Stage Twenty「暗黒の迷宮」
「サラディンさま!」
アイーシャとユーシスは駆け寄ったが彼は、とうに事切れていた。激しい魔法による戦いがあったのだろうに驚くほど傷痕は見当たらない。
そのあいだも洞窟は揺れ続けていて、だんだん歩くのにも支障をきたすほどだ。
己の無力を激しく嘆くアイーシャの脇でユーシスは躊躇っていた。
バルハラでミザールを討った時に彼女は最愛の姉の魂魄を手に入れていたのだ。それを使えば、いつでもミザールを復活させることができるが神の与えた罰は再度、彼女を苦しめるだけだろう。煉獄で罰を受けると言ったミザールの意にも逆らうことにもなろう。
あるいはユーシスはサラディンを復活させるためにミザールの魂魄を使うこともできる。
だが、それは姉との永遠の別れをも意味していた。人間を復活させるために魂魄を使えば天使の輪から外れてミザールは人の輪に入ってしまう。それは姉を煉獄での苦しみから解放もすることにもなるが二度と天使の輪に戻ることはないからだ。
けれど天使長は心を決めた。いま、彼女らに必要なのはサラディンであり、ミザールは微塵も天使としての復活など望んでいないのだ。
ユーシスはアイーシャの肩に手をおいた。
「サラディンを生き返らせましょう。ですが私は彼のことを、ほとんど知りません。あなたの知っているサラディンを強く思い浮かべてください」
「そんなことがお出来になるのですか?」
「ここにミザールの魂魄があります。天使長を務めたミザールならば人1人生き返らせることもできるでしょう」
「ですが、それではミザールさまの魂魄は失われてしまうのではありませんか?!」
「ええ、二度と天使としてミザールに会うことはできますまい。でも、ミザールの願いは天使としての復活などではありません。そして、いまのあなたたちにはサラディンが必要です。ならば私はミザールの魂魄を使ってサラディンを生き返らせます。それこそがミザールの願いに叶うことだろうからです。あなたが心を痛めることはないのですよ」
アイーシャは黙って頷いた。
「ごめんなさい、あなたのお母様を蘇らせるには時間が空きすぎているのです」
「いいえ。母は死者の国で安らいでいると信じております。ユーシスさまの仰るとおり、私たちにはサラディンさまが必要です」
ユーシスは、その手を取り、空いた手にミザールの魂魄を掲げた。それは元天使長らしからぬ穏やかな光を放っている。彼女たちが、いままで悪魔に、ほとんど遭遇しないで済んだのも、この守りがあったからだ。そうと気づいてユーシスはミザールに深い感謝を捧げたが、すぐに気持ちを切り替えた。
アイーシャの描くサラディンは優しくも自己に厳しい人物だ。そして何よりグランディーナを育て、導いた者として深い敬愛の念を抱いている。と同時に生まれながらに半神と同等の力を与えられ、いつ堕ちるかもわからぬ闇を切り開いていったグランディーナをともに支える者でもあり、ユーシスは瞬時に彼女らに起きた様々な出来事を理解し、己の浅はかな言動を恥じずにいられなかった。
ユーシスはサラディンに呼びかけた。
彼が倒れてから、だいぶ時間が経っているようだ。そのせいか返答は弱々しく、彼女には聞き取れないかと思われた。
だが手を繋いでいるアイーシャは、その感覚を共有しているものとみえ、最初のうちは遠慮がちだったのを次第に力強く呼びかけるようになっていった。
それとともにサラディンも応じた。彼は己の死を自覚していたが生き返りたがっている。
その時、元天使長の魂魄は光り輝き、サラディンともども彼女たちをも包み込んだ。
アイーシャとユーシスは、まぶしさに思わず目を閉じたほどだ。
「ラシュ、ディ殿? いや、アイーシャ、か?」
「サラディンさま!!」
さすがの彼もアイーシャに首筋にしがみつかれて目を白黒させた。
その合間にユーシスが状況を話す。
それから起き上がった彼は幾つかの呪文を唱えた。その顔色は蒼白だったが徐々に血の気を帯び、ぬくもりを取り戻していった。
「ラシュディ殿は倒された。だが暗黒神は復活しグランディーナは、その近くにいる。誰が、どこにいるのか、わたしには、それ以上はわからない」
「グランディーナのもとに急ぎましょう。彼女は、とても危険な状態にいるはずです」
「行って何ができるつもりだ。あれが堕ちている可能性は高いのだぞ?」
「私は母と約束したのです、最後まで彼女を見守ると。たとえ彼女が堕ちていたとしても、それは変わりません」
「わかった。余計なことを言ったようだな」
「いいえ、サラディンさまが私の身を案じてくださっていることはわかっております」
「ユーシス殿、行き先は指示する。先導を頼む」
「承知しました」
「その前に、そなたとわたしには、この魔法をかけておこう」
そう言ったサラディンとアイーシャの身体が浮いた。それを見てユーシスも遠慮なく、その身を浮かしたので彼らは揺れる洞窟に足をとられることなく、また進み始めたのだった。
やがて洞窟の前方から熱風と冷風、それに砂混じりの強風が、ほとんど同時に吹きつけてきたのでサラディンは立ち止まって防御の呪文を唱えた。
「これも暗黒神の攻撃でしょうか?」
「いや、誰か戦っているようだ。おそらく天空の三騎士殿が先行しているのだろう」
だが、その姿を確認するよりも早くサラディンとアイーシャは暗黒神の胸元に囚われたグランディーナに気づいた。しかも彼女は意識を失っているようだ。
「ユーシス殿、ご無事でしたか!」
「フォーゲル殿、これはいったい、どうなっているのですか?」
「見てのとおりだ。我らが着いた時には、すでにあの状態だった。フェンリルが呼びかけてみたが反応がない。フェンリルは彼女の意識が、まだあると言うが、おぬしたち、呼びかけてみてくれぬか?」
「ですが、わたしたちも、のんびりとしてられませんヨ! 何しろ相手は暗黒神ディアブロですからネ」
「スルストの言うとおりだ。おぬしたちが彼女に呼びかけている合間にも俺たちは暗黒神を攻撃せねばならん。万が一、それで彼女が傷つけられたとしても気を遣う余裕はない」
「そんな!」
しかし気の毒そうな顔をしたフェンリルさえ、それ以上の説明はせずに戦いに戻ってしまったのでスルストの言ったことも大げさな話ではなさそうだ。
「ユーシス殿とアイーシャには、わたしの身を守ってもらいたい。あれに呼びかけているあいだ、無防備になってしまうからな」
「承知しました」
「サラディンさま、私も彼女に呼びかけます!」
「2人でやった方が声が届くかもしれぬな。さあ、始めよう」
「はい!」
だが返答は強烈な悪意だった。それは2人に吐き気さえ催させるほどで、アイーシャは堪えることもできなかった。
「アイーシャ?!」
ユーシスが慌てて、その背をさすってやる。彼女の震えが伝わってくる。大神官の娘とはいえ、暗黒神と対峙するなど思いもよらなかっただろう。
しかし、それでも彼女は気丈にも立ち上がり、再びサラディンに手を添えた。
その一方で天空の三騎士とディアブロとの戦いも熾烈を極めていた。神の加護を受け、フィラーハの守りを得ているとはいうものの彼らはしょせん半神に過ぎない。神とは格が違いすぎるのだ。
だが、ディアブロは苦しんでいた。復活したとはいえ、完全に力を取り戻したわけでもないらしく、三女神の加護を添えれば三騎士の攻撃が通用する。
ましてや本来ならば蚊に刺された程度にも気にせぬはずのデボネアの攻撃が効いている。それが十二使徒の証によるものなのか魔剣デュランダルの力なのかはわからないが降参するには、まだ早いらしかった。
サラディンとアイーシャは再度、呼びかけたが返ってくるのは悪意に満ちた意識のみだ。
そこにトリスタン皇子たちが到着した。
ウォーレンとケインが守りに廻り、カノープスが攻撃手に加わる。
「無理をするな! 攻撃は我々に任せておけ!」
「だからって、はいそうですかって引っ込んでられるかよ!」
そうは言ったものの、さすがの彼も天空の三騎士が飛べると知ると無理はしなかった。三騎士の破格の強さはグランディーナとの比較で、よく知っている。自分が割り込む隙きはないと考えてのことだろう。
それで必然的に彼もユーシスともどもサラディンとアイーシャを守ることになった。同じ翼を持つ者同士とはいえ話したこともない間柄だ。カノープスは妙な気分だった。
「やはり暗黒神に呑まれては、あれの意識など残ってはおらぬか?」
サラディンの悲痛な声が響く。
「いいえ、微かですが彼女の意志を感じます。いままで、どんなことがあってもグランディーナは決して諦めませんでした。私たちが諦めるわけには参りません!」
「おい、サラディン! その呼びかけっていうのは、あんたとアイーシャにしかできないのか?」
「そうか! そなたも、それにトリスタン皇子、あなたも手を貸してください。皆で話しかければ、あれも反応するかもしれない」
「呼びかけるとは、どうすればいいのだ?」
「わたしの杖をつかんでください。心の中で強く念じます。あれが目を覚ませばディアブロの意識に介入できるかもしれません。このままにしておけばディアブロに呑み込まれてしまいましょう」
「なるほど、彼女を、このまま見捨てるわけにはいかないものな」
しかし彼女の応える声は2人には聞こえなかった。サラディンにさえ聞こえぬものが、どうして彼らに届くだろうと思うほど遠いのだ。
ただアイーシャだけがディアブロに四散させられた彼女の意志を感じ取った。暗黒神に無残に踏みにじられたグランディーナの声を聞き取った。
そこにユーシスが手を差し伸べる。
「サラディン、あなたは天空の三騎士さまを助けてください。暗黒神の攻撃が激しすぎてフィラーハの守りが働く前に、あれでは倒されてしまいます」
「だがアイーシャ1人では、あれに届かぬ」
「ええ、ですから私が彼女を導きます。天界に戻れば私たちは魂だけの存在、アイーシャを導くにはうってつけでしょう?」
「承知した」
サラディンは、それほど逡巡してはいなかった。
天空の三騎士と暗黒神との戦いは激しさを増す一方で、かつてアンタンジルまで同行した彼には3人が苦戦しているのが、よくわかったからだ。
ウォーレンとケインも善戦してはいるが2人だけでは、とうてい守りが足りなかった。
さすがのデボネアも神と半神との戦いに頻繁に割り込むことはできない。悲しいかな、実力が違いすぎる。せいぜい、たまにちょっかいを出すのが、いいところだ。ましてやカノープスを参戦させるには三騎士に余裕がなさすぎる。
だがサラディンが加わったことで3人の守りが安定した。余裕があればケインを攻撃の補助に廻すこともできたほどだし、カノープスとデボネアに攻撃させることもできた。
しかし、その一方でサラディンは考えあぐねていた。暗黒神を復活させたのはラシュディとグランディーナがかんでいるのだろう。けれども、それが師の真の目的だったとは思えないのだ。
グランディーナがガレス皇子、次いでラシュディと戦って堕ちたのであろうことはユーシスの説明を受けるまでもなく容易に想像がついた。それ以外に師が生き残っていないことの理由は考えられないからだ。
そして万が一にもラシュディが生き残っていれば暗黒神との戦いの場に現れぬということもあるまい。
だが師の目的が暗黒神ディアブロの復活にあっただけとは思えないのだ。そんなことのために賢者ラシュディともあろうほどの人物が神聖ゼテギネア帝国を築くだろうか? 盟友グラン王を裏切り、四王国を滅ぼし、ハイランド王国に加担するだろうか? そんなことをするはずがない、と彼は強く否定せざるを得ない。
おそらく師が倒されたのは転生の機会を狙ってのことだろう。
しかし、その置き土産のように暗黒神の復活など企むはずがないのだ。そうでなければ彼は二番弟子だなどと名乗る資格もないだろう。ラシュディの目的は、もっと別にある。それがサラディンにはわからないだけなのだ。
一方、ユーシスはトリスタン皇子とカノープスを見比べた。彼女が選んだのはカノープスだ。
「あなた、アイーシャの身体を支えていておあげなさい。私は、いまから肉体を棄てますが彼女は、また戻らなければなりませんからね」
「お願いします、カノープス」
「お、おう。だけど捨てた肉体は、どうなるんだ?」
「借り物の器です、地上から消え去るだけです」
「わかった」
「さあ、参りますよ、アイーシャ」
「はい、ユーシスさま」
「何があっても私があなたを守ります。あなたはグランディーナを探すことに専念するのですよ」
「はい」
アイーシャの手は自然と十字架を持って組まれた。その身体が力を失い、ユーシスも倒れる。
ランスロットたちがたどり着いたのは、ちょうど、ユーシスの姿がかき消えていく、その時だった。
「な、何があったの?!」
「説明は後だ。ラウニィー、君はケインに合わせて天空の三騎士殿をお助けしてくれ。聖槍騎士の呪文ならば暗黒神にも届くだろう」
「わかりました!」
「ランスロットたちは、ここを守ってくれ。グランディーナが暗黒神に取り込まれている。ユーシス殿とアイーシャは彼女を呼び戻しに行ったんだ」
「承知しました」
そのあいだにもディアブロの咆哮が〈魔宮〉シャリーアを揺るがし、天空の三騎士の反撃が加えられた。
さしもの暗黒神も押されていた。天空の三騎士への三女神の加護が、より強いものになった上に彼らを守る人間たちが次々と加わっているからだ。
だが、ひとつ気を抜けば天空の三騎士は、たちまち倒され、その守りを失えば皆は、あっという間に壊滅するだろう。そういう次元の戦いなのだ。
しかもディアブロが呼び出した眷属も集まってきているし、触手は、まだ何本も健在だ。
果たして、ここにグランディーナが加わったところで戦局は変わり得るだろうか? 彼女が堕ちている可能性は高いのだ。その凶刃をトリスタン皇子以下、皆に向けないとも限らない。
しかしウォーレンには自分の意見を述べる猶予は与えられなかった。彼は天空の三騎士の守りを補佐するので精一杯で、切れ切れの合間に考えただけだったからだ。それが正しいか誰かに確認する暇もない。サラディンが加わって多少、楽になったとはいえ、話し合うような時間もない。
ランスロットやカノープスも状況は似たようなものだ。暗黒神と天空の三騎士との戦いに放り込まれてしまったので言われたままに動くしかない。
カノープスの方が多少、先に着いていたとはいえ、情報は与えられていないに等しい。第一、賢者ラシュディとガレス皇子が、どうなったのかさえ知らされていないのだ。
そこにデボネアが近づいてきた。彼はケインに加えてラウニィーまでディアブロへの攻撃に加わったのを見て、もはや自分の出番はないと守りに廻ることにしたのだ。
そのおかげでランスロットとギルバルドには多少の余裕が生まれ、トリスタン皇子やカノープスと互いの情報を交換し合う。
もっともデボネアとて賢者ラシュディとガレス皇子の行方は知らない。彼らの一致した意見は、この期に及んで2人が姿を現さないのは、とうに倒されたからだろうというものだ。
しかし誰もグランディーナが、なぜ暗黒神に取り込まれたのかは知らなかった。その事情を知っていそうなサラディンは三騎士の守りで手が離せず、アイーシャとユーシスも話すどころではなかったからだ。
果たしてアイーシャとユーシスの試みが成功すればいいのかどうかもわからない。
当のグランディーナはディアブロの胸元で意識を失ったようで微動だにしなかった。たまに顔を歪めることもあったが、それが暗黒神を通して打撃を受けているからなのか、それとも別の理由なのかもわからないままだった。
ただ一つ確かなのは、このままディアブロが倒されることがあれば、彼女もまた、ともに倒されるだろうということだ。それほど両者は分かちがたく見えたし一体化していた。
そして天空の三騎士による激しい攻撃は彼女もろとも暗黒神を倒そうとしているようにしか見えなかったし、この期に及んでケインもラウニィーも遠慮はしなかった。
「グランディーナ?」
真っ黒に塗りつぶされた暗黒には自分の声さえも溶けていくようだ。
それでアイーシャは思い切って声を張り上げた。
「グランディーナ!」
しかし彼女の意識は弱く、その所在さえ明らかではない。
アイーシャは周囲を探って手を伸ばした。意識だけの存在のせいか、おもしろいように手が伸びる。
意外に思ったのは暗黒が予想していたより、ずっと暖かいということだ。
「気をつけなさい、アイーシャ! あなたも自分自身を強く保っていないと暗黒神に囚われてしまいますよ!」
ユーシスの声が甲高く耳障りに響く。これもまた暗黒神の罠なのだろうか。
アイーシャは伸ばしすぎていた手を引っ込めた。
だが暗黒神は自分には関心はなさそうだ。サラディンとともに呼びかけた時の強烈な悪意は感じない。
あるいは天空の三騎士との戦いも激しさを増している。そちらへの対処で自分どころではないのだろう。
それでも暗黒神が気まぐれに彼女に注意を向けないとも限らない。油断は禁物だ。
「グランディーナ?」
彼女は再度、そっと呼びかける。
確かにグランディーナの声が聞こえる。
だが、それはあまりに弱く、はかない。それは彼女の命が風前の灯火だということなのだろうか。それともほかの意味があるのだろうか?
アイーシャは慎重にグランディーナの声のする方に近づいていった。
周囲が、ぼんやりと明るくなる。そこは、まるでどこかの建物のようだった。彼女が思い出したのはゼテギネアでの戦いの途上で訪れた古い廃教会だ。グランディーナが兄弟たちとともに育てられたという、あの教会によく似た建物だった。
けれどアイーシャが見つけ出したのは思いもよらぬ光景であった。
しかし彼女はグランディーナに呼びかけようとして止めた。その前に立つ黒衣の人物から異常な力を感じたからだ。賢者ラシュディであるのは間違いないが、まだ生きていたのだろうか? サラディンは彼が倒されたはずだと言っていたが見つけられなかっただけなのだろうか?