いいえ。それでは私が女王たる甲斐もない。あなたたちにいつまでも守られていては女王とは言えません。民人を守ることもできぬ不甲斐ない王と、お父様に叱られるべきなのは私の方なのです」
エンドラの言葉にイシュメイルと、ハイランドを守る将軍ヒカシュー=ウィンザルフは微笑みを交わしたが、それもわずかの間のことでしかなかった。
「もはや我らに打つ手はございますまいか?」
エンドラもガレスも雷に打たれたように顔を上げた。二人の視線は苦渋の思いで言葉を発したヒカシューからイシュメイルの方に移っていく。
「一つだけございます」
「何ですか、それは?! 姉上とハイランドを守るためなら我が命を賭けても惜しくはない」
「ガレス、命を賭けるなどと軽々しく申してくれますな。私の不甲斐なさが募るばかりです」
「も、申し訳ありません、姉上」
「エンドラさまもガレスさまもお気が早うございます。このイシュメイル、まだ何も申し上げてはおりませんぞ」
「すみません、話の腰を折るような真似をいたしました」
「なぁに、お二人とも逞しゅうなられた。お父上とお母上を同時に亡くされて、べそをかいていたのが昨日のことのようです」
しかしガレス皇子には顔を赤らめるような余裕もない。若き女王と皇子の頭はハイランドの危機を、どうしたら乗り越えられるかでいっぱいいっぱいなのだ。
「話してくれ、イシュメイル。どうすれば我らハイランドは、この苦境を脱することができようか?」
「それは、大陸一の賢者と名高いラシュディ殿のお力をお借りするよりありますまい」
「しかしラシュディ殿がゼノビアのグラン王の盟友であることはよく知られているし、お二人は五英雄同士だ。果たしてゼノビアに言いがかりをつけられたとはいえ、ラシュディ殿がハイランドに力を貸してくれようか?」
「ですが、かのグラン王に対抗できるのも、ただラシュディ殿を置いてはありますまい。たとえ助力していただけなかったとしても、せめてグラン王を止める手立てを講じていただければ我らには、それで十分でござりましょう」
「確かに、あなたの言うとおりだ」
「ところが一つ、問題がございます」
「我らがハイランドのためならば惜しむものなどありません。言ってください、イシュメイル。ラシュディさまのお力をお借りするのに、まだ、いかなる障害があると言うのです?」
「ラシュディ殿の居場所が知られていないのです。あの方はお二人の弟子とともに暮らしておいでですが、その住まいがどこにあるのかは誰も知らないのです」
「探しましょう。あなたが私に魔法の術を教えてくれたのは、このような事態に備えてではありますまいか? ラシュディ殿のお住まいを、きっと二人の力で探してみせましょう」
「御意のままに、女王陛下」
それから10日、文字どおり寝食も忘れてラシュディの行方を捜した女王と宰相だったが支払った代償は安いものではなかった。ラシュディの住まいを突き止めた直後にイシュメイルが倒れてしまい、そのまま帰らぬ人となったからだ。
師とも父代わりとも頼んだ人を失った女王の嘆きは尋常ではないほどに激しく、彼女を慰めるために本来ならばラシュディのもとに発たねばならぬヒカシュー将軍は身動きが取れないほどだった。
しかし悲しみに打ちひしがれるエンドラや、その対応に追われるヒカシュー将軍に無断でガレス皇子が独りきりで発ち、その後を追わせる者も決められぬうちに賢者と、その一番弟子を連れ帰ったことは改めて女王を励まし、ハイランド王国が置かれた困難な立場を思い出させずにはいなかった。
そのガレス皇子を労(ねぎら)う暇(いとま)もなく、エンドラはガレスやヒカシュー将軍とともに賢者ラシュディと一番弟子アルビレオを出迎えねばならなかった。
「賢者ラシュディさま、ようこそ、ハイランドにお越しくださいました」
己の前に立った賢者にエンドラ、続いてヒカシュー将軍とガレス皇子が深々と頭を下げる。
「アルビレオさまも、ようこそ、ハイランドへ」
賢者と、その弟子は軽く頷いてみせた。
「長旅でお疲れでしょう。何もないところですが、ひとまずお休みください」
「気を遣われるには及ばぬ。ガレス殿の気遣いで我らの旅は快適なものであった。大方の事情もガレス殿からうかがっておる。
ゼノビアのグランがローディスの動きにかこつけて難癖をつけてきたそうだな?」
エンドラの表が一瞬、強張った。その白い手は可憐さには似合わぬほど、きつく握り締められたが、彼女は、すぐに己の動揺を抑えて、大きく息を吐き出した。と同時に握りしめた拳も緩められた。
「仰るとおりです。グラン王はいまにも四王国を率いて我らがハイランドに攻め込みそうなほどでしたが、いまだオファイスに最も近いオカハンジャが落とされたとは聞いておりません」
ラシュディは軽く笑い声をあげた。
「烏合の衆たる四王国がまとまるには、たとえグランの威をもってしても時間がかかるであろう。貴公らハイランドには戦に備える十分な時間があるはず、このわしの力など当てにされなくてもな」
「いいえ、ラシュディさま、神帝の力は未だ衰える気配を見せず、1対4の戦はハイランドには分が悪うございます。それに四王国を烏合の衆と仰いますが烏合の衆ほど数で勝れば図にも乗りましょう。我らに落ち度があって負ける戦ならば諦めもつきますが、難癖をつけられた上で負けるわけにはまいりません。どうか私どもをお助けください」
蕩々(とうとう)と述べた若き女王にラシュディの薄笑いが消えた。今度は彼女だけが深々と腰を折り、ヒカシュー将軍とガレス皇子は直立したままだ。
師も含めた、それらの人びとの反応をアルビレオは無感動な様子で眺めている。
しかしゼテギネア大陸一と噂された賢者も、また長く逡巡してはいなかった。自らエンドラに歩み寄り、その手を取った。彼女には亡き宰相イシュメイル=サロージェンを思わせる薬品の臭いと灼けが染みついた手だった。
「そのお志はけっこう。ですがエンドラ殿にはグラン王を打ち倒すため、いかな犠牲をも払う覚悟はおありかな?」
「打ち倒すなどと大それたことは望んではおりませぬ。ただグラン殿がハイランドへの野心を捨て去り三王国の王を煽るのを止めてくれさえすれば、それ以上のことは望みませぬ。私にはハイランドの領地を拡げたいなどという野心はありません」
そこで顔を上げたエンドラとラシュディの視線がかち合った。澄んだ湖水のように青い瞳と深い霧のような灰色の眼は、しばし見つめ合い、どちらからともなく微笑んだ。
もっともエンドラのそれは続いたラシュディの言葉に、すぐ凍りついたようになってしまったのだが。
「エンドラ殿に野心があろうとなかろうとグランには、この大陸の覇者になりたいという野望がある。ホーライ、ドヌーブ、オファイスの三国はグランの野望に加担して恥じることもない。大方、いまの地位を約束され、グラン怖さに渋々従ってもいるのだろうが、万が一、国が失われたところでグランに与したことを悔いもすまい。残念ながら事態はゼノビアが残るかハイランドが残るかというところまで進んでいるのだ」
「私たちにグラン殿を打ち倒せと?」
「そのための力はお貸ししよう。ハイランド王国がゼノビアに敗れるのはわしの望むところではない」
「その代償にラシュディ殿は何を望まれると仰いますか?」
賢者は、この時になって初めてヒカシュー将軍に目を向けたが鋭い眼光も風のように受け流してみせた。
「平和を。いま、ゼノビアと事を構えれば漁夫の利を狙うローディス教国が攻め入ってこよう。そうなれば、このゼテギネア全土がローディスの支配下に置かれる。それは、わしの望むところではない」
「私も同じ思いです、ラシュディさま。ですがグラン殿と事を構えずして、どうやって、その手を払いのけられましょうか?」
「エンドラ殿にはグランと戦う覚悟がおできになったか?」
女王は立ちすくんだ。臣下の誰一人にも手を上げたことのないエンドラはハイランドの国主として恐ろしい決断を迫られていることに気づいたのだ。雪のように白い容(かんばせ)はたちまち青ざめ、桜色の唇は血の気も失せた。握り締めた手は震え、それでも彼女はヒカシュー将軍にもガレス皇子にも寄りかかるようなことはなかった。いまにも倒れそうな細身でハイランドの女王としての矜恃だけを支えに、そこに立っていた。
「ゼノビア、いいえ、グラン王だけを倒し、ホーライやドヌーブ、オファイスに手を出さぬわけにはいきますまいか?」
「グランの尻馬に乗っかって、その分け前に与ろうとする三王国をエンドラ殿は許すと仰るのか? お優しい志だが、彼らには、その思いやりは通じぬであろうな。もっともグランという盟主を失ってしまえば三王国にハイランドと戦う気構えもありはすまいが、グランのある限り三王国がハイランドを攻める手は緩めようとはするまい」
「ですが戦で倒れるのは王ではありません。無辜の民ばかりです」
「ならば彼らとともに滅びるか? エンドラ殿、それではハイランドは救えまい。生き残った民は決して、あなたに感謝などしないだろう。国を守れなかった軟弱な女王と誹られるのが関の山だ」
「私のことなど、どうなっても良いのです。私はハイランドを守りたいだけです」
「その意志がおありなら、なぜグランを倒すことに躊躇(ためら)いを見せるのだ? こうしているあいだにもゼノビア軍は迫っておるかもしれぬ。四王国が攻め込んでくれば、たとえ生き残ったとてハイランドも無傷ではおるまい」
「一晩、考えさせてはいただけませぬか? あなたさまがおいでになってから話が急速に進みすぎて目眩がいたします」
「良かろう。わしも結論を性急に過ぎたようだ。だが、お忘れなさるな。グランが、わしのように性急に振る舞わぬ保証はどこにもない。奴には時間だけはいくらでもあるからな」
「肝に銘じます。
ラシュディさまとアルビレオさまを客室に案内して差し上げて」
「はい、陛下」
召使いの案内で二人が去ると、エンドラの口をついたのは、まず大きなため息であった。ヒカシュー将軍、次いでガレス皇子が慌てて彼女に近づくとエンドラは全身を瘧(おこり)のように震わせていた。
玉座に座り直した姉女王に弟皇子が水を汲んだ盃を持ってくる。彼女は一息に飲み干すと、再度、大きなため息を吐いた。
「ヒカシュー、あなたの意見を聞かせてください。ハイランドは四王国を滅ぼさねばならぬのでしょうか? 私たちには、そんな大それた野心は微塵もないというのに、そうしなければハイランドを守ることもできないのでしょうか?」
「ラシュディ殿の指摘は間違いではありますまい。ハイランドとゼノビアは不倶戴天の敵同士になってしまったのは事実、それはいちばん、あなたさまがお感じになったはずです」
「だからといって三王国まで滅ぼさねばならぬと、あなたは思いますか? ハイランドを守るために他国を滅ぼすなど許される道理ではないでしょう?」
「ではエンドラさまはハイランドを四王国に蹂躙(じゅうりん)させ、民を路頭に迷わすのが道理だと仰いますか?」
「おお、ヒカシュー、あなたまで何と恐ろしいことを言うのでしょう。民のためとあらば私に迷う理由はありません。ですが、本当にその道しかないのでしょうか? 私たちは末代まで四王国の恨みを買うことは避けられないでしょう。王からではなく、私たちが守りたいと願う民からの恨みをです」
「ですがラシュディ殿の仰ったとおりハイランドを守れなくばハイランドの民から誹りを受けましょう。エンドラさま、両方を手にするわけにはいかぬのです。どちらかをお選びください。わたしの意見は申し上げました。後はあなたさま次第です」
「ガレス、そなたの意見も聞かせておくれ」
皇子は姉の女王と武芸の師匠である将軍を順に見てから話し始めた。
「わたしは、わたしもヒカシューに賛成です。姉上がいくら四王国の民の身を案じたところできゃつらは、そのことを微塵もありがたいなどとは思いますまい。姉上はハイランドの女王なのですからハイランドの民の身の安寧のみを願われませ。他国の民を案じているような余裕はないはずです」
「おお、ガレス、そなたまで、そのようなことを言うのですか」
エンドラの声が震え、瞳は潤んだがガレス皇子は一息ついて話し続けた。
「わたしはハイランドの皇子です。姉上にもしものことがあれば王位を継ぐのが定め、ならば思い煩うのはただひとつ、ハイランドのことだけです。姉上は我らがハイランドが、かつてない危機に面していることをお忘れですか? 北からはローディス教国、南からはゼノビアを筆頭に四王国がハイランドを狙っているのです。このような時に四王国の恨みなどお忘れなさいませ。四王国など滅ぼされようと下々の民には関係もありますまい。むしろ、あなたが善政を敷けば民は逆にあなたに感謝するでしょう。そうです、姉上、あなたがこのゼテギネア大陸を統一するのです。そうすればグランのような暴君も三王国のような愚王も存在しません。我らハイランドは五英雄でさえなし得なかった偉業を達成するのです!」
「ああ、ガレス、そなたはいつから、そんな恐ろしいことを考えるようになったのです? 五英雄ほどの方々がなし得なかったのは、それだけ荷が勝ちすぎたからになりません。そなたが軽々しく口にしていいことではないのです。私の身には荷が勝ちすぎます」
「では姉上は五英雄が一人、神帝グランにこのハイランドの運命を託しても良いとお考えなのですか? ハイランドの皇子として、それだけは、たとえ姉上の判断だとしても受け入れるわけには参りません。わたしは、たとえ一人でもハイランドを侵そうとする敵と戦いましょう」
「ガレスさま、その時は、このヒカシューも微力ながら加わりましょうぞ」
「心強いぞ」
「おお、そなたもヒカシューも何と恐ろしい決断を私に求めるのでしょう。ああ、イシュメイルがいてくれたら。なぜ、こんな時に亡くなってしまったのか」
エンドラは、そう言うと両手で顔を覆った。
「姉上はひとつ、お忘れです」
ガレス皇子が女王の肩をつかむと、意外なことに、それはもはや震えていなかった。
「ラシュディ殿を呼ぶよう申したのはイシュメイルにほかなりません。たとえ宰相が生きていたとしても姉上の選択にお変わりはなかったでしょう。姉上には相談できる相手が一人、増えただけだったはずです。それでも最終的な決断はハイランドの女王たるエンドラ姉上、あなたさまだけが下せるものなのです」
「殿下、ここはいったん下がりましょう。エンドラさまもお一人で考えたいのではありませんか?」
皇子は将軍、次いで女王を見つめ、首を振った。
「わたしはまだまだ駄目だな。ヒカシューに言われなければ、そんなことも考えつかなかった。
姉上、お心を煩わせてしまっただけで申し訳ありませんでした。ですが、わたしはいつでも姉上と、このハイランドのためにのみ戦い、必要とあらば命も捨てる覚悟です。どうか、それだけはお忘れなきように。失礼いたします」
そうして王座の間にはエンドラだけが残された。
彼女はラシュディやヒカシュー将軍、それにガレス皇子の言ったことを、いちいち吟味し、考えを巡らし、どれが最良の答えか判断しようとした。
けれども彼らの提示した答えは、どれも神帝グランとゼノビアとともに三王国を滅ぼせというものばかりで代替案などない。
エンドラは改めてイシュメイルの不在を嘆いた。確かにガレスの言ったとおり、ラシュディに助力を求めようと言ったのは彼だが、イシュメイルならば、これほど早計に答えを出したりはしなかったろう。彼は幾つもの可能性を数え上げて、吟味して、どれがハイランド王国にとって最善の選択か選ぶことができる人物だった。
だからこそ貧しい国土であってもハイランドは栄えた。他国の羨むような富は持てずとも国が存続できたのはイシュメイルの知恵とヒカシューの武勇のどちらが欠けてもならなかったのだ。
だが両輪は欠けた。エンドラは亡き父王モリスでさえ経験したことのない国家の危機に及んで精神的な支えを失ったのであった。
しかも彼女には心ゆくまでイシュメイルを失った悲しみにひたる猶予も許されてはいない。己の不幸を嘆く間もなくハイランドの存亡に立ち向かわねばならないのだ。
そこで彼女は顔を上げた。先ほどまで傍にいた弟のガレス皇子とヒカシュー将軍を思い出したからだ。二人の言葉はイシュメイルの保護を失ったエンドラには厳しく冷たく響いたが、忘れてはならないのは彼らがハイランドのためだけを思って述べたという点だ。それは、すなわちハイランド王国が置かれた状況の厳しさを物語ってもいる。この状況では最初から若き女王の気に入るような策などありはしない。それは宰相がいようといまいと変わることはなかっただろう。ガレスの言ったとおり、エンドラには相談相手が一人増えただけのことであったに違いない。
彼女は、いつか両の拳を強くきつく握り締めていた。
「私は強くならねば」
けれども、その声は、あまりにか細くて彼女自身にさえ聞こえぬほどだった。彼女は握り締めた拳に、ますます力を入れていた。
「私がハイランドを守るのだ。亡き父上、母上にそう誓ったではないか。いまさら、何を躊躇うことがある? どんな作戦であろうとハイランドを守れるのなら迷ってはならない。神帝とて何を恐れよう、四王国の恨みなど、いくら買ったところで何を悔いよう、ハイランドを守るためならば私は鬼(オウガ)にもなろうぞ!」
そうしてエンドラは自らを奮い立たせるように両の拳を振り上げたが真っ赤な血が滴り落ちたことにも気づいていなかった。
翌日、両手の傷を手当てされたエンドラは玉座の間で改めてラシュディとアルビレオを迎えた。傍らにガレス皇子とヒカシュー将軍が控えているのは、いつものとおりだが彼女は賢者らが一礼すると、すぐに話を始めた。
「ラシュディさま、昨日のお話、ハイランド王国の女王として正式にお受けしましょう。たったいまからハイランド軍は最高司令官のヒカシュー=ウィンザルフ将軍以下、あなたの指揮下に入ります。どうぞ、ご命令を」
しかし彼女の意思表明に反してラシュディは軽く手を振った。
「そんな大げさなものは要らぬ。ただガレス皇子をお貸しいただければ5日以内に神帝を排除して差し上げよう」
「わたし、をですか?」
「ご同行願えるかな?」
「はい、光栄です!」
「けっこう」
「ラシュディさま、なぜガレスさまを? どこへ連れていかれるおつもりか?」
「無論ゼノビアまで。第二皇子ジャンの4歳の誕生祝いだといって、グランから招待を受けている。そこで奴を刺殺する」
ヒカシュー将軍は思わず息を呑んだがエンドラはそうではなかった。
「我が弟なれどガレスはまだ未熟者、ラシュディさまの御用に足りましょうか?」
「腕前は、それほど問題ではない。この術はガレス皇子のエンドラ殿を思う心がいちばんの力となる。ご心配なさらなくとも5日のうちに朗報を持ち帰れるだろう」
ハイランドからゼノビアまでは陸路を行けば優に1ヶ月以上もかかる距離だ。それをわずか5日で片をつけると言ってのけるのはラシュディの非凡さの証明だった。そうと気づいてエンドラは深々と頭を下げた。
「万事、お任せいたします。ガレスのこと、くれぐれもお頼み申します」
彼は黙って頷いたが、思い出したようにつけ加えた。
「アルビレオには留守居を頼む。万が一の時には取り次がせるが良い。もっとも、そやつは気まぐれな性分だ、いつまでもハイランドにいる保証もないがな」
しかし言われた当人は薄笑いを浮かべるのみだ。
「師の代役ぐらいは務めてみせますよ」
「姉上、ラシュディさまのご期待に添えるような働きをしてまいります」
「くれぐれも気をつけて行くのですよ、ガレス」
「はい!」
大役を仰せつかった喜びに少年はひときわ頬を紅潮させてラシュディに従っていった。旅支度もほとんどない身軽さで着慣れた鎧だけが重そうな音を立てていたのがエンドラとヒカシューの耳に残った。
「さて、御用があれば、いまのうちにおうかがいしておきましょうか?」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、いまはラシュディさまとガレスの無事を祈るのみです」
「ふん、それも悪くない。
ヒカシュー殿も御同様ですか?」
「わたしは念のため、国境の警備を固めておきましょう。失礼いたします」
「では用なしは退散するといたしましょう。失礼しますよ、女王陛下」
ガレス皇子とラシュディは賢者が宣言したとおり、5日後に帰還した。
けれどガレス皇子が、わずか5日前とは別人のように思われたのは一人、エンドラのみではなかった。
彼の鎧は、そう傷んだところもなく、激しい戦いに巻き込まれなかったのは明白だ。
それなのに少年の目つきは鋭くなり、その表情にも身にまとった雰囲気にも陰りと老成さを帯びていた。
この5日のあいだに彼が、どんな経験をしたのか、若き女王には想像もつかなかった。
「ラシュディさまのお供を果たし、ただいま戻りました、陛下。ラシュディさまのお助けによりゼノビアの神帝グランを討ち取って参りました」
見た目は出立前と変わるところなどないのに、弟皇子のあまりの変わりようにエンドラは労いの言葉をかけることさえ一瞬、忘れたほどだった。
「ご無事のご帰還、何よりです、殿下。また大役を果たせられたこと、恐悦至極に存じます」
ヒカシュー将軍が、そう声をかけねば、エンドラは動くこともできないままだったろう。
けれども常と変わらぬヒカシューの声音が若い女王の動揺を鎮め、平常心に返らせた。
裏を返せば、彼女は、それほどまでにヒカシュー将軍を宰相のイシュメイルとは別の意味で頼りにしていたのであった。
それでエンドラは玉座を下り、ガレスの手を取るために膝をつくことができた。
「よくぞ大役を果たしてきました。ガレス、あなたは我がハイランドの、私の誇りです」
しかし握り締めた手は氷をつかんだように冷たい。エンドラが両手で包み込むようにするとガレス皇子は、ほんのわずかに微笑んだようだった。
彼女は思わず弟皇子を抱きしめた。
「おお、ガレス、あなたにいったい何があったというのです? この鎧は余りに冷え切っている。あなたは、まるで凍てつくダミエッタから帰ってきたかのようです。急いで温めなければ、あなたは凍え死んでしまうでしょう」
「陛下、殿下をお部屋にお連れいたしましょう。グラン打倒の報告はラシュディ殿からうかがえばよろしいでしょう」
「お願いします、ヒカシュー」
「そんなに嘆かれることはない。ガレス皇子は、その歳には過重なことを成し遂げたが、まだお若いのだ。幾日か休めば回復するだろう」
「姉上、ラシュディさまの仰るとおりです。それに、わたしが成したことなのですから最後までここにいさせてください」
「もちろんです」
皇子の声は聞き取りづらいぐらいに低く小さかったが話す言葉は意外なほどにしっかりしていた。愛おしそうに、その頬を撫でたエンドラは弟の言うとおりにすることにしたのだった。
「お話をうかがう前にお教えください、ラシュディさま。神帝を倒すのに私の弟でなければ果たせなかったと何故に仰ったのですか?」
エンドラの目つきが一瞬、きつい光を帯びたが賢者は、まるで気にせぬ風だ。
「わしは神帝と盟友だったがハイランドの方々は、そうはいかぬ。あのようなことがあった後で慎重なグランが、たとえエンドラ殿といえ近づけるはずがない。いや、ハイランドの女王が魔法をよくすることは知られていたな。ならば、ますます奴はエンドラ殿を近づけなかったろう。奴に近づくには奴の知った者の姿を模すのがいちばん早い。武器を携帯したままグランに近づくにはゼノビアの騎士団長が最適、よってガレス皇子にはアッシュ=クラウゼンに扮してもらった。ところが、この術には欠点がある。アッシュの姿に近づければ近づけるほど、その心もアッシュに近づいてしまうのだ。これを制することができるのはガレス皇子の心のみ、皇子がエンドラ殿とハイランド王国を思う心が強ければ強いほどゼノビア王国騎士団長の姿を模しながら神帝を倒せる。皆にはアッシュの裏切りと思わせながらな」
「おお、あの神帝に近づいて倒すなど私には想像もできません。ガレス、あなたは我がハイランドを救うために自分の身も顧みなかったというのですか」
「それがわたしの役目と心得ておりますがゆえに。それに姉上が受けられた恥辱も忘れてはおりません。姉上のこと、ハイランドのことを思えばゼノビアの騎士団長の忠誠心などものの数ではありません。グランは受けるべき報いを受けたのです。その忠誠を疑いもしなかった騎士団長に殺されると自覚した時の奴の怯えた顔を姉上たちにもお見せしたかった!」
話すうちに、だんだん気分が昂ぶったのだろう、ガレス皇子の声は熱を帯びていったが、逆にエンドラとヒカシュー将軍は彼の最後の言葉に背中に冷水を浴びせられたような気になって返答にも迷ったほどだった。
「奴は不死身だと言われていましたが、そんなこともありませんでした。ただの醜い老人でしかなかった。神帝などと誰が言い出したものやら、あんなに簡単に命を奪えるなんて!」
「ガレス!」
悲鳴のようなエンドラの声に皇子は我に返ったようだった。急にしぼんだようになり、表情も沈んだ。
「ですが姉上、神帝と対峙してわたしは疲れ果ててしまいました。一刻も早くグランを討ったことを姉上に報告しなければと思ってラシュディさまに無理を申して戻ってまいりましたが、今日はこれで下がってもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんです! あなたのおかげでハイランドを覆っていた黒雲は晴らされました。ゆっくり、心ゆくまでお休みなさい。
ヒカシュー、ガレスを部屋まで送っていってあげてください」
「かしこまりました」
いつものガレス皇子ならば、その手は断っただろう。だが今日の彼は素直に将軍に身を委ねさえして、ゼノビア王、神帝グランの暗殺が如何に身体にも心にも大きな負担であったのかを訴えるかのようだった。
ヒカシューが鎧を脱ぐのまで手伝ってやると少年は寝台に倒れ込むように横になった。姉女王そっくりの白い頬が血の気を失って青ざめている。その身体はエンドラが言ったように冷たく、神帝を己が手で討ったという高揚感も一時のものでしかなかったようだ。
将軍は皇子の身を案じて思わず手を握り締めずにいられなかった。
そうして彼は長いこと、寝台の傍らに跪(ひざまず)いていた。守るべき者と思っていた教え子が、いつか己を越えるかも知れない。その予感さえ、いまのヒカシューの胸を冷たく通り過ぎていくだけであった。
「ヒカシュー! ガレスの容態はそんなに良くないのですか?」
「いいえ、そのようなことはありません。ただ、先ほど陛下の仰ったとおり、あまりにお手が冷たかったので、温めて差し上げようと思って、つい長居してしまいました。陛下にはご心配をおかけして申し訳ありません」
「いいえ、ならば良いのです。それに、あなたの気持ちはきっとガレスにも伝わっていることでしょう」
エンドラは安堵のため息を漏らし、白い頬には赤みさえ差した。
姉弟の日頃からの仲の良さを思い出して将軍は思わず微笑みを浮かべた。そこに賢者の冷徹な声が割り込んでくる。
「エンドラ殿、この戦、グランを倒して終わりではないぞ」
「なぜです? 盟主を失った四王国は、もはやハイランドを攻める気など失せておりましょう? 私はこれ以上の血は望みませぬ。王を失ったゼノビアは困難に立ち向かうことになりましょうが、それは私たちが口を挟むようなことでもありますまい。聞けばグランの二人の皇子はまだ幼いとか、良き摂政を立てて、これ以上、ハイランドに野心を示さないことを私は願うばかりです」
ヒカシュー将軍は頷いたがラシュディの声音は嘲笑うかのようだ。
「あなた方は、よもや北のローディス教国のことを忘れておいでか? 奴らがゼテギネアに野心を示したのが、そもそもの始まりではなかったのかね? それがグランを廃した程度で終わったとでも?」
「確かに仰るとおりです。ですが、四王国と対峙する必要がなくなったのならローディスの立ち入る隙もないのではありませんか?
それにヒカシュー、あれから侵入者の兆候はあったのですか?」
「それがローディスも用心深くて、あれから、これといった証拠は見つかっておりません。我らの警戒が厳しくなりましたし、もともと峻険な山脈です。ダミエッタを通過しての侵攻は諦めたのかもしれません。楽観は禁物でしょうが」
すると賢者は低い笑い声を漏らした。
「まさかお二方はローディスがゼテギネアを諦めたなどとは思っておるまいな?」
「そんなはずはありません。かの国のことだ、我が国を足がかりにゼテギネアへの侵攻を目論んでおりましょう。だからこそエンドラさまが四王国に警告をしたというのに奴らときたら、逆に我らにあらぬ疑いまでかける始末、救いようがないではありませんか」
しかし一時的に激したヒカシュー将軍の頭は腕に置かれた手によって一気に冷めた。
「いいえ、ラシュディさまはそのようなことを仰りたいのではありますまい。神帝の死で四王国の力が弱体化したいま、ローディスに攻め込まれれば、ひとたまりもないと仰りたいのではありませんか? それならばラシュディさまは我らハイランドに何をお求めなのです?」
「賢き女王陛下はその答えをご存じのはず、なぜ号令を発せられないのか?」
エンドラの手が強張るのをヒカシューは察した。
「ラシュディさまはグランに替わって私に五王国の盟主になれと仰りたいのでしょう。ですが、いくら日和見が過ぎるとはいえ、四王国が私を受け入れるとは思えません」
彼女の声は若干、震えていたが思考ははっきりしているようだった。それでヒカシューは女王の手に己の手を重ねた。
エンドラは彼に微笑み、ヒカシューも返した。だが彼女の口から出てきた言葉は、この歴戦の勇士をも恐れさすに十分なものだった。
「ラシュディさまは我らハイランドに四王国を征服せよと仰りたいのではありませんか?」
「だとしたら、どうされる? ローディスは五王国が以前のような交流を取り戻すまで、結束を強めて、まとまってローディスに当たれるようになるまで、そう悠長に構えてはおるまい」
「ですが私たちにはあなたがいます。ゼテギネア大陸一の賢者ラシュディ、あなたの力を、どうか示してください」
「陛下、これ以上、賢者殿の力をお借りするのは危険です」
しかしエンドラは彼から手を放し、玉座に座り直した。その厳しい表情を見てヒカシュー将軍は思わず跪いた。
「あなたの懸念はもっともです。ですが、よく考えてください、ヒカシュー。グラン王が倒されたとはいえ敵は四王国です。ハイランド軍の力だけで勝つのは難しいでしょう。それに賢者殿の仰るとおり、ローディス教国がこのゼテギネアを狙っているのです。四王国との戦いに乗じて攻めてこぬとも限らない。ならば賢者殿にお力添えをお願いするのがいちばん安全ではありませんか?」
「陛下がその覚悟を決められたのならば、これ以上、わたしの申し上げることはございません。ハイランド王国を守るべく、ただ剣を奮うのみです」
「ありがとう。あなたは、いつも私に勇気をくれますね」
「もったいないお言葉です、陛下」
エンドラは微笑んだが、すぐに気を引き締めた表情になってラシュディに向き直った。
「さあ、私たちの意志は統一されました。どうぞ、あなたのお手の内を明かしてください」
「エンドラ殿は魔法に造詣が深いとうかがっているが真のことかな?」
「はい、嗜み程度には習いました」
「ならば禁呪について聞かれたことはおありか?」
「ええ。使えば自然の摂理さえも曲げてしまう恐ろしい技だとか。その行方も知られていませんが、たとえ手に入れたとしても決して使用してはならないと学びました。ラシュディ、まさか、あなたは」
「ハイランド軍を温存して四王国に勝つには、それしかない。それとも麾下(きか)の精鋭を出撃させるか?」
エンドラは口ごもった。
彼女の命令ならば、たとえそれが死地であろうとヒカシュー将軍は出撃することを躊躇わぬだろう。いや、グランを失って四王国の結束は崩れているはずだ。戦力的には不利でも士気はハイランドの方が高いに違いない。電光石火で攻め込めば四王国が結集する前に各個撃破できるかもしれない。
だが、それでは真にハイランドを守ったことにはならない。ローディス教国の戦力が、どれほどのものかはわからぬが、万が一にでもヒカシュー将軍を失っては決して勝てるまい。
それにエンドラはヒカシューを失うことを恐れていた。宰相のイシュメイルとは別の意味で彼女とガレスを支えてきた武人は、いまのエンドラには最も失いたくない存在だった。彼と弟を失えば、いかなハイランド王国とて、その存在意義を失う。
エンドラは、いまさらながら己の身勝手さに身震いする思いだったが将軍を失うかもしれない賭けに踏み切ることだけはできなかった。
「いいえ、ヒカシューを行かせるわけにはいきません。ラシュディ、ここはあなただけが頼り、どのような策も私の名において実行を」
その顔を見ることもできなかったが、女王には彼の歯ぎしりが聞こえるようだった。
ヒカシューは武人として恥じているのだ。ウィンザルフ家は代々、ハイランド王家に仕える家柄である。彼が王国軍とは別に私兵を動かせるのも、ひとえにハイランドに忠節を誓い、いざという時に滞りなく使命を果たすためだ。
それなのに国家の危機を迎えたいま、その力を奮うことが許されず、しかも彼に代わってハイランドのために立ったラシュディは後世、非難されることが必至の禁呪を使うと言う。
けれども女王が決めたことが不当だと思わなければ彼は異を唱えない。ハイランド王国軍の温存と四王国の打倒、これらを両立させられる方法は限られていることを彼は痛いほど理解していた。
「さて、ここで問題だ。わしは禁呪を唱えるが、一度に相手できるのは一国のみ、エンドラ殿はどこが良いと思うかな?」
「私は各国の戦力を詳しく知りません。それでもよろしいのですか?」
「エンドラ殿のお心次第、どの国を禁呪にさらすかは、あなたが決められるがいい」
女王は少し迷った。だが、その決定を傍らの将軍に委ねることはせず、
「それではホーライ王国を攻めてください」
「その理由は?」
「ホーライ王国の騎士団はゼノビアに次ぐ規模と聞きます。グランを失い、騎士団長がその責を問われているとしたらゼノビア王国は四王国最強とは言えますまい。ならば、二番手の力を殺ぐのが兵法の常識ではありませんか?」
「仰せのままに」
そう言って一礼した賢者ラシュディの姿が消えた。
だが、その途端に瘧(おこり)にかかったように震え出すかと思われていたエンドラは毅然とした態度を崩さず、ため息ひとつ漏らすこともなかった。
それでヒカシュー将軍は退室したが彼は、ついに知ることはなかった。
独りきりになったエンドラが激しく泣き出したことを。彼女は禁呪で無惨に殺されるであろうホーライ王国の騎士団と民を、ただ憐れまずにいられなかった。
そんなことをしても彼らはエンドラに恩を感じたりはしないだろう。むしろ国を滅ぼそうとする悪しき女王として子々孫々まで語り継ぎ、憎み、恨み続けることだろう。
それでも彼女は嘆かずにいられなかった。恨みを買うであろう己の身ではなく、死ぬ運命にある人びとの身を案じて。禁呪にさらされる人びとの痛みを思って。
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