Stage Twenty「暗黒の迷宮」

Stage Twenty「暗黒の迷宮」

グランディーナが目を開けると、そこは〈魔宮〉ではなかった。否、彼女は戦ってさえいない。一糸まとわぬ姿で管に繋がれ、大きな硝子の筒の中に浮いているのだった。
筒の内部は呼吸もできる透明な液体で満たされており、裸でも気にならないほどの暖かさが保たれている。
何よりも重要なのは彼女が物心つく前からずっと、この中で日がな一日たゆたっているということだ。
そうだ、彼女は誰かと触れあったこともなければ誰かを傷つけたことも誰かに傷つけられたこともない。この中にいる限り、この先もずっと。
周囲を見渡すと皆の姿が見えた。レクサール、アーウィンド、サイノス、デスティン、皆、同じように筒の中に浮いている。立派な大人の身体を持っていても誰一人として筒から出たことがない。この狭い世界、手を伸ばせば筒に届いてしまう世界が彼女らの全てであった。
それは約束された完全な安らぎでもある。誰も傷つけない、誰にも傷つけられない、完全な世界だ。
「おまえが望めば、それは手に入る。全てやり直すことができるのだ」
彼女の前に立ったラシュディが囁いた。
「私が望めば?」
「そうだ。その汚れた手も身体も全てなかったことにできる。そう望んだことはなかったか? 何もかも初めからやり直したいと思ったのではないのか?」
彼女は己の手を見た。戦うことを知らぬ、きれいな手だった。長年、剣を振るい続け、傷つき傷つけられた、胼胝(たこ)と傷痕だらけの手とは雲泥の差だ。
次いで彼女は右の脇腹を見た。腕のつけ根から腰の下までを広く覆い、その上から何度も裂けて、そのたびに彼女を苦しめた醜い凍傷の痕はなかった。
そんなものは最初からなかったのだから当たり前だ。当のレクサールたちが無事ならば、あの争いそのものがなかったことになる。彼女は誰も殺していない。誰にも傷つけられてもいないのだ。
「おまえにそんな力があるというのか? 全てをなかったことにするなんて、そんなこと、できるはずがない」
「おまえが望めば、できぬわけがない。この戦いに決着をつけられるのは、おまえだけだ」
「決着?」
彼女はもう一度、自分の手を凝視した。ゼテギネア帝国と戦い、傭兵として各地を転戦した記憶が逆さまに蘇ってきた。
そのたびに、どれだけの人を傷つけ、殺し、また自分も傷つけられたのかということを彼女は、いちいち覚えていた。否、忘れられるはずなどなかった。忘れていいはずがなかった。
死者への責を自分以外の誰が負えるだろう。誰にも負わせることはできない。ウォーレンに祭り上げられたとはいえ、この戦いを始めたのは他ならぬ自分だ。ならば全ての責は彼女が負うべきなのだ。
グランディーナの記憶は、さらに遡っていった。
アヴァロン島でのことは彼女の生のなかでは比較的、穏やかに過ぎた方だろう。彼女は誰かを殺したこともなかったし、誰かを傷つけるようなことも、ほとんどなかった。それにフォーリス=クヌーデルとのかけがえのない出会いがある。それを彼女は失ってもいいとは思わない。
バルモアからアヴァロン島に至るまでの半年間のことは彼女が、いちばん思い出したくない記憶だ。温かな庇護の下から、いきなり荒海に放り出され、ただ先へ進むためだけに、いろいろなものを失わねばならなかった。それら、一つひとつの記憶が、こうして蘇るだけで彼女を震わせずにいられない。
けれども、そのたびに彼女を先へ進ませたのはサラディンとの約束のためだ。彼を取り戻せるのなら何を惜しむことがあるだろう。この命さえ失わなければ何もかも捨てられる。その決意だけが彼女の心の支えであった。
サラディンと過ごした4年足らずの時間は何ものにも代えがたい。
しかし彼女の最後の記憶のなかで彼は倒されていた。ラシュディとの戦いに力及ばなかったのだろうか。その無念さを彼女は無にしてはならない。
だがラシュディは、なお囁いた。
「サラディンは死なぬ、おまえがそう望めばな。言っただろう、全てやり直せると?」
「そうだ、確かに私は何もかもやり直したかった。そう願ったことは一度や二度ではないし、指摘するのも、おまえが初めてというわけでもない」
「ならば」
「だが勘違いするな! やり直したいと願った次の瞬間に私はいつも、それを否定してきたんだ。そんな資格はないと自分に戒めた。私が殺し、傷つけた人たちを、私を傷つけた人たちをなかったことにできるだと?! 冗談も休み休み言え、これが私の生、私の選択だ。それは誰にも否定される謂われもないし、ましてやなかったことになどしない。どんなに汚れた生き方でも私は私が選んだ生を生きる。やり直すことなど真っ平ごめんだ!」
その瞬間に彼女の視界は晴れた。いままでの光景は幻に過ぎなかったことを彼女は悟った。
と同時にラシュディの気配も消え去る。その誘惑に釣られていたら何があったか知れたものではなかった。
けれど彼女は、すでに、その全身を見渡すこともできぬほど大きな何者かの一部となっていた。彼女の意志など、ないようなもので指先ひとつ思うように動かせない。
だが、その居心地の良さは異常なほどだ。そのまま己の身を委ねてしまえば彼女は、その者の一部となって大いなる力を思う存分に奮うことができるだろう。
そうしてはいけないという声は、あまりに弱々しい。
それに、ついさっきまで覚えていたはずの自分の名前が出てこない。視界に入る卑小な者たちが誰なのか、まるで思い出せない。
彼女の戸惑いをよそに熾烈な攻撃の応酬が続けられている。両足のドラゴンが立て続けに息を放てば炎と氷、大地の三女神が反撃する。十二使徒の証を得た人間たちの守りも強力だ。
彼女は、わずかにもがいた。だが身体は抜くこともかなわないどころか、ますます深く沈んでいく。
助けを呼ぼうとして彼女は躊躇った。名前を知らぬ者たちが助けてくれるだろうか?
奴らは自分を殺そうとしている、胸元に取り込んだ卑小な人間ともども。
ディアブロの咆哮が轟いた。それはいまや魔界からも眷属たる悪魔を呼び寄せてさえいた。
「グランディーナ?!」
アイーシャは慌てて手を伸ばしたが、つかんだのはカノープスだった。彼女はグランディーナの意識から追い出されたことを知った。見守っていてくれたはずのユーシスの気配もない。
「何を見たんだ?」
「賢者ラシュディがいました。彼女を誘惑していましたが彼女が拒絶すると消えてしまいました。グランディーナは?」
「あそこから動かねぇ。さっき少しだけ身動きしたが意識があるかどうかと言われると自信がねぇな」
「そんな!」
アイーシャはディアブロの胸元のグランディーナを見やった。下半身が埋め込まれ、手首まで拘束されたところは変わりがない。首をうなだれているのは意識がないからかもしれない。
その周りをサタンが飛び交い、天空の三騎士が放つ攻撃に乗った三女神の魔法が激しく攻め立てる。
それに応酬するディアブロの攻撃も激しいが目標は、もっぱら三騎士にあるらしく後衛まで飛んでこないのは幸いだ。その分、サタンの攻撃が集中していたがランスロットの守りは的確だった。それに皆が1ヶ所に集中しただけ十二使徒の証の守りも強化されていた。一つひとつは暗黒神の復活で弱められていても十重二十重と集まれば強度は増す。
守りに廻ったウォーレンの働きも冴えていた。防御一辺倒のサラディンに代わり、ラウニィーとケインに指示を出し、天空の三騎士の攻撃を補佐させたことで三騎士は攻撃に専念することができるようになったのだ。三女神の加護も加えた彼らの攻撃は味方であることが、これほどありがたく感じることもない凄まじさだった。
逆に暗黒神と眷属の攻撃は、まったく連携が取れていなかった。もともと闇の眷属は個々の能力は人間を上回ることが多いものの連携などは考慮していない。そのため、まとまって防御に当たると個別に撃破されない限り持ちこたえられるものなのだ。
そうして、どれぐらいの時間が経っただろう。
ディアブロの呼び出したサタンは全て倒され、当の暗黒神も追い詰められていた。ガルフのように血を流すことはないが、天空の三騎士は確実に、それを感じ取っていた。
しかしディアブロの胸に取り込まれたグランディーナも相変わらず解放される気配はない。彫像よろしく張りつけられたまま身動きひとつするでもない。
フォーゲルは左右を見やった。
スルストとフェンリルは黙って頷いた。
それで彼は振り返らずに叫んだ。
「我ら、これより暗黒神にとどめを刺す! 彼女のことは、おぬしたちに任せたぞ!」
「承知した!
ウォーレンとケインは防御に廻れ! わたしがあれを助ける!」
「わかりました!」
それにしても三騎士の攻撃は容赦がなかった。その余波から防御しなければ前線に立ったサラディンたちが危ういほどだ。
もっとも、それは暗黒神の強さの裏返しでもある。とどめに入ったからと言って気を抜けるような相手ではないのだ。
それでも、この長い戦いは終わろうとしていた。神が彼らの前に膝をつかんとしている。
サラディンは全神経をグランディーナに集中させていた。しかし、いくら彼女に働きかけても反応が返ってこない。意識があるのかないのか何を言っても反応しないのだ。
かといってディアブロから無理やり引き剥がすこともできない。まるで、それが彼女自身の望みででもあるかのように暗黒神と一体化してしまっている。
「そんな馬鹿な」
グランディーナが日頃から束縛されること嫌っているのを思い出して彼は慌てて否定したが、それにしては不可解なことであった。
やがて、さしもの暗黒神も倒される時が来た。
神は通常の生き物とは異なる存在だから後には何も残さない。
また〈魔宮〉シャリーアはディアブロに捧げられた神殿なので暗黒神が倒されれば彼らは、そこにいることはできないのだった。
しかしディアブロが倒される時に周囲の空間が大きく歪んだ。それは魔界への入り口だったのだろうか。倒されたサタンが吸い込まれ、グランディーナも囚われそうになったがサラディンは彼女を捕まえていた。
だが魔界の吸引力は凄まじく、彼はグランディーナごと吸い込まれそうになったが、アイーシャ、カノープス、ギルバルド、ランスロット、それにトリスタン皇子と皆が身体を支え合ってくれたので事なきを得たのだった。
「グランディーナ!」
けれども答えはなかった。着衣もほとんど身につけぬ姿で放り出された娘は、うつぶせに倒れたまま身動きひとつしない。
サラディンが駆け寄って抱き上げると、虚ろな灰色の眼が彼を見返していた。
「グランディーナ?」
だが返事はない。
生きて呼吸してはいる。
けれどそれだけだ。グランディーナの目は何も見ていなかった。
[ − 戻 る − | − 続 く − | 目 次 ]
[ トップページ | 小 説 | 小説以外 | 掲示板入り口 | メールフォーム ]