二重スパイ

二重スパイ

韓国、2003年
監督:キム=ヒョンジョン
出演:イム=ビョンホ(ハン=ソッキュ)、ユン=スミ(コ=ソヨン)、ペク=スンチョル(チョン=ホジン)、ソン=ギョンマン(ソン=ジェホ)、ほか
原作:キム=ホシク
見たところ:ヴァージンシネマズ海老名

 ずいぶん待たされたハン=ソッキュ氏の最新作。この前に聞いたゲイ役の話はどうなったのだろう? 内容もよくわからないで気になる映画だったんすけど。

1953年の休戦状態のまま、今も緊張と緩和の続く朝鮮半島ならではの映画なのですが、少々物足りないかなぁと思います。この点についてはまた後で。

 1980年代。北朝鮮で重要な地位にあったイム=ビョンホが、東ベルリンで亡命した。彼は北朝鮮軍に狙撃されながら、韓国側に保護されるが、二重スパイの疑いをかけられ、過酷な拷問にさらされる。その疑いは全面的に晴れなかったものの、拷問を耐えしのいだビョンホを韓国はスパイとして徴用することになった。監視付ながら、情報部で重要な地位についたビョンホは、ある日、ラジオから流れてきたDJの言葉から暗号による指令を読み取り、そのDJ、ユン=スミと接触する。ビョンホは二重スパイであり、スミも韓国社会に広く潜入したスリーパーであった。恋人同士を装って、スパイ活動を行うビョンホとスミ。だが、そのまとめ役の大物スパイソン=ギョンマンが捕らわれたことで、疑惑はスミに、やがてビョンホに及ぶ。スリーパーとしての自分に疑問を持ってこなかったスミだったが、ビョンホを愛するようになり、ギョンマンの死によって、己の役割を疎ましいものと思うようになっていたのだった。ビョンホもまた、スミを愛していた。祖国から、韓国から、疑われる二人に、危機が迫っていた...。

共演は「エンジェル・スノー」で涙をしぼりまくってくれたコ=ソヨンさん。かなり毛色の違う役ですが、なかなかどきどきするスリーパーでしたね。美人はなに演ってもはまるという。

話としては、「KT」とか、「トンネル」や「スパイ・ゾルゲ」と同じような、国家のために犠牲になる個人、というテーマなんですよ。でここに、韓国ならではの朝鮮半島分断という悲劇がからんで、実際にビョンホやスミやギョンマンのようなスパイ、歴史の表に出ることも許されずに命を落とした人びとというのも数えきれずにいるわけでして。しかし、スパイ物っていうと、ばれるかばれないかの心理戦や、アクションとかてんこ盛りなネタだと思うんですけど、「二重スパイ」はいまいち緊張感が持続せんのですな。

オープニング、実際の北朝鮮の軍事パレードにさりげなくビョンホが映っているというところは良かった。ベルリンの脱出、拷問、ここらへんも緊張感が持続していたのですが、いざ、二重スパイの活動が始まったら話がだれましたな。

だって、ビョンホのやってることって、全然余裕なんだもん。もう少し際どいシーンあってもいいんじゃないですか。ばれそうでばれない。映画ですから、観客は「こんなに早いところではばれめぇ」って思ってるんですよ(たきがははそうだけど、それさえも忘れさせて没頭させてくれる映画が好きですな)。わかりきってるんだけど、はらはらさせられる、そういうシーンがない。余裕でスパイ活動してる。これではいけません。

重要なキャラクターなんですが、ギョンマンにはそういうところがあったんですね。でも違うでしょ、そういう美味しいシーンは主人公に持ってこなくちゃ。はらはらさせてくれなくちゃ。はらはらしないスパイ物はつまらんですよ。主人公だからむやみにばれたりはせんだろうというお約束は根底にあってもいいんですが、「ええっ?!」「えっ、えっ、この後、どうなるのよー!!」というシーンはなくっちゃ。スパイ物ですからそういうのを期待してるんですもん。

あと、最近の韓国映画って「分断」に頼りすぎてないですか。日本人であるたきがはがこういうことを言うのは暴言であるし、傲慢であると思うんですけれど、「分断」による悲劇を安易に使ってもだめですよ。それでは、話のスケールが小さすぎますよ。「分断」という悲劇、それを普遍性を持った物として描かないと、韓国では受けたけれど、海外では通用しないって映画になっちゃいますよ。

たきがは、ハリウッド映画って嫌いなんですけど、あれだけ受けるのはその普遍性にあるのではないかと思うんです。つまり、誰もが知ってるようなつもりでいるアメリカ、誰もが身近に感じているわかりやすい世界、それがハリウッド映画があれだけはやってる理由じゃないかと思ったんです。わかりやすいから共感できる。知ってる(つもりだ)からおもしろい。強みだと思うんですね。逆にアメリカに魅力を感じない人・よく知らない人にはどうでもいいのかもしれない。

もっとも、最近のハリウッド映画は、どうもアメリカ対敵って構造を描くことがあって、たきがは、その単純さもイヤなんですけどね。

「こんなにかわいそうなんですよ〜」と前面に売り出さない方がいい。一歩引いて、その当事者の視線で描いて、悲劇とか感動は押しつけない。その方が共感できる。感動できる。感動って「心が動く」ことですから、怒りとか、恐怖とか、笑いも感動。その琴線を動かすのは、いかに観客に物語を引き寄せさせられるかではないかと思うのです。いかに自分の物語としてとらえられるか。その視点。

たとえば「灰の記憶」。あの視点はそういうものでした。ホロコーストという人類永遠の課題・枷が映画として至った、ひとつの金字塔です。「こんなにひどい目に遭いました」じゃなくて、そこでどうしたかという物語。同じ人間としてどうすべきかと問い質してくる物語。

シュリ」。ここから韓国映画が一大転換を迎えた、記念碑的作品。朝鮮半島分断、その対立を、愛といういちばんわかりやすく感動を与えられる関係になぞらえて、アクション・心理戦に友情まで盛り込んだ(たきがは的には)最高傑作。その後、「JSA」「友へ 〜チング〜」など、韓国で「シュリ」以上の観客動員を果たした映画が鳴り物入りで日本で上映されるも、どれひとつとして「シュリ」を超えていないところに、この普遍性という鍵があるのではないかと思います。たきがはは主人公ユ=ジュンウォンの視線で見てたもので、イ=バンヒの正体がイ=ミョンヒョンだった時の衝撃たるやどでかいものがありました。

八月のクリスマス」。ハン=ソッキュ氏主演映画が続きますが、恋愛物の傑作。常に主人公ジョンウォンの視点で描かれた物語は、どこまでも優しく世界を愛おしんで見つめていました。同じ監督の「春の日は過ぎゆく」はこの視点がなかったように思う。ただの恋愛物になっちゃってたと言いますか。「八月のクリスマス」でハン=ソッキュ氏にまいった人って多いんすよね。これほど世界を愛おしんで見ていた映画をほかに知らない。

ダスト」。20世紀初めのヨーロッパと終わりのアメリカを結ぶ壮大なスケールの物語。「だれか、私という物語を覚えておいてほしい」そう願わないでいられる人はなかなかいないと思います。最初は小さいと思われた環が、アメリカとヨーロッパを行きつ戻りつしながら、だんだんと大きな環になって、やがて登場人物の枠を超えて、私たち自身の物語にさえなります。そのスケールを傑作と言わないでなんと言おう。

映画は映画ですから、当然普遍性がすべてではありませんし、個々の物語もあってしかるべきだと思います。しかし世界に通用する映画というのは、国家とか民族を超えた、人間の心に直接ふれてくるような物語を持ってるものじゃないかな、と思いました。

(了)

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