Stage Twenty「暗黒の迷宮」

Stage Twenty「暗黒の迷宮」

それよりだいぶ前、独りぼっちにされたトリスタンは心細く、十二使徒の証が灯り替わりになったものの、入ったところから、ほとんど動けなかった。
第一、彼は、まだ混乱していたのだ。祖国ゼノビアと神帝グランの正義を疑いもしなかったのにエンドラの暴露した真実は、それだけ衝撃的だったし皆が、どのように受け止めたのかも気にかかった。
だがクリューヌ神殿で遭ったパーシバルは、そのようなことは言っていなかったではないか。エストラーダもバーニャも誰も、そんなことは教えてくれなかった。アッシュだって言っていない。
ケインと話す前に自分の考えをまとめておきたいと思ったのだが、混乱するばかりで何も思いつかなかった。トリスタンは己が拠り所にしてきたものの脆さを思い知ったのだった。
だが、と彼は思い直す。グランディーナの言ったとおり、もっと早く知っていたところで何か変わっただろうか?
たとえば母とプレヴィア将軍を見逃すことが彼にはできただろうか?
「できるわけがない」
トリスタンは、そうしてしばらく隅っこに座って身を小さくしていた。十二使徒の証は灯りとしてばかりでなくサラディンの言ったとおり防御としても優秀で周辺を行き交う悪魔には見つからないで済んだようだ。
「トリスタンさま? ご無事であられますか?」
「アッシュ?!」
思わぬ助け手に彼は千の味方を得たように心強く感じた。
元騎士団長もトリスタンの姿を見て安堵した様子だ。
「一刻も早く皆と合流いたしましょう。さあ、こちらへ」
「ありがとう。一人で途方に暮れていたところだ」
「殿下がお気にかかるのは、そんなことではありますまい。ですが、あなたさまがエンドラの言ったことに心を傷められる必要はないのです」
「なぜだ? やはりエンドラのでまかせだったというのか?」
「残念ながら違います。陛下は気性が激しく敵にも味方にも厳しいお方でした。ですからエンドラの言ったようなことはあり得たと、わしは考えております。いや、陛下を知る者なら皆、そのように考えるでしょう。ですが、それはあくまでも国と国との駆け引き、ハイランドはラシュディを味方につけて勝ち、ゼノビアは先手を打たれて負けた、それだけのことです」
「24年も牢に幽閉されていたのに、なぜ、そんなことが言える? アッシュこそハイランドを、ゼテギネア帝国を恨んではいないのか?」
「負けたこと、卑怯な手で陛下を暗殺されたことを恨んでいないとは申しますまい。ですが殿下まで、それに引きずられてはならぬと差し出がましいことを申すようですが言わせていただきましょう」
トリスタンは黙り込んでしまったがアッシュは話を止めなかった。
「それと殿下、あなたは妃殿下を許され、陛下とは違うところをお見せするべきでした」
「なんだって?!」
「いまだから申し上げるのです。パーシバルが、あなたを褒めた時に気づくべきでした。あれは、わしよりも忠誠心の篤い男、ゆえに陛下はパーシバルに聖杯を託されたし、死してなお殿下のおいでを待ち続けることもできました。ですが、その判断が常に正しいとは限らぬのです」
「なぜ、そんなことを言うんだ?」
「それではおうかがいしますが殿下はエンドラの申したことの何に引っかかっていらっしゃるのです? 僭越ながら、わしでは相談相手にはなりませんか?」
「そんなことはないが」
語尾を濁したトリスタンにアッシュの言葉は厳しく響いた。
「ケインを重用されるのもけっこうでしょう。ですが彼に唯一無二の相談相手という地位を与えてはなりません」
「なぜだ?」
「ケイン一人に権力を集中させることになります。それは王が、もう一人いるようなものです。国のためにはなりません」
「彼がそんなことをするわけがないだろう?」
「ケインに、そのつもりがなくとも周りが放ってはおきますまい。それを止められますか? あるいは、それを制止する自信がおありですか?」
「わたしは彼を信じている、だが、あなたの言うことは心に止めておこう」
アッシュは頷いた。
「あなたの言ったとおり、わたしはエンドラの言ったことで心が揺れている。いや、混乱しているんだ。いままで、わたしの周りで、あのようなことを言った者はいなかったし、誰も、あなたのように父のことを評しなかったからだ。わたしは父のことは、ただ偉大なる神帝、ゼテギネア大陸を平定した五英雄の一人としてしか教わらなかった。わたしは、どうすればいいんだ?」
「陛下も、ただの人間だったとお認めください。人間は過ちを犯すものです。その上で殿下は陛下とは違う国を作られるべきです」
「わたしは元のゼノビアがどんな国だったかも知らないのに違う国など作りようがないじゃないか」
「それは屁理屈というものでございましょう。殿下は思い描いてこられたような完全無欠の神帝になどなる必要はございません。それだけで国の形は、だいぶ違ったものとなりましょう。それでは不満でございますか?」
「不満というわけではないが」
「陛下は、ご自身の力に絶対的な自信をお持ちでした。それゆえに他人にもご自分にも厳しく接しすぎたのです。殿下は、そうではございますまい」
「だけど、あなたもグランディーナもゼテギネア帝国は倒されるべきだったと言うが漆黒の女王となったエンドラを生み出したのもゼノビアじゃないか。ならばエンドラの悪政の一因はゼノビアにもあったということにならないのか?」
「だからこそ殿下は陛下とは違った国を作る必要があるのです。それにエンドラも倒されたいま、償わせる方法もございません。人魚たちのこともそうではありませんか。もちろん最初のうちは陛下の治めていたゼノビアを懐かしむ者もありましょうが殿下は陛下の真似をされてはなりません」
「だがバーニャは、そんなことは許さないだろう」
「一介の乳母ごときに政治に口を挟ませてはなりません。そんなことをさせればケイン以上の災いをもたらしましょう」
トリスタンは考え込んだ。最後にバーニャと会ったのはマラノの都でだ。わざわざカルロバツから訪ねてきてくれたが、さすがに長旅は辛そうだった。
ゼノビアに都を構えれば、もっと距離は近くなるだろうがバーニャは、どうしたがるだろうか。そしてトリスタンは育ての親たる乳母に、いまだに頭が上がらないのだった。
「バーニャのことはゼノビアに戻るまでに考えよう。いまは、それどころではないからな。だけど、わたしは、わたしよりも王に相応しい者がいると思う。神帝グランとのしがらみを持たぬ者のほうが新しい国には相応しいと思わないか?」
「誰がそう申しても彼女は引き受けますまい。わしも彼女の言動には注視してきましたが一度たりとも肯定的な発言はしたことがありませんし素振りも見せません。それとも殿下には彼女を説得できる理由がございますか?」
「あるわけではないが」
その時だ、この異空間が震動を始めたのは。
それは徐々に大きくなっていく。次第に歩くのに支障を来し始め、いつか動くことができなくなっていた。
「いったい何が起きているんだ?!」
「ラシュディがディアブロを復活させたのやもしれません。ぐふっ?!」
「アッシュ?!」
それは何かがぶつかって、そのまま突き刺さったような音だった。
トリスタンは慌ててブディッサイを掲げたが倒れたアッシュを太い触手が貫いており、そこら中、血だらけだった。
「アッシュ!!」
触手はトリスタンの腕2本分よりも、さらに太かった。それは壁を突き抜けており、その奥に、ほかの何かが蠢いている。トリスタンは悲鳴をあげそうになるのをこらえて、アッシュの方に目をやった。
「ご無事、ですか、殿下?」
「待っていろ、いま、触手を追い払う!」
トリスタンが激しく斬りつけると触手は蠢いた。それは彼にも襲いかかってきたが思わぬ反撃に怯んだらしく、そのうちに壁の向こうに引っ込んだ。
しかしアッシュが手遅れであることは彼の目にも明らかだった。
「アッシュ!!」
元騎士団長は目を開けたが、もはや光は失われている。その証拠に彼は、すぐにトリスタンの手をつかむことができなかった。
「最後、まで、ご一緒、できず、申し訳、ありません。一足先に、陛下の、下に、参り、ます」
「駄目だ!」
だが握りしめた手からは力が失われていくばかりだ。
アッシュの側に力なく膝をついたトリスタンは激しく慟哭した。
その時、彼のブディッサイに呼応するかのようにアッシュに託されたターコイズが輝き始めたが、トリスタンは気にもかけなかった。
「アッシュさま! トリスタン?」
光の中から現れたのは十二使徒の証が足りなくて置いていかれた幼馴染だ。
ケインが混乱していたのは一瞬のことで、すぐ状況を理解したらしかった。彼はターコイズを取るとトリスタンに駆け寄った。
「無事か?!」
「わたしは。だがアッシュが殺されてしまった」
「しっかりしろ、トリスタン。おまえが無事ならば良い。さあ、こんなところにいてもしょうがない。皆に合流しなければ、それこそアッシュの死が無駄になってしまう」
「アッシュを置いていくわけにはいかないじゃないか!」
その声は悲鳴のようだ。
すると振り返ったケインは呪文を唱え、アッシュの遺体を消し去った。
「これで大丈夫だ。カオスゲートの外で誰かが見つけてくれるだろう。さあ、行こう」
「駄目だ、まだ答えが出ていない」
「答え? エンドラが何を言おうと関係ない。おまえは新しい国を作るんだ」
「どうして、そんなことが言える? エンドラが漆黒の女王になったのは父のせいだ、それなのに、わたしが王になれると思うのか?」
「当たり前だ。おまえ以外の誰が王になる? グランディーナか? 彼女は王にならないと公言してきた。いまになって、それを覆せば、いい笑い者だ」
「だけど彼女には何のしがらみもない。彼女こそ適任じゃないのか?」
「なぁ、トリスタン」
そう言ってケインは彼の肩をつかんだ。
「何のしがらみもないが彼女には解放軍の名においてなしたこと以外には責任もないんだ。だけど、おまえは違う。おまえにはフローランさまやアッシュ、パーシバル、帝国に殺された人びと、解放軍の勝利を待ち望んでいる人びと、それにエンドラとガレスにもグラン王の跡を継ぐ者として責任があるだろう?」
彼は震えた。一人ひとりの名を挙げられるたびに無念に命を落とした人びとが蘇り、トリスタンの心を揺さぶった。
「おまえは、それを放置することはできないはずだ、違うか?」
「そう、だ」
「ならば、おまえは王になれ。俺がおまえを支える。必要ならば楯にもなってやる。この大陸の人びとはゼテギネア帝国の圧政に疲れ切っているんだ。誰が、それを建て直せる? おまえしかいないだろう?」
彼はうつむいて目をつむった。
最初に浮かんだのは非業の死を遂げた母だった。
いまならばプレヴィア将軍と通じたことも理解できる気がした。
なぜ自分は母を許さなかったのだろう。否、許せなかったのだろう。許してやれば良かったのだ。たとえ敵将の愛人となっていたとしても、よくぞ生きていてくれたと喜べば母も正気に戻ったかもしれなかった。母と子を不倶戴天の敵同士にしたのは、ほかならぬ自分だ。グランディーナの言葉が蘇る。
「神帝の名誉などに惑わされて母親を殺そうとするのが闇以外の何だという? 新しい国に、そんなものを持ち込むな」
あれはハイランドの事情を知っていたから言えた台詞だったのだろうか。いいや、そうとは限らないだろう。全てのしがらみを断ち切っているからこそ言えるのだ。
まるで鏡のような存在だ。それも彼の嫌なところ、人に見せないようにしているところを進んで見せつける。あるいは彼の前では、そう振る舞っているだけなのか。それも、もういなくなってしまう。
続いて浮かんだのはアッシュとパーシバルだ。だが二人の老騎士は微笑みを浮かべているようだった。それでいいのだとアッシュが言っている気さえした。
孤独に死んだエンドラの姿も浮かんだ。けれども彼女は、もはや何も望むまい。死によって彼女は解放されたのだから恨み言も言うまい。
そうだ、新しい国は死者のために作るのではない。生きている者、生き残った者、生き延びた者のためにこそ必要なのだ。
最後に、もう一度思い浮かべたのはグランディーナだった。
しかし彼女はトリスタンに背を向けて去っていく。ゼテギネア帝国は、いま、まさに倒れんとしている。戦争屋の出番は終わりだとでも言いたげであった。
だが彼女は最初から、そう言っていたではないか。それを信用せず、疑い、罠を張ったのは彼の方だ。
けれども、そうと知っていても彼女はトリスタンを責めることは、この先も決してないのだろう。
「わかったよ、ケイン。覚悟を決めたつもりだったのに、まだ足りなかったようだ。今度こそ腹をくくる。この戦いが終わったら、わたしはラウニィーを妃に迎えて王になる」
「それでいい。さあ、行こう」
差し出された手をトリスタンは取った。
「お待ちください。どなたかの声が聞こえませんでしたか?」
「声?」
アイーシャが立ち止まったのでユーシスも歩みを止める。2人は耳を澄まし、やがて同じ方向を指した。
「男の方のようですね。どなたか傷ついていられるのでしょうか?」
「行ってみましょう。でも、あなたは前に出ないように」
「ありがとうございます」
クロスストーンの光だけが頼りの状態だったが、2人はすぐに1人の男性が倒れているのを見つけた。血の海に沈んでいたのは全身黒ずくめの騎士のようだ。
とっさに誰かはわからなかったがアイーシャは近づいた。男性が泣き声をあげていて、その命の灯が消えそうなことがわかったからだ。
「もし、しっかりなさってください。大丈夫ですか?」
「お、まえは、誰だ?」
男性の顔には見覚えがない。ゼテギネア帝国の者だろうか。銀に近い淡い金髪と薄い紫色の目は彼がハイランド人であることを示している。近くに彼の物と思われる黒い兜も転がっていたが、そこら中に飛び散った血が激しい戦闘があったことを物語る。
「私はロシュフォル教会の司祭です。あなたの声が聞こえたので参りました。こちらは天使長のユーシスさまです」
「ロシュ、フォル教、会?」
男性は一瞬だけ考えたようだったが、じきに、はっきりと見てわかるほど震え出した。
「ならば、アイーシャ、クヌーデルを、知らない、か? 伝え、てほしい、ことが、ある、のだ」
「アイーシャは私です。何でしょうか?」
思わず彼女は身を乗り出す。
すると男性の口から、唸るような声が漏れ出した。
けれどもアイーシャは、かまわずにその手を取った。長年、武器を振るい続けた無骨な手だが、握り返す力もないらしく、ひどく傷つけられている。とても助けられるとは思えなかったが、せめて彼の末期を安らかにしたい、その一心で彼女が手当てを始めようとするのを男性は遮り、はっきりした声で話した。
「母上を、殺したこと、すまなかった。それだけ、謝りたかった」
「まさか、あなたはガレス皇子ですか?」
「そうだ。すまなかった」
「ありがとうございます、ガレスさま。そのお言葉を聞けば、母もきっと喜ぶことでしょう」
「あなたは、俺の、したことを、許すと、いうのか?」
ガレス皇子は咳き込み、血を吐いた。彼がガレス皇子ならば、ここまで傷つけたのはグランディーナに間違いないだろう。
だが彼女の物と覚しき物は残っていない。ラシュディを追って、さらに奥へと行ったのだろうか。
ではサラディンは、どうしたのだろう?
とっさに、それだけの考えがアイーシャの脳裏を巡ったが彼女は目前のガレス皇子に集中した。
「それがロシュフォル教会の教えです。あなたが、そうして謝罪してくださったことを私は受け入れ、あなたや母のために祈りましょう」
「俺は、よい。姉上、エンドラの、ために、祈ってくれ。姉上も、あなたたちに、倒された、のだろう?」
「残念ながら」
「ああ、俺たちは、どこで、道を誤った、のだろうな? 姉上のために、強くなった、はず、だったのに、姉上とは、何年も、話していない。ヒカシューの、ことも尊敬、していたのに、いつの間にか、疎んじる、ように、なっていた。2人に、謝りたいのに、もう、それもかなわない。ああ、あなたの、手は、温かいな。俺は、人の手の、温かさを、ずいぶん、長いあいだ、忘れていた、ようだ」
ガレス皇子の頬を涙が濡らしたが、それも血にまみれていた。
けれども彼は微笑みさえ浮かべて目を閉じる。アヴァロン島や天宮シャングリラで出遭った時とは、まるで別人のような穏やかさだ。
その様子を見ていたユーシスが息を呑んだのがわかったがアイーシャはガレス皇子から目を離すことができなかった。
「ああ、姉上、すまない、約束を、守れなくて。俺は、姉上が、微笑んで、いられる、国が、作りたかった。姉上が、望む国の、ために、力を、奮うはず、だった。それなのに、俺が、したことは、どうだ? 姉上を、悲しませ、姉上を、苦しませ、姉上を、追い詰める、だけだった。姉上を、暗黒の女王に、したのは、俺だ。俺が、悪かった。ゼテギネア帝国の、全ての罪は、俺のせいだ。だから、どうか、誰も、姉上を、責めないでくれ。これ以上、姉上を、虐めないでくれ。どうか、どうか」
「ガレスさま、エンドラさまは、もうどなたにも責められることのない安らかな眠りにつかれました。死は何人にも破られぬ約束された永遠の安らぎです。エンドラさまもヒカシューさまも、きっとそこで、あなたをお待ちしていらっしゃるでしょう」
ガレス皇子は眼を開き、アイーシャと視線が合った。
「俺に、そんなことが、許される、はずがない。俺は、罪を、償わなければ、ならない」
「いいえ。全ての方は許される権利をお持ちです。あなたの罪はあなたの死とともに償われます。それがロシュフォル教会の教えです」
「俺は、ロシュフォル、教会の、大神官、フォーリス、クヌーデル殿を、殺したのだぞ。それでも、あなたは、ロシュフォル教会は、俺を、許すというのか?」
「はい。母がいたら、きっと同じことを申し上げたでしょう。どうか心安らかにおいでください」
その言葉を聞いたガレス皇子の眼から光が失われていくのをアイーシャは見、思わず彼の手を握る手に力がこもった。
「すまない、そして、ありがとう。どうか、ガルシアにも」
アイーシャは急いで耳を近づけたが、ガレス皇子は小さな息を吐いただけで、それきり事切れてしまった。
「亡くなられました」
ガレス皇子の眼を閉じ、アイーシャは立ち上がる。その衣服は血に濡れたところもあったが彼女は気にも留めていなかった。
「気が済んだのなら行きましょう。とても嫌な予感がします」
「お手を患わせて申し訳ありません。ずっとお守りくださったのですね」
「私にできることはそれぐらいですもの。でも、なぜ、あんなことを言ったの? ガレス皇子は、あなたのお母様の仇なのでしょう?」
「仰るとおりです。ですが仇を許していけないとは聖なる父も仰いませんよね?」
「フィラーハさまを試すようなことを申すものではありません」
「申し訳ありません」
アイーシャは恐縮したが、聞こえてきたユーシスの声音は優しいものだった。
「でも、あなたは1人の人間の魂を救ったわ。それは賞賛に値します」
「光栄です。私のような若輩者がユーシスさまから、そのように褒めていただけるなんて」
「いいえ、あなたの思念に触れていると私の気が休まるわ。いま、あなたと一緒でどれだけ心強いか、わからないでしょうね」
そこでユーシスは息を吐き、正面からアイーシャに対峙した。
「それとバルハラであなたを打ってしまったことを謝罪します。あの時はミザール姉様のことで気持ちが高ぶっていて。ごめんなさい。グランディーナの指摘したとおり、私はミザール姉様の苦しみを見ようとせず、理解もしなかったのだわ。私は自分の苦しみしか見ていなかった。それも苦しみなどと呼べるものではなかった。いま、やっとわかりました。あの時のミザール姉様の苦しみを、私はようやく理解したのです。天使長失格です」
「ですがユーシスさまは、ご自分で過ちにお気づきになったではありませんか。その経験の方が尊いのだと母が申しておりました。きっと無駄になることはございません」
言ってからアイーシャは慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。また差し出がましい口をききました」
「いいえ、あなたの言うとおりだわ。それにミザール姉様も言っていました。人のことも知らないで祝福したつもりになっているなど、おこがましいと。私もそう思います。私は地上に降りてからなした祝福を、すべてやり直したいくらいです。でも、いまは私にできることをします。さあ、行きましょう。早く皆に合流しなければ」
「はい、ユーシスさま」
振り下ろした両手持ちの斧は、すんでのところでラシュディに避けられた。グランディーナは斧を投げ捨てて、曲刀に持ち替える。
だが身体の方は、そろそろ限界だ。次に武器を振るえば彼女の身体は抑えが効かなくなる。もはやヤルのタブレットでも十二使徒の証でも抑えられなくなっているのがわかる。レクサールたちのように堕ちるのだ。
けれど、それでも彼女はかまうまい。ラシュディ、この戦いのすべての元凶、諸悪の根源を倒せるのなら差し違えるのも悪くはない。
グランディーナは激しく脈動する手を意志の下に、かろうじて抑え込んで曲刀を握り締めた。
「これで終わりだ、ラシュディ!」
その刃は驚くほど呆気なく賢者の背に突き刺さり、貫いた。
振り返ったラシュディの眼差しは驚くほど静かだ。一瞬、彼がどんな目でサラディンの死を見たのかとさえグランディーナは思ったほどだ。
「やはり運命を変えることはできんか。くくく、聞こえるか? ディアブロの息づかいを。残念だったな。かつて悪魔どもを統べた暗黒神ディアブロの力、その目で見るがいい」
ラシュディの口から血が吐き出される。
しかし、その行方を見る間もなく、グランディーナは曲刀を手放し、海老反りになった。
左手で石が割れる音がして痛みも走ったが身体を支配しようとする力の大きさは、それさえ忘れさせた。
あり得ない力が噴き出そうとしている。その奔流に意識を失いつつ、彼女は見た。
己の内で何かが開いた。そこから異形のものが姿を現す。
「誰ぞぉ。わが眠りをさまたげる者は誰ぞぉ? わが名はディアブロォ。わが望みは破壊ぃ。わが眠りを犯すべからずぅ。すべての生きとし生ける者よぉ。死をもってわが復活を祝福せよぉ。わが復活を祝福せよぉ!!」
それきりグランディーナの意識は失われた。その身がディアブロの一部となって取り込まれたことにも気づくこともなく。
[ − 戻 る − | − 続 く − | 目 次 ]
[ トップページ | 小 説 | 小説以外 | 掲示板入り口 | メールフォーム ]